1277年、パリ。司教エティエンヌ・タンピエが219の命題を断罪する布告を発した。異端の匂いがする哲学的主張を根絶せよ、と。そのリストのなかに、三年前に死んだばかりの修道士の立場に触れる項目が含まれていた。トマス・アクィナス。カトリック教会が生んだ最大の神学者。その男に異端の嫌疑がかかった。
理由は明快だった。アクィナスは、教会がかつて禁じた異教の哲学者アリストテレスの思想を全面的に取り込み、キリスト教神学の骨格にしてしまった。神の存在は理性だけで証明できる。道徳の基礎は啓示ではなく人間の本性にある。信仰の砦に理性という異物を持ち込んだのか。あるいは逆に、理性の領土に信仰を招き入れたのか。どちらにせよ、この修道士は両者が矛盾しないという賭けに生涯を懸けた。
賭けの根拠はひとつ。真理はひとつだ、と。神が世界を創ったなら、理性で発見される真理と啓示による真理が食い違うはずがない。食い違って見えるなら、どちらかの読み方が間違っている。単純な確信だが、だからこそ厄介だった。
死後三年で異端の嫌疑。死後四十九年で列聖。死後六百余年でカトリックの公式哲学。この振幅の激しさそのものが、彼の企ての危うさと底力を物語っている。西洋思想史で最も建築的な知の体系を築いた人間が、最後に自分の全著作を「藁」と呼んで筆を折った。
理性で神に到達できるのか。道徳の根は人間の本性にあるのか、それとも誰かの命令にあるのか。問いはどれも片付いていない。150万語を書き尽くした後に「藁」と言い放った沈黙のほうが、あるいは体系の中身よりもずっと多くを語っている。
この記事の要点
- 五つの道(quinque viae):自然理性だけで神の存在を論証する五つの議論(『神学大全』第一部 第二問 第三項)。近代的な意味の「証明」ではなく、運動・因果・偶然性といった世界の経験的特徴から「原因なき原因」へ遡る論証だ。
- 本質と存在の実在的区別(essentia et esse):あらゆる被造物において、「それが何であるか」と「それが在ること」は別だ。馬の本性には馬が存在するという保証が含まれていない。神だけが本質と存在の一致する唯一の存在者。この形而上学的区別がアクィナスの全体系の土台になる。
- 自然法(lex naturalis):道徳の規範は神の恣意的な命令ではなく、理性的被造物が永遠法に「参与」(participatio)することで成立する。理性は人間にとって何が善かを発見できる。カトリックの道徳伝統の骨格であり、法実証主義や神命説と今も衝突し続けている。
生涯と時代背景
1225年頃(伝統的には1月28日とされるが確証はない)、南イタリアのロッカセッカに生まれる。シチリア王国の領域で、モンテ・カッシーノ修道院のすぐ近く。貴族の家だ。五歳でモンテ・カッシーノに献児(oblatus)として預けられた。家族の狙いは明白だった。息子をいずれベネディクト会の修道院長にすること。政治的にも経済的にも有利なポストだ。ところがトマスは別の道を選んだ。
1239年、ナポリ大学に入学。皇帝フリードリヒ二世が創設した世俗の大学で、ここで初めてアリストテレスの自然学と形而上学に本格的に出会った。そして1244年頃、家族の計画を完全に裏切る決断を下す。修道院長の座ではなく、托鉢修道会であるドミニコ会に入ったのだ。清貧を旨とし、街頭で説教し、学問に生きる修道会。家族は激怒した。兄たちがトマスを途中で拉致し、約一年間、実家の城に監禁した。説得と恫喝。効かなかった。トマスは監禁中に聖書とアリストテレスを読み続けた。
解放された後、パリとケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事する。同級生たちは寡黙で巨体のトマスを「無口な牛」(bos mutus)と呼んだ。アルベルトゥスは言った。「この牛の鳴き声はやがて全世界に響き渡るだろう」と。予言は的中した。1265年から66年にかけて着手された『神学大全』(Summa Theologiae)は約150万語。西洋思想史で最も野心的な体系的著作。未完のまま終わった。
1273年12月6日、ミサの最中に何かが起きた。神秘体験。詳細は不明だ。秘書のレギナルドゥスが執筆の再開を促すと、アクィナスは答えた。「わたしが書いたすべてのものは、藁のように思われる」(omnia quae scripsi videntur mihi paleae)。筆を置いた。二度と書かなかった。1274年3月7日、リヨン公会議への旅の途上、フォッサノーヴァ修道院で没。享年49。
ミニ年表
- 1225年頃:南イタリア・ロッカセッカに生まれる
- 1230年頃:モンテ・カッシーノ修道院に献児として入る
- 1239年:ナポリ大学に入学。アリストテレスと出会う
- 1244年頃:ドミニコ会に入会。家族に拉致・監禁される(約一年間)
- 1245〜1252年:パリ・ケルンでアルベルトゥス・マグヌスに師事
- 1252〜1259年:第一パリ教授期。『存在者と本質について』執筆
- 1265/66年:『神学大全』執筆開始
- 1269〜1272年:第二パリ教授期。ラテン・アヴェロエス主義者や保守派アウグスティヌス主義者と論争
- 1273年12月6日:神秘体験。「藁」発言。執筆停止
- 1274年3月7日:フォッサノーヴァ修道院にて没
- 1277年:パリでの命題断罪。一部がアクィナスの立場に関わる
- 1323年:教皇ヨハネス二十二世により列聖
- 1879年:教皇レオ十三世の回勅『アエテルニ・パトリス』でトマス主義がカトリックの公式哲学に
この哲学者は何を問うたのか
十三世紀の危機は、一冊の本から始まった。いや、何千冊もの本。アラビア語経由でラテン語に翻訳されたアリストテレスの全著作が、ヨーロッパの大学に洪水のように流れ込んだ。1210年、パリ教会会議はアリストテレスの自然学著作の講読を禁じた。1215年のパリ大学規約でも同様。それでも流入は止まらなかった。問題は中身だ。アリストテレスの神は「不動の動者」であり、世界に無関心だ。創造を知らない。世界は永遠に存在していて、始まりがない。倫理は純粋に自然的で、恩寵も救済も要らない。キリスト教の教義と正面から衝突する。
保守派の神学者たち、とりわけフランシスコ会のボナヴェントゥラはアリストテレスの制限か排除を求めた。反対の極には、パリの文学部にいたラテン・アヴェロエス主義者たち。ブラバンのシゲルスがその代表だ。彼らは「二重真理説」を唱えた。哲学と神学はそれぞれの領域で矛盾する結論に達してよい、と。哲学的には世界は永遠だが、信仰的には創造された。矛盾しているが両方正しい──知的な降伏を整理するための方便だ。
アクィナスは両方を拒否した。アリストテレスを排除するのは真理への冒涜だ。だが「二重真理」は論理的自殺にすぎない。彼の根本命題は一行に凝縮される。「恩寵は自然を滅ぼさず、むしろ完成させる」(gratia non tollit naturam sed perficit、『神学大全』第一部 第一問 第八項 異論解答二)。信仰は理性を破壊しない。『神学大全』はまさにこの問題から始まる。第一部 第一問 第一項、「聖なる教え(sacra doctrina)は哲学的諸学のほかに必要か」。反論は言う、理性で足りるではないか、と。アクィナスは答える。人間の究極の目的(救済)は理性の射程を超える。だから啓示が要る。理性が届かない領域(三位一体、受肉)を照らすのが信仰だ。啓示は理性を潰すのではなく、理性だけでは暗いままの場所に灯を入れる。少なくともアクィナスはそう読んだ。
核心理論
1. 五つの道(quinque viae):理性の梯子で神に至る
『神学大全』第一部 第二問 第三項。アクィナスは五つの論証を並べた。すべて世界の観察から出発する。第一は運動(ex motu)。動いているものは何かに動かされている。遡りは無限に続けられない。不動の動者にぶつかる。第二は作用因の連鎖(ex ratione causae efficientis)。始まりのない原因の鎖からは、今目の前にある結果は生まれない。第三は偶然性と必然性(ex possibili et necessario)。存在しなくてもよいものばかりの世界が、なぜ存在しているのか。何かが、みずから存在せざるをえないものとして在るはずだ。第四は完全性の度合い(ex gradibus)。善いもの、より善いものがあるなら、「最も善いもの」が基準として要請される。第五は目的秩序(ex gubernatione rerum)。知性を持たない自然物が規則的に目的へ向かう。矢が的に当たるのは射手がいるからだ。
アンセルムスの存在論的証明を、アクィナスは退けている(第一部 第二問 第一項)。「神」という概念のなかをどれだけ掘っても、神の実在は転がり出てこない。出発点はつねに世界のほうだ。石が落ちる。火が燃える。植物が伸びる。世界がこのように在ることの条件を遡って問う。後天的(a posteriori)な論証であって、先天的(a priori)な証明ではない。
無限遡行の不可能性はよく誤解される。アクィナスが問題にしているのは時間上の過去への遡行ではない。彼は世界が永遠に存在してきた可能性を理性では排除できないと認めている(『世界の永遠性について』De Aeternitate Mundi、1271年)。問題は「今この瞬間」の存在の依存関係だ。杖が石を動かし、手が杖を動かす。この「本質的系列」(series per se ordinata)は、中間の原因がいくら増えても、最初の動かす力がなければ何も始まらない。時間ではなく存在論的依存の話だ。
近代の批判は手厳しい。ヒュームは因果律そのものを疑った。カントは神の存在証明を理論理性の越権と断じた。ラッセルは「なぜ世界には原因が必要で、神には必要ないのか」と問い返した。五つの道は論破されたのか。されていない、と現代のトマス主義者は言う。アクィナスが言う「原因」は時間上の「先行する出来事」ではなく、存在の依存関係だからだ。ヒュームの批判はそもそも別の平面を撃っている、というわけだ。噛み合っているかどうかも含めて、決着はついていない。
2. 本質と存在(essentia et esse):最も深い形而上学的亀裂
『存在者と本質について』(De Ente et Essentia、1252〜56年頃)と『神学大全』第一部 第三問から第四問。あらゆる被造物において、「それが何であるか」(本質、essentia)と「それが在ること」(存在、esse)は実在的に区別される。猫の本性を完璧に記述しても、そこから猫が実際に存在することは出てこない。猫は存在しなくてもよい。にもかかわらず存在している。なぜか。存在を与えるものがあるからだ。
神だけが例外。神の本質は存在そのもの(ipsum esse subsistens)。神は「何であるか」と「在ること」が一致している唯一の存在者であり、だからこそ存在しないことがありえない。この「実在的区別」はアクィナスの最も独自の形而上学的貢献だ。アヴィケンナ(イブン・スィーナー)が概念的区別にとどめたものを、アクィナスは実在の構造そのものに据えた。創造者と被造物の断絶。世界の偶然性。自然神学の可能性。すべてがこの区別から流れ出る。
この議論の背後には、アリストテレスの現実態(actus)と可能態(potentia)の枠組みがある。被造物の存在(esse)は「すべての現実態の現実性」(actualitas omnium actuum)だ、とアクィナスは言う(『能力論』第七問 第二項 異論解答九)。本質は存在を受け取る器であり、存在はその器を満たす水のようなものだ。コップの形が水の形を決めるように、本質が存在の在り方を限定する。神だけが器なき水。限定なき存在そのもの。アヴェロエス(イブン・ルシュド)はこの区別を認めなかった。存在は本質の外にあるのではなく、本質そのものの一側面だ、と。アクィナスにとってこの否認は致命的だった。実在的区別なしには、神と世界の断絶が消え、汎神論への道が開く。
3. 存在の類比(analogia entis):神について嘘をつかずに語る方法
神は存在者のなかの一つではない。猫が善い、友人が善い、このパンが善い。では「神は善い」と言うとき、同じ意味なのか。同じ意味だとすれば神は被造物に引きずり下ろされる(一義性、univocitas。後のドゥンス・スコトゥスの立場)。まったく違う意味だとすれば神について何も語れなくなる(多義性、aequivocitas)。
アクィナスは第三の道を選んだ。類比(analogia)。帰属の類比と比例の類比を駆使し、人間の言葉が神について不完全だが正当に語りうることを論じた(『神学大全』第一部 第十三問)。700年後、プロテスタント神学者カール・バルトはこの教説を「反キリストの発明」と呼んだ(『教会教義学』序文)。人間の理性が神に手を伸ばせるという発想そのものが、啓示の絶対性を汚す、と。
ただし類比は言葉の技法だけの問題ではない。アクィナスはそもそも人間が神に近づく道を三つに分けた。否定の道(via negationis)。神は有限ではない、物体ではない、変化しない。「ではないもの」を削っていく。原因の道(via causalitatis)。被造物の善さや知恵は神に原因を持つから、神にも善さや知恵があると推論できる。卓越の道(via eminentiae)。神の善さは被造物のそれを無限に超える。三つの道は組み合わさって初めて機能する。一つ欠ければ、神は人間の投影になるか、あるいはまったくの沈黙に閉じ込められる。どちらに転んでも神学は瓦解する。三つの道を同時に歩くというのは、要するにそういう際どい作業だった。
4. 自然法(lex naturalis):人間の本性に刻まれた道徳
『神学大全』第一の二部 第九十問から第九十七問。永遠法(lex aeterna)は神の理性的統治。自然法はその永遠法への理性的被造物の「参与」だ。第一の原理:「善はなされ追求されるべきであり、悪は避けられるべきである」(bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandum、第一の二部 第九十四問 第二項)。ここから自己保存、生殖と子の教育、神の認識、社会のなかでの生活という自然的傾向性が導かれる。
アクィナスは法を四層に重ねた。頂点に永遠法。神が全被造物を統治する理性的計画そのものだ。自然法は、その永遠法が人間の理性の表面に浮かび上がったもの。人定法(lex humana)は自然法の原理を具体的な社会に落とした実定法。神法(lex divina)は聖書に啓示された法で、理性の届かない領域を補う(第九十一問)。肝心なのはここだ。自然法に背く人定法は「法の腐敗」(legis corruptio、第九十五問 第二項)にすぎず、「法というよりむしろ暴力」(magis sunt violentiae quam leges、第九十六問 第四項)だ。悪法には従わなくてよい。20世紀のアメリカで、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが「バーミンガム刑務所からの手紙」で引いたのは、このアクィナスの一節だった。
第一の原理は不変だが、そこから導かれる第二次的戒律は事情によって変わりうる、とアクィナスは認めている(第九十四問 第四〜五項)。「預かったものは返すべし」という原則も、返せば人を殺す武器になる場合は適用されない。自然法は石板に刻まれた不動のリストではなく、実践的理性(ratio practica)が具体的な状況のなかで働く原理だ。この柔軟性を見落とすと、自然法論は教条的な道徳リストに矮小化される。
それでも亀裂は残る。ヒュームの「存在」から「当為」を導けないという原則(is-ought gap)。人間が何であるかの記述から、何をすべきかの規範は出てこない、と。法実証主義(ハート、ケルゼン)は法を社会的事実に還元し、自然法を退けた。オッカムの神命説は逆の方向から攻める。善いことが善いのではなく、神が命じたから善いのだ、と。アクィナスはこれを拒む。神が殺人を善と命じることはありえない。なぜなら善は人間の本性に根ざしているからだ。ここで議論は堂々めぐりに入る。本性とは何か。誰がそれを決めるのか。自然法論が今も論争の火種であり続ける理由は、ここにある。
5. 魂は身体の形相:プラトン的二元論への拒否
『神学大全』第一部 第七十五問から第七十六問。魂は身体に閉じ込められた別個の実体ではない。プラトンはそう考えたが、アクィナスはアリストテレスに従った。魂は身体の実体的形相(forma substantialis)だ。人間は魂と身体の合成ではなく、魂によって生きている身体という一つの実体だ。考えるのも歩くのも同じ「わたし」であって、二つの存在者が同居しているのではない。
この質料形相論(hylomorphismus)は認識論にも直結する。人間の知性は白紙だ(tabula rasa。アリストテレス『霊魂について』第三巻 第四章に由来し、アクィナスは『神学大全』第一部 第八十四問 第三項で生得観念を明確に退けている)。生得観念はない。感覚が個別の事物から像(phantasma)を受け取り、能動知性(intellectus agens)がそこから普遍的な形相を抽象する。感覚なしに知性は働かない。「知性のうちにあるものは、先に感覚のうちにあった」(nihil est in intellectu quod non prius fuerit in sensu。後世のスコラ学的格言だが、趣旨は『真理論』第二問 第三項の議論に対応する)。身体は知の条件であって、知の妨げではない。デカルトの二元論とは正反対の方角だ。
だがアクィナスはアリストテレスを超える。知性的魂(anima intellectiva)は自存的(subsistens)であり、身体の死後も存続しうる。ただしそれは不完全な状態であって、身体の復活によって人間の本性は完成される。アリストテレスの自然学とキリスト教の復活信仰のあいだに張られた綱の上を、アクィナスは歩いた。1270年の断罪では、アヴェロエス主義の「全人類に単一の知性しかない」という説(単一知性論)が標的になったが、アクィナス自身もこれと激しく戦った(『知性の単一性について』De Unitate Intellectus contra Averroistas、1270年)。考えているのは宇宙精神ではない、この身体を持った個としての「わたし」だ。この論点は、後のデカルトのコギトとも響き合うが、経路はまるで違う。
主要著作ガイド
- 『神学大全』(Summa Theologiae、1265〜1273年、未完):三部構成。神について、道徳生活について、キリストについて。約150万語。独自の「問題」(quaestio)形式で書かれている。各項(articulus)の冒頭に反論(objectiones)を並べ、「しかし反対に」(sed contra)で権威を示し、「答えて言う」(respondeo)で自説を展開し、反論に一つずつ応答する。つまり反対意見を先に聴く。この構造そのものにアクィナスの知的誠実さが表れている。邦訳:山田晶ほか訳、創文社(全45巻)。
- 『対異教徒大全』(Summa contra Gentiles、1259〜1265年):非信者に向けたキリスト教の弁護。四巻。『神学大全』より哲学的色が濃い。
- 『存在者と本質について』(De Ente et Essentia、1252〜56年頃):短い初期著作だが、トマス形而上学の鍵。本質と存在の区別を読むならここから。
- 『真理について』(Quaestiones Disputatae de Veritate、1256〜59年):真理・認識・摂理をめぐる29の討論問題。認識論に関心があるなら必読。
- 『知性の単一性について』(De Unitate Intellectus contra Averroistas、1270年):ブラバンのシゲルスの単一知性論への論駁。論争の現場そのもの。激烈にして精密。
- アリストテレス注解:『自然学』『形而上学』『霊魂について』『ニコマコス倫理学』。アクィナスがアリストテレスをどう読み、どう改変したかがわかる。
主要な批判と論争
1277年のパリ断罪。司教タンピエが狙ったのは主にラテン・アヴェロエス主義だったが、巻き添えを食らった命題がアクィナスの立場に触れていた。たとえば「質料的個体化の原理」に関するもの。フランシスコ会とドミニコ会の知的覇権争いが背景にある。1325年、パリ司教はアクィナスにかかわる断罪を正式に撤回した。
ドゥンス・スコトゥス(1266〜1308)は存在の類比に斬りかかった。「存在」は神にも被造物にも一義的(univoce)に述語される、と。この攻撃はトマス主義の繊細な均衡を揺さぶった。オッカムのウィリアム(1287年頃〜1347)は普遍の実在性を剃刀で削り落とした。唯名論(nominalismus)はトマス的な実在論の土台を掘り崩す。普遍が実在しないなら、「人間の本性」も名前だけの存在になり、自然法の基盤は崩れる。
近代からの砲撃は容赦ない。ヒュームは因果律の必然性を否定し、五つの道の前提を掘り崩した。存在から当為を導けないという原則は、自然法の根幹に楔を打ち込んだ。カントは神の存在証明が理論理性の能力を超えていると宣告した。バルトの「反キリストの発明」発言は、自然神学そのものへの全面否定だった。人間の理性で神に到達できるという主張は、神の絶対的他者性を冒涜する、と。
だが最も手に負えない批判は、外からではなく内から来た。1273年12月の神秘体験の後、150万語をかけて組み上げた体系を、当人が「藁にすぎない」と言った。理性で積み上げた体系の向こう側に、理性では届かないものを見たのか。それとも疲労か病か。わからない。だがこの沈黙は、体系の内部からは説明がつかない。理性と信仰の関係についてアクィナスが書いた150万語よりも、書くのをやめたという一つの事実のほうが、扱いに困る。
影響と遺産
1323年、列聖。1567年、「教会博士」(Doctor Ecclesiae)の称号。1879年、教皇レオ十三世の回勅『アエテルニ・パトリス』がトマス主義をカトリックの公式哲学に指定した。この決定は二十世紀のカトリック知識人の地形を形成した。ジャック・マリタン、エティエンヌ・ジルソン、ヨーゼフ・ピーパー。いずれもトマス主義の土壌から育った思想家だ。
法哲学への影響は直接的だ。ジョン・フィニスとジャーメイン・グリゼズはアクィナスの自然法論を現代の法理論として再構築した。エリザベス・アンスコムの徳倫理学復権にはトマス的な根がある。分析哲学の宗教哲学でも、プランティンガやスウィンバーンが五つの道と格闘し続けている。アクィナスは博物館に収まる気配がない。
個々の教説よりも、態度が残ったのかもしれない。異教の哲学者の思想を、恐れずに学ぶ。真理は誰が言おうと真理だ。アリストテレスが異教徒であろうが、論理学が正しいなら正しい。アヴィケンナがムスリムであろうが、形而上学から学ぶべきものは学ぶ。真理の出自を問わない。十三世紀にあって、これは途方もなく過激な態度だった。
正戦論(bellum iustum)もまたアクィナスの遺産だ。戦争が正当であるための三条件、すなわち正当な権威・正当な理由・正しい意図(『神学大全』第二の二部 第四十問 第一項)は、国際法における武力行使の正当化基準の原型になった。21世紀の軍事介入をめぐる議論でも、この枠組みは生きている。1962年に始まった第二バチカン公会議も、アクィナスを神学教育の模範として再確認した(『司祭養成に関する教令』第十六条)。カトリックの知的伝統からアクィナスを引き剥がしたら、あとに残るものがどれだけあるか。考えてみるとぞっとする程度には、この修道士の影響は深い。
現代への接続
AIに魂はあるか。アクィナスなら即答する。ない。知性の働きは非物質的だからだ(『神学大全』第一部 第七十五問 第二項)。機械がどれほど精緻な出力をしても、それは「理解」ではなく情報の操作にすぎない。この線引きが今でも通用するかどうかは別の話だが、通用しないと言い切るには「理解」と「模倣」の境界をどこかに引かなければならず、それは見かけほど簡単ではない。
自然法と生命倫理。中絶・安楽死・同性婚をめぐるカトリックの公式見解は、すべてアクィナスの自然法論に遡る。賛成するにせよ反対するにせよ、この枠組みを知らなければ議論の入口にすら立てない。「人間の本性に根ざした善」は存在するのか。それとも道徳は社会の取り決めにすぎないのか。コンビニで弁当を買うようにルールを選べるのか。「そうではない」と感じる直感は多くの人にあるだろうが、その直感を言葉にしようとすると途端に難しくなる。アクィナスの自然法論は、その困難に正面から取り組んだ試みだ。
世俗の時代に信仰は居場所を持てるか。「理性」が「科学」と同義になった世界で、信仰は認識論的な権利を主張できるのか。アクィナスはできると言った。チャールズ・テイラーの『世俗の時代』(A Secular Age、2007年)は、このトマス的な問いから出発している。理性と信仰が同居できた時代は終わったのか。それとも、同居を放棄した近代のほうが歪なのか。テイラーの本が600ページを超えるのは、この問いが短い答えを許さないからだろう。
読者への問い
- 理性だけでは証明できないが、真だと信じていることが、あなたにはあるか。あるとすれば、その信を支えているのは何か。
- 道徳は発見されるものか、発明されるものか。「人を殺してはならない」は人間の本性に根ざしているのか、それとも社会が決めたルールなのか。あなたはどちらの前提で生きているか。
- アクィナスは神秘体験の後、自分の全著作を「藁」と呼んだ。あなたが築いてきたもの、信じてきたことが、ある瞬間に全部無意味に見えた経験はあるか。
名言(出典つき)
「恩寵は自然を滅ぼさず、むしろ完成させる」 出典:トマス・アクィナス『神学大全』第一部 第一問 第八項 異論解答二/原文:"Gratia non tollit naturam sed perficit."
信仰と理性の関係を一文に凝縮した定式。恩寵は自然を否定しない。完成させる。この短い一文に、アクィナスの全企図が詰まっている。
「善はなされ追求されるべきであり、悪は避けられるべきである」 出典:トマス・アクィナス『神学大全』第一の二部 第九十四問 第二項/原文:"Bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandum."
自然法の第一原理。当たり前に聞こえるが、この「当たり前」を根拠づけることが、どれほど難しいか。近代倫理学の大半は、この一文の正当化をめぐる格闘だ。
「存在するものすべてにおいて、その本質とは別に存在(エッセ)がなければならない」 出典:トマス・アクィナス『存在者と本質について』第四章の趣旨にもとづく要約/原文(関連箇所):"In omni eo quod est praeter eius essentiam, oportet quod esse suum sit aliud ab eius essentia."
本質と存在の実在的区別。トマス形而上学の核心がこの一文にある。あるものが何であるかと、そのものが在ることは、同じではない。
「わたしが書いたすべてのものは藁のように思われる」 出典:秘書レギナルドゥス・デ・ピペルノの証言/原文:"Omnia quae scripsi videntur mihi paleae respectu eorum quae vidi et revelata sunt mihi."
150万語を書いた男の最後の言葉。見たものの前では、書いたものはすべて藁だ、と。理性の大伽藍を築いた人間が、その彼方に何を見たのか。誰にもわからない。
参考文献
- (原典・ラテン語):Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Editio Leonina.
- (原典・邦訳):トマス・アクィナス『神学大全』山田晶ほか訳、創文社(全45巻)。
- (原典・英訳):Thomas Aquinas, De Ente et Essentia, trans. Armand Maurer, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 1968.
- (研究書):Brian Davies, The Thought of Thomas Aquinas, Oxford University Press, 1992.
- (研究書):Étienne Gilson, The Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas, Random House, 1956.
- (研究書・邦語):稲垣良典『トマス・アクィナスの神学』創文社、1993年。
- (概説・邦語):山本芳久『トマス・アクィナス 理性と神秘』岩波新書、2017年。
- (概説):Edward Feser, Aquinas: A Beginner's Guide, Oneworld, 2009.
- (補助ウェブ資料):"Thomas Aquinas", Stanford Encyclopedia of Philosophy.