暗闇のなかを、一匹のコウモリが飛んでいる。口から超音波を発し、反響で空間を「見る」。壁の位置、蛾の羽ばたき、空気の密度。人間の目が光をとらえるのとはまるで違う仕方で、コウモリは世界を把握している。その経験は、いったいどんな感じがするのか。あなたにはわからない。私にもわからない。そして神経科学がコウモリの脳のすべてのニューロン発火パターンを完全に解明したとしても、おそらくわからない。
1974年、トマス・ネーゲルはこの「わからなさ」こそが哲学の本丸だと宣言した。『フィロソフィカル・レヴュー』に掲載された論文はわずか16ページ。タイトルは「コウモリであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?)。奇妙な題名だった。しかしこの一篇が、20世紀後半の心の哲学の地図を塗り替えることになる。
ネーゲルが突きつけたのは、単純にして致命的な一点だ。意識には主観的な性格がある。何かを経験しているとき、そこには「何かであるような感じ」がある。赤を見る感じ。痛みの感じ。朝のコーヒーの苦味が舌に触れる感じ。この「感じ」は、物理学の言語には翻訳できない。脳を分子レベルまで解剖しても、そこから一人称の体験は出てこない。デカルトが400年前に開けた心身の裂け目を、ネーゲルは現代分析哲学のど真ん中で再び抉り開けた。
この記事の要点
- 「何かであるとはどのようなことか」(what it is like):意識ある存在であることには、還元不可能な主観的性格がある。物理学がどこまで進んでも、第三者の記述から第一人称の体験を導き出すことはできない。心身問題が永遠に「解決済み」にならない理由がここにある。
- 「どこでもないところからの眺め」(The View from Nowhere):科学は客観性を追求する。だが客観的な記述を徹底するほど、主観は視界から消える。主観なしに世界を理解することはできないのに。この緊張は解消できない。哲学はその緊張のなかに住む営みだ。
- 『心と宇宙』(Mind and Cosmos):唯物論的自然主義は意識の出現を説明できない。突然変異と自然選択だけでは、なぜ宇宙に意識が発生したのかがわからない。ネーゲルは有神論に頼らず、自然そのものに目的論的傾向があるという異端の仮説を提示した。
生涯と時代背景
トマス・ネーゲルは1937年7月4日、ユーゴスラビアのベオグラードに生まれた。ユダヤ系の家庭。第二次世界大戦の足音が迫るなか、一家はアメリカに渡った。幼少期の記憶は公にはほとんど語られていない。ネーゲルは自伝を書かない。生い立ちの劇で読者を引きつけようとしない。論証だけで勝負する人間だ。
1958年、コーネル大学を卒業。哲学の学士号を手に、イギリスに渡る。オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジでBPhilを取得(1960年)。当時のオックスフォードは日常言語学派の空気が色濃く残っていた。J・L・オースティンの言語分析、ギルバート・ライルの行動主義。心の問題を言語の問題に置き換え、解消する。それが主流だった。ネーゲルはこの空気を吸い、分析哲学の技法を徹底的に身につけた。それでも納得はしていなかった。心の問題は言語を整理すれば消えるような軽いものではない、と。
帰国してハーバード大学の大学院へ。指導教官はジョン・ロールズ。のちに『正義論』(A Theory of Justice, 1971)で20世紀の政治哲学を一変させる巨人だ。ロールズのもとでネーゲルが書いた博士論文は倫理学に関するものだった。利他主義の合理性。他人の苦痛を自分のことのように感じる根拠は理性のなかにある、と。この仕事はのちに『利他主義の可能性』(The Possibility of Altruism, 1970)として出版される。心の哲学に向かう前から、ネーゲルの関心は一貫している。主観を消去しないこと。
1963年に博士号を取得。カリフォルニア大学バークレー校を経て、1966年にプリンストン大学の哲学教授に就任。そして1980年、ニューヨーク大学(NYU)に移り、同大の哲学・法学の教授を長く務めた。派手な逸話はない。スキャンダルもない。静かに論文を書き、静かに哲学の風景を変えた。
時代の文脈がある。ネーゲルが活動を始めた1960年代から70年代は、英米の哲学で物理主義(physicalism)が席巻していた時期だ。心的状態は脳の状態と同一である(心脳同一説、スマート、プレイス)。あるいは心的状態は機能的役割で定義される(機能主義、パトナム)。いずれにせよ、意識の「主観的な感じ」は科学の進歩で解消できる問題だ、という楽観が空気を支配していた。ネーゲルはこの楽観に冷水を浴びせた。
ミニ年表
- 1937年:ユーゴスラビア・ベオグラードに生まれる
- 1958年:コーネル大学卒業(BA)
- 1960年:オックスフォード大学でBPhil取得
- 1963年:ハーバード大学で博士号取得(指導:ジョン・ロールズ)
- 1966年:プリンストン大学哲学教授に就任
- 1970年:『利他主義の可能性』刊行
- 1971年:論文「不条理」(The Absurd)発表
- 1974年:「コウモリであるとはどのようなことか」発表
- 1979年:『コウモリであるとはどのようなことか』(エッセイ集)刊行
- 1980年:ニューヨーク大学(NYU)に移籍
- 1986年:『どこでもないところからの眺め』刊行
- 1997年:『理性の最後のことば』刊行
- 2008年:バルザン賞(道徳哲学)受賞
- 2012年:『心と宇宙』刊行。激しい論争を巻き起こす
この哲学者は何を問うたのか
意識は物理的世界の一部として説明できるのか。
なぜこの問いが爆発力をもったか。20世紀中盤の英米哲学では、心を物質に還元する試みが次から次へと繰り出されていた。論理的行動主義(ライル)は、心について語ることは行動の傾向性について語ることだ、と主張した。「痛い」とは、叫び声をあげる、顔をしかめる、患部をかばう、といった行動パターンのことだ、と。心脳同一説(スマート、プレイス)は一歩進んで、痛みとは特定の脳状態(C繊維の発火)そのものだ、とした。機能主義(パトナム、初期ルイス)は、心的状態を入力・出力・他の心的状態との因果的関係で定義した。
いずれも同じ方向を向いている。心を客観的に記述可能なものにせよ。科学の言語で捉えよ。第三者が検証できる形にせよ。この方向は科学の成功に後押しされ、圧倒的な説得力を持っていた。
ネーゲルは正面から問い返した。あなたが今、歯が痛いとする。C繊維が発火している。行動パターンが出ている。機能的役割も果たしている。それだけか? そのすべてを記述し尽くしたあとにも、「痛い」という感じがなお残っているではないか。脳の状態と主観的体験のあいだには、どうしても埋まらない隙間がある。
ネーゲルは何を変えたか。「意識は未解決の問題だ」ではない。「意識は、現在の枠組みでは原理的に解決できない問題だ」。科学がもっと進めば片づく、という楽観への挑戦。知識が足りないのではなく、知り方そのものに限界がある。
核心理論
1. 「コウモリであるとはどのようなことか」:意識の主観的性格
1974年の論文は、一つの定式化で始まる。「ある有機体が意識的経験をもつということは、その有機体であることには何かであるようなことがある(there is something it is like to be that organism)、ということを意味する」。この "what it is like" という表現が、以後の心の哲学を支配する鍵語になった。
なぜコウモリなのか。ネーゲルは人間ではなく、人間とは根本的に異なる感覚様態をもつ動物を選んだ。コウモリは反響定位(echolocation)で世界を知覚する。超音波を発射し、反射してくる音波から対象の形状・距離・速度を把握する。それは視覚のようなものか? 触覚のようなものか? どちらでもない。人間がもたない感覚器官を通じた経験を、人間の概念で翻訳できるはずがない。
論文のなかでネーゲルは、想像による接近を三つ試して、三つとも潰す(p. 439)。自分の経験に反響定位を「足す」想像。視覚を「引く」想像。人間の感覚を段階的にコウモリのそれに「変形する」想像。いずれも行き着く先は「私がコウモリのように振る舞ったら何を感じるか」であって、「コウモリがコウモリとして何を感じているか」ではない。主語が入れ替わらない。ここに壁がある。
ここが急所だ。もし神経科学が完全に発達して、コウモリの脳のすべてのニューロンの活動を記述できたとしよう。反響定位に関わる脳領域のマッピング、信号処理の数理モデル、行動との相関。すべてが揃う。それでも、「反響定位で世界を知覚するとはどんな感じか」は記述のなかに現れない。客観的な情報をいくら積み上げても、主観的な体験は導き出せない。
ただし論文の結びでネーゲルは慎重な留保をつけている。「ここから物理主義が誤りだと結論するのは早計だろう」(p. 446)。現在の私たちには心身関係を理解する概念がまだない。物理主義が正しいかもしれないが、今の枠組みでは正しいと言う意味すらわからない。解決を急ぐな、問題の深さを直視しろ。それが論文の真のメッセージだ。
注意がいる。ネーゲルは物理主義を丸ごと葬ろうとしたのではない。狙いはもっと限定的で、それゆえ厄介だ。物理学の言語は誰の視点にも依存しないように設計されている。意識は特定の視点からしか存在しない。前者の網で後者を掬おうとすれば、網目からこぼれる。技術が足りないのではなく、網の編み方が合っていない。
のちに哲学者ジョセフ・レヴィンがこの隙間に名前をつけた。「説明のギャップ」(explanatory gap)。1983年の論文でレヴィンは、「痛み=C繊維の発火」という同一性主張が仮に正しくても、なぜそうなのかの説明が永遠に欠落する、と論じた。「水=H₂O」なら、水の性質(沸点、透明性、溶解力)をH₂Oの分子構造から導ける。だが「痛み=C繊維の発火」の場合、C繊維の発火から「痛い感じ」は導けない。物理的記述と主観的体験のあいだには、論理的な橋が架かっていない。ネーゲルの直観を、レヴィンが分析哲学の精密な言葉で裏書きした形だ。
2. 「どこでもないところからの眺め」:主観と客観の緊張
1986年の主著『どこでもないところからの眺め』(The View from Nowhere)は、コウモリ論文の洞察を一冊の体系に仕立てた。全11章。心身問題(第2–3章)から知識と実在(第4–6章)、自由意志(第7章)、倫理の基礎(第8–9章)、死と人生の意味(第10章)まで、主観と客観の衝突が同じ構造で繰り返される。ひとつの原理が哲学の全領域を貫く。
私たちは二つの目で生きている。一つは自分の身体のなかから世界を覗く目。朝の光がまぶしい、電車の座席が冷たい、あの人の声が耳に残る。もう一つは、自分を含む世界を外から見下ろそうとする目。科学はこの二番目の目を極限まで鍛える。特定の誰の視点にも属さない記述。「どこでもないところからの眺め」。
だがこの眺めは、手に入れるほど何かを失う。色が消える。音が消える。痛みが消える。物理学の世界には波長と振動数はあるが、「赤さ」はない。空気の圧力変動はあるが、「美しい旋律」はない。客観的になればなるほど、私たちが生きている世界から遠ざかる。
ネーゲルはどちらかを選べとは言わない。両方が本物だ。主観的視点を捨てて客観に逃げるのも、客観を捨てて主観に閉じこもるのも間違いだ。哲学とは、この二つの視点が生み出す緊張のなかに留まること。解決ではなく緊張の持続。居心地が悪い。だがその居心地の悪さこそが、人間の知的条件だとネーゲルは考える。
自由意志の問題がわかりやすい。主観的視点からは、私は今この文章を読むことを「選んでいる」。ページを閉じることもできた。選択の感覚は生々しい。だが客観的視点──神経科学の眼──からは、あなたの脳の状態が物理法則に従って推移しているだけだ。決定論が正しいなら「選んでいる」は錯覚で、非決定論が正しいなら「偶然が入った」だけだ。どちらにせよ、客観的な記述には「自分で決めた」が入り込む余地がない。ネーゲルはこれを、主観と客観が噛み合わない典型例として提示する(『どこでもないところからの眺め』第7章)。自由意志を救うには互換論(compatibilism)で妥協するか、問題が解けないことを認めるか。ネーゲルは後者を選ぶ。問いが解けないとき、安い答えに飛びつかない。それがこの哲学者の流儀だ。
3. 道徳的実在論:理性は主観を超える
意識の話から急に倫理に飛ぶようだが、ネーゲルのなかでは地続きだ。他人の痛みが悪いと知る能力。それは感情ではなく理性に属する、とネーゲルは踏んでいる。道徳的な事実は主観の産物ではなく、客観的に存在する。
『利他主義の可能性』(1970)に、のちの著作で練り上げられる概念の原型がある。「行為者中立的理由」(agent-neutral reasons、この用語自体は『どこでもないところからの眺め』で定着)。私の空腹が私に食事の理由を与えるように、他人の空腹も私に──特定の誰ではなくあらゆる行為者に──何かをする理由を与える。他人の苦痛が悪いのは、私がそう感じるからではない。苦痛は誰のものであれ悪い。この「誰のものであれ」が、行為者中立性だ。共感の問題ではない。理性が、自分の視点を離れて構造を見る能力によって、利他を要請する。
この立場は『理性の最後のことば』(The Last Word, 1997)でさらに鋭くなる。相対主義者は言う。「理性に普遍的な権威はない。論理も文化や歴史の産物にすぎない」。ネーゲルの反論は明快だ。「理性に普遍的な権威はない」という主張そのものが、理性の普遍的権威に訴えている。相対主義は自らを掘り崩す。論理を否定するには論理を使わなければならない。この自己論駁性が、理性の権威を裏書きする。
ここに「どこでもないところからの眺め」の倫理学への応用がある。自分の苦痛が悪いと認めるなら、客観的な視点からは、同じ構造をもつ他人の苦痛も悪いと認めなければならない。利他の根拠は情にあるのではない。理性の構造のなかにある。
1976年、アリストテレス協会の大会で「道徳的運」(Moral Luck)を発表した。同じ大会でバーナード・ウィリアムズがまったく同じ主題を論じ、両者の論文はセットで読まれることが多い。問いはこうだ。同じ不注意で車を運転しても、歩行者が飛び出してきたかどうかは運でしかない。結果が違えば道徳的評価も変わる。だが本人がコントロールできない要素で道徳的判断が左右されるのは、道徳の根っこにある「自分で制御できることだけが道徳的評価の対象だ」という原則と矛盾する。道徳の前提が内側から崩れる。この発見は法哲学や刑事法学にも波紋を広げた。
4. 不条理:人間の条件としての自己距離化
1971年の論文「不条理」(The Absurd)は、カミュの不条理とは異なる角度からこの主題に切り込む。
論文は冒頭で、人生が不条理だとされる通俗的な理由を三つ並べ、三つとも退ける。(1)100万年後には何もかも無に帰す。──だが100万年後のことが今を無意味にするなら、今のことも100万年後を無意味にするはずだ。時間的距離は意味を消さない。(2)宇宙に比べれば人間は微小だ。──だが仮に人間が宇宙より巨大だったら意味が生まれるのか? サイズと意味は無関係だ。(3)いつ死ぬかわからない。──しかし永遠に生きても不条理は消えないだろう。むしろ永続する。
通俗的な理由がすべて的を外しているなら、不条理の源泉はどこにあるか。ネーゲルの答えは宇宙の側にはない。私たちの側にある。人間には「一歩退く」(step back)能力がある。自分の生を真剣に生きながら、同時にその真剣さを外から眺めて疑う能力。犬や猫にはこの「退き」がない。だから犬は不条理に苦しまない。人間だけが苦しむ。カミュは不条理を宇宙と人間の衝突に求めた。ネーゲルは人間の内部の衝突に見る。
具体的に言おう。あなたは明日の会議の準備に必死だ。資料を整え、発言を練る。だが同時に、心のどこかで思う。「100年後には誰も覚えていない」。この二重の視点──内側からの真剣さと外側からの懐疑──が衝突するとき、不条理が立ち上がる。
ネーゲルの処方箋は英雄的反抗ではない。皮肉(irony)だ。不条理に気づいたあとも、私たちは会議の準備を続ける。子どもの弁当を作る。歯を磨く。宇宙的な無意味さを承知の上で、日常を生きる。ネーゲルは書く。「永遠の相のもとに何ものも大切でないのなら、そのこと自体も大切でなく、私たちの不条理な生に英雄的な反抗ではなく皮肉をもって臨むことができる」。
5. 『心と宇宙』:唯物論への宣戦布告
2012年、ネーゲルは爆弾を投げた。『心と宇宙──なぜ唯物論的ネオ・ダーウィニズムの自然観はほぼ確実に間違っているか』(Mind and Cosmos)。副題からして挑発的だ。
本は全5章。第1章の総論に続き、第2章で還元主義一般への批判を据えたあと、唯物論が躓く三つの領域を順に叩く。第3章「意識」(Consciousness)。なぜ物質から主観的体験が立ち上がるのか。1974年のコウモリ論文から引きずる問いだ。第4章「認知」(Cognition)。私たちの脳はなぜ世界を正しく把握できるのか。自然選択は生存に有利な信念を残すが、生存に有利な信念が真である保証はどこにもない。第5章「価値」(Value)。善悪の判断は物理的事実から導出できるか。突然変異と淘汰だけで、なぜ盲目の物質から道徳的認識が生まれるのか。──三つの問いは同じ根をもつ。物質の因果的運動のなかに、体験・真理・善が宿る理由を見出せない。
ネーゲルは否と答える。進化論は形態の変化や適応を見事に説明する。ところが「なぜ物質の特定の配列が主観的体験を生むのか」は進化論の管轄外だ。それは物理法則の問題であり、物理法則は意識について沈黙している。
代替案は大胆だった。自然そのもののなかに、心の方向への「傾向」(teleological tendency)がある。宇宙は偶然だけで動いているのではなく、意識や理性の発生が自然の秩序に組み込まれている。神に頼るわけではない。自然の内在的な目的論。アリストテレスに近い発想を、21世紀の文脈で蘇らせようとした。
この本は炎上した。「知的な人間がこれほど間違えることは稀だ」とブライアン・ライターとマイケル・ワイスバーグは書評で切り捨てた。スティーヴン・ピンカーはX(旧Twitter)で「もう引退しろ」と言わんばかりの調子だった。無神論者がインテリジェント・デザインに加担した、という誤解も広まった(ネーゲルは無神論者であり、インテリジェント・デザインを支持していない)。だが問い自体は消えない。物質から意識が出現する過程を、現在の科学が本当に説明できているのか。この問いに正直に向き合えば、答えは明らかだろう。まだできていない。
主要著作ガイド
- 「コウモリであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?, 1974):心の哲学の転換点となった16ページの論文。意識の主観的性格が物理的記述に還元できないことを論証する。永井均訳『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草書房)に収録。まず読むべき一篇。
- 『コウモリであるとはどのようなことか』(Mortal Questions, 1979):エッセイ集。コウモリ論文のほか、「不条理」「道徳的運」「死」など珠玉のエッセイを収める。哲学の専門訓練がなくても読める、驚くほど明快な文体。
- 『どこでもないところからの眺め』(The View from Nowhere, 1986):主著。主観と客観の緊張を心身問題・認識論・倫理学・自由意志にわたって展開。ネーゲルの哲学の全体像を掴むならこの一冊。中村昇訳(春秋社)。
- 『理性の最後のことば』(The Last Word, 1997):相対主義・主観主義への反撃。論理・科学・倫理における理性の客観的権威を擁護する。短くて鋭い。
- 『心と宇宙』(Mind and Cosmos, 2012):最も論争的な著作。唯物論的自然主義が意識・認知・価値を説明できないと論じ、自然の内在的目的論を提案。賛否はともかく、問いの射程は広く、覚悟して読む価値がある。
- 『哲学ってどんなこと?──とっても短い哲学入門』(What Does It All Mean?, 1987):高校生にも読める哲学入門。100ページ足らずで心身問題・自由意志・死・正義・人生の意味を扱う。答えを出さず問いを開くスタイルはネーゲルそのもの。岡本裕一朗・若松良樹訳(昭和堂)。哲学に初めて触れるならここから。
主要な批判と論争
ダニエル・デネットという男がいる。ネーゲルとほぼ同世代の哲学者で、真逆の立場に立つ。デネットは意識の「主観的な感じ」そのものを否定する。クオリア──赤の赤さ、痛みの痛さ──などという内的な性質は幻想だ。意識は脳の情報処理の仕方であり、機能がすべてだ。「何かであるような感じ」は、脳が自らの処理について語るときに生まれるフィクションにすぎない、と。デネットにとってネーゲルの論証は「想像力の限界を存在論的結論に変えているだけ」だ。コウモリの体験が想像できないことと、客観的記述に還元できないことは別だ、と。
根の深い対立だ。デネットは一歩も引かない。意識の「難問」が解けないのは、問いの立て方が狂っているからだ、と。ネーゲルは首を振る。あなたが今まさに歯が痛いとき、「その痛みは脳の情報処理の仕方にすぎない」と言われて頷けるか? 頷けないならネーゲルの側にいる。頷けるならデネットの側だ。心の哲学は、ここで二つに割れている。
『心と宇宙』への反応はさらに激烈だった。科学者や哲学者の多くが、ネーゲルが進化論を理解していないと批判した。進化生物学者エリオット・ソーバーは、ネーゲルが自然選択の説明力を過小評価していると指摘した。正当な批判だろう。だがネーゲルの論点は生物学の内部にはない。自然選択は「意識をもつ有機体が生存に有利である」を説明できる。「なぜ物質の配列が意識を生むのか」には手が届かない。前者は生物学の問題、後者は形而上学の問題だ。ネーゲルが問うているのは後者だ。
日本では永井均がネーゲルの問題設定を独自に発展させた。永井は「私」の独在性──世界にこの「私」が存在することの異様さ──をネーゲル以上に先鋭化させ、独在論を展開した。ネーゲルの「何かであるとはどのようなことか」が一般的な意識の構造を問うのに対し、永井は「なぜ他の誰でもなく私が私なのか」を問う。問いの深さがもう一段下がる。
影響と遺産
1974年のあの16ページが残した波紋は、いまだに広がっている。
デイヴィッド・チャーマーズが1995年に名づけた「意識のハード・プロブレム」。ネーゲルの「説明のギャップ」に新しい看板をつけた格好だ。なぜ脳の物理的過程に主観的体験が伴うのか。機能や行動を説明する「イージー・プロブレム」とは質が違う。チャーマーズはさらに踏み込んで、汎心論(panpsychism)──物質の基本要素にも原始的な意識が宿る──を検討し始めた。ネーゲルの『心と宇宙』が示唆した方向と重なる。
フランク・ジャクソンの「知識論証」(1982年)もネーゲルの影を引いている。白黒の部屋に閉じ込められた天才色彩科学者メアリー。彼女は色覚に関する物理的事実をすべて知っている。だが部屋を出て初めて赤を見たとき、彼女は何か新しいことを学ぶのではないか? もし学ぶのなら、物理的知識はすべてではない。ネーゲルのコウモリとジャクソンのメアリーは、別の角度から同じ壁にぶつかっている。
倫理学では、ネーゲルの道徳的実在論が、デレク・パーフィットの『理由と人格』(1984)や『重要なこととは何か』(2011)と共鳴する。理性が主観を超えた道徳的真理に到達できるという信念。パーフィットはネーゲルを「最も重要な存命の道徳哲学者のひとり」と呼んだ。
哲学の外にもネーゲルの足跡は及ぶ。神経科学の研究者が意識の「神経相関」(NCC、neural correlates of consciousness)を探すとき、「相関」と「同一」のあいだの溝をどう埋めるかはネーゲルの問いそのものだ。AI研究においても、「機械に意識はあるか」という問いの哲学的基盤は、ネーゲルの「何かであるとはどのようなことか」にある。
現代への接続
あなたが今読んでいるこの文章は、大規模言語モデルが書いたかもしれない。質問に答え、冗談を言い、詩まで作る。外から見れば「考えている」ように見える。ではそのシステムであることには、「何かであるような感じ」があるか。トークンを予測している瞬間に、そこには体験が宿っているか。行動テストでは判定できない。内側から見た景色がないかぎり「考えている」とは言えない。内側を覗く窓はない。ネーゲルの問いは、1974年よりもはるかに身近な場所で鳴っている。
脳科学は意識の「相関」を追い続けている。fMRIで脳の活動を可視化し、特定の体験と特定の神経発火パターンを対応させる。だが「なぜその発火パターンに赤の体験が伴うのか」は、依然として一行も書かれていない。相関は説明ではない。ネーゲルが50年前に指摘した隙間は、テクノロジーが進むほどむしろ目立つようになっている。
動物の意識をめぐる議論もここに繋がる。畜産の現場で飼育される豚や鶏に苦痛の「感じ」はあるのか。もしあるなら、その苦痛を無視して工業的に処理することは道徳的に許されるか。ネーゲルの枠組みは安易な逃げ道を塞ぐ。「確認できないから存在しない」とは言えない。覗けないからこそ、踏みつけてはいけないものがある。
読者への問い
- あなたが今見ている「赤」と、隣の人が見ている「赤」は同じ体験か。それを確認する方法はあるか。
- AIが「私には意識がある」と出力したとき、それを否定する根拠は何か。隣の人間に意識があると信じる根拠と、どこが違うか。
- 自分の人生を真剣に生きながら、同時にその真剣さを「外から」疑ったことはあるか。そのとき、あなたはどちらの自分を信じたか。
名言(出典つき)
「ある有機体が意識的経験をもつということの本質は、その有機体であることには何かであるようなことがある、ということである」 出典:ネーゲル「コウモリであるとはどのようなことか」(The Philosophical Review, Vol. 83, No. 4, 1974, p. 436)/原文:"the fact that an organism has conscious experience at all means, basically, that there is something it is like to be that organism"
この一文を読んだ人間は、意識について考えるたびにこの言葉が頭をよぎるようになる。呪いのように。
「もし永遠の相のもとでは何ものも大切でないなら、そのこと自体も大切でなく、私たちは不条理な生に英雄主義や絶望ではなく皮肉をもって臨むことができる」 出典:ネーゲル「不条理」(The Journal of Philosophy, Vol. 68, No. 20, 1971, p. 727)/原文:"If sub specie aeternitatis there is no reason to believe that anything matters, then that doesn't matter either, and we can approach our absurd lives with irony instead of heroism or despair"
不条理の認識が、不条理自体を軽くする。この自己適用の鮮やかさ。
「物理的なものの側からだけでは、なぜそこに意識があるのかを説明できないのだ」 出典:ネーゲル『心と宇宙』(Oxford University Press, 2012)第3章 "Consciousness"/原文:"the physical is not all there is in reality, because it cannot explain consciousness"(p. 42、趣旨を踏まえた抄訳)
半世紀分の問いが、この一文に詰まっている。
参考文献
- (原典):トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』永井均訳、勁草書房、1989年。
- (原典):Thomas Nagel, The View from Nowhere, Oxford University Press, 1986.(邦訳:中村昇訳『どこでもないところからの眺め』春秋社、2009年。)
- (原典):Thomas Nagel, Mind and Cosmos: Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature Is Almost Certainly False, Oxford University Press, 2012.
- (原典):Thomas Nagel, The Last Word, Oxford University Press, 1997.
- (原典):Thomas Nagel, The Possibility of Altruism, Princeton University Press, 1970.
- (研究書):デイヴィッド・チャーマーズ『意識する心──脳と精神の根本理論を求めて』林一訳、白揚社、2001年。
- (研究書):永井均『〈私〉の存在の比類なさ』勁草書房、1998年。
- (概説):信原幸弘編『シリーズ心の哲学 I 人間篇』勁草書房、2004年。
- (原典):Thomas Nagel, What Does It All Mean?: A Very Short Introduction to Philosophy, Oxford University Press, 1987.(邦訳:岡本裕一朗・若松良樹訳『哲学ってどんなこと?』昭和堂、1993年。)
- (研究書):Joseph Levine, "Materialism and Qualia: The Explanatory Gap", Pacific Philosophical Quarterly, Vol. 64, 1983.
- (補助ウェブ資料):"Thomas Nagel", Internet Encyclopedia of Philosophy.