暗闇くらやみのなかを、一匹いっぴきのコウモリbatが飛とんでいる。口くちから超音波ちょうおんぱを発はっし、反響はんきょうで空間くうかんを「見みる」。壁かべの位置いち、蛾がの羽はばたき、空気くうきの密度みつど。人間にんげんの目めが光ひかりをとらえるのとはまるで違ちがう仕方しかたで、コウモリbatは世界せかいを把握はあくしている。その経験けいけんは、いったいどんな感かんじがするのか。あなたにはわからない。私わたしにもわからない。そして神経しんけい科学かがくがコウモリの脳のうのすべてのニューロンneuron発火はっかパターンを完全かんぜんに解明かいめいしたとしても、おそらくわからない。

1974年ねん、トマスThomas・ネーゲルNagelはこの「わからなさ」こそが哲学てつがくの本丸ほんまるだと宣言せんげんした。『フィロソフィカル・レヴューThe Philosophical Review』に掲載けいさいされた論文ろんぶんはわずか16ページ。タイトルは「コウモリbatであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?ホワット・イズ・イット・ライク・トゥ・ビー・ア・バット)。奇妙きみょうな題名だいめいだった。しかしこの一篇いっぺんが、20世紀せいき後半こうはんの心こころの哲学てつがくの地図ちずを塗ぬり替かえることになる。

ネーゲルNagelが突つきつけたのは、単純たんじゅんにして致命的ちめいてきな一点いってんだ。意識いしきには主観的しゅかんてきな性格せいかくがある。何なにかを経験けいけんしているとき、そこには「何なにかであるような感かんじ」がある。赤あかを見みる感かんじ。痛いたみの感かんじ。朝あさのコーヒーの苦味にがみが舌したに触ふれる感かんじ。この「感かんじ」は、物理学ぶつりがくの言語げんごには翻訳ほんやくできない。脳のうを分子ぶんしレベルまで解剖かいぼうしても、そこから一人称いちにんしょうの体験たいけんは出でてこない。デカルトDescartesが400年前ねんまえに開あけた心身しんしんの裂さけ目めを、ネーゲルNagelは現代げんだい分析ぶんせき哲学てつがくのど真まん中なかで再ふたたび抉えぐり開あけた。

この記事きじの要点ようてん

  • 「何なにかであるとはどのようなことか」(what it is likeホワット・イット・イズ・ライク):意識いしきある存在そんざいであることには、還元かんげん不可能ふかのうな主観的しゅかんてき性格せいかくがある。物理学ぶつりがくがどこまで進すすんでも、第三者だいさんしゃの記述きじゅつから第一人称だいいちにんしょうの体験たいけんを導みちびき出だすことはできない。心身しんしん問題もんだいが永遠えいえんに「解決かいけつ済ずみ」にならない理由りゆうがここにある。
  • 「どこでもないところからの眺ながめ」(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア):科学かがくは客観性きゃっかんせいを追求ついきゅうする。だが客観的きゃっかんてきな記述きじゅつを徹底てっていするほど、主観しゅかんは視界しかいから消きえる。主観しゅかんなしに世界せかいを理解りかいすることはできないのに。この緊張きんちょうは解消かいしょうできない。哲学てつがくはその緊張きんちょうのなかに住すむ営いとなみだ。
  • 『心こころと宇宙うちゅう』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス):唯物論的ゆいぶつろんてき自然主義しぜんしゅぎは意識いしきの出現しゅつげんを説明せつめいできない。突然変異とつぜんへんいと自然しぜん選択せんたくだけでは、なぜ宇宙うちゅうに意識いしきが発生はっせいしたのかがわからない。ネーゲルNagelは有神論ゆうしんろんに頼たよらず、自然しぜんそのものに目的論的もくてきろんてき傾向けいこうがあるという異端いたんの仮説かせつを提示ていじした。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

トマスThomas・ネーゲルNagelは1937年ねん7月がつ4日にち、ユーゴスラビアYugoslaviaのベオグラードBelgradeに生うまれた。ユダヤJewish系の家庭かてい。第二次だいにじ世界せかい大戦たいせんの足音あしおとが迫せまるなか、一家いっかはアメリカAmericaに渡わたった。幼少期ようしょうきの記憶きおくは公おおやけにはほとんど語かたられていない。ネーゲルNagelは自伝じでんを書かかない。生いい立たちの劇ドラマで読者どくしゃを引ひきつけようとしない。論証ろんしょうだけで勝負しょうぶする人間にんげんだ。

1958年ねん、コーネルCornell大学だいがくを卒業そつぎょう。哲学てつがくの学士号がくしごうを手てに、イギリスEnglandに渡わたる。オックスフォードOxford大学だいがくコーパス・クリスティCorpus Christi・カレッジCollegeでBPhilビーフィルを取得しゅとく(1960年ねん)。当時とうじのオックスフォードOxfordは日常にちじょう言語げんご学派がくはの空気くうきが色濃いろこく残のこっていた。J・L・オースティンJ. L. Austinの言語げんご分析ぶんせき、ギルバートGilbert・ライルRyleの行動主義こうどうしゅぎ。心こころの問題もんだいを言語げんごの問題もんだいに置おき換かえ、解消かいしょうする。それが主流しゅりゅうだった。ネーゲルNagelはこの空気くうきを吸すい、分析ぶんせき哲学てつがくの技法ぎほうを徹底的てっていてきに身みにつけた。それでも納得なっとくはしていなかった。心こころの問題もんだいは言語げんごを整理せいりすれば消きえるような軽かるいものではない、と。

帰国きこくしてハーバードHarvard大学だいがくの大学院だいがくいんへ。指導しどう教官きょうかんはジョンJohn・ロールズRawls。のちに『正義論せいぎろん』(A Theory of Justiceア・セオリー・オブ・ジャスティス, 1971)で20世紀せいきの政治せいじ哲学てつがくを一変いっぺんさせる巨人きょじんだ。ロールズRawlsのもとでネーゲルNagelが書かいた博士はかせ論文ろんぶんは倫理学りんりがくに関かんするものだった。利他主義りたしゅぎの合理性ごうりせい。他人たにんの苦痛くつうを自分じぶんのことのように感かんじる根拠こんきょは理性りせいのなかにある、と。この仕事しごとはのちに『利他主義りたしゅぎの可能性かのうせい』(The Possibility of Altruismザ・ポシビリティ・オブ・アルトルイズム, 1970)として出版しゅっぱんされる。心こころの哲学てつがくに向むかう前まえから、ネーゲルNagelの関心かんしんは一貫いっかんしている。主観しゅかんを消去しょうきょしないこと。

1963年ねんに博士号はかせごうを取得しゅとく。カリフォルニアCalifornia大学だいがくバークレーBerkeley校こうを経へて、1966年ねんにプリンストンPrinceton大学だいがくの哲学てつがく教授きょうじゅに就任しゅうにん。そして1980年ねん、ニューヨークNew York大学だいがく(NYUエヌワイユー)に移うつり、同大どうだいの哲学てつがく・法学ほうがくの教授きょうじゅを長ながく務つとめた。派手はでな逸話いつわはない。スキャンダルscandalもない。静しずかに論文ろんぶんを書かき、静しずかに哲学てつがくの風景ふうけいを変かえた。

時代じだいの文脈ぶんみゃくがある。ネーゲルNagelが活動かつどうを始はじめた1960年代ねんだいから70年代ねんだいは、英米えいべいの哲学てつがくで物理主義ぶつりしゅぎ(physicalismフィジカリズム)が席巻せっけんしていた時期じきだ。心的しんてき状態じょうたいは脳のうの状態じょうたいと同一どういつである(心脳しんのう同一説どういつせつ、スマートSmart、プレイスPlace)。あるいは心的しんてき状態じょうたいは機能的きのうてき役割やくわりで定義ていぎされる(機能主義きのうしゅぎ、パトナムPutnam)。いずれにせよ、意識いしきの「主観的しゅかんてきな感かんじ」は科学かがくの進歩しんぽで解消かいしょうできる問題もんだいだ、という楽観らっかんが空気くうきを支配しはいしていた。ネーゲルNagelはこの楽観らっかんに冷水れいすいを浴あびせた。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1937年ねん:ユーゴスラビアYugoslavia・ベオグラードBelgradeに生うまれる
  • 1958年ねん:コーネルCornell大学だいがく卒業そつぎょう(BA)
  • 1960年ねん:オックスフォードOxford大学だいがくでBPhilビーフィル取得しゅとく
  • 1963年ねん:ハーバードHarvard大学だいがくで博士号はかせごう取得しゅとく(指導しどう:ジョンJohn・ロールズRawls)
  • 1966年ねん:プリンストンPrinceton大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅに就任しゅうにん
  • 1970年ねん:『利他主義りたしゅぎの可能性かのうせい』刊行かんこう
  • 1971年ねん:論文ろんぶん「不条理ふじょうり」(The Absurdジ・アブサード)発表はっぴょう
  • 1974年ねん:「コウモリbatであるとはどのようなことか」発表はっぴょう
  • 1979年ねん:『コウモリbatであるとはどのようなことか』(エッセイessay集しゅう)刊行かんこう
  • 1980年ねん:ニューヨークNew York大学だいがく(NYUエヌワイユー)に移籍いせき
  • 1986年ねん:『どこでもないところからの眺ながめ』刊行かんこう
  • 1997年ねん:『理性りせいの最後さいごのことば』刊行かんこう
  • 2008年ねん:バルザンBalzan賞しょう(道徳どうとく哲学てつがく)受賞じゅしょう
  • 2012年ねん:『心こころと宇宙うちゅう』刊行かんこう。激はげしい論争ろんそうを巻まき起おこす

この哲学者てつがくしゃは何なにを問とうたのか

意識いしきは物理的ぶつりてき世界せかいの一部いちぶとして説明せつめいできるのか。

なぜこの問といが爆発力ばくはつりょくをもったか。20世紀せいき中盤ちゅうばんの英米えいべい哲学てつがくでは、心こころを物質ぶっしつに還元かんげんする試こころみが次つぎから次つぎへと繰くり出だされていた。論理的ろんりてき行動主義こうどうしゅぎ(ライルRyle)は、心こころについて語かたることは行動こうどうの傾向性けいこうせいについて語かたることだ、と主張しゅちょうした。「痛いたい」とは、叫さけび声ごえをあげる、顔かおをしかめる、患部かんぶをかばう、といった行動こうどうパターンのことだ、と。心脳しんのう同一説どういつせつ(スマートSmart、プレイスPlace)は一歩いっぽ進すすんで、痛いたみとは特定とくていの脳のう状態じょうたい(C繊維Cせんいの発火はっか)そのものだ、とした。機能主義きのうしゅぎ(パトナムPutnam、初期しょきルイスLewis)は、心的しんてき状態じょうたいを入力にゅうりょく・出力しゅつりょく・他たの心的しんてき状態じょうたいとの因果的いんがてき関係かんけいで定義ていぎした。

いずれも同おなじ方向ほうこうを向むいている。心こころを客観的きゃっかんてきに記述きじゅつ可能かのうなものにせよ。科学かがくの言語げんごで捉とらえよ。第三者だいさんしゃが検証けんしょうできる形かたちにせよ。この方向ほうこうは科学かがくの成功せいこうに後押あとおしされ、圧倒的あっとうてきな説得力せっとくりょくを持もっていた。

ネーゲルNagelは正面しょうめんから問とい返かえした。あなたが今いま、歯はが痛いたいとする。C繊維Cせんいが発火はっかしている。行動こうどうパターンが出でている。機能的きのうてき役割やくわりも果はたしている。それだけか? そのすべてを記述きじゅつし尽つくしたあとにも、「痛いたい」という感かんじがなお残のこっているではないか。脳のうの状態じょうたいと主観的しゅかんてき体験たいけんのあいだには、どうしても埋うまらない隙間すきまがある。

ネーゲルNagelは何なにを変かえたか。「意識いしきは未解決みかいけつの問題もんだいだ」ではない。「意識いしきは、現在げんざいの枠組わくぐみでは原理的げんりてきに解決かいけつできない問題もんだいだ」。科学かがくがもっと進すすめば片かたづく、という楽観らっかんへの挑戦ちょうせん。知識ちしきが足たりないのではなく、知しり方かたそのものに限界げんかいがある。

核心かくしん理論りろん

1. 「コウモリbatであるとはどのようなことか」:意識いしきの主観的しゅかんてき性格せいかく

1974年ねんの論文ろんぶんは、一ひとつの定式化ていしきかで始はじまる。「ある有機体ゆうきたいが意識的いしきてき経験けいけんをもつということは、その有機体ゆうきたいであることには何なにかであるようなことがある(there is something it is like to be that organismゼア・イズ・サムシング・イット・イズ・ライク・トゥ・ビー・ザット・オーガニズム)、ということを意味いみする」。この "what it is like" という表現ひょうげんが、以後いごの心こころの哲学てつがくを支配しはいする鍵語キーワードになった。

なぜコウモリbatなのか。ネーゲルNagelは人間にんげんではなく、人間にんげんとは根本的こんぽんてきに異ことなる感覚かんかく様態ようたいをもつ動物どうぶつを選えらんだ。コウモリbatは反響はんきょう定位ていい(echolocationエコーロケーション)で世界せかいを知覚ちかくする。超音波ちょうおんぱを発射はっしゃし、反射はんしゃしてくる音波おんぱから対象たいしょうの形状けいじょう・距離きょり・速度そくどを把握はあくする。それは視覚しかくのようなものか? 触覚しょっかくのようなものか? どちらでもない。人間にんげんがもたない感覚かんかく器官きかんを通とおじた経験けいけんを、人間にんげんの概念がいねんで翻訳ほんやくできるはずがない。

論文ろんぶんのなかでネーゲルNagelは、想像そうぞうによる接近せっきんを三みっつ試ためして、三みっつとも潰つぶす(p. 439)。自分じぶんの経験けいけんに反響はんきょう定位ていいを「足たす」想像そうぞう。視覚しかくを「引ひく」想像そうぞう。人間にんげんの感覚かんかくを段階的だんかいてきにコウモリのそれに「変形へんけいする」想像そうぞう。いずれも行いき着つく先さきは「私わたしがコウモリのように振ふる舞まったら何なにを感かんじるか」であって、「コウモリがコウモリとして何なにを感かんじているか」ではない。主語しゅごが入いれ替かわらない。ここに壁かべがある。

ここが急所きゅうしょだ。もし神経しんけい科学かがくが完全かんぜんに発達はったつして、コウモリbatの脳のうのすべてのニューロンneuronの活動かつどうを記述きじゅつできたとしよう。反響はんきょう定位ていいに関かかわる脳のう領域りょういきのマッピング、信号しんごう処理しょりの数理すうりモデル、行動こうどうとの相関そうかん。すべてが揃そろう。それでも、「反響はんきょう定位ていいで世界せかいを知覚ちかくするとはどんな感かんじか」は記述きじゅつのなかに現あらわれない。客観的きゃっかんてきな情報じょうほうをいくら積つみ上あげても、主観的しゅかんてきな体験たいけんは導みちびき出だせない。

ただし論文ろんぶんの結むすびでネーゲルNagelは慎重しんちょうな留保りゅうほをつけている。「ここから物理主義ぶつりしゅぎが誤あやまりだと結論けつろんするのは早計そうけいだろう」(p. 446)。現在げんざいの私わたしたちには心身しんしん関係かんけいを理解りかいする概念がいねんがまだない。物理主義ぶつりしゅぎが正ただしいかもしれないが、今いまの枠組わくぐみでは正ただしいと言いう意味いみすらわからない。解決かいけつを急いそぐな、問題もんだいの深ふかさを直視ちょくししろ。それが論文ろんぶんの真しんのメッセージだ。

注意ちゅういがいる。ネーゲルNagelは物理主義ぶつりしゅぎを丸まるごと葬ほうむろうとしたのではない。狙ねらいはもっと限定的げんていてきで、それゆえ厄介やっかいだ。物理学ぶつりがくの言語げんごは誰だれの視点してんにも依存いぞんしないように設計せっけいされている。意識いしきは特定とくていの視点してんからしか存在そんざいしない。前者ぜんしゃの網あみで後者こうしゃを掬すくおうとすれば、網目あみめからこぼれる。技術ぎじゅつが足たりないのではなく、網あみの編あみ方かたが合あっていない。

のちに哲学者てつがくしゃジョセフJoseph・レヴィンLevineがこの隙間すきまに名前なまえをつけた。「説明せつめいのギャップ」(explanatory gapエクスプラナトリー・ギャップ)。1983年ねんの論文ろんぶんでレヴィンLevineは、「痛いたみ=C繊維Cせんいの発火はっか」という同一性どういつせい主張しゅちょうが仮かりに正ただしくても、なぜそうなのかの説明せつめいが永遠えいえんに欠落けつらくする、と論ろんじた。「水みず=H₂O」なら、水みずの性質せいしつ(沸点ふってん、透明性とうめいせい、溶解力ようかいりょく)をH₂Oの分子ぶんし構造こうぞうから導みちびける。だが「痛いたみ=C繊維Cせんいの発火はっか」の場合ばあい、C繊維Cせんいの発火はっかから「痛いたい感かんじ」は導みちびけない。物理的ぶつりてき記述きじゅつと主観的しゅかんてき体験たいけんのあいだには、論理的ろんりてきな橋はしが架かかっていない。ネーゲルNagelの直観ちょっかんを、レヴィンLevineが分析ぶんせき哲学てつがくの精密せいみつな言葉ことばで裏書うらがきした形かたちだ。

2. 「どこでもないところからの眺ながめ」:主観しゅかんと客観きゃっかんの緊張きんちょう

1986年ねんの主著しゅちょ『どこでもないところからの眺ながめ』(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア)は、コウモリbat論文ろんぶんの洞察どうさつを一冊いっさつの体系たいけいに仕立したてた。全ぜん11章しょう。心身しんしん問題もんだい(第だい2–3章しょう)から知識ちしきと実在じつざい(第だい4–6章しょう)、自由じゆう意志いし(第だい7章しょう)、倫理りんりの基礎きそ(第だい8–9章しょう)、死しと人生じんせいの意味いみ(第だい10章しょう)まで、主観しゅかんと客観きゃっかんの衝突しょうとつが同おなじ構造こうぞうで繰くり返かえされる。ひとつの原理げんりが哲学てつがくの全領域ぜんりょういきを貫つらぬく。

私わたしたちは二ふたつの目めで生いきている。一ひとつは自分じぶんの身体からだのなかから世界せかいを覗のぞく目め。朝あさの光ひかりがまぶしい、電車でんしゃの座席ざせきが冷つめたい、あの人ひとの声こえが耳みみに残のこる。もう一ひとつは、自分じぶんを含ふくむ世界せかいを外そとから見下みおろそうとする目め。科学かがくはこの二番目にばんめの目めを極限きょくげんまで鍛きたえる。特定とくていの誰だれの視点してんにも属ぞくさない記述きじゅつ。「どこでもないところからの眺ながめ」。

だがこの眺ながめは、手てに入いれるほど何なにかを失うしなう。色いろが消きえる。音おとが消きえる。痛いたみが消きえる。物理学ぶつりがくの世界せかいには波長はちょうと振動数しんどうすうはあるが、「赤あかさ」はない。空気くうきの圧力あつりょく変動へんどうはあるが、「美うつくしい旋律せんりつ」はない。客観的きゃっかんてきになればなるほど、私わたしたちが生いきている世界せかいから遠とおざかる。

ネーゲルNagelはどちらかを選えらべとは言いわない。両方りょうほうが本物ほんものだ。主観的しゅかんてき視点してんを捨すてて客観きゃっかんに逃にげるのも、客観きゃっかんを捨すてて主観しゅかんに閉とじこもるのも間違まちがいだ。哲学てつがくとは、この二ふたつの視点してんが生うみ出だす緊張きんちょうのなかに留とどまること。解決かいけつではなく緊張きんちょうの持続じぞく。居心地いごこちが悪わるい。だがその居心地いごこちの悪わるさこそが、人間にんげんの知的ちてき条件じょうけんだとネーゲルNagelは考かんがえる。

自由じゆう意志いしの問題もんだいがわかりやすい。主観的しゅかんてき視点してんからは、私わたしは今いまこの文章ぶんしょうを読よむことを「選えらんでいる」。ページを閉とじることもできた。選択せんたくの感覚かんかくは生々なまなましい。だが客観的きゃっかんてき視点してん──神経しんけい科学かがくの眼め──からは、あなたの脳のうの状態じょうたいが物理法則ぶつりほうそくに従したがって推移すいいしているだけだ。決定論けっていろんが正ただしいなら「選えらんでいる」は錯覚さっかくで、非決定論ひけっていろんが正ただしいなら「偶然ぐうぜんが入はいった」だけだ。どちらにせよ、客観的きゃっかんてきな記述きじゅつには「自分じぶんで決きめた」が入はいり込こむ余地よちがない。ネーゲルNagelはこれを、主観しゅかんと客観きゃっかんが噛かみ合あわない典型てんけい例れいとして提示ていじする(『どこでもないところからの眺ながめ』第だい7章しょう)。自由じゆう意志いしを救すくうには互換論ごかんろん(compatibilismコンパティビリズム)で妥協だきょうするか、問題もんだいが解とけないことを認みとめるか。ネーゲルNagelは後者こうしゃを選えらぶ。問といが解とけないとき、安やすい答こたえに飛とびつかない。それがこの哲学者てつがくしゃの流儀りゅうぎだ。

3. 道徳的どうとくてき実在論じつざいろん:理性りせいは主観しゅかんを超こえる

意識いしきの話はなしから急きゅうに倫理りんりに飛とぶようだが、ネーゲルNagelのなかでは地続じつづきだ。他人たにんの痛いたみが悪わるいと知しる能力のうりょく。それは感情かんじょうではなく理性りせいに属ぞくする、とネーゲルNagelは踏ふんでいる。道徳的どうとくてきな事実じじつは主観しゅかんの産物さんぶつではなく、客観的きゃっかんてきに存在そんざいする。

『利他主義りたしゅぎの可能性かのうせい』(1970)に、のちの著作ちょさくで練ねり上あげられる概念がいねんの原型げんけいがある。「行為者こういしゃ中立的ちゅうりつてき理由りゆう」(agent-neutral reasonsエージェント・ニュートラル・リーズンズ、この用語ようご自体じたいは『どこでもないところからの眺ながめ』で定着ていちゃく)。私わたしの空腹くうふくが私わたしに食事しょくじの理由りゆうを与あたえるように、他人たにんの空腹くうふくも私わたしに──特定とくていの誰だれではなくあらゆる行為者こういしゃに──何なにかをする理由りゆうを与あたえる。他人たにんの苦痛くつうが悪わるいのは、私わたしがそう感かんじるからではない。苦痛くつうは誰だれのものであれ悪わるい。この「誰だれのものであれ」が、行為者こういしゃ中立性ちゅうりつせいだ。共感きょうかんの問題もんだいではない。理性りせいが、自分じぶんの視点してんを離はなれて構造こうぞうを見みる能力のうりょくによって、利他りたを要請ようせいする。

この立場たちばは『理性りせいの最後さいごのことば』(The Last Wordザ・ラスト・ワード, 1997)でさらに鋭するどくなる。相対主義者そうたいしゅぎしゃは言いう。「理性りせいに普遍的ふへんてきな権威けんいはない。論理ろんりも文化ぶんかや歴史れきしの産物さんぶつにすぎない」。ネーゲルNagelの反論はんろんは明快めいかいだ。「理性りせいに普遍的ふへんてきな権威けんいはない」という主張しゅちょうそのものが、理性りせいの普遍的ふへんてき権威けんいに訴うったえている。相対主義そうたいしゅぎは自みずからを掘ほり崩くずす。論理ろんりを否定ひていするには論理ろんりを使つかわなければならない。この自己じこ論駁ろんばく性が、理性りせいの権威けんいを裏書うらがききする。

ここに「どこでもないところからの眺ながめ」の倫理学りんりがくへの応用おうようがある。自分じぶんの苦痛くつうが悪わるいと認みとめるなら、客観的きゃっかんてきな視点してんからは、同おなじ構造こうぞうをもつ他人たにんの苦痛くつうも悪わるいと認みとめなければならない。利他りたの根拠こんきょは情じょうにあるのではない。理性りせいの構造こうぞうのなかにある。

1976年ねん、アリストテレスAristotelēs協会きょうかいの大会たいかいで「道徳的どうとくてき運うん」(Moral Luckモラル・ラック)を発表はっぴょうした。同おなじ大会たいかいでバーナードBernard・ウィリアムズWilliamsがまったく同おなじ主題しゅだいを論ろんじ、両者りょうしゃの論文ろんぶんはセットで読よまれることが多おおい。問といはこうだ。同おなじ不注意ふちゅういで車くるまを運転うんてんしても、歩行者ほこうしゃが飛とび出だしてきたかどうかは運うんでしかない。結果けっかが違ちがえば道徳的どうとくてき評価ひょうかも変かわる。だが本人ほんにんがコントロールできない要素ようそで道徳的どうとくてき判断はんだんが左右さゆうされるのは、道徳どうとくの根ねっこにある「自分じぶんで制御せいぎょできることだけが道徳的どうとくてき評価ひょうかの対象たいしょうだ」という原則げんそくと矛盾むじゅんする。道徳どうとくの前提ぜんていが内側うちがわから崩くずれる。この発見はっけんは法哲学ほうてつがくや刑事けいじ法学ほうがくにも波紋はもんを広ひろげた。

4. 不条理ふじょうり:人間にんげんの条件じょうけんとしての自己じこ距離化きょりか

1971年ねんの論文ろんぶん「不条理ふじょうり」(The Absurdジ・アブサード)は、カミュCamusの不条理ふじょうりとは異ことなる角度かくどからこの主題しゅだいに切きり込こむ。

論文ろんぶんは冒頭ぼうとうで、人生じんせいが不条理ふじょうりだとされる通俗的つうぞくてきな理由りゆうを三みっつ並ならべ、三みっつとも退しりぞける。(1)100万年後まんねんごには何なにもかも無むに帰きす。──だが100万年後まんねんごのことが今いまを無意味むいみにするなら、今いまのことも100万年後まんねんごを無意味むいみにするはずだ。時間的じかんてき距離きょりは意味いみを消けさない。(2)宇宙うちゅうに比くらべれば人間にんげんは微小びしょうだ。──だが仮かりに人間にんげんが宇宙うちゅうより巨大きょだいだったら意味いみが生うまれるのか? サイズと意味いみは無関係むかんけいだ。(3)いつ死しぬかわからない。──しかし永遠えいえんに生いきても不条理ふじょうりは消きえないだろう。むしろ永続えいぞくする。

通俗的つうぞくてきな理由りゆうがすべて的まとを外はずしているなら、不条理ふじょうりの源泉げんせんはどこにあるか。ネーゲルNagelの答こたえは宇宙うちゅうの側がわにはない。私わたしたちの側がわにある。人間にんげんには「一歩いっぽ退しりぞく」(step backステップ・バック)能力のうりょくがある。自分じぶんの生せいを真剣しんけんに生いきながら、同時どうじにその真剣しんけんさを外そとから眺ながめて疑うたがう能力のうりょく。犬いぬや猫ねこにはこの「退しりぞき」がない。だから犬いぬは不条理ふじょうりに苦くるしまない。人間にんげんだけが苦くるしむ。カミュCamusは不条理ふじょうりを宇宙うちゅうと人間にんげんの衝突しょうとつに求もとめた。ネーゲルNagelは人間にんげんの内部ないぶの衝突しょうとつに見みる。

具体的ぐたいてきに言いおう。あなたは明日あしたの会議かいぎの準備じゅんびに必死ひっしだ。資料しりょうを整ととのえ、発言はつげんを練ねる。だが同時どうじに、心こころのどこかで思おもう。「100年後ねんごには誰だれも覚おぼえていない」。この二重にじゅうの視点してん──内側うちがわからの真剣しんけんさと外側そとがわからの懐疑かいぎ──が衝突しょうとつするとき、不条理ふじょうりが立たち上あがる。

ネーゲルNagelの処方箋しょほうせんは英雄的えいゆうてき反抗はんこうではない。皮肉ひにく(ironyアイロニー)だ。不条理ふじょうりに気きづいたあとも、私わたしたちは会議かいぎの準備じゅんびを続つづける。子こどもの弁当べんとうを作つくる。歯はを磨みがく。宇宙的うちゅうてきな無意味むいみさを承知しょうちの上うえで、日常にちじょうを生いきる。ネーゲルNagelは書かく。「永遠えいえんの相そうのもとに何なにものも大切たいせつでないのなら、そのこと自体じたいも大切たいせつでなく、私わたしたちの不条理ふじょうりな生せいに英雄的えいゆうてきな反抗はんこうではなく皮肉ひにくをもって臨のぞむことができる」。

5. 『心こころと宇宙うちゅう』:唯物論ゆいぶつろんへの宣戦せんせん布告ふこく

2012年ねん、ネーゲルNagelは爆弾ばくだんを投なげた。『心こころと宇宙うちゅう──なぜ唯物論的ゆいぶつろんてきネオneo・ダーウィニズムDarwinismの自然しぜん観かんはほぼ確実かくじつに間違まちがっているか』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス)。副題ふくだいからして挑発的ちょうはつてきだ。

本ほんは全ぜん5章しょう。第だい1章しょうの総論そうろんに続つづき、第だい2章しょうで還元主義かんげんしゅぎ一般いっぱんへの批判ひはんを据すえたあと、唯物論ゆいぶつろんが躓つまずく三みっつの領域りょういきを順じゅんに叩たたく。第だい3章しょう「意識いしき」(Consciousness)。なぜ物質ぶっしつから主観的しゅかんてき体験たいけんが立たち上あがるのか。1974年ねんのコウモリbat論文ろんぶんから引ひきずる問といだ。第だい4章しょう「認知にんち」(Cognition)。私わたしたちの脳のうはなぜ世界せかいを正ただしく把握はあくできるのか。自然しぜん選択せんたくは生存せいぞんに有利ゆうりな信念しんねんを残のこすが、生存せいぞんに有利ゆうりな信念しんねんが真しんである保証ほしょうはどこにもない。第だい5章しょう「価値かち」(Value)。善悪ぜんあくの判断はんだんは物理的ぶつりてき事実じじつから導出どうしゅつできるか。突然変異とつぜんへんいと淘汰とうただけで、なぜ盲目もうもくの物質ぶっしつから道徳的どうとくてき認識にんしきが生うまれるのか。──三みっつの問といは同おなじ根ねをもつ。物質ぶっしつの因果的いんがてき運動うんどうのなかに、体験たいけん・真理しんり・善ぜんが宿やどる理由りゆうを見出みいだせない。

ネーゲルNagelは否いなと答こたえる。進化論しんかろんは形態けいたいの変化へんかや適応てきおうを見事みごとに説明せつめいする。ところが「なぜ物質ぶっしつの特定とくていの配列はいれつが主観的しゅかんてき体験たいけんを生うむのか」は進化論しんかろんの管轄かんかつ外がいだ。それは物理法則ぶつりほうそくの問題もんだいであり、物理法則ぶつりほうそくは意識いしきについて沈黙ちんもくしている。

代替案だいたいあんは大胆だいたんだった。自然しぜんそのもののなかに、心こころの方向ほうこうへの「傾向けいこう」(teleological tendencyテレオロジカル・テンデンシー)がある。宇宙うちゅうは偶然ぐうぜんだけで動うごいているのではなく、意識いしきや理性りせいの発生はっせいが自然しぜんの秩序ちつじょに組くみ込こまれている。神かみに頼たよるわけではない。自然しぜんの内在的ないざいてきな目的論もくてきろん。アリストテレスAristotelēsに近ちかい発想はっそうを、21世紀せいきの文脈ぶんみゃくで蘇よみがえらせようとした。

この本ほんは炎上えんじょうした。「知的ちてきな人間にんげんがこれほど間違まちがえることは稀まれだ」とブライアンBrian・ライターLeiterとマイケルMichael・ワイスバーグWeisbergは書評しょひょうで切きり捨すてた。スティーヴンSteven・ピンカーPinkerはX(旧きゅうTwitter)で「もう引退いんたいしろ」と言いわんばかりの調子ちょうしだった。無神論者むしんろんしゃがインテリジェント・デザインIntelligent Designに加担かたんした、という誤解ごかいも広ひろまった(ネーゲルNagelは無神論者むしんろんしゃであり、インテリジェント・デザインIntelligent Designを支持しじしていない)。だが問とい自体じたいは消きえない。物質ぶっしつから意識いしきが出現しゅつげんする過程かていを、現在げんざいの科学かがくが本当ほんとうに説明せつめいできているのか。この問といに正直しょうじきに向むき合あえば、答こたえは明あきらかだろう。まだできていない。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 「コウモリbatであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?ホワット・イズ・イット・ライク・トゥ・ビー・ア・バット, 1974):心こころの哲学てつがくの転換点てんかんてんとなった16ページの論文ろんぶん。意識いしきの主観的しゅかんてき性格せいかくが物理的ぶつりてき記述きじゅつに還元かんげんできないことを論証ろんしょうする。永井ながい均ひとし訳やく『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草けいそう書房しょぼう)に収録しゅうろく。まず読よむべき一篇いっぺん。
  • 『コウモリbatであるとはどのようなことか』(Mortal Questionsモータル・クエスチョンズ, 1979):エッセイessay集しゅう。コウモリbat論文ろんぶんのほか、「不条理ふじょうり」「道徳的どうとくてき運うん」「死し」など珠玉しゅぎょくのエッセイを収おさめる。哲学てつがくの専門せんもん訓練くんれんがなくても読よめる、驚おどろくほど明快めいかいな文体ぶんたい。
  • 『どこでもないところからの眺ながめ』(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア, 1986):主著しゅちょ。主観しゅかんと客観きゃっかんの緊張きんちょうを心身しんしん問題もんだい・認識論にんしきろん・倫理学りんりがく・自由じゆう意志いしにわたって展開てんかい。ネーゲルNagelの哲学てつがくの全体像ぜんたいぞうを掴つかむならこの一冊いっさつ。中村なかむら昇のぼる訳やく(春秋社しゅんじゅうしゃ)。
  • 『理性りせいの最後さいごのことば』(The Last Wordザ・ラスト・ワード, 1997):相対主義そうたいしゅぎ・主観主義しゅかんしゅぎへの反撃はんげき。論理ろんり・科学かがく・倫理りんりにおける理性りせいの客観的きゃっかんてき権威けんいを擁護ようごする。短みじかくて鋭するどい。
  • 『心こころと宇宙うちゅう』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス, 2012):最もっとも論争的ろんそうてきな著作ちょさく。唯物論的ゆいぶつろんてき自然主義しぜんしゅぎが意識いしき・認知にんち・価値かちを説明せつめいできないと論ろんじ、自然しぜんの内在的ないざいてき目的論もくてきろんを提案ていあん。賛否さんぴはともかく、問といの射程しゃていは広ひろく、覚悟かくごして読よむ価値かちがある。
  • 『哲学てつがくってどんなこと?──とっても短みじかい哲学てつがく入門にゅうもん』(What Does It All Mean?ホワット・ダズ・イット・オール・ミーン, 1987):高校生こうこうせいにも読よめる哲学てつがく入門にゅうもん。100ページ足たらずで心身しんしん問題もんだい・自由じゆう意志いし・死し・正義せいぎ・人生じんせいの意味いみを扱あつかう。答こたえを出ださず問といを開ひらくスタイルはネーゲルNagelそのもの。岡本おかもと裕一朗ゆういちろう・若松わかまつ良樹よしき訳やく(昭和堂しょうわどう)。哲学てつがくに初はじめて触ふれるならここから。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

ダニエルDaniel・デネットDennettという男おとこがいる。ネーゲルNagelとほぼ同世代どうせだいの哲学者てつがくしゃで、真逆まぎゃくの立場たちばに立たつ。デネットDennettは意識いしきの「主観的しゅかんてきな感かんじ」そのものを否定ひていする。クオリアqualia──赤あかの赤あかさ、痛いたみの痛いたさ──などという内的ないてきな性質せいしつは幻想げんそうだ。意識いしきは脳のうの情報じょうほう処理しょりの仕方しかたであり、機能きのうがすべてだ。「何なにかであるような感かんじ」は、脳のうが自みずからの処理しょりについて語かたるときに生うまれるフィクションにすぎない、と。デネットDennettにとってネーゲルNagelの論証ろんしょうは「想像力そうぞうりょくの限界げんかいを存在論的そんざいろんてき結論けつろんに変かえているだけ」だ。コウモリbatの体験たいけんが想像そうぞうできないことと、客観的きゃっかんてき記述きじゅつに還元かんげんできないことは別べつだ、と。

根ねの深ふかい対立たいりつだ。デネットDennettは一歩いっぽも引ひかない。意識いしきの「難問なんもん」が解とけないのは、問といの立たて方かたが狂くるっているからだ、と。ネーゲルNagelは首くびを振ふる。あなたが今いままさに歯はが痛いたいとき、「その痛いたみは脳のうの情報じょうほう処理しょりの仕方しかたにすぎない」と言いわれて頷うなずけるか? 頷うなずけないならネーゲルNagelの側がわにいる。頷うなずけるならデネットDennettの側がわだ。心こころの哲学てつがくは、ここで二ふたつに割われている。

『心こころと宇宙うちゅう』への反応はんのうはさらに激烈げきれつだった。科学者かがくしゃや哲学者てつがくしゃの多おおくが、ネーゲルNagelが進化論しんかろんを理解りかいしていないと批判ひはんした。進化しんか生物学者せいぶつがくしゃエリオットElliott・ソーバーSoberは、ネーゲルNagelが自然しぜん選択せんたくの説明力せつめいりょくを過小かしょう評価ひょうかしていると指摘してきした。正当せいとうな批判ひはんだろう。だがネーゲルNagelの論点ろんてんは生物学せいぶつがくの内部ないぶにはない。自然しぜん選択せんたくは「意識いしきをもつ有機体ゆうきたいが生存せいぞんに有利ゆうりである」を説明せつめいできる。「なぜ物質ぶっしつの配列はいれつが意識いしきを生うむのか」には手てが届とどかない。前者ぜんしゃは生物学せいぶつがくの問題もんだい、後者こうしゃは形而上学けいじじょうがくの問題もんだいだ。ネーゲルNagelが問とうているのは後者こうしゃだ。

日本にほんでは永井ながい均ひとしがネーゲルNagelの問題もんだい設定せっていを独自どくじに発展はってんさせた。永井ながいは「私わたし」の独在性どくざいせい──世界せかいにこの「私わたし」が存在そんざいすることの異様いようさ──をネーゲルNagel以上に先鋭化せんえいかさせ、独在論どくざいろんを展開てんかいした。ネーゲルNagelの「何なにかであるとはどのようなことか」が一般的いっぱんてきな意識いしきの構造こうぞうを問とうのに対たいし、永井ながいは「なぜ他ほかの誰だれでもなく私わたしが私わたしなのか」を問とう。問といの深ふかさがもう一段いちだん下さがる。

影響えいきょうと遺産いさん

1974年ねんのあの16ページが残のこした波紋はもんは、いまだに広ひろがっている。

デイヴィッドDavid・チャーマーズChalmersが1995年ねんに名なづけた「意識いしきのハード・プロブレム」。ネーゲルNagelの「説明せつめいのギャップ」に新あたらしい看板かんばんをつけた格好かっこうだ。なぜ脳のうの物理的ぶつりてき過程かていに主観的しゅかんてき体験たいけんが伴ともなうのか。機能きのうや行動こうどうを説明せつめいする「イージー・プロブレム」とは質しつが違ちがう。チャーマーズChalmersはさらに踏ふみ込こんで、汎心論はんしんろん(panpsychismパンサイキズム)──物質ぶっしつの基本きほん要素ようそにも原始的げんしてきな意識いしきが宿やどる──を検討けんとうし始はじめた。ネーゲルNagelの『心こころと宇宙うちゅう』が示唆しさした方向ほうこうと重かさなる。

フランクFrank・ジャクソンJacksonの「知識ちしき論証ろんしょう」(1982年ねん)もネーゲルNagelの影かげを引ひいている。白黒しろくろの部屋へやに閉とじ込こめられた天才てんさい色彩しきさい科学者かがくしゃメアリーMary。彼女かのじょは色覚しきかくに関かんする物理的ぶつりてき事実じじつをすべて知しっている。だが部屋へやを出でて初はじめて赤あかを見みたとき、彼女かのじょは何なにか新あたらしいことを学まなぶのではないか? もし学まなぶのなら、物理的ぶつりてき知識ちしきはすべてではない。ネーゲルNagelのコウモリとジャクソンJacksonのメアリーは、別べつの角度かくどから同おなじ壁かべにぶつかっている。

倫理学りんりがくでは、ネーゲルNagelの道徳的どうとくてき実在論じつざいろんが、デレクDerek・パーフィットParfitの『理由りゆうと人格じんかく』(1984)や『重要じゅうようなこととは何なにか』(2011)と共鳴きょうめいする。理性りせいが主観しゅかんを超こえた道徳的どうとくてき真理しんりに到達とうたつできるという信念しんねん。パーフィットParfitはネーゲルNagelを「最もっとも重要じゅうような存命ぞんめいの道徳どうとく哲学者てつがくしゃのひとり」と呼よんだ。

哲学てつがくの外そとにもネーゲルNagelの足跡あしあとは及およぶ。神経しんけい科学かがくの研究者けんきゅうしゃが意識いしきの「神経しんけい相関そうかん」(NCCエヌシーシー、neural correlates of consciousnessニューラル・コリレーツ・オブ・コンシャスネス)を探さがすとき、「相関そうかん」と「同一どういつ」のあいだの溝みぞをどう埋うめるかはネーゲルNagelの問といそのものだ。AI研究けんきゅうにおいても、「機械きかいに意識いしきはあるか」という問といの哲学的てつがくてき基盤きばんは、ネーゲルNagelの「何なにかであるとはどのようなことか」にある。

現代げんだいへの接続せつぞく

あなたが今いま読よんでいるこの文章ぶんしょうは、大規模だいきぼ言語げんごモデルが書かいたかもしれない。質問しつもんに答こたえ、冗談じょうだんを言いい、詩しまで作つくる。外そとから見みれば「考かんがえている」ように見みえる。ではそのシステムであることには、「何なにかであるような感かんじ」があるか。トークンtokenを予測よそくしている瞬間しゅんかんに、そこには体験たいけんが宿やどっているか。行動こうどうテストでは判定はんていできない。内側うちがわから見みた景色けしきがないかぎり「考かんがえている」とは言いえない。内側うちがわを覗のぞく窓まどはない。ネーゲルNagelの問といは、1974年ねんよりもはるかに身近みぢかな場所ばしょで鳴なっている。

脳のう科学かがくは意識いしきの「相関そうかん」を追おい続つづけている。fMRIエフエムアールアイで脳のうの活動かつどうを可視化かしかし、特定とくていの体験たいけんと特定とくていの神経しんけい発火はっかパターンを対応たいおうさせる。だが「なぜその発火はっかパターンに赤あかの体験たいけんが伴ともなうのか」は、依然いぜんとして一行いちぎょうも書かかれていない。相関そうかんは説明せつめいではない。ネーゲルNagelが50年前ねんまえに指摘してきした隙間すきまは、テクノロジーが進すすむほどむしろ目立めだつようになっている。

動物どうぶつの意識いしきをめぐる議論ぎろんもここに繋つながる。畜産ちくさんの現場げんばで飼育しいくされる豚ぶたや鶏にわとりに苦痛くつうの「感かんじ」はあるのか。もしあるなら、その苦痛くつうを無視むしして工業的こうぎょうてきに処理しょりすることは道徳的どうとくてきに許ゆるされるか。ネーゲルNagelの枠組わくぐみは安易あんいな逃にげ道みちを塞ふさぐ。「確認かくにんできないから存在そんざいしない」とは言いえない。覗のぞけないからこそ、踏ふみつけてはいけないものがある。

読者どくしゃへの問とい

  • あなたが今いま見みている「赤あか」と、隣となりの人ひとが見みている「赤あか」は同おなじ体験たいけんか。それを確認かくにんする方法ほうほうはあるか。
  • AIが「私わたしには意識いしきがある」と出力しゅつりょくしたとき、それを否定ひていする根拠こんきょは何なにか。隣となりの人間にんげんに意識いしきがあると信しんじる根拠こんきょと、どこが違ちがうか。
  • 自分じぶんの人生じんせいを真剣しんけんに生いきながら、同時どうじにその真剣しんけんさを「外そとから」疑うたがったことはあるか。そのとき、あなたはどちらの自分じぶんを信しんじたか。

名言めいげん(出典しゅってんつき)

「ある有機体ゆうきたいが意識的いしきてき経験けいけんをもつということの本質ほんしつは、その有機体ゆうきたいであることには何なにかであるようなことがある、ということである」 出典しゅってん:ネーゲルNagel「コウモリであるとはどのようなことか」(The Philosophical Reviewザ・フィロソフィカル・レヴュー, Vol. 83, No. 4, 1974, p. 436)/原文げんぶん:"the fact that an organism has conscious experience at all means, basically, that there is something it is like to be that organism"

この一文いちぶんを読よんだ人間にんげんは、意識いしきについて考かんがえるたびにこの言葉ことばが頭あたまをよぎるようになる。呪のろいのように。

「もし永遠えいえんの相そうのもとでは何なにものも大切たいせつでないなら、そのこと自体じたいも大切たいせつでなく、私わたしたちは不条理ふじょうりな生せいに英雄主義えいゆうしゅぎや絶望ぜつぼうではなく皮肉ひにくをもって臨のぞむことができる」 出典しゅってん:ネーゲルNagel「不条理ふじょうり」(The Journal of Philosophyザ・ジャーナル・オブ・フィロソフィー, Vol. 68, No. 20, 1971, p. 727)/原文げんぶん:"If sub specie aeternitatis there is no reason to believe that anything matters, then that doesn't matter either, and we can approach our absurd lives with irony instead of heroism or despair"

不条理ふじょうりの認識にんしきが、不条理ふじょうり自体じたいを軽かるくする。この自己じこ適用てきようの鮮あざやかさ。

「物理的ぶつりてきなものの側がわからだけでは、なぜそこに意識いしきがあるのかを説明せつめいできないのだ」 出典しゅってん:ネーゲルNagel『心こころと宇宙うちゅう』(Oxford University Press, 2012)第だい3章しょう "Consciousness"/原文げんぶん:"the physical is not all there is in reality, because it cannot explain consciousness"(p. 42、趣旨しゅしを踏ふまえた抄訳しょうやく)

半世紀はんせいき分ぶんの問といが、この一文いちぶんに詰つまっている。

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん):トマスThomas・ネーゲルNagel『コウモリであるとはどのようなことか』永井ながい均ひとし訳やく、勁草けいそう書房しょぼう、1989年ねん。
  • (原典げんてん):Thomas Nagel, The View from Nowhere, Oxford University Press, 1986.(邦訳ほうやく:中村なかむら昇のぼる訳やく『どこでもないところからの眺め』春秋社しゅんじゅうしゃ、2009年ねん。)
  • (原典げんてん):Thomas Nagel, Mind and Cosmos: Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature Is Almost Certainly False, Oxford University Press, 2012.
  • (原典げんてん):Thomas Nagel, The Last Word, Oxford University Press, 1997.
  • (原典げんてん):Thomas Nagel, The Possibility of Altruism, Princeton University Press, 1970.
  • (研究書けんきゅうしょ):デイヴィッドDavid・チャーマーズChalmers『意識いしきする心こころ──脳のうと精神せいしんの根本こんぽん理論りろんを求もとめて』林はやし一はじめ訳やく、白揚社はくようしゃ、2001年ねん。
  • (研究書けんきゅうしょ):永井ながい均ひとし『〈私わたし〉の存在そんざいの比類ひるいなさ』勁草けいそう書房しょぼう、1998年ねん。
  • (概説がいせつ):信原のぶはら幸弘ゆきひろ編へん『シリーズ心こころの哲学てつがく I 人間にんげん篇へん』勁草けいそう書房しょぼう、2004年ねん。
  • (原典げんてん):Thomas Nagel, What Does It All Mean?: A Very Short Introduction to Philosophy, Oxford University Press, 1987.(邦訳ほうやく:岡本おかもと裕一朗ゆういちろう・若松わかまつ良樹よしき訳やく『哲学てつがくってどんなこと?』昭和堂しょうわどう、1993年ねん。)
  • (研究書けんきゅうしょ):Joseph Levine, "Materialism and Qualia: The Explanatory Gap", Pacific Philosophical Quarterly, Vol. 64, 1983.
  • (補助ほじょウェブweb資料しりょう):"Thomas Nagel", Internet Encyclopedia of Philosophy.