暗闇くらやみのなかを、一匹いっぴきコウモリbatんでいる。くちから超音波ちょうおんぱはっし、反響はんきょう空間くうかんを「る」。かべ位置いちばたき、空気くうき密度みつど人間にんげんひかりをとらえるのとはまるでちが仕方しかたで、コウモリbat世界せかい把握はあくしている。その経験けいけんは、いったいどんなかんじがするのか。あなたにはわからない。わたしにもわからない。そして神経しんけい科学かがくがコウモリののうのすべてのニューロンneuron発火はっかパターンを完全かんぜん解明かいめいしたとしても、おそらくわからない。

1974ねんトマスThomasネーゲルNagelはこの「わからなさ」こそが哲学てつがく本丸ほんまるだと宣言せんげんした。『フィロソフィカル・レヴューThe Philosophical Review』に掲載けいさいされた論文ろんぶんはわずか16ページ。タイトルは「コウモリbatであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?ホワット・イズ・イット・ライク・トゥ・ビー・ア・バット)。奇妙きみょう題名だいめいだった。しかしこの一篇いっぺんが、20世紀せいき後半こうはんこころ哲学てつがく地図ちずえることになる。

ネーゲルNagelきつけたのは、単純たんじゅんにして致命的ちめいてき一点いってんだ。意識いしきには主観的しゅかんてき性格せいかくがある。なにかを経験けいけんしているとき、そこには「なにかであるようなかんじ」がある。あかかんじ。いたみのかんじ。あさのコーヒーの苦味にがみしたれるかんじ。この「かんじ」は、物理学ぶつりがく言語げんごには翻訳ほんやくできない。のう分子ぶんしレベルまで解剖かいぼうしても、そこから一人称いちにんしょう体験たいけんてこない。デカルトDescartesが400年前ねんまえけた心身しんしんを、ネーゲルNagel現代げんだい分析ぶんせき哲学てつがくのどなかふたたえぐけた。

この記事きじ要点ようてん

  • なにかであるとはどのようなことか」(what it is likeホワット・イット・イズ・ライク意識いしきある存在そんざいであることには、還元かんげん不可能ふかのう主観的しゅかんてき性格せいかくがある。物理学ぶつりがくがどこまですすんでも、第三者だいさんしゃ記述きじゅつから第一人称だいいちにんしょう体験たいけんみちびすことはできない。心身しんしん問題もんだい永遠えいえんに「解決かいけつみ」にならない理由りゆうがここにある。
  • 「どこでもないところからのながめ」(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア科学かがく客観性きゃっかんせい追求ついきゅうする。だが客観的きゃっかんてき記述きじゅつ徹底てっていするほど、主観しゅかん視界しかいからえる。主観しゅかんなしに世界せかい理解りかいすることはできないのに。この緊張きんちょう解消かいしょうできない。哲学てつがくはその緊張きんちょうのなかにいとなみだ。
  • こころ宇宙うちゅう』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス唯物論的ゆいぶつろんてき自然主義しぜんしゅぎ意識いしき出現しゅつげん説明せつめいできない。突然変異とつぜんへんい自然しぜん選択せんたくだけでは、なぜ宇宙うちゅう意識いしき発生はっせいしたのかがわからない。ネーゲルNagel有神論ゆうしんろんたよらず、自然しぜんそのものに目的論的もくてきろんてき傾向けいこうがあるという異端いたん仮説かせつ提示ていじした。

生涯しょうがい時代じだい背景はいけい

トマスThomasネーゲルNagelは1937ねん7がつ4にちユーゴスラビアYugoslaviaベオグラードBelgradeまれた。ユダヤJewish系の家庭かてい第二次だいにじ世界せかい大戦たいせん足音あしおとせまるなか、一家いっかアメリカAmericaわたった。幼少期ようしょうき記憶きおくおおやけにはほとんどかたられていない。ネーゲルNagel自伝じでんかない。ちのドラマ読者どくしゃきつけようとしない。論証ろんしょうだけで勝負しょうぶする人間にんげんだ。

1958ねんコーネルCornell大学だいがく卒業そつぎょう哲学てつがく学士号がくしごうに、イギリスEnglandわたる。オックスフォードOxford大学だいがくコーパス・クリスティCorpus ChristiカレッジCollegeBPhilビーフィル取得しゅとく(1960ねん)。当時とうじオックスフォードOxford日常にちじょう言語げんご学派がくは空気くうき色濃いろこのこっていた。J・L・オースティンJ. L. Austin言語げんご分析ぶんせきギルバートGilbertライルRyle行動主義こうどうしゅぎこころ問題もんだい言語げんご問題もんだいえ、解消かいしょうする。それが主流しゅりゅうだった。ネーゲルNagelはこの空気くうきい、分析ぶんせき哲学てつがく技法ぎほう徹底的てっていてきにつけた。それでも納得なっとくはしていなかった。こころ問題もんだい言語げんご整理せいりすればえるようなかるいものではない、と。

帰国きこくしてハーバードHarvard大学だいがく大学院だいがくいんへ。指導しどう教官きょうかんジョンJohnロールズRawls。のちに『正義論せいぎろん』(A Theory of Justiceア・セオリー・オブ・ジャスティス, 1971)で20世紀せいき政治せいじ哲学てつがく一変いっぺんさせる巨人きょじんだ。ロールズRawlsのもとでネーゲルNagelいた博士はかせ論文ろんぶん倫理学りんりがくかんするものだった。利他主義りたしゅぎ合理性ごうりせい他人たにん苦痛くつう自分じぶんのことのようにかんじる根拠こんきょ理性りせいのなかにある、と。この仕事しごとはのちに『利他主義りたしゅぎ可能性かのうせい』(The Possibility of Altruismザ・ポシビリティ・オブ・アルトルイズム, 1970)として出版しゅっぱんされる。こころ哲学てつがくかうまえから、ネーゲルNagel関心かんしん一貫いっかんしている。主観しゅかん消去しょうきょしないこと。

1963ねん博士号はかせごう取得しゅとくカリフォルニアCalifornia大学だいがくバークレーBerkeleyこうて、1966ねんプリンストンPrinceton大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅ就任しゅうにん。そして1980ねんニューヨークNew York大学だいがくNYUエヌワイユー)にうつり、同大どうだい哲学てつがく法学ほうがく教授きょうじゅながつとめた。派手はで逸話いつわはない。スキャンダルscandalもない。しずかに論文ろんぶんき、しずかに哲学てつがく風景ふうけいえた。

時代じだい文脈ぶんみゃくがある。ネーゲルNagel活動かつどうはじめた1960年代ねんだいから70年代ねんだいは、英米えいべい哲学てつがく物理主義ぶつりしゅぎphysicalismフィジカリズム)が席巻せっけんしていた時期じきだ。心的しんてき状態じょうたいのう状態じょうたい同一どういつである(心脳しんのう同一説どういつせつスマートSmartプレイスPlace)。あるいは心的しんてき状態じょうたい機能的きのうてき役割やくわり定義ていぎされる(機能主義きのうしゅぎパトナムPutnam)。いずれにせよ、意識いしきの「主観的しゅかんてきかんじ」は科学かがく進歩しんぽ解消かいしょうできる問題もんだいだ、という楽観らっかん空気くうき支配しはいしていた。ネーゲルNagelはこの楽観らっかん冷水れいすいびせた。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1937ねんユーゴスラビアYugoslaviaベオグラードBelgradeまれる
  • 1958ねんコーネルCornell大学だいがく卒業そつぎょう(BA)
  • 1960ねんオックスフォードOxford大学だいがくBPhilビーフィル取得しゅとく
  • 1963ねんハーバードHarvard大学だいがく博士号はかせごう取得しゅとく指導しどうジョンJohnロールズRawls
  • 1966ねんプリンストンPrinceton大学だいがく哲学てつがく教授きょうじゅ就任しゅうにん
  • 1970ねん:『利他主義りたしゅぎ可能性かのうせい刊行かんこう
  • 1971ねん論文ろんぶん不条理ふじょうり」(The Absurdジ・アブサード発表はっぴょう
  • 1974ねん:「コウモリbatであるとはどのようなことか」発表はっぴょう
  • 1979ねん:『コウモリbatであるとはどのようなことか』(エッセイessayしゅう刊行かんこう
  • 1980ねんニューヨークNew York大学だいがくNYUエヌワイユー)に移籍いせき
  • 1986ねん:『どこでもないところからのながめ』刊行かんこう
  • 1997ねん:『理性りせい最後さいごのことば』刊行かんこう
  • 2008ねんバルザンBalzanしょう道徳どうとく哲学てつがく受賞じゅしょう
  • 2012ねん:『こころ宇宙うちゅう刊行かんこうはげしい論争ろんそうこす

この哲学者てつがくしゃなにうたのか

意識いしき物理的ぶつりてき世界せかい一部いちぶとして説明せつめいできるのか。

なぜこのいが爆発力ばくはつりょくをもったか。20世紀せいき中盤ちゅうばん英米えいべい哲学てつがくでは、こころ物質ぶっしつ還元かんげんするこころみがつぎからつぎへとされていた。論理的ろんりてき行動主義こうどうしゅぎライルRyle)は、こころについてかたることは行動こうどう傾向性けいこうせいについてかたることだ、と主張しゅちょうした。「いたい」とは、さけごえをあげる、かおをしかめる、患部かんぶをかばう、といった行動こうどうパターンのことだ、と。心脳しんのう同一説どういつせつスマートSmartプレイスPlace)は一歩いっぽすすんで、いたみとは特定とくていのう状態じょうたいC繊維Cせんい発火はっか)そのものだ、とした。機能主義きのうしゅぎパトナムPutnam初期しょきルイスLewis)は、心的しんてき状態じょうたい入力にゅうりょく出力しゅつりょく心的しんてき状態じょうたいとの因果的いんがてき関係かんけい定義ていぎした。

いずれもおな方向ほうこういている。こころ客観的きゃっかんてき記述きじゅつ可能かのうなものにせよ。科学かがく言語げんごとらえよ。第三者だいさんしゃ検証けんしょうできるかたちにせよ。この方向ほうこう科学かがく成功せいこう後押あとおしされ、圧倒的あっとうてき説得力せっとくりょくっていた。

ネーゲルNagel正面しょうめんからかえした。あなたがいまいたいとする。C繊維Cせんい発火はっかしている。行動こうどうパターンがている。機能的きのうてき役割やくわりたしている。それだけか? そのすべてを記述きじゅつくしたあとにも、「いたい」というかんじがなおのこっているではないか。のう状態じょうたい主観的しゅかんてき体験たいけんのあいだには、どうしてもまらない隙間すきまがある。

ネーゲルNagelなにえたか。「意識いしき未解決みかいけつ問題もんだいだ」ではない。「意識いしきは、現在げんざい枠組わくぐみでは原理的げんりてき解決かいけつできない問題もんだいだ」。科学かがくがもっとすすめばかたづく、という楽観らっかんへの挑戦ちょうせん知識ちしきりないのではなく、かたそのものに限界げんかいがある。

核心かくしん理論りろん

1. 「コウモリbatであるとはどのようなことか」:意識いしき主観的しゅかんてき性格せいかく

1974ねん論文ろんぶんは、ひとつの定式化ていしきかはじまる。「ある有機体ゆうきたい意識的いしきてき経験けいけんをもつということは、その有機体ゆうきたいであることにはなにかであるようなことがある(there is something it is like to be that organismゼア・イズ・サムシング・イット・イズ・ライク・トゥ・ビー・ザット・オーガニズム)、ということを意味いみする」。この "what it is like" という表現ひょうげんが、以後いごこころ哲学てつがく支配しはいする鍵語キーワードになった。

なぜコウモリbatなのか。ネーゲルNagel人間にんげんではなく、人間にんげんとは根本的こんぽんてきことなる感覚かんかく様態ようたいをもつ動物どうぶつえらんだ。コウモリbat反響はんきょう定位ていいecholocationエコーロケーション)で世界せかい知覚ちかくする。超音波ちょうおんぱ発射はっしゃし、反射はんしゃしてくる音波おんぱから対象たいしょう形状けいじょう距離きょり速度そくど把握はあくする。それは視覚しかくのようなものか? 触覚しょっかくのようなものか? どちらでもない。人間にんげんがもたない感覚かんかく器官きかんとおじた経験けいけんを、人間にんげん概念がいねん翻訳ほんやくできるはずがない。

論文ろんぶんのなかでネーゲルNagelは、想像そうぞうによる接近せっきんみっためして、みっつともつぶす(p. 439)。自分じぶん経験けいけん反響はんきょう定位ていいを「す」想像そうぞう視覚しかくを「く」想像そうぞう人間にんげん感覚かんかく段階的だんかいてきにコウモリのそれに「変形へんけいする」想像そうぞう。いずれもさきは「わたしがコウモリのようにったらなにかんじるか」であって、「コウモリがコウモリとしてなにかんじているか」ではない。主語しゅごわらない。ここにかべがある。

ここが急所きゅうしょだ。もし神経しんけい科学かがく完全かんぜん発達はったつして、コウモリbatのうのすべてのニューロンneuron活動かつどう記述きじゅつできたとしよう。反響はんきょう定位ていいかかわるのう領域りょういきのマッピング、信号しんごう処理しょり数理すうりモデル、行動こうどうとの相関そうかん。すべてがそろう。それでも、「反響はんきょう定位ていい世界せかい知覚ちかくするとはどんなかんじか」は記述きじゅつのなかにあらわれない。客観的きゃっかんてき情報じょうほうをいくらげても、主観的しゅかんてき体験たいけんみちびせない。

ただし論文ろんぶんむすびでネーゲルNagel慎重しんちょう留保りゅうほをつけている。「ここから物理主義ぶつりしゅぎあやまりだと結論けつろんするのは早計そうけいだろう」(p. 446)。現在げんざいわたしたちには心身しんしん関係かんけい理解りかいする概念がいねんがまだない。物理主義ぶつりしゅぎただしいかもしれないが、いま枠組わくぐみではただしいと意味いみすらわからない。解決かいけついそぐな、問題もんだいふかさを直視ちょくししろ。それが論文ろんぶんしんのメッセージだ。

注意ちゅういがいる。ネーゲルNagel物理主義ぶつりしゅぎまるごとほうむろうとしたのではない。ねらいはもっと限定的げんていてきで、それゆえ厄介やっかいだ。物理学ぶつりがく言語げんごだれ視点してんにも依存いぞんしないように設計せっけいされている。意識いしき特定とくてい視点してんからしか存在そんざいしない。前者ぜんしゃあみ後者こうしゃすくおうとすれば、網目あみめからこぼれる。技術ぎじゅつりないのではなく、あみかたっていない。

のちに哲学者てつがくしゃジョセフJosephレヴィンLevineがこの隙間すきま名前なまえをつけた。「説明せつめいのギャップ」(explanatory gapエクスプラナトリー・ギャップ)。1983ねん論文ろんぶんレヴィンLevineは、「いたみ=C繊維Cせんい発火はっか」という同一性どういつせい主張しゅちょうかりただしくても、なぜそうなのかの説明せつめい永遠えいえん欠落けつらくする、とろんじた。「みず=H₂O」なら、みず性質せいしつ沸点ふってん透明性とうめいせい溶解力ようかいりょく)をH₂Oの分子ぶんし構造こうぞうからみちびける。だが「いたみ=C繊維Cせんい発火はっか」の場合ばあいC繊維Cせんい発火はっかから「いたかんじ」はみちびけない。物理的ぶつりてき記述きじゅつ主観的しゅかんてき体験たいけんのあいだには、論理的ろんりてきはしかっていない。ネーゲルNagel直観ちょっかんを、レヴィンLevine分析ぶんせき哲学てつがく精密せいみつ言葉ことば裏書うらがきしたかたちだ。

2. 「どこでもないところからのながめ」:主観しゅかん客観きゃっかん緊張きんちょう

1986ねん主著しゅちょ『どこでもないところからのながめ』(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア)は、コウモリbat論文ろんぶん洞察どうさつ一冊いっさつ体系たいけい仕立したてた。ぜん11しょう心身しんしん問題もんだいだい2–3しょう)から知識ちしき実在じつざいだい4–6しょう)、自由じゆう意志いしだい7しょう)、倫理りんり基礎きそだい8–9しょう)、人生じんせい意味いみだい10しょう)まで、主観しゅかん客観きゃっかん衝突しょうとつおな構造こうぞうかえされる。ひとつの原理げんり哲学てつがく全領域ぜんりょういきつらぬく。

わたしたちはふたつのきている。ひとつは自分じぶん身体からだのなかから世界せかいのぞあさひかりがまぶしい、電車でんしゃ座席ざせきつめたい、あのひとこえみみのこる。もうひとつは、自分じぶんふく世界せかいそとから見下みおろそうとする科学かがくはこの二番目にばんめ極限きょくげんまできたえる。特定とくていだれ視点してんにもぞくさない記述きじゅつ。「どこでもないところからのながめ」。

だがこのながめは、れるほどなにかをうしなう。いろえる。おとえる。いたみがえる。物理学ぶつりがく世界せかいには波長はちょう振動数しんどうすうはあるが、「あかさ」はない。空気くうき圧力あつりょく変動へんどうはあるが、「うつくしい旋律せんりつ」はない。客観的きゃっかんてきになればなるほど、わたしたちがきている世界せかいからとおざかる。

ネーゲルNagelはどちらかをえらべとはわない。両方りょうほう本物ほんものだ。主観的しゅかんてき視点してんてて客観きゃっかんげるのも、客観きゃっかんてて主観しゅかんじこもるのも間違まちがいだ。哲学てつがくとは、このふたつの視点してん緊張きんちょうのなかにとどまること。解決かいけつではなく緊張きんちょう持続じぞく居心地いごこちわるい。だがその居心地いごこちわるさこそが、人間にんげん知的ちてき条件じょうけんだとネーゲルNagelかんがえる。

自由じゆう意志いし問題もんだいがわかりやすい。主観的しゅかんてき視点してんからは、わたしいまこの文章ぶんしょうむことを「えらんでいる」。ページをじることもできた。選択せんたく感覚かんかく生々なまなましい。だが客観的きゃっかんてき視点してん──神経しんけい科学かがく──からは、あなたののう状態じょうたい物理法則ぶつりほうそくしたがって推移すいいしているだけだ。決定論けっていろんただしいなら「えらんでいる」は錯覚さっかくで、非決定論ひけっていろんただしいなら「偶然ぐうぜんはいった」だけだ。どちらにせよ、客観的きゃっかんてき記述きじゅつには「自分じぶんめた」がはい余地よちがない。ネーゲルNagelはこれを、主観しゅかん客観きゃっかんわない典型てんけいれいとして提示ていじする(『どこでもないところからのながめ』だい7しょう)。自由じゆう意志いしすくうには互換論ごかんろんcompatibilismコンパティビリズム)で妥協だきょうするか、問題もんだいけないことをみとめるか。ネーゲルNagel後者こうしゃえらぶ。いがけないとき、やすこたえにびつかない。それがこの哲学者てつがくしゃ流儀りゅうぎだ。

3. 道徳的どうとくてき実在論じつざいろん理性りせい主観しゅかんえる

意識いしきはなしからきゅう倫理りんりぶようだが、ネーゲルNagelのなかでは地続じつづきだ。他人たにんいたみがわるいと能力のうりょく。それは感情かんじょうではなく理性りせいぞくする、とネーゲルNagelんでいる。道徳的どうとくてき事実じじつ主観しゅかん産物さんぶつではなく、客観的きゃっかんてき存在そんざいする。

利他主義りたしゅぎ可能性かのうせい』(1970)に、のちの著作ちょさくげられる概念がいねん原型げんけいがある。「行為者こういしゃ中立的ちゅうりつてき理由りゆう」(agent-neutral reasonsエージェント・ニュートラル・リーズンズ、この用語ようご自体じたいは『どこでもないところからのながめ』で定着ていちゃく)。わたし空腹くうふくわたし食事しょくじ理由りゆうあたえるように、他人たにん空腹くうふくわたしに──特定とくていだれではなくあらゆる行為者こういしゃに──なにかをする理由りゆうあたえる。他人たにん苦痛くつうわるいのは、わたしがそうかんじるからではない。苦痛くつうだれのものであれわるい。この「だれのものであれ」が、行為者こういしゃ中立性ちゅうりつせいだ。共感きょうかん問題もんだいではない。理性りせいが、自分じぶん視点してんはなれて構造こうぞう能力のうりょくによって、利他りた要請ようせいする。

この立場たちばは『理性りせい最後さいごのことば』(The Last Wordザ・ラスト・ワード, 1997)でさらにするどくなる。相対主義者そうたいしゅぎしゃう。「理性りせい普遍的ふへんてき権威けんいはない。論理ろんり文化ぶんか歴史れきし産物さんぶつにすぎない」。ネーゲルNagel反論はんろん明快めいかいだ。「理性りせい普遍的ふへんてき権威けんいはない」という主張しゅちょうそのものが、理性りせい普遍的ふへんてき権威けんいうったえている。相対主義そうたいしゅぎみずからをくずす。論理ろんり否定ひていするには論理ろんり使つかわなければならない。この自己じこ論駁ろんばく性が、理性りせい権威けんい裏書うらがききする。

ここに「どこでもないところからのながめ」の倫理学りんりがくへの応用おうようがある。自分じぶん苦痛くつうわるいとみとめるなら、客観的きゃっかんてき視点してんからは、おな構造こうぞうをもつ他人たにん苦痛くつうわるいとみとめなければならない。利他りた根拠こんきょじょうにあるのではない。理性りせい構造こうぞうのなかにある。

1976ねんアリストテレスAristotelēs協会きょうかい大会たいかいで「道徳的どうとくてきうん」(Moral Luckモラル・ラック)を発表はっぴょうした。おな大会たいかいバーナードBernardウィリアムズWilliamsがまったくおな主題しゅだいろんじ、両者りょうしゃ論文ろんぶんはセットでまれることがおおい。いはこうだ。おな不注意ふちゅういくるま運転うんてんしても、歩行者ほこうしゃしてきたかどうかはうんでしかない。結果けっかちがえば道徳的どうとくてき評価ひょうかわる。だが本人ほんにんがコントロールできない要素ようそ道徳的どうとくてき判断はんだん左右さゆうされるのは、道徳どうとくっこにある「自分じぶん制御せいぎょできることだけが道徳的どうとくてき評価ひょうか対象たいしょうだ」という原則げんそく矛盾むじゅんする。道徳どうとく前提ぜんてい内側うちがわからくずれる。この発見はっけん法哲学ほうてつがく刑事けいじ法学ほうがくにも波紋はもんひろげた。

4. 不条理ふじょうり人間にんげん条件じょうけんとしての自己じこ距離化きょりか

1971ねん論文ろんぶん不条理ふじょうり」(The Absurdジ・アブサード)は、カミュCamus不条理ふじょうりとはことなる角度かくどからこの主題しゅだいむ。

論文ろんぶん冒頭ぼうとうで、人生じんせい不条理ふじょうりだとされる通俗的つうぞくてき理由りゆうみっならべ、みっつとも退しりぞける。(1)100万年後まんねんごにはなにもかもす。──だが100万年後まんねんごのことがいま無意味むいみにするなら、いまのことも100万年後まんねんご無意味むいみにするはずだ。時間的じかんてき距離きょり意味いみさない。(2)宇宙うちゅうくらべれば人間にんげん微小びしょうだ。──だがかり人間にんげん宇宙うちゅうより巨大きょだいだったら意味いみまれるのか? サイズと意味いみ無関係むかんけいだ。(3)いつぬかわからない。──しかし永遠えいえんきても不条理ふじょうりえないだろう。むしろ永続えいぞくする。

通俗的つうぞくてき理由りゆうがすべてまとはずしているなら、不条理ふじょうり源泉げんせんはどこにあるか。ネーゲルNagelこたえは宇宙うちゅうがわにはない。わたしたちのがわにある。人間にんげんには「一歩いっぽ退しりぞく」(step backステップ・バック能力のうりょくがある。自分じぶんせい真剣しんけんきながら、同時どうじにその真剣しんけんさをそとからながめてうたが能力のうりょくいぬねこにはこの「退しりぞき」がない。だからいぬ不条理ふじょうりくるしまない。人間にんげんだけがくるしむ。カミュCamus不条理ふじょうり宇宙うちゅう人間にんげん衝突しょうとつもとめた。ネーゲルNagel人間にんげん内部ないぶ衝突しょうとつる。

具体的ぐたいてきおう。あなたは明日あした会議かいぎ準備じゅんび必死ひっしだ。資料しりょうととのえ、発言はつげんる。だが同時どうじに、こころのどこかでおもう。「100年後ねんごにはだれおぼえていない」。この二重にじゅう視点してん──内側うちがわからの真剣しんけんさと外側そとがわからの懐疑かいぎ──が衝突しょうとつするとき、不条理ふじょうりがる。

ネーゲルNagel処方箋しょほうせん英雄的えいゆうてき反抗はんこうではない。皮肉ひにくironyアイロニー)だ。不条理ふじょうりづいたあとも、わたしたちは会議かいぎ準備じゅんびつづける。どもの弁当べんとうつくる。みがく。宇宙的うちゅうてき無意味むいみさを承知しょうちうえで、日常にちじょうきる。ネーゲルNagelく。「永遠えいえんそうのもとになにものも大切たいせつでないのなら、そのこと自体じたい大切たいせつでなく、わたしたちの不条理ふじょうりせい英雄的えいゆうてき反抗はんこうではなく皮肉ひにくをもってのぞむことができる」。

5. 『こころ宇宙うちゅう』:唯物論ゆいぶつろんへの宣戦せんせん布告ふこく

2012ねんネーゲルNagel爆弾ばくだんげた。『こころ宇宙うちゅう──なぜ唯物論的ゆいぶつろんてきネオneoダーウィニズムDarwinism自然しぜんかんはほぼ確実かくじつ間違まちがっているか』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス)。副題ふくだいからして挑発的ちょうはつてきだ。

ほんぜん5しょうだい1しょう総論そうろんつづき、だい2しょう還元主義かんげんしゅぎ一般いっぱんへの批判ひはんえたあと、唯物論ゆいぶつろんつまずみっつの領域りょういきじゅんたたく。だい3しょう意識いしき」(Consciousness)。なぜ物質ぶっしつから主観的しゅかんてき体験たいけんがるのか。1974ねんコウモリbat論文ろんぶんからきずるいだ。だい4しょう認知にんち」(Cognition)。わたしたちののうはなぜ世界せかいただしく把握はあくできるのか。自然しぜん選択せんたく生存せいぞん有利ゆうり信念しんねんのこすが、生存せいぞん有利ゆうり信念しんねんしんである保証ほしょうはどこにもない。だい5しょう価値かち」(Value)。善悪ぜんあく判断はんだん物理的ぶつりてき事実じじつから導出どうしゅつできるか。突然変異とつぜんへんい淘汰とうただけで、なぜ盲目もうもく物質ぶっしつから道徳的どうとくてき認識にんしきまれるのか。──みっつのいはおなをもつ。物質ぶっしつ因果的いんがてき運動うんどうのなかに、体験たいけん真理しんりぜん宿やど理由りゆう見出みいだせない。

ネーゲルNagelいなこたえる。進化論しんかろん形態けいたい変化へんか適応てきおう見事みごと説明せつめいする。ところが「なぜ物質ぶっしつ特定とくてい配列はいれつ主観的しゅかんてき体験たいけんむのか」は進化論しんかろん管轄かんかつがいだ。それは物理法則ぶつりほうそく問題もんだいであり、物理法則ぶつりほうそく意識いしきについて沈黙ちんもくしている。

代替案だいたいあん大胆だいたんだった。自然しぜんそのもののなかに、こころ方向ほうこうへの「傾向けいこう」(teleological tendencyテレオロジカル・テンデンシー)がある。宇宙うちゅう偶然ぐうぜんだけでうごいているのではなく、意識いしき理性りせい発生はっせい自然しぜん秩序ちつじょまれている。かみたよるわけではない。自然しぜん内在的ないざいてき目的論もくてきろんアリストテレスAristotelēsちか発想はっそうを、21世紀せいき文脈ぶんみゃくよみがえらせようとした。

このほん炎上えんじょうした。「知的ちてき人間にんげんがこれほど間違まちがえることはまれだ」とブライアンBrianライターLeiterマイケルMichaelワイスバーグWeisberg書評しょひょうてた。スティーヴンStevenピンカーPinkerはX(きゅうTwitter)で「もう引退いんたいしろ」とわんばかりの調子ちょうしだった。無神論者むしんろんしゃインテリジェント・デザインIntelligent Design加担かたんした、という誤解ごかいひろまった(ネーゲルNagel無神論者むしんろんしゃであり、インテリジェント・デザインIntelligent Design支持しじしていない)。だが自体じたいえない。物質ぶっしつから意識いしき出現しゅつげんする過程かていを、現在げんざい科学かがく本当ほんとう説明せつめいできているのか。このいに正直しょうじきえば、こたえはあきらかだろう。まだできていない。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • コウモリbatであるとはどのようなことか」(What Is It Like to Be a Bat?ホワット・イズ・イット・ライク・トゥ・ビー・ア・バット, 1974):こころ哲学てつがく転換点てんかんてんとなった16ページの論文ろんぶん意識いしき主観的しゅかんてき性格せいかく物理的ぶつりてき記述きじゅつ還元かんげんできないことを論証ろんしょうする。永井ながいひとしやく『コウモリであるとはどのようなことか』(勁草けいそう書房しょぼう)に収録しゅうろく。まずむべき一篇いっぺん
  • コウモリbatであるとはどのようなことか』(Mortal Questionsモータル・クエスチョンズ, 1979):エッセイessayしゅうコウモリbat論文ろんぶんのほか、「不条理ふじょうり」「道徳的どうとくてきうん」「」など珠玉しゅぎょくのエッセイをおさめる。哲学てつがく専門せんもん訓練くんれんがなくてもめる、おどろくほど明快めいかい文体ぶんたい
  • 『どこでもないところからのながめ』(The View from Nowhereザ・ビュー・フロム・ノーウェア, 1986):主著しゅちょ主観しゅかん客観きゃっかん緊張きんちょう心身しんしん問題もんだい認識論にんしきろん倫理学りんりがく自由じゆう意志いしにわたって展開てんかいネーゲルNagel哲学てつがく全体像ぜんたいぞうつかむならこの一冊いっさつ中村なかむらのぼるやく春秋社しゅんじゅうしゃ)。
  • 理性りせい最後さいごのことば』(The Last Wordザ・ラスト・ワード, 1997):相対主義そうたいしゅぎ主観主義しゅかんしゅぎへの反撃はんげき論理ろんり科学かがく倫理りんりにおける理性りせい客観的きゃっかんてき権威けんい擁護ようごする。みじかくてするどい。
  • こころ宇宙うちゅう』(Mind and Cosmosマインド・アンド・コスモス, 2012):もっと論争的ろんそうてき著作ちょさく唯物論的ゆいぶつろんてき自然主義しぜんしゅぎ意識いしき認知にんち価値かち説明せつめいできないとろんじ、自然しぜん内在的ないざいてき目的論もくてきろん提案ていあん賛否さんぴはともかく、いの射程しゃていひろく、覚悟かくごして価値かちがある。
  • 哲学てつがくってどんなこと?──とってもみじか哲学てつがく入門にゅうもん』(What Does It All Mean?ホワット・ダズ・イット・オール・ミーン, 1987):高校生こうこうせいにもめる哲学てつがく入門にゅうもん。100ページらずで心身しんしん問題もんだい自由じゆう意志いし正義せいぎ人生じんせい意味いみあつかう。こたえをさずいをひらくスタイルはネーゲルNagelそのもの。岡本おかもと裕一朗ゆういちろう若松わかまつ良樹よしきやく昭和堂しょうわどう)。哲学てつがくはじめてれるならここから。

主要しゅよう批判ひはん論争ろんそう

ダニエルDanielデネットDennettというおとこがいる。ネーゲルNagelとほぼ同世代どうせだい哲学者てつがくしゃで、真逆まぎゃく立場たちばつ。デネットDennett意識いしきの「主観的しゅかんてきかんじ」そのものを否定ひていする。クオリアqualia──あかあかさ、いたみのいたさ──などという内的ないてき性質せいしつ幻想げんそうだ。意識いしきのう情報じょうほう処理しょり仕方しかたであり、機能きのうがすべてだ。「なにかであるようなかんじ」は、のうみずからの処理しょりについてかたるときにまれるフィクションにすぎない、と。デネットDennettにとってネーゲルNagel論証ろんしょうは「想像力そうぞうりょく限界げんかい存在論的そんざいろんてき結論けつろんえているだけ」だ。コウモリbat体験たいけん想像そうぞうできないことと、客観的きゃっかんてき記述きじゅつ還元かんげんできないことはべつだ、と。

ふか対立たいりつだ。デネットDennett一歩いっぽかない。意識いしきの「難問なんもん」がけないのは、いのかたくるっているからだ、と。ネーゲルNagelくびる。あなたがいままさにいたいとき、「そのいたみはのう情報じょうほう処理しょり仕方しかたにすぎない」とわれてうなずけるか? うなずけないならネーゲルNagelがわにいる。うなずけるならデネットDennettがわだ。こころ哲学てつがくは、ここでふたつにれている。

こころ宇宙うちゅう』への反応はんのうはさらに激烈げきれつだった。科学者かがくしゃ哲学者てつがくしゃおおくが、ネーゲルNagel進化論しんかろん理解りかいしていないと批判ひはんした。進化しんか生物学者せいぶつがくしゃエリオットElliottソーバーSoberは、ネーゲルNagel自然しぜん選択せんたく説明力せつめいりょく過小かしょう評価ひょうかしていると指摘してきした。正当せいとう批判ひはんだろう。だがネーゲルNagel論点ろんてん生物学せいぶつがく内部ないぶにはない。自然しぜん選択せんたくは「意識いしきをもつ有機体ゆうきたい生存せいぞん有利ゆうりである」を説明せつめいできる。「なぜ物質ぶっしつ配列はいれつ意識いしきむのか」にはとどかない。前者ぜんしゃ生物学せいぶつがく問題もんだい後者こうしゃ形而上学けいじじょうがく問題もんだいだ。ネーゲルNagelうているのは後者こうしゃだ。

日本にほんでは永井ながいひとしネーゲルNagel問題もんだい設定せってい独自どくじ発展はってんさせた。永井ながいは「わたし」の独在性どくざいせい──世界せかいにこの「わたし」が存在そんざいすることの異様いようさ──をネーゲルNagel以上に先鋭化せんえいかさせ、独在論どくざいろん展開てんかいした。ネーゲルNagelの「なにかであるとはどのようなことか」が一般的いっぱんてき意識いしき構造こうぞううのにたいし、永井ながいは「なぜほかだれでもなくわたしわたしなのか」をう。いのふかさがもう一段いちだんがる。

影響えいきょう遺産いさん

1974ねんのあの16ページがのこした波紋はもんは、いまだにひろがっている。

デイヴィッドDavidチャーマーズChalmersが1995ねんづけた「意識いしきのハード・プロブレム」。ネーゲルNagelの「説明せつめいのギャップ」にあたらしい看板かんばんをつけた格好かっこうだ。なぜのう物理的ぶつりてき過程かてい主観的しゅかんてき体験たいけんともなうのか。機能きのう行動こうどう説明せつめいする「イージー・プロブレム」とはしつちがう。チャーマーズChalmersはさらにんで、汎心論はんしんろんpanpsychismパンサイキズム)──物質ぶっしつ基本きほん要素ようそにも原始的げんしてき意識いしき宿やどる──を検討けんとうはじめた。ネーゲルNagelの『こころ宇宙うちゅう』が示唆しさした方向ほうこうかさなる。

フランクFrankジャクソンJacksonの「知識ちしき論証ろんしょう」(1982ねん)もネーゲルNagelかげいている。白黒しろくろ部屋へやめられた天才てんさい色彩しきさい科学者かがくしゃメアリーMary彼女かのじょ色覚しきかくかんする物理的ぶつりてき事実じじつをすべてっている。だが部屋へやはじめてあかたとき、彼女かのじょなにあたらしいことをまなぶのではないか? もしまなぶのなら、物理的ぶつりてき知識ちしきはすべてではない。ネーゲルNagelのコウモリとジャクソンJacksonのメアリーは、べつ角度かくどからおなかべにぶつかっている。

倫理学りんりがくでは、ネーゲルNagel道徳的どうとくてき実在論じつざいろんが、デレクDerekパーフィットParfitの『理由りゆう人格じんかく』(1984)や『重要じゅうようなこととはなにか』(2011)と共鳴きょうめいする。理性りせい主観しゅかんえた道徳的どうとくてき真理しんり到達とうたつできるという信念しんねんパーフィットParfitネーゲルNagelを「もっと重要じゅうよう存命ぞんめい道徳どうとく哲学者てつがくしゃのひとり」とんだ。

哲学てつがくそとにもネーゲルNagel足跡あしあとおよぶ。神経しんけい科学かがく研究者けんきゅうしゃ意識いしきの「神経しんけい相関そうかん」(NCCエヌシーシーneural correlates of consciousnessニューラル・コリレーツ・オブ・コンシャスネス)をさがすとき、「相関そうかん」と「同一どういつ」のあいだのみぞをどうめるかはネーゲルNagelいそのものだ。AI研究けんきゅうにおいても、「機械きかい意識いしきはあるか」といういの哲学的てつがくてき基盤きばんは、ネーゲルNagelの「なにかであるとはどのようなことか」にある。

現代げんだいへの接続せつぞく

あなたがいまんでいるこの文章ぶんしょうは、大規模だいきぼ言語げんごモデルがいたかもしれない。質問しつもんこたえ、冗談じょうだんい、までつくる。そとかられば「かんがえている」ようにえる。ではそのシステムであることには、「なにかであるようなかんじ」があるか。トークンtoken予測よそくしている瞬間しゅんかんに、そこには体験たいけん宿やどっているか。行動こうどうテストでは判定はんていできない。内側うちがわから景色けしきがないかぎり「かんがえている」とはえない。内側うちがわのぞまどはない。ネーゲルNagelいは、1974ねんよりもはるかに身近みぢか場所ばしょっている。

のう科学かがく意識いしきの「相関そうかん」をつづけている。fMRIエフエムアールアイのう活動かつどう可視化かしかし、特定とくてい体験たいけん特定とくてい神経しんけい発火はっかパターンを対応たいおうさせる。だが「なぜその発火はっかパターンにあか体験たいけんともなうのか」は、依然いぜんとして一行いちぎょうかれていない。相関そうかん説明せつめいではない。ネーゲルNagelが50年前ねんまえ指摘してきした隙間すきまは、テクノロジーがすすむほどむしろ目立めだつようになっている。

動物どうぶつ意識いしきをめぐる議論ぎろんもここにつながる。畜産ちくさん現場げんば飼育しいくされるぶたにわとり苦痛くつうの「かんじ」はあるのか。もしあるなら、その苦痛くつう無視むしして工業的こうぎょうてき処理しょりすることは道徳的どうとくてきゆるされるか。ネーゲルNagel枠組わくぐみは安易あんいみちふさぐ。「確認かくにんできないから存在そんざいしない」とはえない。のぞけないからこそ、みつけてはいけないものがある。

読者どくしゃへの

  • あなたがいまている「あか」と、となりひとている「あか」はおな体験たいけんか。それを確認かくにんする方法ほうほうはあるか。
  • AIが「わたしには意識いしきがある」と出力しゅつりょくしたとき、それを否定ひていする根拠こんきょなにか。となり人間にんげん意識いしきがあるとしんじる根拠こんきょと、どこがちがうか。
  • 自分じぶん人生じんせい真剣しんけんきながら、同時どうじにその真剣しんけんさを「そとから」うたがったことはあるか。そのとき、あなたはどちらの自分じぶんしんじたか。

名言めいげん出典しゅってんつき)

「ある有機体ゆうきたい意識的いしきてき経験けいけんをもつということの本質ほんしつは、その有機体ゆうきたいであることにはなにかであるようなことがある、ということである」 出典しゅってんネーゲルNagel「コウモリであるとはどのようなことか」(The Philosophical Reviewザ・フィロソフィカル・レヴュー, Vol. 83, No. 4, 1974, p. 436)/原文げんぶん:"the fact that an organism has conscious experience at all means, basically, that there is something it is like to be that organism"

この一文いちぶんんだ人間にんげんは、意識いしきについてかんがえるたびにこの言葉ことばあたまをよぎるようになる。のろいのように。

「もし永遠えいえんそうのもとではなにものも大切たいせつでないなら、そのこと自体じたい大切たいせつでなく、わたしたちは不条理ふじょうりせい英雄主義えいゆうしゅぎ絶望ぜつぼうではなく皮肉ひにくをもってのぞむことができる」 出典しゅってんネーゲルNagel不条理ふじょうり」(The Journal of Philosophyザ・ジャーナル・オブ・フィロソフィー, Vol. 68, No. 20, 1971, p. 727)/原文げんぶん:"If sub specie aeternitatis there is no reason to believe that anything matters, then that doesn't matter either, and we can approach our absurd lives with irony instead of heroism or despair"

不条理ふじょうり認識にんしきが、不条理ふじょうり自体じたいかるくする。この自己じこ適用てきようあざやかさ。

物理的ぶつりてきなもののがわからだけでは、なぜそこに意識いしきがあるのかを説明せつめいできないのだ」 出典しゅってんネーゲルNagelこころ宇宙うちゅう』(Oxford University Press, 2012)だい3しょう "Consciousness"/原文げんぶん:"the physical is not all there is in reality, because it cannot explain consciousness"(p. 42、趣旨しゅしまえた抄訳しょうやく

半世紀はんせいきぶんいが、この一文いちぶんまっている。

参考さんこう文献ぶんけん

  • 原典げんてんトマスThomasネーゲルNagel『コウモリであるとはどのようなことか』永井ながいひとしやく勁草けいそう書房しょぼう、1989ねん
  • 原典げんてん:Thomas Nagel, The View from Nowhere, Oxford University Press, 1986.(邦訳ほうやく中村なかむらのぼるやく『どこでもないところからの眺め』春秋社しゅんじゅうしゃ、2009ねん。)
  • 原典げんてん:Thomas Nagel, Mind and Cosmos: Why the Materialist Neo-Darwinian Conception of Nature Is Almost Certainly False, Oxford University Press, 2012.
  • 原典げんてん:Thomas Nagel, The Last Word, Oxford University Press, 1997.
  • 原典げんてん:Thomas Nagel, The Possibility of Altruism, Princeton University Press, 1970.
  • 研究書けんきゅうしょデイヴィッドDavidチャーマーズChalmers意識いしきするこころ──のう精神せいしん根本こんぽん理論りろんもとめて』はやしはじめやく白揚社はくようしゃ、2001ねん
  • 研究書けんきゅうしょ永井ながいひとし『〈わたし〉の存在そんざい比類ひるいなさ』勁草けいそう書房しょぼう、1998ねん
  • 概説がいせつ信原のぶはら幸弘ゆきひろへん『シリーズこころ哲学てつがく I 人間にんげんへん勁草けいそう書房しょぼう、2004ねん
  • 原典げんてん:Thomas Nagel, What Does It All Mean?: A Very Short Introduction to Philosophy, Oxford University Press, 1987.(邦訳ほうやく岡本おかもと裕一朗ゆういちろう若松わかまつ良樹よしきやく哲学てつがくってどんなこと?』昭和堂しょうわどう、1993ねん。)
  • 研究書けんきゅうしょ:Joseph Levine, "Materialism and Qualia: The Explanatory Gap", Pacific Philosophical Quarterly, Vol. 64, 1983.
  • 補助ほじょウェブweb資料しりょう:"Thomas Nagel", Internet Encyclopedia of Philosophy.