紀元前きげんぜん399年ねん、アテナイAthēnaiの牢獄ろうごく。夕暮ゆうぐれの光ひかりが差さし込こむ独房どくぼうに、ソクラテスSōkratēsは友人ゆうじんたちに囲かこまれて座すわっている。この日ひの夕方ゆうがた、彼かれは毒どく杯さかずきを仰あおがなければならない。涙なみだぐむ友人ゆうじんたちを前まえに、70歳さいの哲学てつがく者しゃは平静へいせいに(いや、ほとんど喜よろこばしげに)最後さいごの対話たいわを始はじめる。主題しゅだいは「魂たましいは死後しごも存続そんぞくするか」である。

『パイドンPhaidōn』はプラトンPlatōnの中期ちゅうき対話たいわ篇へんのなかでも、もっとも劇的げきてきな設定せっていを持もつ作品さくひんだ。哲学てつがく的てき論証ろんしょうと感情かんじょうの動うごきが交錯こうさくし、四よっつの論証ろんしょうが順じゅんに提示ていじされ、反論はんろんされ、再構さいこう築ちくされる。読者どくしゃは哲学てつがくの議論ぎろんを追おいながら、同時どうじに一人ひとりの人間にんげんが死しに向むかう過程かていを見届みとどけることになる。

この作品さくひんを読よむことは、ある意味いみで「体験たいけん」に近ちかい。冷静れいせいな議論ぎろんが展開てんかいされるその背後はいごで、時間じかんは確実かくじつに流ながれている。日没にちぼつとともにソクラテスSōkratēsの命いのちは終おわる。論証ろんしょうの合間あいまに差さし挟はさまれる友人ゆうじんたちの涙なみだ、ソクラテスSōkratēsの穏おだやかな微笑ほほえみ、毒どく杯さかずきを準備じゅんびする看守かんしゅの気配けはい。これらの情感じょうかん的てきな細部さいぶが、哲学てつがく的てき議論ぎろんを単たんなる知的ちてきパズルではなく、人間にんげんの実存じつぞんに根ねざした問といへと変かえている。

なぜ今いま『パイドンPhaidōn』を読よむのか。現代げんだい科学かがくは意識いしきを脳のうの機能きのうとして説明せつめいしようとするが、「死しんだらどうなるのか」という問といそのものは科学かがくの射程しゃていを超こえている。ソクラテスSōkratēsが提示ていじした論証ろんしょうの多おおくは今日こんにちでは通用つうようしない。だが、死しに臨のぞんで理性りせいを手放てばなさず、論理ろんりの力ちからで恐怖きょうふと向むき合あおうとする態度たいど(対話たいわのなかでソクラテスSōkratēsが「ミソロギアmisologia」(議論ぎろん嫌ぎらい)への警告けいこくと呼よんだもの)は、時代じだいを超こえた哲学てつがくの精神せいしんそのものだ。

本ほん記事きじでは、『パイドンPhaidōn』の対話たいわの進行しんこうに沿そって、各かく場面ばめんの内容ないようと論証ろんしょうの構造こうぞうを読よみ解といていく。専門せんもん知識ちしきがなくても追おえるように具体ぐたい例れいを交まじえながら、同時どうじに原文げんぶんの持もつ知的ちてき興奮こうふん(論証ろんしょうが破綻はたんし、再構さいこう築ちくされるスリル)をできるかぎり伝つたえたい。

この記事きじの要点ようてん

  • 哲学てつがくは死しの練習れんしゅうである:ソクラテスSōkratēsは、真しんの哲学てつがく者しゃは身体しんたいから魂たましいを引ひき離はなす訓練くんれんを生涯しょうがい行おこなっており、死しはその完成かんせいであると説とく。死しを恐おそれる哲学てつがく者しゃは矛盾むじゅんしている──この挑発ちょうはつ的てきな命題めいだいが対話たいわの出発しゅっぱつ点てんとなる。
  • 四よっつの論証ろんしょうと反論はんろんの弁証べんしょう法ほう:反対はんたいからの生成せいせい、想起そうき説せつ、類似るいじ性せいの議論ぎろん、イデアideaからの最終さいしゅう論証ろんしょう。この四よっつはそれぞれ異ことなる角度かくどから魂たましいの不死ふしに迫せまり、反論はんろんを受うけて深化しんかしていく。論証ろんしょうの成否せいひそのものよりも、対話たいわを通つうじて論理ろんりを鍛きたえ上あげるプロセスに哲学てつがく的てき意義いぎがある。
  • プラトンPlatōnのイデアidea論ろんの原型げんけい:『パイドンPhaidōn』はイデアidea論ろんが初はじめて明確めいかくに定式ていしき化かされる対話たいわ篇へんの一ひとつであり、「等ひとしさ自体じたい」「美うつくしさ自体じたい」といった形而上けいじじょう学がく的てき実在じつざいの概念がいねんが魂たましいの不死ふし論ろんの根拠こんきょとして展開てんかいされる。

書物しょもつの基本きほん情報じょうほう

  • 著者ちょしゃ:プラトンPlatōn(紀元前きげんぜん428/427〜348/347年ねん)
  • 成立せいりつ年代ねんだい:紀元前きげんぜん385年ねん頃ごろ(中期ちゅうき対話たいわ篇へん)
  • ジャンルgenre:哲学てつがく対話たいわ篇へん(枠わく物語ものがたり形式けいしき)
  • 原題げんだい:Φαίδων(パイドーンPhaidōn)── 語かたり手ての名なに由来ゆらい
  • 参照さんしょう形式けいしき:ステファヌスStephanus版ばん頁ページ番号ばんごう(57a〜118a)
  • 主要しゅよう邦訳ほうやく:岩田いわた靖夫やすお訳やく『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』岩波いわなみ文庫ぶんこ(1998年ねん、2025年ねん改版かいはん)、納富のうとみ信留のぶる訳やく『パイドンPhaidōn──魂たましいについて』光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ

目次もくじマップ

  • 枠わく物語ものがたりの導入どうにゅう(57a〜59c):パイドンPhaidōnがエケクラテスEchekratēsに最期さいごの日ひを語かたり始はじめる
  • 牢獄ろうごくの場面ばめん(59c〜61c):最後さいごの朝あさ、妻つまクサンティッペXanthippēの退場たいじょうと対話たいわの開始かいし
  • 哲学てつがくは死しの練習れんしゅう(61c〜69e):死しを歓迎かんげいする哲学てつがく者しゃの態度たいど
  • 第一だいいち論証ろんしょう:反対はんたいからの生成せいせい(69e〜72e):生せいと死しの循環じゅんかん
  • 第二だいに論証ろんしょう:想起そうき説せつ(72e〜77a):学まなびとは思おもい出だすこと
  • 第三だいさん論証ろんしょう:類似るいじ性せいの議論ぎろん(77a〜80d):魂たましいはイデアideaに似にている
  • シミアスSimmiasとケベスKebēsの反論はんろん(84c〜88b):竪琴たてごとの調しらべと織物おりものの比喩ひゆ
  • ミソロギアmisologiaへの警告けいこくと知的ちてき自伝じでん(88b〜102a):自然しぜん学がくからイデアidea論ろんへ
  • 第四だいよん論証ろんしょう:イデアideaからの最終さいしゅう論証ろんしょう(102a〜107b):魂たましいは生命せいめいのイデアideaを帯おびる
  • 死後しごの神話しんわと最期さいごの場面ばめん(107c〜118a):大地だいちの神話しんわ、毒どく杯さかずき、臨終りんじゅう

原著げんちょ目次もくじに沿そった逐次ちくじ解説かいせつ

1. 枠わく物語ものがたりの導入どうにゅう(57a〜59c)

対話たいわは二重にじゅうの枠わく構造こうぞうを持もつ。エリスĒlisのピュタゴラスPythagoras派は哲学てつがく者しゃエケクラテスEchekratēsが、ソクラテスSōkratēsの処刑しょけいの日ひにその場ばにいたパイドンPhaidōnに詳くわしい話はなしを聞ききたいと頼たのむ。パイドンPhaidōnは当日とうじつ居合いあわせた人物じんぶつたちの名なを挙あげ(注目ちゅうもくすべきことにプラトンPlatōnは「病気びょうきだったと思おもう」(59b)と自みずからの不在ふざいを明記めいきしている)。回想かいそうを始はじめる。

ここで注目ちゅうもくすべきは、「枠わく物語ものがたり」(フレーム・ナラティヴframe narrative)という文学ぶんがく的てき装置そうちである。対話たいわの報告ほうこく者しゃパイドンPhaidōnが別べつの人物じんぶつエケクラテスEchekratēsに語かたるという入いれ子こ構造こうぞうは、読者どくしゃに臨場りんじょう感かんを与あたえつつ、「これは当事とうじ者しゃによる回想かいそうである」という距離きょり感かんをも同時どうじに作つくり出だす。小説しょうせつでいえば、コンラッドConradの『闇やみの奥おく』でマーロウMarlowが船上せんじょうで語かたる構造こうぞうに近ちかい。聞きき手ての存在そんざいが、語かたりの信頼しんらい性せいと緊張きんちょう感かんを同時どうじに高たかめるのである。

プラトンPlatōnが自みずからの不在ふざいを記しるすのは誠実せいじつさなのか、文学ぶんがく的てき技法ぎほうなのか。自分じぶんはその場ばにいなかった、と書かくことで、報告ほうこくの正確せいかくさに一定いっていの留保りゅうほをつけつつ、同時どうじに間接かんせつ的てきな叙述じょじゅつだからこそ自由じゆうに哲学てつがく的てき内容ないようを構成こうせいできる余地よちが生うまれる。

枠わく物語ものがたりの設定せっていが終おわると、舞台ぶたいは牢獄ろうごくの内部ないぶへ移うつる。

2. 牢獄ろうごくの場面ばめんと快楽かいらく・苦痛くつうの対つい(59c〜61c)

友人ゆうじんたちが牢獄ろうごくに入はいると、ソクラテスSōkratēsは足枷あしかせを外はずされたばかりで、足あしをさすりながら快楽かいらくと苦痛くつうの不思議ふしぎな関係かんけいについて語かたる。苦くしみが去さったあとに快こころよさが来くる。二ふたつは一緒いっしょには来こないが、一方いっぽうを追おえばもう一方いっぽうがついてくる。妻つまクサンティッペXanthippēは赤子あかごを抱だきながら泣なき叫さけび、退たい場じょうさせられる。ソクラテスSōkratēsはまた、獄中ごくちゅうでイソップAisōpos寓話ぐうわを韻文いんぶんにし、アポロンApollōnへの讃歌さんかを書かいていたことが語かたられる。

この場面ばめんには二ふたつの重要じゅうような伏線ふくせんが埋うめ込こまれている。一ひとつは快楽かいらくと苦痛くつうの不可分ふかぶん性せい(60b-c)だ。苦くしみが去されば快こころよさが来くるという観察かんさつは、のちに展開てんかいされる「反対はんたいのものから反対はんたいのものが生うまれる」という第一だいいち論証ろんしょうの核心かくしんを先取さきどりしている。もう一ひとつは「ムーシケーmousikē」(μουσική、芸術げいじゅつ・学芸がくげいの総称そうしょう)の主題しゅだいである。ソクラテスSōkratēsが獄中ごくちゅうでイソップAisōpos寓話ぐうわを韻文いんぶんにし詩作しさくに励はげんでいた逸話いつわは、彼かれにとって哲学てつがくこそが「最大さいだいのムーシケーmousikē」であるという信念しんねんの表あらわれである(61a)。死しを前まえにしてなお芸術げいじゅつに向むかうこの姿すがたは、哲学てつがく者しゃの平静へいせいが無関心むかんしんではなく、深ふかい充足じゅうそくから来くるものだという描写びょうしゃになっている。

快楽かいらくと苦痛くつうの対ついの話はなしは、一見いっけん雑談ざつだんのようだが、のちに展開てんかいされる「反対はんたいからの生成せいせい」の議論ぎろんの伏線ふくせんとなっている。プラトンPlatōnの構成こうせい力りょくがうかがえる箇所かしょだ。

ここまでの序幕じょまくが整ととのい、ケベスKebēsの問といをきっかけに、本格ほんかく的てきな哲学てつがく的てき議論ぎろんが始はじまる。

3. 哲学てつがくは死しの練習れんしゅう(61c〜69e)

ケベスKebēsが問とう。自殺じさつが許ゆるされないなら、なぜソクラテスSōkratēsは死しを喜よろこぶのか。ソクラテスSōkratēsの答こたえは二段階にだんかいだ。第一だいいちに、人間にんげんは神々かみがみの所有しょゆう物ぶつであり、勝手かってに自みずからの命いのちを絶たつことは許ゆるされない(62b-c)。第二だいにに、哲学てつがく者しゃは生涯しょうがいを通つうじて魂たましいを身体しんたいから分離ぶんりする営いとなみを行おこなっている。真しんの知ちは感覚かんかくによっては得えられず、身体しんたいは魂たましいの認識にんしきを妨さまたげる。だから死し(魂たましいと身体しんたいの完全かんぜんな分離ぶんり)は、哲学てつがく者しゃが求もとめ続つづけてきたものの成就じょうじゅなのだ(64a-67d)。

ここで提示ていじされる中心ちゅうしん概念がいねんは三みっつある。第一だいいちは哲学てつがく=「死しの練習れんしゅう」(μελέτη θανάτου, メレテー・タナトゥーmeletē thanatou)という命題めいだい。第二だいには死しの定義ていぎ(「魂たましいと身体しんたいの分離ぶんり」、χωρισμός, コーリスモスchōrismos)である。そして第三だいさんに、哲学てつがくとは魂たましいの「浄化じょうか」(κάθαρσις, カタルシスkatharsis)だという主張しゅちょう。つまり、哲学てつがくをするとは日々ひび少すこしずつ身体しんたいの束縛そくばくから魂たましいを解とき放はなつ営いとなみであり、死しはその完成かんせい(いわば卒業そつぎょうのようなもの)だということになる。現代げんだいの感覚かんかくからすれば極端きょくたんに聞きこえるが、ソクラテスSōkratēsがここで述のべているのは、感覚かんかくに頼たよらず思考しこうだけで真理しんりに向むかおうとする態度たいどのことであり、それは今日こんにちの学問がくもん的てき探究たんきゅうにも通つうじるものがある。

この議論ぎろんには、身体しんたいへの極端きょくたんな不信ふしんが含ふくまれている。感覚かんかくは欺あざむき、欲望よくぼうは思考しこうを曇くもらせ、戦争せんそうさえも身体しんたいの欲求よっきゅうに由来ゆらいする(66c-d)。これは強烈きょうれつな主張しゅちょうだ。現代げんだいの読者どくしゃには受うけ入いれがたいかもしれない。私わたしたちは身体しんたいを通とおして世界せかいを知しり、身体しんたいを通とおして他者たしゃと関かかわる。ニーチェNietzscheが「身体しんたいこそが大おおいなる理性りせいである」と宣言せんげんしたとき、批判ひはんの矛先ほこさきはまさにこの種しゅの身体しんたい蔑視べっしに向むけられていた。ただし注意ちゅういすべきは、ここでの主張しゅちょうは対話たいわのなかの一いち段階だんかいであり、プラトンPlatōnの最終さいしゅう的てきな立場たちばと同一どういつ視しすべきではないということだ。後期こうきの『ティマイオスTimaios』では、プラトンPlatōnは宇宙うちゅうの身体しんたい性せいに積極せっきょく的てきな意味いみを与あたえている。『パイドンPhaidōn』の身体しんたい蔑視べっしは、あくまで死しを前まえにした極限きょくげん状況じょうきょうでの議論ぎろんであり、戦略せんりゃく的てきに読よむ必要ひつようがある。

こうした前提ぜんていのもとで、ケベスKebēsは具体ぐたい的てきな論証ろんしょうを求もとめる。最初さいしょに提示ていじされるのが「反対はんたいからの生成せいせい」の議論ぎろんだ。

4. 第一だいいち論証ろんしょう:反対はんたいからの生成せいせい(69e〜72e)

ケベスKebēsが求もとめる。哲学てつがく者しゃが死しを恐おそれないための根拠こんきょを示しめしてほしい、と。ソクラテスSōkratēsは古ふるい教説きょうせつを引ひきつつ、自然しぜんの一般いっぱん法則ほうそくから論ろんじる。あらゆるものは、反対はんたいのものから生うまれる。大おおきいものは小ちいさいものから、速はやいものは遅おそいものから生うまれる。同様どうように、生せいきているものは死しんだものから生うまれ、死しんだものは生いきているものから生うまれる(70c-72a)。

この論証ろんしょうを整理せいりすると、次つぎのような段階だんかいを踏ふむ。(1)反対はんたいのものは反対はんたいのものから生うまれる。(2)「生いきている」と「死しんでいる」は反対はんたいである。(3)ゆえに死しんだものから生いきたものが生うまれ、生いきたものから死しんだものが生うまれる。(4)もしこの循環じゅんかんが成なり立たたなければ、すべてのものは最終さいしゅう的てきに死しの状態じょうたいにとどまり、生せいは消滅しょうめつしてしまう。季節きせつが春はる→夏なつ→秋あき→冬ふゆと巡めぐるように、生せいと死しもまた循環じゅんかんするはずだ。これが論証ろんしょうの骨子こっしである。

この論証ろんしょうは自然しぜん哲学てつがく的てきな前提ぜんていに依存いぞんしている。「反対はんたいのものから反対はんたいのものが生うまれる」は古代こだいギリシャGreece自然しぜん学がくの共通きょうつう前提ぜんていだが、普遍ふへん的てきな法則ほうそくとしての根拠こんきょは弱よわい。また、性質せいしつの変化へんか(大おおきい→小ちいさい)と存在そんざいの変化へんか(生せい→死し)を同列どうれつに扱あつかえるかという問題もんだいがある。

第一だいいち論証ろんしょうは循環じゅんかんの自然しぜん学がくに依拠いきょしていた。次つぎの論証ろんしょうでは認識にんしき論ろんへと視点してんが移うつり、イデアidea論ろんの萌芽ほうがが現あらわれる。

5. 第二だいに論証ろんしょう:想起そうき説せつ(72e〜77a)

ケベスKebēsが想起そうき説せつ(アナムネーシス、ἀνάμνησις)を持もち出だす。学まなぶとは、魂たましいが以前いぜん知しっていたことを思おもい出だすことである。ソクラテスSōkratēsはこれを展開てんかいする。二ふたつの等ひとしい棒ぼうを見みたとき、私わたしたちは「等ひとしさ自体じたい」(αὐτὸ τὸ ἴσον)を知しっている。しかし感覚かんかく世界せかいの等ひとしさは不完全ふかんぜんだ。角度かくどが変かわれば等ひとしく見みえなくなる。私わたしたちが不完全ふかんぜんさを認識にんしきできるのは、完全かんぜんな「等ひとしさ自体じたい」を知しっているからだ。この知識ちしきは生うまれる前まえに獲得かくとくされたはずであり、魂たましいは身体しんたいに入はいる前まえから存在そんざいしていたことになる(74a-76e)。

ここで初はじめて明確めいかくに登場とうじょうするのが「想起そうき」(ἀνάμνησις, アナムネーシスanamnēsis)の概念がいねんであり、そしてそれを支ささえる「等ひとしさ自体じたい」(αὐτὸ τὸ ἴσον)というイデアidea論ろんの具体ぐたい例れいである。この議論ぎろんがなぜ重要じゅうようかといえば、私わたしたちが「完全かんぜんな等ひとしさ」を一度いちども感覚かんかくで経験けいけんしたことがないにもかかわらず、それが何なにであるかを知しっているという事実じじつに着目ちゃくもくしているからだ。たとえば、どんなに精密せいみつに作つくられた二ふたつの棒ぼうも原子げんしレベルlevelでは異ことなる。それでも私わたしたちは「等ひとしい」と判断はんだんできる。ソクラテスSōkratēsはそこに、感覚かんかくを超こえた知ちの源泉げんせん(すなわち生うまれる前まえに魂たましいが持もっていた記憶きおく)を見出みいだす。

想起そうき説せつは魂たましいの「先せん在ざい」を論証ろんしょうするが、死後しごの存続そんぞくを直接ちょくせつには証明しょうめいしない。シミアスSimmiasもこの点てんを指摘してきしており(77b-c)、第一だいいち論証ろんしょうと組くみ合あわせて初はじめて「生前せいぜんにも死後しごにも魂たましいは存在そんざいする」と結論けつろんできるとされる。また、「等ひとしさ自体じたい」の存在そんざいを認みとめるかどうかが、この論証ろんしょうの成否せいひを分わける。

魂たましいの先在せんざいを示しめした上うえで、ソクラテスSōkratēsは次つぎに魂たましいの性質せいしつ(可視かし的てきなものと不可視ふかし的てきなものの区別くべつ)からの類比るいひ論証ろんしょうに進すすむ。

6. 第三だいさん論証ろんしょう:類似るいじ性せいの議論ぎろん(77a〜80d)

ソクラテスSōkratēsは存在そんざいするものを二ふたつに分わける。目めに見みえるもの(可視かし的てきなもの)と目めに見みえないもの(不可視ふかし的てきなもの)。身体しんたいは可視かし的てきで、変化へんかし、消滅しょうめつする。イデアideaは不可視ふかし的てきで、不変ふへんで、永遠えいえんだ。魂たましいはどちらに似にているか。魂たましいは目めに見みえず、思考しこうによって不変ふへんの真理しんりを捉とらえる。したがって魂たましいは不可視ふかし的てき・不変ふへん・神的しんてきなものに類似るいじし、消滅しょうめつしにくいと推論すいろんされる(78b-80c)。

これは厳密げんみつには類比るいひ(アナロジーanalogy)であり、論証ろんしょうとしての力ちからは限かぎられている。「似にている」ことは「同おなじである」ことを意味いみしない。影かげは人ひとに「似にて」いるが、人ひとが去されば影かげも消きえる。魂たましいがイデアに「似にている」としても、それだけでは不死ふしの証明しょうめいにはならないのだ。ソクラテスSōkratēs自身じしんもこの論証ろんしょうだけで十分じゅうぶんだとは考かんがえておらず、直後ちょくごにシミアスSimmiasとケベスKebēsから強力きょうりょくな反論はんろんを受うけることになる。

ここで対話たいわは大おおきな転換てんかん点てんを迎むかえる。三みっつの論証ろんしょうを聞きいたシミアスSimmiasとケベスKebēsが、それぞれ鮮あざやかな比喩ひゆを用もちいて反撃はんげきに出でるのだ。

7. シミアスSimmiasとケベスKebēsの反論はんろん(84c〜88b)

ここまで三みっつの論証ろんしょうが積つみ重かさねられてきた。聴衆ちょうしゅうは次第しだいに説得せっとくされつつあるように見みえる。ところがここで、対話たいわは劇的げきてきな転換てんかんを迎むかえる。二人ふたりの若わかい哲学てつがく者しゃが、それぞれ鮮あざやかな比喩ひゆを武器ぶきに反撃はんげきに出でるのだ。

まずシミアスSimmiasが口くちを開ひらく。魂たましいは「竪琴たてごとの調しらべ」(ἁρμονία, ハルモニアharmonia)のようなものではないか、と。竪琴たてごとは木きと弦げんでできた物体ぶったいだが、その調しらべは目めに見みえず、美うつくしく、神的しんてきにさえ思おもえる。しかし竪琴たてごとが壊こわれれば調しらべは消きえる。同様どうように、身体しんたいが壊こわれれば魂たましいも消滅しょうめつするのではないか(85e-86d)。この比喩ひゆは驚おどろくほど現代げんだい的てきだ。脳のうという物質ぶっしつから意識いしきという非ひ物質ぶっしつ的てきなものが生うまれる。しかし脳のうが機能きのうを停止ていしすれば意識いしきも消きえる。というのは、まさに現代げんだい神経しんけい科学かがくの標準ひょうじゅん的てきな見方みかただからである。

ケベスKebēsの反論はんろん:魂たましいは身体しんたいより長命ちょうめいかもしれない。しかし「織物師おりものしと外套がいとう」の喩たとえのように、織物師おりものしは何枚なんまいもの外套がいとうを作つくり着き潰つぶすが、最後さいごに作つくった外套がいとうを残のこして死しぬ。同様どうように、魂たましいは何度なんどかの身体しんたいを使つかい果はたしたあと、最終さいしゅう的てきには消耗しょうもうして滅ほろびるのではないか(87a-88b)。

シミアスSimmiasの反論はんろんは現代げんだいの心身しんしん問題もんだいにおける随伴ずいはん現象げんしょう説せつ(エピフェノメナリズムepiphenomenalism)に通つうじる。意識いしきが脳のうの機能きのうの副産物ふくさんぶつであるなら、脳のうが停止ていしすれば意識いしきも消きえる。ケベスKebēsの反論はんろんは魂たましいの永遠えいえん性せいではなく耐久たいきゅう性せいを問題もんだいにしている点てんで、より根本こんぽん的てきだ。

この二ふたつの反論はんろんによって聴衆ちょうしゅうの確信かくしんは揺ゆらぐ。ソクラテスSōkratēsはまず議論ぎろんへの態度たいどそのものを問とい直なおし、そのうえで再ふたたび論証ろんしょうに向むかう。

8. ミソロギアmisologiaへの警告けいこくと知的ちてき自伝じでん(88b〜102a)

二ふたつの反論はんろんに聴衆ちょうしゅうは動揺どうようする。パイドンPhaidōnは、これまでの議論ぎろんがすべて覆くつがえされたような不安ふあんを感かんじたと語かたる。ここでソクラテスSōkratēsは重要じゅうような警告けいこくを発はっする。「ミソロギアmisologia」(議論ぎろん嫌ぎらい)に陥おちいってはならない、と。議論ぎろんに裏切うらぎられたからといって論理ろんりそのものを憎にくむのは、人間にんげんに裏切うらぎられたからといって人間にんげんそのものを憎にくむ「ミサントロピアmisanthrōpia」(人間にんげん嫌ぎらい)と同おなじ過あやまちだ(89c-91c)。

続つづいてソクラテスSōkratēsはシミアスSimmiasの「調しらべ説せつ」に反駁はんばくする。魂たましいが単たんなる調和ちょうわであるなら、善よい魂たましいと悪わるい魂たましいの区別くべつができない(93a-94b)。また、魂たましいは身体しんたいの欲求よっきゅうに逆さからうことができるが、調和ちょうわが楽器がっきに逆さからうことはない(94b-e)。さらに、想起そうき説せつと調しらべ説せつは両立りょうりつしない──想起そうき説せつでは魂たましいは身体しんたいより前まえに存在そんざいするが、調和ちょうわは楽器がっきの後あとにしか生うじない(92a-c)。

ケベスKebēsへの応答おうとうにあたって、ソクラテスSōkratēsは自みずからの知的ちてき遍歴へんれきを語かたる。若わかい頃ころはアナクサゴラスAnaxagorasの自然しぜん学がくに期待きたいしたが、ヌースnous(知性ちせい)が世界せかいの原因げんいんだと言いいながら、実際じっさいには空気くうきや水みずのような物質ぶっしつ的てき原因げんいんで説明せつめいするだけだった。失望しつぼうしたソクラテスSōkratēsは「第二だいにの航海こうかい」(δεύτερος πλοῦς, 99d)として、直接ちょくせつ事物じぶつを見みるのではなく、言論げんろん(ロゴスlogos)を通つうじて真理しんりを探さがす方法ほうほうに転てんじた。これがイデアidea論ろんへと繋つながる(96a-100a)。

この節せつに登場とうじょうする二ふたつの概念がいねんは、対話たいわ篇へん全体ぜんたいのなかでも格別かくべつの重おもみを持もつ。一ひとつは「ミソロギアmisologia」(μισολογία、議論ぎろん嫌ぎらい)──議論ぎろんに裏切うらぎられた経験けいけんから論理ろんりそのものへの信頼しんらいを失うしなうことである。もう一ひとつは「第二だいにの航海こうかい」(δεύτερος πλοῦς)──事物じぶつを直接ちょくせつ見みるのではなく、言論げんろん(ロゴスlogos)を通とおして真理しんりに迫せまるという方法ほうほう論ろん的てき転換てんかんである。この二ふたつは対ついになっている。ミソロギアmisologiaは「議論ぎろんをやめること」への警告けいこくであり、「第二だいにの航海こうかい」は「議論ぎろんのやり方かたを変かえること」の提案ていあんだ。失敗しっぱいしたからといって探究たんきゅうを放棄ほうきするのではなく、より良よい方法ほうほうで再出さいしゅつ発ぱつせよ──これは哲学てつがくの精神せいしんそのものだろう。

ミソロギアmisologiaの警告けいこくは、個々ここの論証ろんしょうの成否せいひを超こえて、この対話たいわ篇へんのもっとも重要じゅうような哲学てつがく的てき遺産いさんのひとつだろう。考かんがえてみれば、この警告けいこくは自己じこ言及げんきゅう的てきでもある──もしパイドンPhaidōnの四よっつの論証ろんしょうがすべて失敗しっぱいしているとしても、だからといって哲学てつがく的てき探究たんきゅうをやめてよいわけではない。論証ろんしょうが破綻はたんしたら、よりよい論証ろんしょうを探さがせばよいのだ。「第二だいにの航海こうかい」は、まさにそうしたプラトンPlatōn哲学てつがくの方法ほうほう論ろん的てき宣言せんげんである。直接ちょくせつ事物じぶつを見みることで目めを灼やくよりも、言論げんろんの反射はんしゃを通とおして真理しんりに迫せまる──日食にっしょくを水面すいめんに映うつして観察かんさつするように(99d-e)。この比喩ひゆは、西洋せいよう哲学てつがく史しにおける方法ほうほう論ろん的てき転換てんかん点てんとしてしばしば引用いんようされる。

反論はんろんを退しりぞけ、イデアidea論ろんの基盤きばんを確立かくりつしたソクラテスSōkratēsは、いよいよ最もっとも精緻せいちな第四だいよん論証ろんしょうへと踏ふみ込こむ。

9. 第四だいよん論証ろんしょう:イデアideaからの最終さいしゅう論証ろんしょう(102a〜107b)

最もっとも精緻せいちな論証ろんしょうが展開てんかいされる。まず、イデアideaは自みずからの反対はんたいを受うけ入いれない。「大おおきさ自体じたい」は決けっして小ちいさくならない。雪ゆきは「冷つめたさ」を本質ほんしつ的てきに帯おびており、熱ねつが近ちかづけば退しりぞくか消滅しょうめつする。同様どうように、魂たましいは「生命せいめい」を本質ほんしつ的てきに帯おびている。死しは生命せいめいの反対はんたいである。ゆえに魂たましいは死しを受うけ入いれることができない──魂たましいは「不死ふし」(ἀθάνατον, アタナトンathanaton)である(105c-106d)。

この論証ろんしょうを段階だんかい的てきに追おってみよう。(1)イデアideaは自みずからの反対はんたいを受うけ入いれない。(2)あるイデアideaを本質ほんしつ的てきに帯おびるものは、そのイデアの反対はんたいをも受うけ入いれない。(3)魂たましいは生命せいめいのイデアideaを本質ほんしつ的てきに帯おびる。(4)死しは生命せいめいの反対はんたいである。(5)ゆえに魂たましいは死しを受うけ入いれない。(6)死しを受うけ入いれないもの(不死ふしなもの)は不滅ふめつである。(7)ゆえに魂たましいは不滅ふめつである。見事みごとな三段さんだん論法ろんぽうの連鎖れんさだが、果はたしてこの推論すいろんは穴あながないだろうか。

最大さいだいの弱点じゃくてんはステップ(6)にある。「不死ふし」が即すなわち「不滅ふめつ」を意味いみするかどうかは自明じめいではない。雪ゆきは熱ねつを受うけ入いれないが、溶とけて消滅しょうめつする。同様どうように、魂たましいも死しを受うけ入いれずに「退しりぞく」だけかもしれない──しかし退しりぞいた先さきで消滅しょうめつするのかもしれない。ケベスKebēsもこの点てんを認みとめつつ、不死ふしなものが不滅ふめつでなければ何なにも不滅ふめつではないだろうと譲歩じょうほしている(106d)。

四よっつの論証ろんしょうが出で揃そろった。しかしソクラテスSōkratēsは議論ぎろんを閉とじるのではなく、神話しんわの力ちからを借かりて、論証ろんしょうでは語かたりきれないものを描えがき出だす。

10. 死後しごの神話しんわと最期さいごの場面ばめん(107c〜118a)

論証ろんしょうが終おわると、ソクラテスSōkratēsは死後しごの魂たましいの運命うんめいについて壮大そうだいな神話しんわ(μῦθος)を語かたる。大地だいちは巨大きょだいな球体きゅうたいで、私わたしたちは窪くぼみのなかに住すんでいる。真しんの大地だいちの表面ひょうめんには比くらべものにならないほど美うつくしい世界せかいが広ひろがっている。正ただしく生いきた魂たましいはそこへ行いき、哲学てつがくによって十分じゅうぶんに浄化じょうかされた魂たましいはさらに上うえの場所ばしょへ至いたる(108c-114c)。

ソクラテスSōkratēsはこう断ことわる──「知性ちせいある者ものは私わたしが語かたったとおりだと固執こしゅうはしないだろう。しかし、魂たましいが不死ふしであるかぎり、このようなものか、これに似にたものであることを敢あえて信しんじることは、よい賭かけである」(114d)。この言葉ことばは注目ちゅうもくに値あたいする。ソクラテスSōkratēsは神話しんわを真実しんじつとして語かたっているのではない。確実かくじつではないが、信しんじるに足たる「賭かけ」として語かたっている。ここには、論証ろんしょうの限界げんかいを知しりつつなお希望きぼうを手放てばなさない、という哲学てつがく者しゃの姿勢しせいが凝縮ぎょうしゅくされている。

対話たいわはいよいよ最後さいごの場面ばめんへと向むかう。ソクラテスSōkratēsは奥おくの部屋へやで沐浴もくよくし、三人さんにんの息子むすこと二人ふたりの親族しんぞくの女性じょせいに最後さいごの言葉ことばを伝つたえたのち、友人ゆうじんたちのもとに戻もどる。日ひはすでに傾かたむいている。看守かんしゅがやってきて涙なみだながらに別わかれを告つげる──「あなたは私わたしがこれまで見みた中なかで最もっとも高潔こうけつで、最もっとも穏おだやかで、最もっとも善良ぜんりょうな人ひとだ」(116c)。ソクラテスSōkratēsは穏おだやかにうなずき、毒どく杯さかずき(ヘムロックkōneion)を受うけ取とる。

友人ゆうじんたちはもう耐たえきれない。アポロドロスApollodōrosはそれまでも泣なき続つづけていたが、ソクラテスSōkratēsが杯さかずきを飲のみ干ほすのを見みて大声おおごえで号泣ごうきゅうし、その場ばにいた全員ぜんいんが堰せきを切きったように泣なき崩くずれた──クリトンKritōnを除のぞいて。ソクラテスSōkratēsはこう叱しかる。「いったい何なにをしているのだ、不思議ふしぎな人ひとたちよ。女性じょせいたちを先さきに帰かえしたのは、こういうことにならないためだったのに」(117d-e)。友人ゆうじんたちは恥はじて涙なみだを止とめる。

ソクラテスSōkratēsは指示しじされたとおりに歩あるき回まわり、足あしが重おもくなると仰向あおむけに横よこになる。看守かんしゅが足先あしさきをつまみ、感覚かんかくがあるかと尋たずねる。ない、とソクラテスSōkratēsは答こたえる。毒どくは足あしから徐々じょじょに上うえへと広ひろがっていく。やがて腹部ふくぶに達たっした頃ころ、ソクラテスSōkratēsは顔かおにかけていた布ぬのを取とり、最後さいごの言葉ことばを口くちにする。「クリトンKritōn、アスクレピオスAsklēpiosに鶏にわとりを一羽いちわ借かりていた。忘わすれずに返かえしておいてくれ」(118a)。

この最後さいごの言葉ことばほど、古来こらい多おおくの解釈かいしゃくを呼よんだ一文いちぶんはない。アスクレピオスAsklēpiosは医術いじゅつの神かみであり、病やまいが癒いえたときに鶏にわとりを捧ささげるのが古代こだいギリシャGreeceの慣習かんしゅうだった。ニーチェNietzscheはここに深ふかい皮肉ひにくを読よみ取とった──「ソクラテスSōkratēsは生せいを病やまいと見みなしていた」(『悦よろこばしき知識ちしき』340節せつ)。生いきていることが病やまいであり、死しがその治癒ちゆだ、と。もしそうなら、対話たいわ篇へん全体ぜんたいにわたって展開てんかいされた死しへの平静へいせいは、生せいへの深ふかい嫌悪けんおの裏返うらがえしということになる。しかし多おおくの研究けんきゅう者しゃは別べつの解釈かいしゃくを採とる。単たんに文字通もじどおりの借金しゃっきんの返済へんさいをクリトンに託たくしただけかもしれないし、あるいは「哲学てつがくという治療ちりょう」が今日きょう完成かんせいしたことへの感謝かんしゃかもしれない。いずれにせよ、この謎なぞめいた一言ひとことが対話たいわ篇へんの最後さいごであるということ──哲学てつがく的てき議論ぎろんでもなく崇高すうこうな遺言ゆいごんでもなく、日常にちじょう的てきな用事ようじのようなひと言こと──が、読者どくしゃを2400年ねんにわたって惹ひきつけてきた。

パイドンPhaidōnは最後さいごにこう語かたる。「これが我々われわれの友ともの最期さいごであった。我々われわれが知しる限かぎり、当時とうじの人々ひとびとのなかで最もっとも善よく、最もっとも賢かしこく、最もっとも正ただしい人ひとであった」(118a)。この一文いちぶんで対話たいわ篇へんは静しずかに幕まくを閉とじる。

核心かくしん概念がいねんと論証ろんしょうの骨格こっかく

『パイドンPhaidōn』の四よっつの論証ろんしょうは、それぞれ異ことなる前提ぜんていに立たっている。

  • 第一だいいち論証ろんしょう(反対はんたいからの生成せいせい)── 自然しぜん学がく的てき前提ぜんてい:変化へんかは循環じゅんかんする
  • 第二だいに論証ろんしょう(想起そうき説せつ)── 認識にんしき論ろん的てき前提ぜんてい:先天せんてん的てき知識ちしきが存在そんざいする
  • 第三だいさん論証ろんしょう(類似るいじ性せい)── 存在そんざい論ろん的てき類比るいひ:不可視ふかしのものは不滅ふめつに近ちかい
  • 第四だいよん論証ろんしょう(イデアideaからの論証ろんしょう)── 形而上けいじじょう学がく的てき前提ぜんてい:イデアideaは反対はんたいを受うけ入いれない

いずれの論証ろんしょうも現代げんだいの基準きじゅんでは決定けってい的てきではない。しかし重要じゅうようなのは、反論はんろんを受うけるたびにより深ふかい理論りろん的てき基盤きばん──最終さいしゅう的てきにはイデアidea論ろん──が必要ひつようとされるという対話たいわの構造こうぞうだ。プラトンPlatōnは論証ろんしょうの不十分ふじゅうぶんさを隠かくさず、むしろそれを対話たいわの原動力げんどうりょくとして活用かつようしている。哲学てつがくは結論けつろんに到達とうたつすることではなく、問といを深ふかめるプロセスそのものにある──『パイドンPhaidōn』は、その実例じつれいとして読よむことができるだろう。

主要しゅような解釈かいしゃく論争ろんそう

1. 論証ろんしょうは成功せいこうしているか:古代こだいから現代げんだいまで、四よっつの論証ろんしょうのいずれかが決定けってい的てきに魂たましいの不死ふしを証明しょうめいしているとする研究けんきゅう者しゃは少すくない。デイヴィッド・ギャロップDavid Gallop(1975)は各かく論証ろんしょうの弱点じゃくてんを丹念たんねんに分析ぶんせきし、プラトンPlatōn自身じしんが弱点じゃくてんを自覚じかくしていた可能かのう性せいを論ろんじている。

2. プラトンPlatōnは本気ほんきで信しんじていたか:ソクラテスSōkratēsは神話しんわの前まえに「知性ちせいある者ものはこのとおりだと固執こしゅうはしない」(114d)と留保りゅうほをつけている。一部いちぶの研究けんきゅう者しゃは、プラトンPlatōnは魂たましいの不死ふしを確信かくしんとして主張しゅちょうしているのではなく、哲学てつがく的てき探究たんきゅうの実演じつえんを行おこなっているのだと解釈かいしゃくする。

3. 身体しんたい蔑視べっしの問題もんだい:哲学てつがくを「身体しんたいからの解放かいほう」と定義ていぎする議論ぎろんは、ニーチェNietzscheやフェミニスト哲学てつがくから強つよい批判ひはんを受うけてきた。ただしプラトンPlatōnの後期こうき対話たいわ篇へん(『ティマイオスTimaios』など)では身体しんたいへの評価ひょうかがより積極せっきょく的てきになっており、『パイドンPhaidōn』の立場たちばをプラトンPlatōnの最終さいしゅう見解けんかいと即断そくだんすべきではない。

4. ピュタゴラスPythagoras派はとの関係かんけい:対話たいわ相手あいてのシミアスSimmiasとケベスKebēsはテーバイThēbaiのピュタゴラスPythagoras派は哲学てつがく者しゃピロラオスPhilolaosの弟子でしである。輪廻りんね転生てんせいや魂たましいの浄化じょうかといった主題しゅだいはピュタゴラスPythagoras派はの影響えいきょうを色濃いろこく反映はんえいしており、どこまでが歴史れきし的てきソクラテスSōkratēsで、どこからがプラトンPlatōnの独自どくじの思想しそうかは議論ぎろんが続つづいている。

この書物しょもつの影響えいきょう史し

古代こだい:アリストテレスAristotelēsは『パイドンPhaidōn』のイデアidea論ろんを正面しょうめんから批判ひはんした(『形而上学Metaphysica』A巻かん)。とりわけ「分離ぶんりされたイデアが個物こぶつの原因げんいんであるとは言いえない」という批判ひはんは、第四だいよん論証ろんしょうの前提ぜんていを直撃ちょくげきする。新しんプラトンPlatōn主義しゅぎのプロティノスPlotinosは魂たましいの不死ふしと浄化じょうかの主題しゅだいを継承けいしょう・発展はってんさせ、『エネアデスEnneades』IV.7「魂たましいの不死ふしについて」では『パイドンPhaidōn』の論証ろんしょうを再構さいこう成せいしている。古代こだい末期まっきにはオリュンピオドロスOlympiodōrosによる詳細しょうさいな注釈ちゅうしゃくが書かかれ、ビザンツByzantion世界せかいを通つうじて後世こうせいに伝つたえられた。

キリストChrist教きょう神学しんがく:初期しょきキリストChrist教きょうの教父きょうふたちは『パイドンPhaidōn』の魂たましいの不死ふし論ろんを聖書せいしょの復活ふっかつ信仰しんこうと結むすびつけた。アウグスティヌスAugustinusはプラトンPlatōn的てきな魂たましい論ろんをキリストChrist教きょう的てき枠組わくぐみに取とり込こんだ。ただし聖書せいしょの「身体しんたいの復活ふっかつ」とプラトンPlatōn的てきな「身体しんたいからの解放かいほう」には根本こんぽん的てきな緊張きんちょう関係かんけいがある。中世ちゅうせいのトマス・アクィナスThomas Aquinasは『神学しんがく大全たいぜん』において魂たましいの不死ふしを論ろんじる際さい、プラトンPlatōn的てき論証ろんしょうを参照さんしょうしつつ、アリストテレスAristotelēsの質料しつりょう形相けいそう論ろんによって修正しゅうせいを加くわえた。

近代きんだい以降いこう:デカルトDescartesの心身しんしん二元にげん論ろんは『パイドンPhaidōn』の魂たましいと身体しんたいの分離ぶんり論ろんの近代きんだい版ばんとも読よめる。カントKantは魂たましいの不死ふしを理論りろん理性りせいでは証明しょうめいできないとしつつ、実践じっせん理性りせいの「要請ようせい」として保持ほじした──『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』の「誤謬ごびゅう推理すいり」の章しょうでは、まさにパイドンPhaidōn型がたの魂たましいの不死ふし論ろん証しょうが批判ひはんされている。現代げんだいの心こころの哲学てつがくでは、シミアスSimmiasの「調しらべ説せつ」とその反駁はんばくが、機能きのう主義しゅぎと心的しんてき因果いんがをめぐる議論ぎろんの先駆せんくとして注目ちゅうもくされている。

現代げんだいへの接続せつぞく

第一だいいちに、意識いしきの「ハード・プロブレム」。脳のう科学かがくは神経しんけい活動かつどうと意識いしき経験けいけんの相関そうかんを明あきらかにしつつあるが、なぜ物理ぶつり的てき過程かていから主観しゅかん的てき経験けいけんが生うじるのかという問題もんだいは解決かいけつされていない。シミアスSimmiasの「調しらべ説せつ」をめぐる議論ぎろんは、意識いしきを脳のうの機能きのうに還元かんげんできるかという現代げんだいの問といに直結ちょっけつしている。

第二だいにに、死しと向むき合あう哲学てつがく。終末しゅうまつ期き医療いりょうやホスピスhospiceの現場げんばで、死しを恐おそれずに受うけ入いれるとはどういうことかという問といは切実せつじつだ。ソクラテスSōkratēsの態度たいどを現代げんだいにそのまま持もち込こむことはできないが、死しに臨のぞんで理性りせいを手放てばなさないという姿勢しせいは参照さんしょう点てんであり続つづけている。

第三だいさんに、「議論ぎろん嫌ぎらい」への抵抗ていこう。SNS時代じだいの分断ぶんだんのなかで、議論ぎろんに疲つかれて対話たいわそのものを放棄ほうきする傾向けいこうが広ひろがっている。「何なにを言いっても無駄むだだ」「話はなし合あいは時間じかんの無駄むだだ」──こうした感覚かんかくは、まさにソクラテスSōkratēsが警告けいこくした「ミソロギアmisologia」そのものである。悪わるい議論ぎろんに出会であったからといって、議論ぎろんそのものを嫌きらってはならない。問題もんだいは議論ぎろんにあるのではなく、議論ぎろんの仕方しかたにある──これは現代げんだい社会しゃかいにとってもっとも切実せつじつな教訓きょうくんかもしれない。

第四だいよんに、AI時代じだいの「魂たましい」とは何なにか。大規模だいきぼ言語げんごモデルmodelが人間にんげんのように「考かんがえ」「語かたる」今日こんにち、意識いしきや知性ちせいとは何なにかという問といが新あらたな緊急きんきゅう性せいを帯おびている。もしAIが「知的ちてきに振ふる舞まう」のに魂たましいを必要ひつようとしないなら、私わたしたちは何なにをもって人間にんげんの特別とくべつさを主張しゅちょうするのか。シミアスSimmiasの「調しらべ説せつ」──意識いしきは物質ぶっしつの構成こうせいから生うまれる付随ふずい現象げんしょうにすぎない──は、AI時代じだいにこそもっとも鋭するどく響ひびく問といかもしれない。

読者どくしゃへの問とい

  • 『パイドンPhaidōn』の四よっつの論証ろんしょうはいずれも決定けってい的てきではない──にもかかわらず、ソクラテスSōkratēsは平静へいせいに死しを迎むかえた。論証ろんしょうが不完全ふかんぜんであっても信しんじることは「よい賭かけ」でありうるか。
  • 意識いしきが脳のうの機能きのうにすぎないなら、脳のうが停止ていしした後あとに「私わたし」は存在そんざいしない。シミアスSimmiasの「竪琴たてごとの調しらべ」の比喩ひゆは正ただしいか。もし正ただしいなら、死しの恐怖きょうふにどう向むき合あえばよいか。
  • あなたが「もう議論ぎろんしても無駄むだだ」と感かんじたことはあるか。ソクラテスSōkratēsのミソロギアmisologiaへの警告けいこくは、そのとき助たすけになるだろうか。
  • もし今夜こんや死しぬとしたら、あなたは何なにについて語かたりたいか。ソクラテスSōkratēsのように哲学てつがくを選えらぶか。それとも別べつのことを選えらぶか。

重要じゅうよう引用いんよう(出典しゅってんつき)

"「正ただしく哲学てつがくする者ものたちは、死しぬことを練習れんしゅうしているのだ」。" 出典しゅってん:プラトン『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』67e/原文げんぶん:"οἱ ὀρθῶς φιλοσοφοῦντες ἀποθνῄσκειν μελετῶσι"
"「人間にんげん嫌ぎらいになる人ひとがいるように、議論ぎろん嫌ぎらいになるまい」。" 出典しゅってん:プラトン『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』89d/原文げんぶん:"μὴ μισολόγοι γενώμεθα [...] ὥσπερ οἱ μισάνθρωποι γιγνόμενοι"
"「クリトンKritōn、アスクレピオスAsklēpiosに鶏にわとりを一羽いちわ借かりていた。忘わすれずに返かえしておいてくれ」。" 出典しゅってん:プラトン『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』118a/原文げんぶん:"ὦ Κρίτων, τῷ Ἀσκληπιῷ ὀφείλομεν ἀλεκτρυόνα· ἀλλὰ ἀπόδοτε καὶ μὴ ἀμελήσητε."
"「これが我々われわれの友ともの最期さいごであった。我々われわれが知しる限かぎり、当時とうじの人々ひとびとのなかで最もっとも善よく、最もっとも賢かしこく、最もっとも正ただしい人ひとであった」。" 出典しゅってん:プラトン『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』118a/原文げんぶん:"ἥδε ἡ τελευτὴ [...] τοῦ ἑταίρου ἡμῖν ἐγένετο, ἀνδρός, ὡς ἡμεῖς φαῖμεν ἄν, τῶν τότε ὧν ἐπειράθημεν ἀρίστου καὶ ἄλλως φρονιμωτάτου καὶ δικαιοτάτου."

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん):Plato, Phaedo, in Platonis Opera, ed. J. Burnet, Oxford Classical Texts, vol. I, 1900.(ステファヌスStephanus版ばん57a-118a)
  • (邦訳ほうやく):岩田いわた靖夫やすお訳やく『パイドンPhaidōn──魂たましいの不死ふしについて』岩波いわなみ文庫ぶんこ、1998年ねん(2025年ねん改版かいはん)。
  • (邦訳ほうやく):納富のうとみ信留のぶる訳やく『パイドンPhaidōn──魂たましいについて』光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ。
  • (英訳えいやく・注釈ちゅうしゃく):Gallop, David. Plato: Phaedo. Oxford: Clarendon Press, 1975.── 各かく論証ろんしょうの分析ぶんせきが充実じゅうじつした定番ていばん注釈ちゅうしゃく
  • (研究けんきゅう書しょ):Bostock, David. Plato's Phaedo. Oxford: Clarendon Press, 1986.── 論証ろんしょうの論理ろんり的てき構造こうぞうに焦点しょうてんを当あてた分析ぶんせき
  • (邦語ほうご研究けんきゅう):内山うちやま勝利かつとし・神崎かんざき繁しげる・中畑なかはた正志まさし編へん『プラトンPlatōnを学まなぶ人ひとのために』世界せかい思想しそう社しゃ、2014年ねん。── 『パイドンPhaidōn』を含ふくむ各かく対話たいわ篇へんの概説がいせつと研究けんきゅう案内あんない
  • ウェブweb:Internet Encyclopedia of Philosophy, "Plato: Phaedo" (Tim Connolly). https://iep.utm.edu/phaedo/