京都の東山、銀閣寺から南禅寺へ向かう疏水沿いの小径がある。春には桜のトンネルとなり、秋には紅葉が水面を染めるこの道を、一人の哲学者が毎朝、深い思索に沈みながら歩いた。西田幾多郎。自宅から京都帝国大学への通勤路であったこの散歩道は、やがて「哲学の道」と呼ばれるようになり、今日では京都を代表する観光名所となっている。しかし西田がこの道で追い求めていたのは風景の美しさではなく、「考えること」のさらに手前にある何か(主観と客観が分かれる以前の、経験そのものの根源)だった。
1911年、西田は『善の研究』を刊行する。41歳。「哲学」という日本語が西周によって造語されてからわずか40年足らず。日本の知識人がもっぱら西洋思想の「輸入と翻訳」に従事していた時代に、この書物は衝撃をもたらした。日本語で書かれた最初の本格的な独創的哲学書。発売直後から読書界の話題を攫い、旧制高校の学生たちの必読書となり、哲学書としては異例の版を重ねた。西田はこの一冊をもって、日本が西洋哲学の「受容者」から「発信者」に転じうることを実証した。
西田の哲学は難解をもって知られる。「絶対矛盾的自己同一」「場所的論理」「行為的直観」。その用語は日本語であるにもかかわらず、初めて読む者には外国語のように見える。しかしその核心にあるのは、驚くほどシンプルな問いだ。「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の根源的な経験とは何か」。この問いは、ウィリアム・ジェイムズの根本的経験論、フッサールの現象学、禅仏教の悟りの体験を一つの地平で統合しようとする壮大な試みに西田を導いた。「経験とは何か」「意識の根源とは何か」。脳科学や心の哲学が飛躍的に発展した今日においても、この問いはかつてないほど切迫している。その問いの最も独創的な探究者の一人が、西田幾多郎である。
この記事の要点
- 「純粋経験」── 主客未分の根源:西田は、主観(「見る私」)と客観(「見られる世界」)が分かれる以前の直接的な経験──色を見た瞬間、音を聞いた瞬間の、判断も反省もない生の経験──を「純粋経験」と呼び、これこそが実在の根本形態だと主張した。これは西洋近代哲学がデカルト以来前提としてきた「主観/客観」の二元論を根底から問い直す試みである。
- 「絶対無の場所」── 西洋論理学の限界への挑戦:西田は後年、純粋経験の立場を「場所」の論理へと発展させた。西洋論理学が「あるもの(有)」を基盤とするのに対し、西田は「無」──しかもあらゆる「有」を包み込む「絶対無」──こそが、すべての存在と認識が成立する「場所」だと論じた。これは東洋の「無」の伝統を哲学的概念として鍛え上げる前例のない試みであった。
- 「絶対矛盾的自己同一」── 対立の根源的統一:西田哲学の到達点は、矛盾するものが矛盾したまま一つであるという「絶対矛盾的自己同一」の論理である。個と全体、有と無、主観と客観──これらは排除し合うのではなく、相互否定を通じて根源的に一つである。この論理は、ヘーゲル弁証法の「止揚(アウフヘーベン)」とも禅の「即非の論理」とも異なる、西田独自の存在論的洞察である。
生涯と時代背景
西田幾多郎は1870年(明治3年)5月19日、石川県河北郡宇ノ気村(現・かほく市)に生まれた。加賀藩の下級士族の家系であり、父・得登は小学校長を務めた教育者だった。明治維新からわずか3年後(武士の時代が終わり、日本が急速な近代化に突入した時代である)。「哲学」という日本語自体が、西周によって "philosophy" の訳語として造られたのは1874年のこと。西田が生まれたとき、日本にはまだ「哲学」という言葉すら定着していなかった。
1886年頃、西田は第四高等中学校(後の第四高等学校、金沢)に入学する。ここで生涯の親友となる鈴木貞太郎(後の鈴木大拙、禅を世界に紹介した仏教思想家)と出会う。二人は机を並べて学び、ともに禅に関心を抱いた。この友情は70年余りにわたって続き、書簡を通じて互いの思索を刺激し合った。西田が「哲学の言語」で禅を語ろうとし、鈴木が「禅の言語」で世界に語りかけた。この二つの道は同じ根から伸びた枝である。
1891年、東京帝国大学文科大学哲学科に「選科生」(正規課程ではなく聴講に近い身分)として入学。当時の東京帝大哲学科はドイツ観念論の輸入が中心であり、西田はカント、ヘーゲル、ショーペンハウアーを学んだ。しかし選科生という身分は正規の学位をもたらさず、卒業後のアカデミックキャリアには大きな不利となった。この経験は、体制内での不遇と、それにもかかわらず自力で道を切り拓く粘り強さを、西田の人格に刻み込んだ。
1894年に東京帝大を去り、石川県の中学校教師、第四高等学校講師として地方での教育生活を送る。この時期に西田は参禅を本格的に開始した。京都・妙心寺の禅堂に通い、臨済禅の修行に打ち込んだ。西田の日記には坐禅の記録が克明に残されている。「無の一字」に集中する修行の苦しさと、ときおり訪れる透徹した覚知の瞬間。「哲学書を読んで得た知識」ではなく「坐禅を通じて身体で掴んだ経験」が、やがて西田哲学の核心(「純粋経験」)を形作ることになる。
1910年、40歳にして京都帝国大学文科大学助教授に就任。1911年、『善の研究』を弘道館から刊行する。この書物は哲学の専門書でありながら、旧制高校の学生たちを中心に広く読まれ、哲学書としては異例の反響を呼んだ。大正期の教養主義の波に乗り、「善の研究を読んだか」は知識青年たちの合言葉のようになったと伝えられる。1913年に教授に昇任し、以後1928年の退官まで京都帝大で教鞭を執った。
京大の西田研究室からは、田辺元、三木清、西谷啓治、久松真一、高坂正顕ら、後の「京都学派」の中核を担う思想家が次々と輩出された。西田の講義は口下手で決して雄弁ではなかったが、思索の深さと誠実さが学生を引きつけたという。自宅から大学までの通勤路(銀閣寺付近から疏水沿いに南禅寺方面へ向かう小径)を、西田は毎日深い瞑想の中を歩いた。弟子の田辺元もまたこの道を歩いたことから、この散歩道はいつしか「哲学の道」と呼ばれるようになり、今日では京都を代表する名所として知られている。
西田の私生活は、深い悲哀に彩られていた。1907年に長男・謙が幼くして病死し、1920年代には長女・幾も病に倒れた。妻・寿美は長く病床にあり、1925年に亡くなった。晩年の日記に西田は記している。「哲学の動機は『驚き』ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」。アリストテレスが哲学の始まりを「驚き(タウマゼイン)」に求めたのに対し、西田は自身の骨身に沁みた悲しみを哲学の源泉と見た。「純粋経験」や「絶対無」という抽象的な概念の背後に、子を失った父親の嘆きがある。この点を見落とすと、西田哲学は単なる知的ゲームに矮小化される。
1928年に京大を退官した後も京都に住み続け、著述に専念した。晩年は鎌倉に移り、太平洋戦争の渦中で「世界新秩序の原理」(1943年)など政治的テクストも残している(後述「批判と論争」を参照)。1945年6月7日、鎌倉にて尿毒症のため死去。享年75歳。日本の無条件降伏のわずか2か月前。西田が生涯をかけて「東洋と西洋の架橋」を試みた知的営みは、その橋が戦火によって引き裂かれる直前に終わった。
ミニ年表
- 1870年:石川県河北郡宇ノ気村(現・かほく市)に生まれる。加賀藩士族の家系
- 1886年頃:第四高等中学校(金沢)に入学。鈴木大拙(貞太郎)と出会う
- 1891年:東京帝国大学文科大学哲学科選科に入学
- 1894年:東京帝大を去る。石川県尋常中学校の教師となる
- 1896年頃:参禅を本格的に開始。京都・妙心寺などの禅堂に通う
- 1899年:第四高等学校講師に就任
- 1907年:長男・謙が病死
- 1910年:京都帝国大学文科大学助教授に就任
- 1911年:『善の研究』刊行(弘道館)。哲学書としては異例の反響を呼ぶ
- 1913年:京都帝国大学教授に昇任
- 1917年:『自覚に於ける直観と反省』刊行
- 1925年:妻・寿美死去
- 1926年:論文「場所」発表(『哲学研究』)。「場所の論理」への決定的転換
- 1927年:『働くものから見るものへ』刊行
- 1928年:京都帝国大学を退官。京都にて著述に専念
- 1933-1934年:『哲学の根本問題』(正・続)刊行
- 1939年:「絶対矛盾的自己同一」論文発表
- 1945年:6月7日、鎌倉にて死去(享年75歳)。遺稿「場所的論理と宗教的世界観」が遺作となる
西田は何を問うたのか
西田が生きた明治・大正・昭和の日本は、西洋文明の猛烈な吸収に没頭していた。哲学もその例外ではなく、井上哲次郎や大西祝ら先行世代の仕事は、カントやヘーゲルの紹介・解説が中心であった。「西洋哲学を正確に理解すること」がそのまま「哲学すること」と見なされた時代に、西田はまったく別の問いを立てた。西洋哲学の根本前提そのものを問い直すことはできないか。
デカルト以来、西洋哲学は「考える主体(コギト)」と「考えられる対象(世界)」の分離を出発点とし、主観がいかにして客観を正確に認識できるかという「認識論」を中心問題としてきた。カントはこの問いに「純粋理性批判」で応答し、ヘーゲルは弁証法によって主観と客観の統一を試みた。しかし、と西田は問う。主観と客観の区別そのものが、すでに派生的な事態ではないか。
色を見る瞬間、「私が色を見ている」という反省はまだ生じていない。その反省以前の直接的な経験(「赤い」という意識がただそこにある状態)こそが、最も根源的な実在の形態なのではないか。「私」と「赤」が分かれるのは、その後に反省的思考が介入するからにすぎない。
この問いは、西田が同時代に接した二つの思想潮流と深く共鳴していた。一つはウィリアム・ジェイムズの「純粋経験(ピュア・エクスペリエンス)」の概念である。ジェイムズは1904年の論文「『意識』は存在するか」およびその続編「純粋経験の世界」で、主観でも客観でもない「経験そのもの」を実在の根本に据える根本的経験論を提唱した。西田の「純粋経験」概念はジェイムズから直接影響を受けている(ただし西田はジェイムズ以上にこの概念を存在論的に深化させた)。もう一つは禅仏教の体験である。十年以上にわたる参禅を通じて西田が体得した「主客合一」の境地(見るものと見られるものが分かれていない直接的な覚知)は、哲学書からではなく身体を通じて得られた経験的基盤であった。
西田が独創的だったのは、この「主客未分の経験」を、単なる神秘体験や詩的直観としてではなく、西洋哲学の厳密な論理と概念装置を用いて体系的に言語化しようとした点にある。禅の老師は公案と沈黙でこの経験を伝えるが、西田はカント、ヘーゲル、フィヒテ、フッサール、ベルクソンの言語を駆使してそれを哲学的命題の体系に鋳造しようとした。この試みが「東洋と西洋の架橋」と呼ばれる所以であり、同時にその困難さが西田哲学の難解さの主要な原因でもある。「言葉にできないもの」をあえて言葉にしようとする。この不可能への挑戦が、西田哲学の根本的な緊張を生み出している。
核心理論
1. 純粋経験 ── 主客未分の実在
西田哲学の出発点は『善の研究』(1911年)で提示された「純粋経験」の概念である。西田はこう書いている。「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」(『善の研究』第一編第一章)。ここで「自己の細工」とは、判断、分類、反省といった知的操作のことである。それらが介入する以前の、生の経験そのものが「純粋経験」である。
具体例を挙げよう。優れた音楽家が演奏に没入しているとき、「私が演奏している」という意識はない。音楽と演奏者が一体となった状態がある。あるいは、断崖に立って壮大な風景を目にした瞬間、「私」と「風景」の区別は消え、ただ圧倒的な経験だけがある。スポーツ選手が言う「ゾーンに入る」状態(自意識が消え、行為と環境が一つになる瞬間)もまた、純粋経験の一例である。西田によれば、このような状態こそが経験の根源的形態であり、「主観が客観を認識する」という構図は、この根源的経験から事後的に抽象された派生的な事態にすぎない。
この立場の射程は大きい。デカルトの「我思う、ゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」は、「思う」という行為の中にすでに「思う主体(我)」を前提として読み込んでいる。西田に言わせれば、「思う」という経験そのものが根源的であり、そこに「我」を見出すのは二次的な反省の所産である。この意味で、西田の純粋経験論はデカルト的コギトの根底を掘り崩す試みであり、後にフッサールが「志向性」の分析を通じて、メルロ=ポンティが「知覚の現象学」を通じて到達しようとした地点と深い親縁性を持つ。
ただし、『善の研究』には根本的な困難が含まれていた。純粋経験を言語化すること自体が、すでに純粋経験からの逸脱ではないのか。言語は主語と述語の構造を持ち、必然的に主客の分離を含意する。「純粋経験がある」と書いた瞬間、そこには「純粋経験」(対象)と「それについて語る私」(主体)の分裂が生じている。西田自身もこの困難を自覚しており、後年には『善の研究』の立場をそのまま維持するのではなく、より深い論理へ展開する必要を繰り返し語っている。後年の「場所の論理」への展開は、この言語化の困難を乗り越えるための試みでもあった。
2. 自覚 ── 自己が自己を映す構造
『善の研究』後、西田は純粋経験の概念をさらに深化させ、「自覚」の哲学へと移行する。中心著作は『自覚に於ける直観と反省』(1917年)である。ここで西田が注目するのは、意識が自分自身を意識するという再帰的な構造(「自覚」)である。
自覚とは、単なる自己認識ではない。鏡に映った自分の顔を見ることではなく、見る行為そのものが見られる行為と同一であるような事態(「自己が自己の中に自己を映す」構造)を指す。フィヒテの「自我は自我自身を定立する(ダス・イッヒ・ゼッツト・ジッヒ・ゼルプスト)」という命題を西田は独自に発展させ、自覚の構造の中に「直観」(直接的な把握)と「反省」(自己を対象化する知的操作)の統一を見出そうとした。
この段階での西田の課題は、純粋経験の「主客未分」の洞察を、単なる出発点ではなく、意識の構造全体を説明する原理にまで高めることだった。しかし西田は次第に、この「自覚」の体系がなおフィヒテ的な「自我」の枠組みに縛られていることに不満を感じる。「自覚する自我」はまだ「主体」の側にとどまっており、真に主客の分離を超えてはいない。「主体の哲学」の内部でいくら深掘りしても、「主体」という枠そのものの外には出られない。この行き詰まりが、次の「場所」の論理への決定的な転換を準備した。
3. 場所の論理 ── 「於いてある」の哲学
1926年の論文「場所」は、西田哲学の決定的な転換点とされる。西田はここで、アリストテレス以来の西洋論理学が「主語」と「述語」の構造(「SはPである」)に基づいていることに注目する。この構造では、「S(主語)」に当たるもの、すなわち「基体(ヒュポケイメノン)」が存在の中心に置かれる。何かが「ある」とは、つまり主語の位置に立つことである。
西田はこの構造を逆転させる。「あるもの」(主語的なもの)ではなく、あるものが「於いてある場所」(述語的なもの)こそが、より根源的ではないか。赤い花が「ある」とき、その「ある」を可能にしている「場」がある。意識が何かを認識するとき、その認識を包み込んでいる「場所」がある。西田はこの「場所」を三つの層に分ける。
第一に「有の場所」(自然科学が扱う物理的世界。物体は空間・時間という「場所」の中に存在する)。第二に「相対無の場所」(意識の場。意識は物理的対象を包み込んで認識するが、意識自体は物理的対象ではない。意識は「何ものでもない(無)」からこそ、あらゆるものを映し出す鏡となりうる。ちょうど鏡が透明(無色)であるからこそ色を映せるように)。第三に「絶対無の場所」(意識すらも包み込む究極の場所。これは有でも無でもなく、有と無の対立そのものを超えた場所であり、西田はこれを「絶対無」と呼ぶ)。
「絶対無」は単なる「何もない状態」ではない。むしろ、あらゆる存在と非存在を自らの内に含む無限の包摂力を持つ「場所」である。西洋哲学が「有(存在、Being)」を基盤とするのに対し(パルメニデスの「あるものはある、ないものはない」からハイデガーの「存在の問い」に至るまで)、西田は「無」を基盤に据えた。しかしそれは西洋的な「有」の単純な否定ではなく、「有」をも包み込む「無」、つまり大乗仏教でいう「空(シューニャター)」や禅でいう「無」の哲学的言語化である。
この「場所の論理」は、西洋論理学のアリストテレス的伝統(主語的論理)に対する根本的な批判であり代替案であった。西田の主張は、西洋の論理学は常に「あるもの」を起点とするが、「あるもの」が「ある」ためにはそれを包む「場所」が必要であり、その究極の場所は「有」ではなく「無」であるというものだった。この発想は、西洋哲学の内部からはおそらく出てこなかった。禅の修行を通じて「無」を体得し、同時に西洋哲学の論理構造を熟知していた西田だからこそ到達しえた視点である。
4. 絶対矛盾的自己同一 ── 対立を超える論理
西田哲学の後期を代表する概念が「絶対矛盾的自己同一」である。この概念は1939年の同名論文(『哲学論文集 第三』所収)で体系的に展開された。
この概念を理解するには、まず通常の論理学における矛盾律(「Aであり、かつAでない」ということはありえない)を想起する必要がある。西田が論じているのは、この矛盾律を単純に否定することではなく、矛盾する二つの契機が矛盾したまま一つの実在を構成するという事態である。
例えば「個と全体」の関係を考える。真の個は全体から独立して存在するのではなく、全体の中において初めて個として成立する。しかし同時に、全体もまた個々の要素なしには存在しない。個は全体を否定し(個は全体ではない)、全体は個を否定する(全体は個ではない)。しかしこの相互否定を通じて、両者は根源的に一つの実在を形成している。これが「絶対矛盾的自己同一」である。
これはヘーゲルの弁証法(正・反・合)とどう違うのか。ヘーゲルの弁証法では、矛盾は「止揚(アウフヘーベン)」によって高次の統一に解消される。AとBの対立はCという合一に「揚げられる」。しかし西田の「絶対矛盾的自己同一」では、矛盾は解消されない。AとBは矛盾したまま(矛盾を保持したまま)同一なのである。西田はヘーゲルの弁証法を「まだ合理主義的であり、真の矛盾に耐えていない」と批判した。
禅の言葉で言えば、「山は山であり、水は水である」→「山は山にあらず、水は水にあらず」→「山はやはり山であり、水はやはり水である」。この三段の否定と肯定が一瞬のうちに成立する事態(「否定の否定」が単なる元への回帰ではなく、全く新しい深さでの肯定となる事態)が絶対矛盾的自己同一の具体的な意味である。身近な例を挙げれば、「私は完全に自由であると同時に完全に制約されている」──人間の自由は無制約的な気ままではなく、身体・言語・歴史・他者という徹底的な制約の中でこそ成立する。自由と制約は矛盾しつつ同一である。西田はこの論理を、単に抽象的な形而上学としてではなく、歴史、宗教、芸術、道徳の領域にまで適用しようとした。
5. 行為的直観 ── 「作ることによって知る」
後期西田哲学のもう一つの重要概念が「行為的直観」である。これは認識論と存在論の統一を目指す概念であり、「ものを作ることがものを見ることであり、ものを見ることがものを作ることである」(『哲学論文集 第二』)という逆説的な命題で表現される。
西洋近代の認識論では、認識はまず対象を「見る」(観察する)ことから始まり、次にそれに「働きかける」(実践する)という順序が暗黙の前提とされてきた。理論が先、実践が後。西田はこの順序を根本的に問い直す。陶芸家が轆轤に向かうとき、完成形の「設計図」が先にあってそれを粘土に「適用」するのではない。粘土に触れ、回転する轆轤の上で手を動かす行為の中で、器の形が現れてくる。粘土の抵抗が手に伝わり、その感触が次の動きを導く。行為の中に直観があり、直観の中に行為がある。両者は分離不可能である。
この概念は、マルクスの「実践(プラクシス)」概念(人間は世界を解釈するだけでなく変革する)やハイデガーの「道具的存在(ツーハンデンハイト)」(ハンマーを「眺める」のではなく「使う」ことの中でハンマーの存在が開示される)との類似性が指摘されている。しかし西田の「行為的直観」は、これらを存在論的に一層深い水準(「世界が自己自身を形成する」過程としての行為)へと推し進めた。認識する主体が世界を「外から」眺めるのではなく、主体自身が世界の自己形成の一部であり、「私が世界を作る」と同時に「世界が私を作る」。この相互形成の動的過程が、行為的直観の核心である。
主要著作ガイド
西田の著作は難解であり、入門書から段階的に読み進めることが強く推奨される。以下に読む順序を示す。
- 小坂国継『西田幾多郎の思想』(講談社学術文庫、2002年) ── 西田哲学の全体像を平明な日本語で概説する定評のある入門書。「純粋経験」から「絶対矛盾的自己同一」に至る思想の展開を、時系列に沿って追うことができる。最初に読むべき一冊。
- 藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学』(岩波新書、2007年) ── 西田の生涯と思想を一体のものとして描く伝記的入門書。哲学の内容だけでなく、西田がどのような経験から思索を紡ぎ出したかを知ることができる。
- 西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫) ── 西田の処女作にして代表作。第一編「純粋経験」が核心。文体は後期の著作に比べれば格段に読みやすく、哲学書としての完成度も高い。日本語で書かれた独創的哲学書として歴史的意義を持つ。ただし後期西田哲学との断絶もあるため、これだけで西田を理解したと思わないこと。
- 西田幾多郎『働くものから見るものへ』(岩波文庫) ── 「場所」の論理への転換期の論文集。「場所」論文を含む。西田哲学の中期を代表する著作であり、『善の研究』から後期への橋渡しとなる。
- 西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集 III』(上田閑照編注、岩波文庫) ── 「絶対矛盾的自己同一」など後期の核心的論文を注釈つきで収録。極めて難解だが、西田哲学の到達点を知るためには避けて通れない。上田の注が理解の助けになる。
- 上田閑照『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫、2002年) ── 京都学派の継承者による本格的な西田論。西田哲学を禅の伝統との関係において深く読み解く。西田を「内側から」理解するための必読文献。
主要な批判と論争
1. 田辺元の批判(同時代):西田の最も重要な批判者は、京都帝大の同僚であり弟子でもあった田辺元である。田辺は1930年の論文「西田先生の教を仰ぐ」で、西田の「場所の論理」が「直観的」にすぎ、論理的な媒介を欠いていると批判した。西田の「絶対無」は禅的な直接体験に依拠するが、哲学はそのような直接性を論理的に媒介しなければならない、と田辺は主張した。田辺はこれに対して「種の論理」──個と類の間に「種」(民族・社会といった具体的共同体)を媒介項として挿入する弁証法──を提唱した。師弟関係にあった二人の公開の論争は、日本哲学史上最も生産的な知的対決の一つとされ、西田もこの批判に応答する形で自身の論理を精緻化していった。
2. 戸坂潤のマルクス主義的批判(同時代):京都学派の左派に属する戸坂潤は、西田哲学の「観念論」的性格を鋭く批判した。戸坂は西田の「場所」の論理が社会的・歴史的な現実から遊離した抽象的形而上学であると論じ、マルクスの唯物論的弁証法こそが現実の変革に資する哲学だと主張した。西田が「絶対無」という超越的原理に訴えること自体が、社会的現実の矛盾を覆い隠す機能を持つ──これは「現実の苦しみを観念的に解消してしまう」観念論への古典的批判の変奏である。戸坂は治安維持法違反で投獄され、1945年8月9日、敗戦のわずか6日前に獄中で病死した。
3. 政治的論争──戦争協力をめぐって(近現代):西田の政治的立場をめぐる論争は、今日なお解決していない。西田は太平洋戦争中に「世界新秩序の原理」(1943年)など、日本を中心とする「東亜共栄圏」の理念的基礎づけと読みうるテクストを残している。一方で、軍部の単純な膨張主義には批判的であり、「各民族がそれぞれの個性を保ちつつ一つの世界を形成する」という理念は、軍国主義とは異なる普遍的なビジョンを含んでいたとする解釈もある。さらに、軍部の政策に対して批判的な私信も残されており、西田の真意については研究者の間で見解が鋭く対立している。
酒井直樹らは西田哲学が結果として日本帝国主義の知的正当化に利用されたことを厳しく批判し、中村雄二郎や上田閑照らは西田が体制に対して可能な範囲で抵抗しつつ哲学的理念を貫こうとしたと弁護する。この問題はハイデガーとナチズムの関係をめぐる論争と構造的に類似しており、哲学的業績と政治的行為の関係という普遍的な問いを提起している。
4. 分析哲学からの批判(現代):英米系の分析哲学の立場からは、西田の概念(「絶対無」「絶対矛盾的自己同一」など)が論理的に不明瞭であり、検証可能な命題として定式化できないという批判がある。矛盾律の「超克」を主張する西田の立場は、分析哲学の基本前提──論理的整合性が思考の最低限の条件である──と正面から衝突する。「矛盾したまま同一である」とは厳密にはどういうことか。それは矛盾律を否定しているのか、それとも通常の矛盾律が適用される水準とは別の水準の話をしているのか。この問いに対する明晰な回答が西田自身のテクストからは必ずしも得られない。
ただし近年、矛盾許容論理(パラコンシステント・ロジック)の発展により、矛盾を含みつつも破綻しない論理体系が可能であることが示されており、西田の論理を現代論理学の枠組みで再評価する試みも始まっている(たとえば グレアム・プリーストらのダイアレセイズムとの比較研究)。
影響と遺産
先行思想:ウィリアム・ジェイムズの根本的経験論(純粋経験概念の直接的影響源)、ドイツ観念論(カントの超越論的哲学、フィヒテの自我論、ヘーゲルの弁証法)、新カント派(特にリッケルトの価値哲学)、フッサールの現象学、ベルクソンの「純粋持続」概念、禅仏教(特に臨済宗の公案修行と坐禅の体験)、大乗仏教の空・無の思想(般若経典、中観派の龍樹)、華厳宗の「事事無碍法界」の思想。
直接的後継者(京都学派):西田の思想は「京都学派」として制度化された。田辺元は師を批判しつつ「種の論理」を展開し、戦後は「懺悔道としての哲学」へ転回した。西谷啓治は「空」の哲学をニヒリズム克服の論理として発展させた(『宗教とは何か』1961年)。久松真一は禅と西田哲学の統合を追求し、「無相の自己」を核心概念とした。上田閑照はマイスター・エックハルトと禅の比較を通じて西田哲学を国際的に発信した。三木清は西田哲学をマルクス主義と接続させる「構想力の論理」を展開したが、戦時中に共産主義者をかくまった罪で投獄され、敗戦後も釈放されないまま1945年9月に獄中で病死した──戦後日本の知識人に深い衝撃を与えた事件である。
遠い後継者:西田哲学は1990年代以降、英語圏でも本格的に受容されるようになった。ジェイムズ・ハイジック、ジョン・マラルド、ブレット・デイヴィスらが西田の英語圏への紹介と批判的研究を進めている。比較哲学(東西比較思想)の分野では、西田は「非西洋圏から出た最初の世界的水準の体系的哲学者」として参照されることが多い。フランスの現象学者ミシェル・アンリの「生の現象学」──意識の志向性の「手前」にある自己触発──やメルロ=ポンティの「肉の存在論」──知覚する身体と知覚される世界の交叉(キアスム)──との構造的類似が指摘されており、現象学的伝統との対話が活発に行われている。
哲学外への波及:「場所」の概念は、中村雄二郎の「臨床の知」、清水博の「場の理論」(組織論・生命論)など、日本の思想・科学論に広く影響を与えた。京都の「哲学の道」は、西田の思索の足跡を偲ぶ場所として知られ、「歩きながら考える」哲学の実践を今日に伝えている。また近年、意識の哲学の領域で、西田の「純粋経験」──機能的記述に還元されない意識の「質的」側面──を再評価する動きが現れている。
現代への接続
西田哲学は1945年の彼の死後、しばらく「過去の遺産」として扱われた。戦後の日本哲学はマルクス主義と分析哲学に支配され、京都学派の形而上学は「戦前の観念論」「戦争協力の哲学」として敬遠された。しかし21世紀に入り、西田の問いは新たな切実さを帯びて回帰しつつある。
第一に、意識の問題。脳の神経活動がいくら精密に解明されても、「なぜ物質的な過程から主観的な経験が生まれるのか」は未解決のままである。意識のハードプロブレム(デイヴィッド・チャーマーズが1995年に定式化)が問うているのは、まさに西田が「純粋経験」として捉えようとした次元──機能的記述には還元できない経験の「質感(クオリア)」──である。
西田の「純粋経験は主客未分である」という洞察は、「意識とは、脳の機能に還元される副産物ではなく、経験そのものの根源的な在り方である」という仮説に哲学的根拠を提供しうる。「意識とは何か」──西田はこの問いに100年前から取り組んでいた。
第二に、二元論を超える思考の必要性。現代社会は「自然/人工」「身体/精神」「個人/社会」「西洋/東洋」といった二項対立によって思考を組織しているが、気候変動、パンデミック、グローバルなデジタル接続は、これらの対立が人為的な抽象であることを暴露しつつある。西田の「絶対矛盾的自己同一」は、二項対立を「止揚」して解消するのではなく、対立を対立のまま引き受けつつその根源的一体性を見る論理を提供する。たとえば「グローバル化」と「ローカルなアイデンティティ」は矛盾するように見えるが、真のグローバル化は各文化の固有性を消去するのではなく、固有性が固有性のまま一つの世界を形成する事態であるべきだ。
これは西田が「世界新秩序の原理」で(政治的な問題を孕みつつも)哲学的に構想しようとしたことの核心でもある。
第三に、非西洋的哲学の可能性。哲学が西洋のローカルな伝統に過ぎないのか、それとも普遍的な知的営みであるのかという問いが、比較哲学や異文化間哲学の分野で活発に議論されている。西田は、西洋哲学の方法論を完全に身につけた上で、東洋的な知の伝統に根ざした独自の体系を構築した最初の思想家である。これは「非西洋の思想が西洋哲学と対等に対話しうる」ことを実践的に証明した先例であり、今日の「世界哲学(world philosophy)」構想にとって不可欠の参照点となっている。
同時に、西田の限界も直視すべきだ。彼の文体は極めて晦渋であり、「分かりにくさ」が深遠さの証拠として機能する知的権威主義を招きやすい。また、「絶対無」のような概念が具体的な社会的問題に対してどのような実践的帰結を持つのかは、必ずしも明らかではない。戦時中の政治的テクストが示すように、抽象的な哲学的原理は、それを担う人間の政治的判断の質を自動的には保証しない。「東洋と西洋の統一」という壮大な理念が、現実には帝国主義的拡張の正当化に転用されうるということ──この教訓は、西田の思想的遺産を継承する上で忘れてはならない。哲学は時代を超えるが、哲学者は時代の中にいる。
読者への問い
- あなたが「考える前に」経験していることは何か? 朝、目を覚ました最初の瞬間──「私」がまだ立ち上がっていない、世界がただそこにある一瞬──を思い出せるか? それは「主観が客観を認識している」状態なのか、それとも何か別の状態なのか?
- 西田は「場所の論理」で、意識が「無」であるからこそあらゆるものを映し出せると論じた。あなた自身の意識は、「何ものかである」ことと「何ものでもないこと」のどちらに近いと感じるか? その感覚はなぜ生まれるのか?
- 「矛盾するものが同時に一つである」という西田の主張は、あなたにとって納得できるか? もし納得できないとすれば、あなたが暗黙に前提としている「論理」とはどのようなものか? あなた自身の中に「矛盾したまま共存している」ものはないか?
名言(出典つき)
"経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。" ── 西田幾多郎『善の研究』第一編第一章(1911年)。「純粋経験」の定義として最も有名な一節。判断や反省が介入する以前の、直接的な経験こそが実在の根源であるという西田哲学の出発点を一文に凝縮する。/原文:日本語原文
"善とは一言にていえば人格の実現である。" ── 西田幾多郎『善の研究』第三編(1911年)。倫理の根拠を外的な規範ではなく、人格の内的な自己実現に求める。カントの義務論とアリストテレスの徳倫理学を統合しようとする西田の倫理思想の核心。/原文:日本語原文
"我々は世界の創造的要素として、歴史的に作ることによって、ものを見るのである。行為的直観的に物を見るのである。" ── 西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」(1939年、『哲学論文集 第三』所収)。認識は行為と分離できないという後期西田哲学の核心的命題。「見ること」と「作ること」の同一性を主張する。/原文:日本語原文
"哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない。" ── 西田幾多郎の晩年の言葉(書簡・随筆に繰り返し現れる主題)。アリストテレスが哲学の始まりを「驚き(タウマゼイン)」に求めた(『形而上学』982b)のに対し、西田は人生の悲哀をこそ哲学の源泉と見た。幼い子供たちに先立たれた個人的な悲嘆が、この一言の背景にある。/原文:日本語原文
参考文献
- (主著):西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫、1950年 / 初版1911年、弘道館)── 西田哲学の出発点。「純粋経験」の概念を中心に、実在論・倫理学・宗教論を展開する。日本語で書かれた独創的哲学書として歴史的意義を持つ。
- (場所の論理):西田幾多郎『働くものから見るものへ』(岩波文庫)── 論文「場所」(1926年)を含む中期の論文集。「有の場所」「相対無の場所」「絶対無の場所」の三層構造が展開される。
- (後期):西田幾多郎『西田幾多郎哲学論集 III』(上田閑照編注、岩波文庫)── 「絶対矛盾的自己同一」(1939年)など後期の核心的論文を注釈つきで収録。入手しやすく、上田の注が理解を助ける。
- (遺作):西田幾多郎「場所的論理と宗教的世界観」(1945年、『西田幾多郎全集』第11巻所収)── 西田最後の論文。絶対無と宗教的経験の関係を論じた宗教哲学としての到達点。
- (全集):『西田幾多郎全集』全24巻(岩波書店、新版2003-2009年)── 著作・論文のみならず、日記・書簡を含む。特に日記(第17-18巻)は参禅記録や私生活の記述を含み、思想の形成過程を知る上で不可欠。
- (入門・邦語):小坂国継『西田幾多郎の思想』(講談社学術文庫、2002年)── 西田哲学の全体像を平明に概説する日本語圏で定評のある入門書。
- (伝記的入門・邦語):藤田正勝『西田幾多郎──生きることと哲学』(岩波新書、2007年)── 生涯と思想を一体として描く。西田の人間像に近づくための最適な一冊。
- (京都学派からの解釈):上田閑照『西田幾多郎とは誰か』(岩波現代文庫、2002年)── 禅の伝統と西田哲学の接続を深く掘り下げる。
- (英語圏の研究):James W. Heisig『Philosophers of Nothingness: An Essay on the Kyoto School』, University of Hawai'i Press, 2001 ── 京都学派全体を英語で概観する標準的入門書。西田、田辺、西谷を中心に扱う。
- (批判的研究):酒井直樹『日本思想という問題──翻訳と主体』(岩波書店、1997年)── 京都学派の「近代の超克」論を批判的に分析し、政治的責任を問う。