1922年ねん4月がつ6日むいか、パリParisのフランスFrance哲学てつがく会かい。その夜よるの特別とくべつ講演こうえんに登壇とうだんしたのは、相対そうたい性せい理論りろんで世界せかいを震ふるわせた物理ぶつり学者がくしゃアルベルト・アインシュタインAlbert Einsteinだった。講演こうえん後ご、聴衆ちょうしゅうの中なかから一人ひとりの老おいた哲学てつがく者しゃが立たち上あがった。アンリHenri・ベルクソンBergson(当時とうじ62歳さい、すでにヨーロッパEuropa最大さいだいの知的ちてき名声めいせいを誇ほこる思想しそう家かだった)。

ベルクソンBergsonは穏おだやかに、しかし明確めいかくに異いを唱となえた。物理ぶつり学がくが測定そくていする「時間じかん」は、私わたしたちが実際じっさいに生いきている「時間じかん」ではない。アインシュタインEinsteinは短みじかくこう応おうじた。「哲学てつがく者しゃの時間じかんは存在そんざいしない」。会場かいじょうは静しずまり返かえった。

この一夜いちやは、20世紀せいきの知ちの歴史れきしにおける分水ぶんすい嶺れいだった。以後いご、時間じかんについての発言はつげん権けんは物理ぶつり学がくに移うつり、ベルクソンBergsonの名なは急速きゅうそくに忘わすれ去さられていく。だが彼かれの問といは消きえなかった。むしろ21世紀せいきに入はいり、意識いしきの科学かがくや時間じかん知覚ちかくの研究けんきゅうが進すすむにつれ、ベルクソンBergsonの洞察どうさつは新あらたな光ひかりを浴あびている。

時計とけいが刻きざむ時間じかんと、私わたしたちが生いきている時間じかんのあいだには、埋うめがたい溝みぞがある。この溝みぞを最初さいしょに哲学てつがくの中心ちゅうしん問題もんだいに据すえたのがベルクソンBergsonだった。科学かがく万能ばんのうの時代じだいに「生いきられた経験けいけん」はけっして科学かがくに解消かいしょうできないと訴うったえたこの哲学てつがく者しゃは、いま何なにを語かたりかけているのか。

この記事きじの要点ようてん

  • 持続じぞく(デュレdurée):ベルクソンBergsonは、時計とけいが測はかる均質きんしつな時間じかんと、意識いしきのなかで生いきられる質的しつてきで連続れんぞく的てきな時間じかん(持続durée)を峻別しゅんべつした。この区別くべつは、科学かがくでは捉とらえきれない人間にんげん経験けいけんの固有こゆうの層そうがあることを示しめし、現代げんだいの意識いしき研究けんきゅうや時間じかん知覚ちかくの問題もんだいに直結ちょっけつしている。
  • 直観ちょっかん(アンテュイシオンintuition)と知性ちせい(アンテレクトintellect):知性ちせいは世界せかいを分割ぶんかつし固定こていして把握はあくするが、実在じつざいの流動りゅうどう性せいをそのままには捉とらえられない。直観ちょっかんこそが持続じぞくに直接ちょくせつ触ふれる方法ほうほうだとベルクソンBergsonは論ろんじた。これは反はん知性ちせい主義しゅぎではなく、知性ちせいの限界げんかいを見定みさだめたうえで哲学てつがく独自どくじの方法ほうほうを確立かくりつする試こころみだった。
  • エラン・ヴィタルélan vital(生せいの躍動やくどう):進化しんかは機械きかい的てきな適応てきおうの蓄積ちくせきでもなく、あらかじめ決きめられた目的もくてきへの収斂しゅうれんでもない。予測よそく不可能ふかのうな創造そうぞうを本質ほんしつとする「生せいの躍動やくどう」が進化しんかを駆動くどうするという大胆だいたんな仮説かせつは、生物せいぶつ学がくの還元かんげん主義しゅぎに対たいする哲学てつがく的てき挑戦ちょうせんであり続つづけている。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

アンリHenri・ベルクソンBergsonは1859年ねん10月がつ18日にち、パリParisに生うまれた。父ちちミシェルMichelはポーランドPoland系けいユダヤJewish人じんの音楽おんがく家か、母ははキャサリンKatherineはイギリスEngland系けいユダヤJewish人じんだった。幼少ようしょう期きの一時いちじ期きをロンドンLondonで過すごした後あと、9歳さいでパリParisに戻もどり、名門めいもんリセ・コンドルセLycée Condorcetに入学にゅうがくする。

少年しょうねんベルクソンBergsonは数学すうがくに傑出けっしゅつした才能さいのうを示しめし、全国ぜんこく数学すうがくコンクールconcoursで入賞にゅうしょうするほどだった。周囲しゅういは理系りけいの道みちを勧すすめたが、彼かれは哲学てつがくを選えらんだ。数学すうがくの教師きょうしは「数学すうがくを裏切うらぎった」と嘆なげいたという。しかしこの選択せんたくは偶然ぐうぜんではない。数学すうがくの内部ないぶから数学すうがく的てき思考しこうの限界げんかいを感かんじ取とったことが、のちの「知性ちせいの限界げんかい」という主題しゅだいに直結ちょっけつしていく。

1878年ねん、エコール・ノルマル・シュペリウールÉcole Normale Supérieureに入学にゅうがくする。同期どうきには社会しゃかい学者がくしゃエミール・デュルケームÉmile Durkheimや政治せいじ家かジャン・ジョレスJean Jaurèsがいた。当時とうじのフランスFrance哲学てつがく界かいはスペンサーSpencerの進化しんか論ろん的てき実証じっしょう主義しゅぎとカントKant主義しゅぎの二ふたつの潮流ちょうりゅうに支配しはいされていた。ベルクソンBergsonは若わかい頃ころスペンサーSpencerに傾倒けいとうしていたが、やがてその時間じかん概念がいねんの浅あささに気きづく。スペンサーSpencerは「進化しんか」を語かたりながら、時間じかんを本当ほんとうの意味いみで真剣しんけんに受うけ止とめていない。この発見はっけんがベルクソンBergson哲学てつがくの出発しゅっぱつ点てんとなる。

1881年ねんに哲学てつがく教授きょうじゅ資格しかく(アグレガシオンagrégation)を取得しゅとく後ご、地方ちほうのリセlycée(高等こうとう中学ちゅうがく校こう)で教壇きょうだんに立たった。アンジェAngers、ついでクレルモン=フェランClermont-Ferrandで教おしえながら、最初さいしょの主著しゅちょ『意識いしきに直接ちょくせつ与あたえられたものについての試論しろん』(1889年ねん)を博士はかせ論文ろんぶんとして完成かんせいさせる。この著作ちょさくで彼かれは「持続じぞく」の概念がいねんを初はじめて体系たいけい的てきに提示ていじし、心理しんり学がくにおける決定けってい論ろんと自由じゆう意志いしの問題もんだいを根底こんていから組くみ替かえた。

1900年ねん、コレージュ・ド・フランスCollège de Franceの教授きょうじゅに就任しゅうにんする。彼かれの講義こうぎはパリParisの知的ちてき事件じけんとなった。教室きょうしつは学生がくせいだけでなく、社交しゃこう界かいの貴婦きふ人じん、芸術げいじゅつ家か、外国がいこくからの知識ちしき人じんで溢あふれ返かえり、交通こうつう渋滞じゅうたいを引ひき起おこすほどだった。ウィリアム・ジェイムズWilliam JamesはわざわざパリParisまで聴ききに来きて感嘆かんたんし、T.S.エリオットEliotも聴講ちょうこう生せいの一人ひとりだった。

1907年ねんの『創造そうぞう的てき進化しんか』でベルクソンBergsonの名声めいせいは頂点ちょうてんに達たっする。第一次だいいちじ世界せかい大戦たいせん中ちゅうにはフランスFrance政府せいふの密使みっしとしてアメリカAmericaを訪問ほうもんし(1917年ねん)、ウィルソンWilson大統だいとう領りょうの参戦さんせん決意けついに一定いっていの影響えいきょうを与あたえたとされる。戦後せんごは国際こくさい連盟れんめいの知的ちてき協力きょうりょく国際こくさい委員いいん会かい(ユネスコUNESCOの前身ぜんしん)の初代しょだい委員いいん長ちょうを務つとめた。1927年ねん、ノーベルNobel文学ぶんがく賞しょうを受賞じゅしょうする。哲学てつがく者しゃとしての受賞じゅしょうは極きわめて異例いれいであり、彼かれの散文さんぶんの美うつくしさが評価ひょうかされてのことだった。

しかし晩年ばんねんは苦難くなんの連続れんぞくだった。重おもい関節かんせつリウマチRheumaに苦くるしみ、ほとんど動うごけない状態じょうたいとなる。1940年ねん、ナチスNazi・ドイツDeutschlandに占領せんりょうされたフランスFranceでヴィシーVichy政権せいけんが反はんユダヤJewish法ほうを施行しこうした。ベルクソンBergsonはその名声めいせいゆえに適用てきよう免除めんじょを申もうし出でることもできたが、拒否きょひした。晩年ばんねん、カトリックCatholicに深ふかい共感きょうかんを抱いだいていた彼かれだが、迫害はくがいされるユダヤ人じんの側がわにとどまることを選えらんだ。遺言ゆいごんにはこうある。「私わたしは反はんユダヤJewish主義しゅぎの大波おおなみが世界せかいに押おし寄よせるのを目めにして、迫害はくがいされようとしている人々ひとびとのもとにとどまりたいと思おもった」。

1941年ねん1月がつ4日よっか、ベルクソンBergsonは占領せんりょう下かのパリParisで没ぼっした。享年きょうねん81歳さい。葬儀そうぎは簡素かんそなものだった。かつてヨーロッパEuropa最大さいだいの知的ちてき名声めいせいを誇ほこった哲学てつがく者しゃは、ほとんど忘わすれ去さられたかのように世よを去さった。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1859年ねん:パリParisに生うまれる(父ちちはポーランドPoland系けいユダヤJewish人じんの音楽おんがく家か、母はははイギリスEngland系けいユダヤJewish人じん)
  • 1878年ねん:エコール・ノルマル・シュペリウールÉcole Normale Supérieureに入学にゅうがく
  • 1881年ねん:哲学てつがく教授きょうじゅ資格しかく(アグレガシオンagrégation)取得しゅとく。地方ちほうのリセlycéeで教職きょうしょく
  • 1889年ねん:『意識いしきに直接ちょくせつ与あたえられたものについての試論しろん』(博士はかせ論文ろんぶん)刊行かんこう
  • 1896年ねん:『物質ぶっしつと記憶きおく』刊行かんこう
  • 1900年ねん:コレージュ・ド・フランスCollège de France教授きょうじゅに就任しゅうにん。『笑わらい』刊行かんこう
  • 1907年ねん:『創造そうぞう的てき進化しんか』刊行かんこう。国際こくさい的てき名声めいせいが頂点ちょうてんに
  • 1914年ねん:アカデミー・フランセーズAcadémie française会員かいいんに選出せんしゅつ
  • 1917年ねん:フランスFrance政府せいふの密使みっしとしてアメリカAmericaを訪問ほうもん
  • 1922年ねん:アインシュタインEinsteinと時間じかんをめぐる論争ろんそう。『持続じぞくと同時どうじ性せい』(Durée et simultanéitéデュレ・エ・シミュルタネイテ)刊行かんこう
  • 1927年ねん:ノーベルNobel文学ぶんがく賞しょう受賞じゅしょう
  • 1932年ねん:最後さいごの主著しゅちょ『道徳どうとくと宗教しゅうきょうの二に源泉げんせん』刊行かんこう
  • 1940年ねん:ヴィシーVichy政権せいけんの反はんユダヤJewish法ほうの適用てきよう免除めんじょを拒否きょひ
  • 1941年ねん:占領せんりょう下かのパリParisで死去しきょ(享年きょうねん81歳さい)

ベルクソンBergsonは何なにを問とうたのか

19世紀せいき後半こうはん、科学かがくは圧倒あっとう的てきな成功せいこうを収おさめていた。ニュートンNewton力学りきがくは天体てんたいの運動うんどうを予測よそくし、熱力ねつりき学がくは蒸気じょうき機関きかんを動うごかし、ダーウィンDarwinの進化しんか論ろんは生命せいめいの起源きげんを自然しぜん法則ほうそくで説明せつめいした。その延長えんちょうとして、人間にんげんの意識いしきさえも物理ぶつり的てき・生理せいり的てきな法則ほうそくで解明かいめいできるはずだ、という確信かくしんが広ひろがっていた。

心理しんり物理ぶつり学がくの創始そうし者しゃグスタフ・フェヒナーGustav Fechnerは、感覚かんかくの強度きょうどさえ数学すうがく的てきに測定そくていできると主張しゅちょうした。ベルクソンBergsonはこの前提ぜんていに疑問ぎもんを投なげかける。悲かなしみが「2倍ばい」になるとは、いったいどういう意味いみか。喜よろこびの「大おおきさ」を数値すうちで比較ひかくできるのか。感情かんじょうや意識いしきの経験けいけんを量りょう的てきに扱あつかおうとする試こころみの背後はいごには、ある暗黙あんもくの前提ぜんていが隠かくれている。あらゆるものを空間くうかん的てきな量りょうに還元かんげんできるはずだ、という前提ぜんていだ。ベルクソンBergsonはそれを見抜みぬいた。

ここから彼かれの根本こんぽん的てきな問といが生うまれる。科学かがくが前提ぜんていとする「空間くうかん化かされた時間じかん」と、意識いしきのなかで実際じっさいに生いきられている「時間じかん」は、本当ほんとうに同おなじものなのか。

この問といは見みかけほど素朴そぼくではない。もし二ふたつの「時間じかん」が根本こんぽん的てきに異ことなるなら、科学かがくは実在じつざいの一面いちめんしか捉とらえていないことになる。意識いしき、自由じゆう、生命せいめい、創造そうぞう。これらを理解りかいするには、科学かがくとは異ことなる哲学てつがく固有こゆうの方法ほうほうが必要ひつようになる。ベルクソンBergsonはその方法ほうほうを「直観ちょっかん」と呼よんだ。

核心かくしん理論りろん

1. 持続じぞく(デュレdurée)── 生いきられた時間じかんの再発見さいはっけん

ベルクソンBergson哲学てつがくの土台どだいとなる概念がいねんが「持続じぞく」(デュレdurée)である。一言ひとことで言いえば、「持続じぞく」とは、時計とけいでは測はかれない、私わたしたちが内側うちがわから体験たいけんしている時間じかんのことだ。それがどういうことか、順じゅんを追おって見みていこう。

まず時計とけいの時間じかんを思おもい浮うかべてほしい。1秒びょう、2秒びょう、3秒びょう。つまり均質きんしつな単位たんいが直線ちょくせん上じょうに並ならんでいる。1秒目びょうめが終おわってから2秒目びょうめが始はじまり、2秒目びょうめが終おわってから3秒目びょうめが始はじまる。この時間じかん観かんでは、各かく瞬間しゅんかんは互たがいに外的がいてきで、交換こうかん可能かのうで、空間くうかんの点てんのように並置へいちされている。

しかし、とベルクソンBergsonは問とう。私わたしたちが実際じっさいに体験たいけんする時間じかんは、そのようなものだろうか。退屈たいくつな会議かいぎの1時間じかんと、親したしい友人ゆうじんとの会話かいわの1時間じかんは、時計とけいの上うえでは同おなじ60分ぷんだが、生いきられる経験けいけんとしてはまったく異質いしつだ。会議かいぎの1時間じかんはいつまでも終おわらないように感かんじ、楽たのしい会話かいわの1時間じかんは瞬またたく間まに過すぎ去さる。この違ちがいは錯覚さっかくではなく、時間じかんそのものの質しつが異ことなるのだ。ベルクソンBergsonはそう考かんがえた。

ベルクソンBergsonが好このんだもう一ひとつの比喩ひゆは旋律せんりつ(メロディーmelody)である。旋律せんりつを聴きくとき、私わたしたちは個々ここの音おとをバラバラに知覚ちかくするのではない。前まえの音おとが次つぎの音おとに溶とけ込こみ、全体ぜんたいが一ひとつの流ながれとして体験たいけんされる。音おとを止とめて並ならべ直なおせば楽譜がくふになるが、それは旋律せんりつそのものではない。楽譜がくふは音おとを空間くうかん的てきに並ならべた記号きごうであり、時間じかんのなかで流ながれる旋律せんりつの生いきた体験たいけんとは根本こんぽん的てきに異ことなる。持続じぞくとは、この旋律せんりつのような時間じかんのことだ。過去かこが現在げんざいのなかに生いき続つづけ、各かく瞬間しゅんかんが互たがいに浸透しんとうし合あい、質的しつてきに異ことなる連続れんぞくを成なす。

さらに『創造そうぞう的てき進化しんか』では、「角砂糖かくざとう」の有名ゆうめいな比喩ひゆが用もちいられる。コップの水みずに角砂糖かくざとうを入いれて、それが溶とけるのを待まつとき、私わたしは「待またねばならない」。この「待まつ」という焦燥しょうそう感かんや心理しんり的てきな重おもみこそが、持続じぞくの実体じったいである。物理ぶつり学がくは砂糖さとうが溶とけるまでの過程かていを数式すうしきで計算けいさんできるが、そこには「私わたしが待まつ」という絶対ぜったい的てきな事実じつは含ふくまれない。科学かがくは時間じかんを「長ながさ」として測定そくていするが、生いきられた時間じかんはつねに「質しつ」として体験たいけんされるのだ。

科学かがくが扱あつかう時間じかんは、実じつは「空間くうかん化かされた時間じかん」にすぎない。時間じかんを数直線すうちょくせんの上うえに並ならべた瞬間しゅんかん、時間じかんは空間くうかんに変質へんしつする。測定そくていできるのは空間くうかん化かされた時間じかんだけであり、持続じぞくそのものは測定そくていの網あみの目めをすり抜ぬける。

この区別くべつが導みちびく帰結きけつは重大じゅうだいだ。もし意識いしきの本質ほんしつが持続じぞくであるなら、意識いしきを空間くうかん化かして分析ぶんせきする科学かがくは、原理げんり的てきに意識いしきの核心かくしんを取とり逃にがすことになる。これは科学かがくを否定ひていしているのではない。科学かがくがどこまで有効ゆうこうで、どこから先さきは届とどかないのかを見極みきわめる作業さぎょうだ。

持続じぞくの概念がいねんは、自由じゆうの問題もんだいをも根底こんていから組くみ替かえる。決定けってい論ろんは、意識いしき状態じょうたいAが意識いしき状態じょうたいBを必然ひつぜん的てきに引ひき起おこすと主張しゅちょうする。だが持続じぞくのなかでは、「状態じょうたいA」と「状態じょうたいB」は分離ぶんりした固定こてい的てきな単位たんいではない。Aが展開てんかいするうちにA自体じたいが変質へんしつし、Bが生うまれる時点じてんではもはや出発しゅっぱつ点てんのAとは異ことなるものになっている。決定けってい論ろんが前提ぜんていとする因果いんがの連鎖れんさは、時間じかんを空間くうかん化かして初はじめて成立せいりつする虚構きょこうなのだ。ベルクソンBergsonは『試論しろん』第だい3章しょうでこう論ろんじた。

ではベルクソンにとって自由じゆうとは何なにか。それは選択肢せんたくしAとBのあいだの選択せんたくではない。持続じぞくする自己じこそのものが絶たえず新あらたな自己じこを生うみ出だしていく。その不断ふだんの自己じこ創造そうぞうこそが、自由じゆうの本質ほんしつだとベルクソンは考かんがえた。今日きょうの私わたしは昨日きのうの経験けいけんを引ひき受うけたうえで新あらたな一歩いっぽを踏ふみ出だす。その一歩いっぽはあらかじめ決きまっていたのではなく、持続じぞくする自己じこの厚あつみのなかから生うまれてくる。それが自由じゆうの経験けいけんなのだ。

2. 直観ちょっかん(アンテュイシオンintuition)── 哲学てつがく固有こゆうの方法ほうほう

持続じぞくを捉とらえるための方法ほうほうが「直観ちょっかん」(アンテュイシオンintuition)である。ただしこれは神秘しんぴ的てきな閃ひらめきや非ひ合理ごうり的てきな直感ちょっかんのことではない。たとえば、親したしい友人ゆうじんが悲かなしんでいるとき、私わたしたちはその人ひとの表情ひょうじょうや声こえを分析ぶんせきしてから「悲かなしいのだ」と判断はんだんするのではなく、その悲かなしみに直接ちょくせつ触ふれるようにして理解りかいする。ベルクソンBergsonが言いう直観ちょっかんとは、これに近ちかい(対象たいしょうの内部ないぶに身みを置おき、その流動りゅうどうに共感きょうかん的てきに参入さんにゅうする認識にんしきの仕方しかた)。

ベルクソンBergsonは『形而上学けいじじょうがく入門にゅうもん』のなかで、これを「町まちの写真しゃしんを何枚なんまいも見みること」と「実際じっさいにその町まちを歩あるくこと」の違ちがいに喩たとえている。知性ちせいによる分析ぶんせきは、町まちを様々さまざまな角度かくどから撮影さつえいし、つなぎ合あわせるようなものだ。どれほど写真しゃしんの数かずを増ふやしても、決けっして「町まちを歩あるく」という絶対ぜったい的てきな経験けいけんそのものには到達とうたつできない。直観ちょっかんとは、まさにその町まちの内部ないぶに入はいり込こみ、対象たいしょうと一体いったい化かする絶対ぜったい的てきな認識にんしきなのだ。

知性ちせい(アンテレクトintellect)は対象たいしょうを外側そとがわから見みる。分析ぶんせきし、分割ぶんかつし、概念がいねんで整理せいりする。この操作そうさは実践じっせん的てきな行動こうどうには不可欠ふかけつだ。しかし代償だいしょうがある。分割ぶんかつするたびに、対象たいしょうの連続れんぞく性せいは失うしなわれる。流ながれる水みずを手てですくえば、水みずは手ての中なかにあるが、流ながれは消きえている。同おなじように、人ひとの人生じんせいを履歴りれき書しょにまとめれば事実じじつの一覧いちらんは得えられるが、その人ひとが生いきてきた時間じかんの流ながれ(悩なやみ、喜よろこび、迷まよいの連つらなり)はそこには現あらわれない。知性ちせいは実在じつざいを固定こてい化かして把握はあくするが、実在じつざいそのものは流動りゅうどうである。

直観ちょっかんはこの流動りゅうどうに直接ちょくせつ触ふれようとする。ベルクソンBergsonの言葉ことばを借かりれば、「対象たいしょうのなかにそのユニークで、したがって表現ひょうげんしえないものへの共感きょうかんによって移入いにゅうすること」(『形而上学けいじじょうがく入門にゅうもん』〔Introduction à la métaphysiqueアントロデュクシオン・ア・ラ・メタフィジーク〕1903年ねん)である。

重要じゅうような留保りゅうほがある。ベルクソンBergsonは知性ちせいを否定ひていしているのではない。知性ちせいは科学かがくと技術ぎじゅつのための優すぐれた道具どうぐであり、直観ちょっかんもまた知性ちせいを通過つうかした後のちに到達とうたつされるものだ。問題もんだいは、知性ちせい的てき認識にんしきだけが認識にんしきのすべてだと思おもい込こむことにある。哲学てつがくは科学かがくの延長えんちょうではなく、独自どくじの方法ほうほうを持もつべきだ。これがベルクソンBergsonの主張しゅちょうである。

3. 記憶きおく── 過去かこは消きえない

1896年ねんの『物質ぶっしつと記憶きおく』は、持続じぞくの概念がいねんを心身しんしん問題もんだいに展開てんかいした著作ちょさくだ。ベルクソンBergsonはまず記憶きおくを二ふたつに区別くべつする。

一ひとつは「習慣しゅうかん記憶きおく」だ。自転じてん車しゃの乗のり方かたや言語げんごの使つかい方かたのように、繰くり返かえしによって身体しんたいに刻きざまれた記憶きおく。これは脳のうと身体しんたいのメカニズムmechanismに依存いぞんする。

もう一ひとつは「純粋じゅんすい記憶きおく」だ。昨日きのうの特定とくていの場面ばめんを思おもい出だすとき、私わたしたちは過去かこの特定とくていの瞬間しゅんかんに「飛とび込こむ」。ベルクソンBergsonの大胆だいたんな主張しゅちょうはこうだ。過去かこの経験けいけんはすべて保存ほぞんされている。脳のうのなかにではなく、持続じぞくそのもののなかに。これは一見いっけん奇妙きみょうに聞きこえるかもしれない。しかしベルクソンBergsonの真意しんいはこうだ。記憶きおくとは脳のうのどこかの「棚たな」に仕舞しまわれたファイルfileのようなものではない。持続じぞく(つまり過去かこが現在げんざいに溶とけ込こんで流ながれ続つづける時間じかんの流ながれそのもの)のなかに、過去かこは生いき続つづけている。脳のうは記憶きおくを「貯蔵ちょぞう」するのではなく、現在げんざいの行動こうどうに関連かんれんする記憶きおくだけを「選別せんべつ」して意識いしきに浮上ふじょうさせるフィルターfilterの役割やくわりを果はたす。

『物質ぶっしつと記憶きおく』にはもう一ひとつ、注目ちゅうもくすべき議論ぎろんがある。知覚ちかくについてだ。通常つうじょう、知覚ちかくとは外界がいかいの情報じょうほうを脳のうが「受うけ取とる」ことだと考かんがえられている。ベルクソンBergsonはこれを逆転ぎゃくてんさせた。知覚ちかくとは「付加ふか」ではなく「引ひき算ざん」だと。世界せかいにはすでにイメージimageの全体ぜんたいがある。脳のうはそこから、行動こうどうに不要ふようなものを差さし引ひいて、残のこったものだけを意識いしきに浮上ふじょうさせる。知覚ちかくは受動じゅどう的てきな受容じゅようではなく、実用じつよう的てきな行動こうどうへの関心かんしんに基もとづく能動のうどう的てきな選別せんべつ(実在じつざいのフィルタリングfiltering)なのだ。日常にちじょうの例れいで言いえば、道みちを歩あるいているとき、私わたしたちは周囲しゅういのすべての情報じょうほうを意識いしきしているわけではない。信号しんごうの色いろや車くるまの接近せっきんなど、行動こうどうに必要ひつようなものだけが浮うかび上あがり、残のこりは背景はいけいに退しりぞいている。ベルクソンBergsonによれば、知覚ちかくとはまさにそのような選別せんべつなのだ。

彼かれはこれを「逆さかさまの円錐えんすい」の図ずで説明せつめいした。円錐えんすいの頂点ちょうてんが現在げんざいの知覚ちかく(物質ぶっしつ世界せかいとの接点せってん)であり、底面ていめんに向むかって過去かこの記憶きおくが無限むげんに広ひろがっている。夢ゆめを見みているとき、脳のうのフィルターfilter機能きのうが弱よわまり、普段ふだんは意識いしきに上のぼらない記憶きおくが溢あふれ出だす。ベルクソンBergsonはこの現象げんしょうをそう説明せつめいする。

この立場たちばは唯物ゆいぶつ論ろんでも観念かんねん論ろんでもない。脳のうが損傷そんしょうすれば記憶きおくを想起そうきする能力のうりょくは失うしなわれるが、記憶きおくそのものが消きえるわけではない。ベルクソンBergsonはこう論ろんじた。20世紀せいき後半こうはんの脳のう科学かがく、とりわけ失語症しつごしょうや記憶きおく障害しょうがいの研究けんきゅうは、ベルクソンBergsonの直観ちょっかんが部分ぶぶん的てきに正ただしかったことを示しめ唆している。脳のうは記憶きおくの「場所ばしょ」ではなく「過程かてい」であるという見方みかたは、今日こんにちの神経しんけい科学かがくでも有力ゆうりょくな仮説かせつの一ひとつだ。

4. エラン・ヴィタルélan vital── 生命せいめいの創造そうぞう的てき飛躍ひやく

1907年ねんの『創造そうぞう的てき進化しんか』でベルクソンBergsonは、持続じぞくの概念がいねんを生命せいめい全体ぜんたいへと拡張かくちょうする。進化しんかを駆動くどうする力ちから、それが「エラン・ヴィタルélan vital」(「生せいの躍動やくどう」あるいは「生せいの飛躍ひやく」と訳やくされる概念がいねん)だ。

ベルクソンBergsonは進化しんかについての二ふたつの既存きそんの説明せつめいを退しりぞける。一ひとつは機械きかい論ろん(自然しぜん選択せんたくによる偶然ぐうぜんの変異へんいと蓄積ちくせきで進化しんかが説明せつめいできるとする立場たちば)。もう一ひとつは目的もくてき論ろん(進化しんかにはあらかじめ定さだめられた目的もくてきがあるとする立場たちば)。

機械きかい論ろんの問題もんだいは、複雑ふくざつな器官きかん(たとえば眼め)が偶然ぐうぜんの微小びしょう変異へんいの蓄積ちくせきだけで説明せつめいできるのか、という点てんにある。しかも脊椎せきつい動物どうぶつと軟体なんたい動物どうぶつのように、まったく異ことなる進化しんか系統けいとうが独立どくりつに類似るいじの器官きかんを発達はったつさせている(収斂しゅうれん進化しんか)。純粋じゅんすいな偶然ぐうぜんではこの一致いっちを説明せつめいしにくい。目的もくてき論ろんは説明せつめいできるが、進化しんかの予測よそく不可能ふかのう性せい(あらかじめ計画けいかくされていない新あらたなものが現あらわれる)を説明せつめいできない。

エラン・ヴィタルélan vitalは、この二ふたつの不十分ふじゅうぶんな説明せつめいに代かわる第三だいさんの道みちだ。生命せいめいは根源こんげん的てきな創造そうぞうの衝動しょうどうを内うちに持もち、物質ぶっしつの抵抗ていこうに逆さからいながら、予測よそくできない方向ほうこうに分岐ぶんきしていく。進化しんかは設計せっけい図ずの実行じっこうではなく、即興そっきょう演奏えんそうに似にている。音楽おんがく家かが楽譜がくふなしに演奏えんそうするとき、次つぎにどんな音おとが生うまれるかは演奏えんそう者しゃ自身じしんにも分わからない。同おなじように、生命せいめいは進すすみながら自みずからの道みちを創つくり出だす。

ベルクソンBergsonはエラン・ヴィタルélan vitalの分岐ぶんきを三みっつの大おおきな方向ほうこうに整理せいりしている。第一だいいちは植物しょくぶつ的てきな方向ほうこう──物質ぶっしつのなかに沈しずみ込こみ、太陽たいよう光こうを蓄たくわえてエネルギーenergyを蓄積ちくせきする無感覚むかんかくの生せい)。木きは動うごかないが、そこには膨大ぼうだいなエネルギーenergyが蓄たくわえられている。第二だいには本能ほんのうの方向ほうこう(昆虫こんちゅうに典型てんけい的てきな、対象たいしょうを内側うちがわから把握はあくする能力のうりょく)。蜂はちが精密せいみつな六角ろっかく形けいの巣すを作つくるのは、計算けいさんや学習がくしゅうによるのではなく、対象たいしょうとの直接ちょくせつ的てきな結むすびつきによる。しかしそこに自己じこ意識いしきはない。第三だいさんは知性ちせいの方向ほうこう(人間にんげんに典型てんけい的てきな、道具どうぐを製作せいさくし空間くうかんを操作そうさする能力のうりょく)。石器せっきからコンピュータcomputerに至いたるまで、人間にんげんは道具どうぐを通つうじて環境かんきょうを作つくり変かえてきた。

知性ちせいは実践じっせんにおいて圧倒あっとう的てきに有利ゆうりだが、持続じぞくを捉とらえることはできない。では直観ちょっかんとは何なにか。ベルクソンBergsonはそれを、知性ちせいを超こえて、本能ほんのうがもっていた「内側うちがわからの把握はあく」を自覚じかく的てきに取とり戻もどす試こころみだと位置いちづけている(『創造そうぞう的てき進化しんか』第だい2・3章しょう)。

この概念がいねんには深刻しんこくな批判ひはんもある。「エラン・ヴィタルélan vital」は具体ぐたい的てきに何なにを指さすのか。検証けんしょう可能かのうな科学かがく的てき仮説かせつなのか、それとも単たんなる比喩ひゆにすぎないのか。この批判ひはんは後のちに詳くわしく論ろんじるが、ベルクソンBergsonの意図いとは科学かがくに代かわる別べつの説明せつめいを提供ていきょうすることよりも、機械きかい論ろん的てき世界せかい観かんの限界げんかいを示しめすことにあった。

5. 道徳どうとくと宗教しゅうきょうの二に源泉げんせん── 閉とじた社会しゃかいと開ひらかれた社会しゃかい

1932年ねん、73歳さいのベルクソンBergsonが発表はっぴょうした最後さいごの主著しゅちょ『道徳どうとくと宗教しゅうきょうの二に源泉げんせん』は、持続じぞくの哲学てつがくを社会しゃかいと倫理りんりの領域りょういきへ拡張かくちょうした。

ベルクソンBergsonは道徳どうとくと宗教しゅうきょうをそれぞれ二ふたつの源泉げんせんから区別くべつする。第一だいいちは「閉とじた社会しゃかい」を維持いじするための「閉とじた道徳どうとく」と「静的せいてき宗教しゅうきょう」だ。人間にんげんは知性ちせいを持もつがゆえに、社会しゃかいの掟おきてに疑問ぎもんを抱いだき、利己りこ的てきに振ふる舞まい、さらには死しの恐怖きょうふに直面ちょくめんして虚無きょむに陥おちいる危険きけんがある。そこで自然しぜんは人類じんるいに「虚構きょこう機能きのう(ファビュラシオンfabulation)」という防衛ほうえい本能ほんのうを与あたえた。神話しんわや迷信めいしん、死後しごの世界せかいといった虚構きょこうを生うみ出だすことで、知性ちせいによる社会しゃかいの解体かいたいを防ふせぎ、集団しゅうだんを強固きょうこに結束けっそくさせるのだ。しかし、この結束けっそくは「私わたしたち」と「彼かれら」を区別くべつし、内部ないぶの平和へいわと外部がいぶへの戦争せんそうを裏表うらおもてとする閉鎖へいさ的てきなものである。

第二だいには、その境界きょうかいを突破とっぱする「開ひらかれた道徳どうとく」と「動的どうてき宗教しゅうきょう」だ。偉大いだいな神秘しんぴ家か(ミスティックmystique)や聖人せいじんが体現たいげんする、全人ぜんじん類るいへの無条件むじょうけんの愛あいである。(キリストChrist、釈迦しゃか、アッシジAssisiのフランチェスコFrancescoなど)こうした人物じんぶつは社会しゃかい的てきな圧力あつりょくではなく、エラン・ヴィタルélan vitalそのものに直接ちょくせつ触ふれ、それに突つき動うごかされて行動こうどうする。彼かれらの呼よびかけは人種じんしゅや国家こっかの壁かべを越こえ、人類じんるい全体ぜんたいに開ひらかれた根源こんげん的てきな愛あいへと我々われわれを引ひき上あげる。

ここには重要じゅうような含意がんいがある。閉とじた道徳どうとくを量りょう的てきに拡大かくだいしても、開ひらかれた道徳どうとくには到達とうたつしない。国家こっかへの忠誠ちゅうせいをどれだけ広ひろげても、「人類じんるいへの愛あい」にはならない。家族かぞくを愛あいし、地域ちいきを愛あいし、国くにを愛あいする。この円えんをどれほど大おおきくしても、それは結局けっきょく「境界きょうかいの内側うちがわの仲間なかま」への愛あいでしかなく、境界きょうかいそのものを取とり払はらう「人類じんるいへの愛あい」とは質しつが異ことなる。二ふたつの道徳どうとくは程度ていどではなく種類しゅるいが違ちがう。この断絶だんぜつこそがベルクソンBergsonの洞察どうさつの核心かくしんであり、国際こくさい主義しゅぎがナショナリズムnationalismに繰くり返かえし敗北はいぼくする理由りゆうを構造こうぞう的てきに説明せつめいしている。

6. 笑わらい── 生せいの哲学てつがくの社会しゃかい的てき応用おうよう

1900年ねんの小著しょうちょ『笑わらい』は、ベルクソンBergson哲学てつがくの意外いがいな応用おうようだ。なぜ人ひとは笑わらうのか。ベルクソンBergsonの答こたえはこうだ。「生いけるものの上うえに置おかれた機械きかい的てきなもの」(du mécanique plaqué sur du vivantデュ・メカニック・プラケ・シュル・デュ・ヴィヴァン)が滑稽こっけいを生うむ。

人ひとがバナナbananaの皮かわで滑すべって転ころぶとき、本来ほんらい柔軟じゅうなんに対応たいおうすべき身体しんたいが機械きかいのように硬直こうちょくしている。官僚かんりょうが規則きそくに固執こしゅうして馬鹿ばかげた対応たいおうをするとき、生いきた状況じょうきょうへの柔軟じゅうなん性せいが失うしなわれている。笑わらいは、この硬直こうちょく(生命せいめいの流ながれに逆さからう機械きかい的てき反復はんぷく)に対たいする社会しゃかいの矯正きょうせい反応はんのうなのだ。

この理論りろんは喜劇きげき論ろんとしてすべての笑わらいを説明せつめいできるわけではない。しかし持続じぞくと知性ちせいの対立たいりつ(流動りゅうどうする生せいと固定こていする知ち)を日常にちじょう生活せいかつのなかに見出みいだした点てんで、ベルクソンBergson哲学てつがくがいかに具体ぐたい的てきな現象げんしょうを照てらし出だせるかを示しめす好例こうれいだ。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 『時間じかんと自由じゆう』(原題げんだい:Essai sur les données immédiates de la conscience意識に直接与えられたものについての試論、1889年ねん / 邦訳ほうやく:中村なかむら文郎ふみお訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── 博士はかせ論文ろんぶんにして出発しゅっぱつ点てん。「持続じぞく」の概念がいねんが初はじめて提示ていじされる。心理しんり学がくにおける決定けってい論ろんと自由じゆうの問題もんだいを、時間じかんの概念がいねんから組くみ替かえる。ベルクソンBergsonを読よむならまずここから。
  • 『物質ぶっしつと記憶きおく』(Matière et mémoireマティエール・エ・メモワール、1896年ねん / 邦訳ほうやく:熊野くまの純彦すみひこ訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── 記憶きおくの二に種類しゅるいの区別くべつと心身しんしん問題もんだいへの独自どくじの回答かいとう。哲学てつがくと神経しんけい科学かがくの交差こうさ点てんに立たつ著作ちょさくで、難度なんどは高たかいが読よみ応ごたえがある。
  • 『笑わらい』(Le Rireル・リール、1900年ねん / 邦訳ほうやく:林はやし達夫たつお訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── 笑わらいの本質ほんしつを分析ぶんせきした小著しょうちょ。ベルクソンBergson哲学てつがくへの入門にゅうもんとしても読よめる。短みじかく明快めいかい。
  • 『創造そうぞう的てき進化しんか』(L'Évolution créatriceレヴォリュシオン・クレアトリス、1907年ねん / 邦訳ほうやく:真方まかた敬道よしみち訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── エラン・ヴィタルélan vitalの概念がいねんを軸じくに、進化しんか論ろんと認識にんしき論ろんを統合とうごうする野心やしん的てき著作ちょさく。ベルクソンBergsonの名声めいせいを世界せかい的てきなものにした代表だいひょう作さく。
  • 『道徳どうとくと宗教しゅうきょうの二に源泉げんせん』(Les Deux Sources de la morale et de la religionレ・ドゥー・スルス・ドゥ・ラ・モラル・エ・ドゥ・ラ・ルリジオン、1932年ねん / 邦訳ほうやく:森口もりぐち美都男みつお訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── 閉とじた道徳どうとくと開ひらかれた道徳どうとくの区別くべつを論ろんじた最後さいごの主著しゅちょ。政治せいじ哲学てつがく・宗教しゅうきょう哲学てつがくへの展開てんかい。
  • 『思想しそうと動うごくもの』(La Pensée et le mouvantラ・パンセ・エ・ル・ムヴァン、1934年ねん / 邦訳ほうやく:河野こうの与一よいち訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこほか) ── 論文ろんぶん集しゅう。序論じょろんで自身じしんの哲学てつがくを振ふり返かえり、「直観ちょっかん」の方法ほうほうを最もっとも明確めいかくに定式ていしき化かしている。「形而上学けいじじょうがく入門にゅうもん」(1903年ねん)を収録しゅうろく。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

1. バートランド・ラッセルBertrand Russell── 反はん知性ちせい主義しゅぎへの批判ひはん:ベルクソンBergsonに対たいする最もっとも有名ゆうめいな批判ひはんは、分析ぶんせき哲学てつがくの巨人きょじんラッセルRussellから来きた。ラッセルRussellはベルクソンBergsonを「知性ちせいを使つかって知性ちせいの不十分ふじゅうぶんさを論証ろんしょうする」矛盾むじゅんに陥おちいっていると批判ひはんした(『西洋せいよう哲学てつがく史し』〔A History of Western Philosophyア・ヒストリー・オブ・ウェスタン・フィロソフィー〕1945年ねん)。「直観ちょっかん」が哲学てつがくの方法ほうほうだと言いうなら、なぜベルクソンBergsonは著書ちょしょを書かくのか。著書ちょしょを書かくこと自体じたいが知性ちせい的てき活動かつどうではないか。

この批判ひはんは一定いっていの力ちからを持もつが、ベルクソンBergsonは知性ちせいを否定ひていしたわけではない。直観ちょっかんは知性ちせいを経由けいゆして到達とうたつされるものであり、知性ちせいの「代替だいたい」ではなく「補完ほかん」であると彼かれは繰くり返かえし述のべている。しかし、直観ちょっかんの内実ないじつを明確めいかくに定義ていぎしきれなかったことが、この誤解ごかいを招まねいた面めんはある。

2. アインシュタインEinstein論争ろんそう── 哲学てつがく者しゃの時間じかんは存在そんざいするか:1922年ねんの論争ろんそうはベルクソンBergsonの知的ちてき名声めいせいに深刻しんこくな打撃だげきを与あたえた。ベルクソンBergsonは『持続じぞくと同時どうじ性せい』(Durée et simultanéitéデュレ・エ・シミュルタネイテ、1922年ねん)で自みずからの立場たちばを詳述しょうじゅつしたが、相対そうたい性せい理論りろんを誤解ごかいしているとの批判ひはんを受うけ、晩年ばんねんには同書どうしょの再版さいはんを差さし止とめた。

しかし近年きんねんの研究けんきゅう──とりわけヒメナ・カナレスJimena Canales『物理ぶつり学者がくしゃと哲学てつがく者しゃ』(The Physicist and the Philosopherザ・フィジシスト・アンド・ザ・フィロソファー, 2015年ねん)──は、この論争ろんそうが従来じゅうらい考かんがえられていたほど一方いっぽう的てきなものではなかったことを示しめしている。ベルクソンBergsonの論点ろんてん──物理ぶつり学がくの時間じかん測定そくていは、測定そくていする観察かんさつ者しゃの生いきた経験けいけんを前提ぜんていとしている──は、物理ぶつり学がくでは解決かいけつできない哲学てつがく的てき問題もんだいを提起ていきしていた。

3. 「生気せいき論ろん」への批判ひはん:「エラン・ヴィタルélan vital」は科学かがく者しゃから「説明せつめいになっていない説明せつめい」として退しりぞけられた。分子ぶんし生物せいぶつ学者がくしゃジャック・モノーJacques Monodは『偶然ぐうぜんと必然ひつぜん』(Le Hasard et la Nécessitéル・アザール・エ・ラ・ネセシテ、1970年ねん)で、ベルクソンBergsonを「生気せいき論ろん」の代表だいひょうとして批判ひはんした。「生命せいめいの特別とくべつな力ちから」を持もち出だすことは、科学かがく的てき説明せつめいの放棄ほうきでしかない、と。

ただしベルクソンBergson自身じしんは、エラン・ヴィタルélan vitalを生物せいぶつ学がく的てきな実体じったいとしてではなく、生命せいめい現象げんしょうの全体ぜんたいを理解りかいするための哲学てつがく的てき概念がいねんとして提示ていじしていた。還元かんげん主義しゅぎでは捉とらえられない創発そうはつ性せい(エマージェンスemergence)の問題もんだい──これは今日こんにちの複雑ふくざつ系けい科学かがくや生物せいぶつ哲学てつがくでも中心ちゅうしん課題かだいであり続つづけている。

4. ハイデガーHeidegger── アリストテレスAristotle的てき時間じかん概念がいねんの延長えんちょうにすぎないか:ハイデガーHeideggerは『存在そんざいと時間じかん』(Sein und Zeitザイン・ウント・ツァイト、1927年ねん)で、ベルクソンBergsonが時間じかんの問題もんだいに取とり組くんだことは評価ひょうかしつつも、彼かれの「持続じぞく」は結局けっきょくアリストテレスAristotle以来いらいの「時間じかん=今いまの連続れんぞく」という枠組わくぐみを脱だっしていないと批判ひはんした。ベルクソンBergsonの持続じぞくは心理しんり的てきな体験たいけんにとどまっており、より根源こんげん的てきな「存在そんざいの時間じかん性せい」には到達とうたつしていない、と。この批判ひはんの妥当だとう性せいは今いまも議論ぎろんされている。

影響えいきょうと遺産いさん

先行せんこう思想しそう:プロティノスPlotinosの流出りゅうしゅつ説せつ(一者いっしゃからの連続れんぞく的てき生成せいせい)。カントKantの時間じかん論ろん(ベルクソンBergsonはカント的てき「現象げんしょうと物自体ものじたい」の区別くべつを批判ひはん的てきに継承けいしょうした)。スペンサーSpencerの進化しんか論ろん的てき哲学てつがく──出発しゅっぱつ点てんにして批判ひはん対象たいしょう。メーヌ・ド・ビランMaine de Biranやフランス・唯心ゆいしん論ろんの伝統でんとう。

同時代どうじだいへの影響えいきょう:ウィリアム・ジェイムズWilliam JamesはベルクソンBergsonを「出現しゅつげん以来いらい最大さいだいの天才てんさい」と称しょうし、両者りょうしゃは深ふかい知的ちてき交流こうりゅうを持もった。プラグマティズムpragmatismとベルクソンBergson哲学てつがくには、固定こていした概念がいねんより流動りゅうどうする経験けいけんを重視じゅうしする共通きょうつうの傾向けいこうがある。文学ぶんがくではマルセル・プルーストMarcel Proust(ベルクソンBergsonの妻つまはプルーストProustの母ははの従姉妹いとこにあたる)の『失うしなわれた時ときを求もとめて』が持続じぞくと記憶きおくの文学ぶんがく的てき展開てんかいとして読よめるが、プルーストProust自身じしんは直接ちょくせつ的てき影響えいきょうを否定ひていしている。

現象げんしょう学がくとの関係かんけい:メルロ=ポンティMerleau-PontyはベルクソンBergsonの身体しんたい論ろんと知覚ちかく論ろんを高たかく評価ひょうかし、自みずからの現象げんしょう学がくに取とり込こんだ。『知覚ちかくの現象げんしょう学がく』(Phénoménologie de la perceptionフェノメノロジー・ドゥ・ラ・ペルセプシオン、1945年ねん)における「生いきられた身体しんたい」の概念がいねんは、ベルクソンBergsonの『物質ぶっしつと記憶きおく』なしには考かんがえにくい。

ドゥルーズDeleuzeによる復権ふっけん:ベルクソンBergson哲学てつがくの最大さいだいの復興ふっこう者しゃはジル・ドゥルーズGilles Deleuzeだ。『ベルクソニスムLe bergsonisme』(1966年ねん)でドゥルーズDeleuzeはベルクソンBergsonを再ふたたび哲学てつがくの最前線さいぜんせんに引ひき戻もどした。さらに『シネマCinéma1・2』(1983年ねん/1985年ねん)ではベルクソンBergsonの運動うんどう論ろんと記憶きおく論ろんを映画えいが理論りろんに応用おうようし、映像えいぞうと時間じかんの関係かんけいを革新かくしん的てきに論ろんじた。今日こんにち、ベルクソンBergsonが再ふたたび読よまれているのは、大おおきくドゥルーズDeleuzeの功績こうせきによる。

ホワイトヘッドWhiteheadと過程かてい哲学てつがく:アルフレッド・ノース・ホワイトヘッドAlfred North Whiteheadの「過程かてい哲学てつがく」はベルクソンBergsonの持続じぞくの概念がいねんから大おおきな刺激しげきを受うけている。実在じつざいを固定こていした「もの」ではなく流動りゅうどうする「過程かてい」として捉とらえる視座しざは、環境かんきょう哲学てつがくやエコロジーecology思想しそうにも波及はきゅうしている。

現代げんだいへの接続せつぞく

20世紀せいき半なかばにほぼ忘却ぼうきゃくされかけたベルクソンBergsonが、なぜ今いま再ふたたび注目ちゅうもくされているのか。現代げんだいの課題かだいが、ベルクソンBergsonの問といを新あらたな文脈ぶんみゃくで呼よび戻もどしているからだ。

第一だいいちに、意識いしきと時間じかん知覚ちかくの科学かがく。神経しんけい科学かがくが明あきらかにしつつあるのは、脳のうが時間じかんを「構成こうせい」しているということだ。同おなじ5分ふん間かんでも、注意ちゅういの集中しゅうちゅう度ど、感情かんじょうの強度きょうど、記憶きおくの密度みつどによって主観しゅかん的てきな長ながさはまったく異ことなる。ベルクソンBergsonが直観ちょっかん的てきに捉とらえていた「生いきられた時間じかん」の問題もんだいは、時間じかん知覚ちかく(クロノセプションchronoception)という研究けんきゅう分野ぶんやのなかで実証じっしょう的てきに探究たんきゅうされつつある。

第二だいにに、創発そうはつ性せいと複雑ふくざつ系けい。部分ぶぶんの総和そうわに還元かんげんできない全体ぜんたいの性質せいしつ──これはベルクソンBergsonがエラン・ヴィタルélan vitalで論ろんじた問題もんだいの現代げんだい版ばんだ。複雑ふくざつ系けい科学かがく、自己じこ組織そしき化かの理論りろん、生命せいめいの起源きげん研究けんきゅう──いずれの分野ぶんやでも、機械きかい論ろん的てき還元かんげんの限界げんかいは繰くり返かえし問題もんだいになっている。

第三だいさんに、加速かそくする社会しゃかいと「遅おそさ」の哲学てつがく。デジタルdigital技術ぎじゅつが時間じかんの流ながれを加速かそくさせ、注意ちゅういを断片だんぺん化かする現代げんだいにおいて、ベルクソンBergsonの「持続じぞくに身みを浸ひたす」という提案ていあんは、スローライフslow lifeやマインドフルネスmindfulnessの流行りゅうこうと無関係むかんけいではない。ただしそれは単たんなる癒いやしではなく、認識にんしきの在あり方かたそのものへの問といかけである。

読者どくしゃへの問とい

  • あなたが最後さいごに「時間じかんを忘わすれた」のはいつだろうか。そのとき体験たいけんしていた時間じかんは、時計とけいの時間じかんとどう違ちがっていたか──ベルクソンBergsonの「持続じぞく」は、その経験けいけんを言語げんご化かする助たすけになるだろうか。
  • 科学かがくがいつか意識いしきを完全かんぜんに解明かいめいできる日ひは来くるのだろうか。もし来くないとすれば、それは技術ぎじゅつの限界げんかいなのか、それともベルクソンBergsonが指摘してきしたように、科学かがくの方法ほうほう論ろんそのものに原理げんり的てきな限界げんかいがあるのか。
  • ベルクソンBergsonは「閉とじた道徳どうとく」を量りょう的てきに拡大かくだいしても「開ひらかれた道徳どうとく」には到達とうたつしないと論ろんじた。この洞察どうさつは、国際こくさい協力きょうりょくが繰くり返かえし困難こんなんに陥おちいる現代げんだいの状況じょうきょうを説明せつめいするだろうか。あるいは、それは悲観ひかん的てきにすぎるだろうか。

名言めいげん(出典しゅってんつき)

"宇宙うちゅうは持続じぞくする。" 出典しゅってん:アンリ・ベルクソン『創造そうぞう的てき進化しんか』(L'Évolution créatrice, 1907年ねん)/原文げんぶん:"L'univers dure."
"少すくなくとも一ひとつ、われわれが内側うちがわから捉とらえる実在じつざいがある。" 出典しゅってん:アンリ・ベルクソン「形而上学けいじじょうがくへの序論じょろん」(Introduction à la métaphysique, 1903年ねん)/原文げんぶん:"Il y a une réalité au moins que nous saisissons tous du dedans."
"生いけるものの上うえに貼はりついた機械きかい的てきなもの。" 出典しゅってん:アンリ・ベルクソン『笑わらい』(Le Rire, 1900年ねん)第だい1章しょう/原文げんぶん:"du mécanique plaqué sur du vivant."

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん):Bergson, Henri. Essai sur les données immédiates de la conscienceエセ・シュル・レ・ドネ・イメディアト・ドゥ・ラ・コンシアンス. Paris: Félix Alcan, 1889. / 邦訳ほうやく:中村なかむら文郎ふみお訳やく『時間じかんと自由じゆう』岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん):Bergson, Henri. Matière et mémoireマティエール・エ・メモワール. Paris: Félix Alcan, 1896. / 邦訳ほうやく:熊野くまの純彦すみひこ訳やく『物質ぶっしつと記憶きおく』岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん):Bergson, Henri. Le Rire: Essai sur la signification du comiqueル・リール:エセ・シュル・ラ・シニフィカシオン・デュ・コミック. Paris: Félix Alcan, 1900. / 邦訳ほうやく:林はやし達夫たつお訳やく『笑わらい』岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん):Bergson, Henri. L'Évolution créatriceレヴォリュシオン・クレアトリス. Paris: Félix Alcan, 1907. / 邦訳ほうやく:真方まかた敬道よしみち訳やく『創造そうぞう的てき進化しんか』岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん):Bergson, Henri. Les Deux Sources de la morale et de la religionレ・ドゥー・スルス・ドゥ・ラ・モラル・エ・ドゥ・ラ・ルリジオン. Paris: Félix Alcan, 1932. / 邦訳ほうやく:森口もりぐち美都男みつお訳やく『道徳どうとくと宗教しゅうきょうの二に源泉げんせん』岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん):Bergson, Henri. La Pensée et le mouvantラ・パンセ・エ・ル・ムヴァン. Paris: Félix Alcan, 1934.(「Introduction à la métaphysiqueアントロデュクシオン・ア・ラ・メタフィジーク」所収しょしゅう)
  • (復権ふっけんの起点きてん):Deleuze, Gilles. Le bergsonismeル・ベルクソニスム. Paris: PUF, 1966. / 邦訳ほうやく:檜垣ひがき立哉たつや・合田ごうだ正人まさと訳やく『ベルクソニスムLe bergsonisme』法政ほうせい大学だいがく出版しゅっぱん局きょく、2017年ねん。
  • (アインシュタインEinstein論争ろんそう):Canales, Jimena. The Physicist and the Philosopherザ・フィジシスト・アンド・ザ・フィロソファー. Princeton: Princeton University Press, 2015.
  • (批判ひはん文脈ぶんみゃく):Russell, Bertrand. A History of Western Philosophyア・ヒストリー・オブ・ウェスタン・フィロソフィー. London: George Allen & Unwin, 1945.
  • (批判ひはん文脈ぶんみゃく):Monod, Jacques. Le Hasard et la Nécessitéル・アザール・エ・ラ・ネセシテ. Paris: Éditions du Seuil, 1970. / 邦訳ほうやく:『偶然ぐうぜんと必然ひつぜん』。
  • (邦語ほうご概説がいせつ):檜垣ひがき立哉たつや『ベルクソンBergsonの哲学てつがく──生成せいせいする実在じつざいの肯定こうてい』勁草けいそう書房しょぼう、2000年ねん。
  • ウェブweb:Stanford Encyclopedia of Philosophy, "Henri Bergson" (Leonard Lawlor & Valentine Moulard-Leonard, substantive revision 2025). https://plato.stanford.edu/entries/bergson/ (2026-02-19 閲覧えつらん)