1277年ねん、パリParis。司教しきょうエティエンヌÉtienne・タンピエTempierが219の命題めいだいを断罪だんざいする布告ふこくを発はっした。異端いたんの匂においがする哲学的てつがくてき主張しゅちょうを根絶こんぜつせよ、と。そのリストのなかに、三年前さんねんまえに死しんだばかりの修道士しゅうどうしの立場たちばに触ふれる項目こうもくが含ふくまれていた。トマスThomas・アクィナスAquinas。カトリックCatholic教会きょうかいが生うんだ最大さいだいの神学者しんがくしゃ。その男おとこに異端いたんの嫌疑けんぎがかかった。

理由りゆうは明快めいかいだった。アクィナスAquinasは、教会きょうかいがかつて禁きんじた異教いきょうの哲学者てつがくしゃアリストテレスAristotelēsの思想しそうを全面的ぜんめんてきに取とり込こみ、キリストChristus教きょう神学しんがくの骨格こっかくにしてしまった。神かみの存在そんざいは理性りせいだけで証明しょうめいできる。道徳どうとくの基礎きそは啓示けいじではなく人間にんげんの本性ほんせいにある。信仰しんこうの砦とりでに理性りせいという異物いぶつを持もち込こんだのか。あるいは逆ぎゃくに、理性りせいの領土りょうどに信仰しんこうを招まねき入いれたのか。どちらにせよ、この修道士しゅうどうしは両者りょうしゃが矛盾むじゅんしないという賭かけに生涯しょうがいを懸かけた。

賭かけの根拠こんきょはひとつ。真理しんりはひとつだ、と。神かみが世界せかいを創つくったなら、理性りせいで発見はっけんされる真理しんりと啓示けいじによる真理しんりが食くい違ちがうはずがない。食くい違ちがって見みえるなら、どちらかの読よみ方かたが間違まちがっている。単純たんじゅんな確信かくしんだが、だからこそ厄介やっかいだった。

死後しご三年ねんで異端いたんの嫌疑けんぎ。死後しご四十九年ねんで列聖れっせい。死後しご六百余年ねんでカトリックCatholicの公式こうしき哲学てつがく。この振幅しんぷくの激はげしさそのものが、彼かれの企くわだての危あやうさと底力そこぢからを物語ものがたっている。西洋せいよう思想史しそうしで最もっとも建築的けんちくてきな知ちの体系たいけいを築きずいた人間にんげんが、最後さいごに自分じぶんの全著作ぜんちょさくを「藁わら」と呼よんで筆ふでを折おった。

理性りせいで神かみに到達とうたつできるのか。道徳どうとくの根ねは人間にんげんの本性ほんせいにあるのか、それとも誰だれかの命令めいれいにあるのか。問といはどれも片付かたづいていない。150万語まんごを書かき尽つくした後のちに「藁わら」と言いい放はなった沈黙ちんもくのほうが、あるいは体系たいけいの中身なかみよりもずっと多おおくを語かたっている。

この記事きじの要点ようてん

  • 五いつつの道みち(quinque viaeクィンクエ・ウィアエ):自然しぜん理性りせいだけで神かみの存在そんざいを論証ろんしょうする五いつつの議論ぎろん(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第二問 第三項)。近代きんだい的な意味いみの「証明しょうめい」ではなく、運動うんどう・因果いんが・偶然性ぐうぜんせいといった世界せかいの経験的けいけんてき特徴とくちょうから「原因げんいんなき原因げんいん」へ遡さかのぼる論証ろんしょうだ。
  • 本質ほんしつと存在そんざいの実在的じつざいてき区別くべつ(essentia et esseエッセンティア・エト・エッセ):あらゆる被造物ひぞうぶつにおいて、「それが何なにであるか」と「それが在あること」は別べつだ。馬うまの本性ほんせいには馬うまが存在そんざいするという保証ほしょうが含ふくまれていない。神かみだけが本質ほんしつと存在そんざいの一致いっちする唯一ゆいいつの存在者そんざいしゃ。この形而上学的けいじじょうがくてき区別くべつがアクィナスAquinasの全体系ぜんたいけいの土台どだいになる。
  • 自然法しぜんほう(lex naturalisレークス・ナートゥラーリス):道徳どうとくの規範きはんは神かみの恣意的しいてきな命令めいれいではなく、理性的りせいてき被造物ひぞうぶつが永遠法えいえんほうに「参与さんよ」(participatioパルティキパーティオー)することで成立せいりつする。理性りせいは人間にんげんにとって何なにが善ぜんかを発見はっけんできる。カトリックCatholicの道徳どうとく伝統でんとうの骨格こっかくであり、法実証主義ほうじっしょうしゅぎや神命説しんめいせつと今いまも衝突しょうとつし続つづけている。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

1225年ねん頃ごろ(伝統的でんとうてきには1月がつ28日にちとされるが確証かくしょうはない)、南みなみイタリアItaliaのロッカセッカRoccaseccaに生うまれる。シチリアSicilia王国おうこくの領域りょういきで、モンテ・カッシーノMonte Cassino修道院しゅうどういんのすぐ近ちかく。貴族きぞくの家いえだ。五歳ごさいでモンテ・カッシーノMonte Cassinoに献児けんじ(oblatusオブラートゥス)として預あずけられた。家族かぞくの狙ねらいは明白めいはくだった。息子むすこをいずれベネディクトBenedictus会かいの修道院長しゅうどういんちょうにすること。政治的せいじてきにも経済的けいざいてきにも有利ゆうりなポストpostだ。ところがトマスThomasは別べつの道みちを選えらんだ。

1239年ねん、ナポリNapoli大学だいがくに入学にゅうがく。皇帝こうていフリードリヒFriedrich二世にせいが創設そうせつした世俗せぞくの大学だいがくで、ここで初はじめてアリストテレスAristotelēsの自然学しぜんがくと形而上学けいじじょうがくに本格的ほんかくてきに出会であった。そして1244年ねん頃ごろ、家族かぞくの計画けいかくを完全かんぜんに裏切うらぎる決断けつだんを下くだす。修道院長しゅうどういんちょうの座ざではなく、托鉢たくはつ修道会しゅうどうかいであるドミニコDominicus会かいに入はいったのだ。清貧せいひんを旨むねとし、街頭がいとうで説教せっきょうし、学問がくもんに生いきる修道会しゅうどうかい。家族かぞくは激怒げきどした。兄あにたちがトマスThomasを途中とちゅうで拉致らちし、約やく一年間ねんかん、実家じっかの城しろに監禁かんきんした。説得せっとくと恫喝どうかつ。効きかなかった。トマスThomasは監禁中かんきんちゅうに聖書せいしょとアリストテレスAristotelēsを読よみ続つづけた。

解放かいほうされた後のち、パリParisとケルンKölnでアルベルトゥスAlbertus・マグヌスMagnusに師事しじする。同級生どうきゅうせいたちは寡黙かもくで巨体きょたいのトマスThomasを「無口むくちな牛うし」(bos mutusボース・ムートゥス)と呼よんだ。アルベルトゥスAlbertusは言いった。「この牛うしの鳴なき声ごえはやがて全世界ぜんせかいに響ひびき渡わたるだろう」と。予言よげんは的中てきちゅうした。1265年ねんから66年ねんにかけて着手ちゃくしゅされた『神学大全しんがくたいぜん』(Summa Theologiaeスンマ・テオロギアエ)は約やく150万語まんご。西洋せいよう思想史しそうしで最もっとも野心的やしんてきな体系的たいけいてき著作ちょさく。未完みかんのまま終おわった。

1273年ねん12月がつ6日にち、ミサMissaの最中さいちゅうに何なにかが起おきた。神秘しんぴ体験たいけん。詳細しょうさいは不明ふめいだ。秘書ひしょのレギナルドゥスReginaldusが執筆しっぴつの再開さいかいを促うながすと、アクィナスAquinasは答こたえた。「わたしが書かいたすべてのものは、藁わらのように思おもわれる」(omnia quae scripsi videntur mihi paleaeオムニア・クアエ・スクリープスィー・ウィデントゥル・ミヒ・パレアエ)。筆ふでを置おいた。二度にどと書かかなかった。1274年ねん3月がつ7日にち、リヨンLyon公会議こうかいぎへの旅たびの途上とじょう、フォッサノーヴァFossanova修道院しゅうどういんで没ぼつ。享年きょうねん49。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1225年ねん頃ごろ:南みなみイタリアItalia・ロッカセッカRoccaseccaに生うまれる
  • 1230年ねん頃ごろ:モンテ・カッシーノMonte Cassino修道院しゅうどういんに献児けんじとして入はいる
  • 1239年ねん:ナポリNapoli大学だいがくに入学にゅうがく。アリストテレスAristotelēsと出会であう
  • 1244年ねん頃ごろ:ドミニコDominicus会かいに入会にゅうかい。家族かぞくに拉致らち・監禁かんきんされる(約やく一年間ねんかん)
  • 1245〜1252年ねん:パリParis・ケルンKölnでアルベルトゥスAlbertus・マグヌスMagnusに師事しじ
  • 1252〜1259年ねん:第一だいいちパリParis教授きょうじゅ期き。『存在者そんざいしゃと本質ほんしつについて』執筆しっぴつ
  • 1265/66年ねん:『神学大全しんがくたいぜん』執筆しっぴつ開始かいし
  • 1269〜1272年ねん:第二だいにパリParis教授きょうじゅ期き。ラテンLatin・アヴェロエスAverroës主義者しゅぎしゃや保守ほしゅ派はアウグスティヌスAugustinus主義者しゅぎしゃと論争ろんそう
  • 1273年ねん12月がつ6日にち:神秘しんぴ体験たいけん。「藁わら」発言はつげん。執筆しっぴつ停止ていし
  • 1274年ねん3月がつ7日にち:フォッサノーヴァFossanova修道院しゅうどういんにて没ぼつ
  • 1277年ねん:パリParisでの命題めいだい断罪だんざい。一部いちぶがアクィナスAquinasの立場たちばに関かかわる
  • 1323年ねん:教皇きょうこうヨハネスJohannes二十二世にじゅうにせいにより列聖れっせい
  • 1879年ねん:教皇きょうこうレオLeo十三世じゅうさんせいの回勅かいちょく『アエテルニ・パトリスAeterni Patris』でトマスThomas主義しゅぎがカトリックCatholicの公式こうしき哲学てつがくに

この哲学者てつがくしゃは何なにを問とうたのか

十三じゅうさん世紀せいきの危機ききは、一冊いっさつの本ほんから始はじまった。いや、何千冊なんぜんさつもの本ほん。アラビアArabia語ご経由けいゆでラテンLatin語ごに翻訳ほんやくされたアリストテレスAristotelēsの全著作ぜんちょさくが、ヨーロッパEuropaの大学だいがくに洪水こうずいのように流ながれ込こんだ。1210年ねん、パリParis教会きょうかい会議かいぎはアリストテレスAristotelēsの自然学しぜんがく著作ちょさくの講読こうどくを禁きんじた。1215年ねんのパリParis大学だいがく規約きやくでも同様どうよう。それでも流入りゅうにゅうは止とまらなかった。問題もんだいは中身なかみだ。アリストテレスAristotelēsの神かみは「不動ふどうの動者どうしゃ」であり、世界せかいに無関心むかんしんだ。創造そうぞうを知しらない。世界せかいは永遠えいえんに存在そんざいしていて、始はじまりがない。倫理りんりは純粋じゅんすいに自然的しぜんてきで、恩寵おんちょうも救済きゅうさいも要いらない。キリストChristus教きょうの教義きょうぎと正面しょうめんから衝突しょうとつする。

保守ほしゅ派はの神学者しんがくしゃたち、とりわけフランシスコFranciscus会かいのボナヴェントゥラBonaventuraはアリストテレスAristotelēsの制限せいげんか排除はいじょを求もとめた。反対はんたいの極きょくには、パリParisの文学部ぶんがくぶにいたラテンLatin・アヴェロエスAverroës主義者しゅぎしゃたち。ブラバンBrabantのシゲルスSigerがその代表だいひょうだ。彼かれらは「二重にじゅう真理しんり説せつ」を唱となえた。哲学てつがくと神学しんがくはそれぞれの領域りょういきで矛盾むじゅんする結論けつろんに達たっしてよい、と。哲学的てつがくてきには世界せかいは永遠えいえんだが、信仰的しんこうてきには創造そうぞうされた。矛盾むじゅんしているが両方りょうほう正ただしい──知的ちてきな降伏こうふくを整理せいりするための方便ほうべんだ。

アクィナスAquinasは両方りょうほうを拒否きょひした。アリストテレスAristotelēsを排除はいじょするのは真理しんりへの冒涜ぼうとくだ。だが「二重にじゅう真理しんり」は論理的ろんりてき自殺じさつにすぎない。彼かれの根本こんぽん命題めいだいは一行いちぎょうに凝縮ぎょうしゅくされる。「恩寵おんちょうは自然しぜんを滅ほろぼさず、むしろ完成かんせいさせる」(gratia non tollit naturam sed perficitグラーティア・ノン・トッリト・ナートゥーラム・セド・ペルフィキト、『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第一問 第八項 異論解答いろんかいとう二)。信仰しんこうは理性りせいを破壊はかいしない。『神学大全しんがくたいぜん』はまさにこの問題もんだいから始はじまる。第一部 第一問 第一項、「聖せいなる教おしえ(sacra doctrinaサクラ・ドクトリーナ)は哲学的てつがくてき諸学しょがくのほかに必要ひつようか」。反論はんろんは言いう、理性りせいで足たりるではないか、と。アクィナスAquinasは答こたえる。人間にんげんの究極きゅうきょくの目的もくてき(救済きゅうさい)は理性りせいの射程しゃていを超こえる。だから啓示けいじが要いる。理性りせいが届とどかない領域りょういき(三位一体さんみいったい、受肉じゅにく)を照てらすのが信仰しんこうだ。啓示けいじは理性りせいを潰つぶすのではなく、理性りせいだけでは暗くらいままの場所ばしょに灯ひを入いれる。少すくなくともアクィナスAquinasはそう読よんだ。

核心かくしん理論りろん

1. 五いつつの道みち(quinque viaeクィンクエ・ウィアエ):理性りせいの梯子はしごで神かみに至いたる

『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第二問 第三項。アクィナスAquinasは五いつつの論証ろんしょうを並ならべた。すべて世界せかいの観察かんさつから出発しゅっぱつする。第一だいいちは運動うんどう(ex motuエクス・モートゥー)。動うごいているものは何なにかに動うごかされている。遡さかのぼりは無限むげんに続つづけられない。不動ふどうの動者どうしゃにぶつかる。第二だいには作用因さよういんの連鎖れんさ(ex ratione causae efficientisエクス・ラティオーネ・カウサエ・エッフィキエンティス)。始はじまりのない原因げんいんの鎖くさりからは、今いま目めの前まえにある結果けっかは生うまれない。第三だいさんは偶然性ぐうぜんせいと必然性ひつぜんせい(ex possibili et necessarioエクス・ポッスィビリ・エト・ネケッサーリオー)。存在そんざいしなくてもよいものばかりの世界せかいが、なぜ存在そんざいしているのか。何なにかが、みずから存在そんざいせざるをえないものとして在あるはずだ。第四だいよんは完全性かんぜんせいの度合どあい(ex gradibusエクス・グラディブス)。善ぜんいもの、より善ぜんいものがあるなら、「最もっとも善ぜんいもの」が基準きじゅんとして要請ようせいされる。第五だいごは目的もくてき秩序ちつじょ(ex gubernatione rerumエクス・グベルナーティオーネ・レールム)。知性ちせいを持もたない自然物しぜんぶつが規則的きそくてきに目的もくてきへ向むかう。矢やが的まとに当あたるのは射手いてがいるからだ。

アンセルムスAnselmusの存在論的そんざいろんてき証明しょうめいを、アクィナスAquinasは退しりぞけている(第一部 第二問 第一項)。「神かみ」という概念がいねんのなかをどれだけ掘ほっても、神かみの実在じつざいは転ころがり出でてこない。出発点しゅっぱつてんはつねに世界せかいのほうだ。石いしが落おちる。火ひが燃もえる。植物しょくぶつが伸のびる。世界せかいがこのように在あることの条件じょうけんを遡さかのぼって問とう。後天的こうてんてき(a posterioriア・ポステリオリ)な論証ろんしょうであって、先天的せんてんてき(a prioriア・プリオリ)な証明しょうめいではない。

無限むげん遡行そこうの不可能性ふかのうせいはよく誤解ごかいされる。アクィナスAquinasが問題もんだいにしているのは時間じかん上じょうの過去かこへの遡行そこうではない。彼かれは世界せかいが永遠えいえんに存在そんざいしてきた可能性かのうせいを理性りせいでは排除はいじょできないと認みとめている(『世界せかいの永遠性えいえんせいについて』De Aeternitate Mundiデ・アエテルニターテ・ムンディー、1271年ねん)。問題もんだいは「今いまこの瞬間しゅんかん」の存在そんざいの依存いぞん関係かんけいだ。杖つえが石いしを動うごかし、手てが杖つえを動うごかす。この「本質的ほんしつてき系列けいれつ」(series per se ordinataセリエース・ペル・セ・オルディナータ)は、中間ちゅうかんの原因げんいんがいくら増ふえても、最初さいしょの動うごかす力ちからがなければ何なにも始はじまらない。時間じかんではなく存在論的そんざいろんてき依存いぞんの話はなしだ。

近代きんだいの批判ひはんは手厳てきびしい。ヒュームHumeは因果律いんがりつそのものを疑うたがった。カントKantは神かみの存在そんざい証明しょうめいを理論りろん理性りせいの越権えっけんと断だんじた。ラッセルRussellは「なぜ世界せかいには原因げんいんが必要ひつようで、神かみには必要ひつようないのか」と問とい返かえした。五いつつの道みちは論破ろんぱされたのか。されていない、と現代げんだいのトマスThomas主義者しゅぎしゃは言いう。アクィナスAquinasが言いう「原因げんいん」は時間じかん上じょうの「先行せんこうする出来事できごと」ではなく、存在そんざいの依存いぞん関係かんけいだからだ。ヒュームHumeの批判ひはんはそもそも別べつの平面へいめんを撃うっている、というわけだ。噛かみ合あっているかどうかも含ふくめて、決着けっちゃくはついていない。

2. 本質ほんしつと存在そんざい(essentia et esseエッセンティア・エト・エッセ):最もっとも深ふかい形而上学的けいじじょうがくてき亀裂きれつ

『存在者そんざいしゃと本質ほんしつについて』(De Ente et Essentiaデ・エンテ・エト・エッセンティア、1252〜56年ねん頃ごろ)と『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第三問から第四問。あらゆる被造物ひぞうぶつにおいて、「それが何なにであるか」(本質ほんしつ、essentiaエッセンティア)と「それが在あること」(存在そんざい、esseエッセ)は実在的じつざいてきに区別くべつされる。猫ねこの本性ほんせいを完璧かんぺきに記述きじゅつしても、そこから猫ねこが実際じっさいに存在そんざいすることは出でてこない。猫ねこは存在そんざいしなくてもよい。にもかかわらず存在そんざいしている。なぜか。存在そんざいを与あたえるものがあるからだ。

神かみだけが例外れいがい。神かみの本質ほんしつは存在そんざいそのもの(ipsum esse subsistensイプスム・エッセ・スブシステンス)。神かみは「何なにであるか」と「在あること」が一致いっちしている唯一ゆいいつの存在者そんざいしゃであり、だからこそ存在そんざいしないことがありえない。この「実在的じつざいてき区別くべつ」はアクィナスAquinasの最もっとも独自どくじの形而上学的けいじじょうがくてき貢献こうけんだ。アヴィケンナAvicenna(イブンIbn・スィーナーSīnā)が概念的がいねんてき区別くべつにとどめたものを、アクィナスAquinasは実在じつざいの構造こうぞうそのものに据すえた。創造者そうぞうしゃと被造物ひぞうぶつの断絶だんぜつ。世界せかいの偶然性ぐうぜんせい。自然しぜん神学しんがくの可能性かのうせい。すべてがこの区別くべつから流ながれ出でる。

この議論ぎろんの背後はいごには、アリストテレスAristotelēsの現実態げんじつたい(actusアクトゥス)と可能態かのうたい(potentiaポテンティア)の枠組わくぐみがある。被造物ひぞうぶつの存在そんざい(esseエッセ)は「すべての現実態げんじつたいの現実性げんじつせい」(actualitas omnium actuumアクトゥアーリタース・オムニウム・アクトゥウム)だ、とアクィナスAquinasは言いう(『能力論のうりょくろん』第七問 第二項 異論解答いろんかいとう九)。本質ほんしつは存在そんざいを受うけ取とる器うつわであり、存在そんざいはその器うつわを満みたす水みずのようなものだ。コップcupの形かたちが水みずの形かたちを決きめるように、本質ほんしつが存在そんざいの在あり方かたを限定げんていする。神かみだけが器うつわなき水みず。限定げんていなき存在そんざいそのもの。アヴェロエスAverroës(イブン・ルシュドIbn Rushd)はこの区別くべつを認みとめなかった。存在そんざいは本質ほんしつの外そとにあるのではなく、本質ほんしつそのものの一側面いちそくめんだ、と。アクィナスAquinasにとってこの否認ひにんは致命的ちめいてきだった。実在的じつざいてき区別くべつなしには、神かみと世界せかいの断絶だんぜつが消きえ、汎神論はんしんろんへの道みちが開ひらく。

3. 存在そんざいの類比るいひ(analogia entisアナロギア・エンティス):神かみについて嘘うそをつかずに語かたる方法ほうほう

神かみは存在者そんざいしゃのなかの一ひとつではない。猫ねこが善よい、友人ゆうじんが善よい、このパンが善よい。では「神かみは善よい」と言いうとき、同おなじ意味いみなのか。同おなじ意味いみだとすれば神かみは被造物ひぞうぶつに引ひきずり下おろされる(一義性いちぎせい、univocitasウニウォキタース。後のドゥンス・スコトゥスDuns Scotusの立場たちば)。まったく違ちがう意味いみだとすれば神かみについて何なにも語かたれなくなる(多義性たぎせい、aequivocitasアエクィウォキタース)。

アクィナスAquinasは第三だいさんの道みちを選えらんだ。類比るいひ(analogiaアナロギア)。帰属きぞくの類比るいひと比例ひれいの類比るいひを駆使くしし、人間にんげんの言葉ことばが神かみについて不完全ふかんぜんだが正当せいとうに語かたりうることを論ろんじた(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第十三問)。700年後ねんご、プロテスタントProtestant神学者しんがくしゃカールKarl・バルトBarthはこの教説きょうせつを「反はんキリストの発明はつめい」と呼よんだ(『教会きょうかい教義学きょうぎがく』序文じょぶん)。人間にんげんの理性りせいが神かみに手てを伸のばせるという発想はっそうそのものが、啓示けいじの絶対性ぜったいせいを汚けがす、と。

ただし類比るいひは言葉ことばの技法ぎほうだけの問題もんだいではない。アクィナスAquinasはそもそも人間にんげんが神かみに近ちかづく道みちを三みっつに分わけた。否定ひていの道みち(via negationisウィア・ネガティオーニス)。神かみは有限ゆうげんではない、物体ぶったいではない、変化へんかしない。「ではないもの」を削けずっていく。原因げんいんの道みち(via causalitatisウィア・カウサリターティス)。被造物ひぞうぶつの善ぜんさや知恵ちえは神かみに原因げんいんを持もつから、神かみにも善ぜんさや知恵ちえがあると推論すいろんできる。卓越たくえつの道みち(via eminentiaeウィア・エミネンティアエ)。神かみの善ぜんさは被造物ひぞうぶつのそれを無限むげんに超こえる。三みっつの道みちは組くみ合あわさって初はじめて機能きのうする。一ひとつ欠かければ、神かみは人間にんげんの投影とうえいになるか、あるいはまったくの沈黙ちんもくに閉とじ込こめられる。どちらに 転ころんでも神学しんがくは瓦解がかいする。三みっつの道みちを同時どうじに歩あるくというのは、要ようするにそういう際きわどい作業さぎょうだった。

4. 自然法しぜんほう(lex naturalisレークス・ナートゥラーリス):人間にんげんの本性ほんせいに刻きざまれた道徳どうとく

『神学大全しんがくたいぜん』第一の二部 第九十問から第九十七問。永遠法えいえんほう(lex aeternaレークス・アエテルナ)は神かみの理性的りせいてき統治とうち。自然法しぜんほうはその永遠法えいえんほうへの理性的りせいてき被造物ひぞうぶつの「参与さんよ」だ。第一だいいちの原理げんり:「善ぜんはなされ追求ついきゅうされるべきであり、悪あくは避さけられるべきである」(bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandumボーヌム・エスト・ファキエンドゥム・エト・プロセクエンドゥム・エト・マールム・ウィタンドゥム、第一の二部 第九十四問 第二項)。ここから自己じこ保存ほぞん、生殖せいしょくと子この教育きょういく、神かみの認識にんしき、社会しゃかいのなかでの生活せいかつという自然的しぜんてき傾向性けいこうせいが導みちびかれる。

アクィナスAquinasは法ほうを四層よんそうに重かさねた。頂点ちょうてんに永遠法えいえんほう。神かみが全被造物ぜんひぞうぶつを統治とうちする理性的りせいてき計画けいかくそのものだ。自然法しぜんほうは、その永遠法えいえんほうが人間にんげんの理性りせいの表面ひょうめんに浮うかび上あがったもの。人定法じんていほう(lex humanaレークス・フーマーナ)は自然法しぜんほうの原理げんりを具体的ぐたいてきな社会しゃかいに落おとした実定法じっていほう。神法しんぽう(lex divinaレークス・ディーウィーナ)は聖書せいしょに啓示けいじされた法ほうで、理性りせいの届とどかない領域りょういきを補おぎなう(第九十一問)。肝心かんじんなのはここだ。自然法しぜんほうに背そむく人定法じんていほうは「法ほうの腐敗ふはい」(legis corruptioレーギス・コッルプティオー、第九十五問 第二項)にすぎず、「法ほうというよりむしろ暴力ぼうりょく」(magis sunt violentiae quam legesマーギス・スント・ウィオレンティアエ・クアム・レーゲース、第九十六問 第四項)だ。悪法あくほうには従したがわなくてよい。20世紀せいきのアメリカAmericaで、マーティン・ルーサー・キングMartin Luther King・ジュニアJr.が「バーミンガムBirmingham刑務所けいむしょからの手紙てがみ」で引ひいたのは、このアクィナスAquinasの一節いっせつだった。

第一だいいちの原理げんりは不変ふへんだが、そこから導みちびかれる第二次的だいにじてき戒律かいりつは事情じじょうによって変かわりうる、とアクィナスAquinasは認みとめている(第九十四問 第四〜五項)。「預あずかったものは返かえすべし」という原則げんそくも、返かえせば人ひとを殺ころす武器ぶきになる場合ばあいは適用てきようされない。自然法しぜんほうは石板せきばんに刻きざまれた不動ふどうのリストではなく、実践的じっせんてき理性りせい(ratio practicaラティオー・プラクティカ)が具体的ぐたいてきな状況じょうきょうのなかで働はたらく原理げんりだ。この柔軟性じゅうなんせいを見落みおとすと、自然法しぜんほう論ろんは教条的きょうじょうてきな道徳どうとくリストに矮小化わいしょうかされる。

それでも亀裂きれつは残のこる。ヒュームHumeの「存在そんざい」から「当為とうい」を導みちびけないという原則げんそく(is-ought gapイズ・オウト・ギャップ)。人間にんげんが何なにであるかの記述きじゅつから、何なにをすべきかの規範きはんは出でてこない、と。法実証主義ほうじっしょうしゅぎ(ハートHart、ケルゼンKelsen)は法ほうを社会的しゃかいてき事実じじつに還元かんげんし、自然法しぜんほうを退しりぞけた。オッカムOckhamの神命説しんめいせつは逆ぎゃくの方向ほうこうから攻せめる。善ぜんいことが善ぜんいのではなく、神かみが命めいじたから善ぜんいのだ、と。アクィナスAquinasはこれを拒こばむ。神かみが殺人さつじんを善ぜんと命めいじることはありえない。なぜなら善ぜんは人間にんげんの本性ほんせいに根ねざしているからだ。ここで議論ぎろんは堂々どうどうめぐりに入はいる。本性ほんせいとは何なにか。誰だれがそれを決きめるのか。自然法しぜんほう論ろんが今いまも論争ろんそうの火種ひだねであり続つづける理由りゆうは、ここにある。

5. 魂たましいは身体しんたいの形相けいそう:プラトンPlatōn的てき二元論にげんろんへの拒否きょひ

『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第七十五問から第七十六問。魂たましいは身体しんたいに閉とじ込こめられた別個べっこの実体じったいではない。プラトンPlatōnはそう考かんがえたが、アクィナスAquinasはアリストテレスAristotelēsに従したがった。魂たましいは身体しんたいの実体的じったいてき形相けいそう(forma substantialisフォルマ・スブスタンティアーリス)だ。人間にんげんは魂たましいと身体しんたいの合成ごうせいではなく、魂たましいによって生いきている身体しんたいという一ひとつの実体じったいだ。考かんがえるのも歩あるくのも同おなじ「わたし」であって、二ふたつの存在者そんざいしゃが同居どうきょしているのではない。

この質料形相論しつりょうけいそうろん(hylomorphismusヒュレモルフィスムス)は認識論にんしきろんにも直結ちょっけつする。人間にんげんの知性ちせいは白紙はくしだ(tabula rasaタブラ・ラーサ。アリストテレスAristotelēs『霊魂れいこんについて』第三巻 第四章に由来ゆらいし、アクィナスAquinasは『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第八十四問 第三項で生得せいとく観念かんねんを明確めいかくに退しりぞけている)。生得せいとく観念かんねんはない。感覚かんかくが個別こべつの事物じぶつから像ぞう(phantasmaファンタスマ)を受うけ取とり、能動のうどう知性ちせい(intellectus agensインテッレクトゥス・アーゲンス)がそこから普遍的ふへんてきな形相けいそうを抽象ちゅうしょうする。感覚かんかくなしに知性ちせいは働はたらかない。「知性ちせいのうちにあるものは、先さきに感覚かんかくのうちにあった」(nihil est in intellectu quod non prius fuerit in sensuニヒル・エスト・イン・インテッレクトゥー・クォド・ノン・プリウス・フエリト・イン・センスー。後世こうせいのスコラ学的がくてき格言かくげんだが、趣旨しゅしは『真理論しんりろん』第二問 第三項の議論ぎろんに対応たいおうする)。身体しんたいは知ちの条件じょうけんであって、知ちの妨さまたげではない。デカルトDescartesの二元論にげんろんとは正反対せいはんたいの方角ほうがくだ。

だがアクィナスAquinasはアリストテレスAristotelēsを超こえる。知性的ちせいてき魂たましい(anima intellectivaアニマ・インテッレクティーウァ)は自存的じそんてき(subsistensスブシステンス)であり、身体しんたいの死後しごも存続そんぞくしうる。ただしそれは不完全ふかんぜんな状態じょうたいであって、身体しんたいの復活ふっかつによって人間にんげんの本性ほんせいは完成かんせいされる。アリストテレスAristotelēsの自然学しぜんがくとキリストChristus教きょうの復活ふっかつ信仰しんこうのあいだに張はられた綱つなの上うえを、アクィナスAquinasは歩あるいた。1270年ねんの断罪だんざいでは、アヴェロエスAverroës主義しゅぎの「全人類ぜんじんるいに単一たんいつの知性ちせいしかない」という説せつ(単一たんいつ知性ちせい論ろん)が標的ひょうてきになったが、アクィナスAquinas自身じしんもこれと激はげしく戦たたかった(『知性ちせいの単一性たんいつせいについて』De Unitate Intellectus contra Averroistasデ・ウーニターテ・インテッレクトゥース・コントラ・アウェッロイスタース、1270年ねん)。考かんがえているのは宇宙うちゅう精神せいしんではない、この身体しんたいを持もった個ことしての「わたし」だ。この論点ろんてんは、後のちのデカルトDescartesのコギトcogitoとも響ひびき合あうが、経路けいろはまるで違ちがう。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 『神学大全しんがくたいぜん』(Summa Theologiaeスンマ・テオロギアエ、1265〜1273年ねん、未完みかん):三部ぶ構成こうせい。神かみについて、道徳どうとく生活せいかつについて、キリストChristusについて。約やく150万語まんご。独自どくじの「問題もんだい」(quaestioクアエスティオー)形式けいしきで書かかれている。各項かくこう(articulusアルティクルス)の冒頭ぼうとうに反論はんろん(objectionesオビエクティオーネース)を並ならべ、「しかし反対はんたいに」(sed contraセド・コントラ)で権威けんいを示しめし、「答こたえて言いう」(respondeoレスポンデオー)で自説じせつを展開てんかいし、反論はんろんに一いちつずつ応答おうとうする。つまり反対はんたい意見いけんを先さきに聴きく。この構造こうぞうそのものにアクィナスAquinasの知的ちてき誠実せいじつさが表あらわれている。邦訳ほうやく:山田やまだ晶あきらほか訳やく、創文社そうぶんしゃ(全ぜん45巻かん)。
  • 『対異教徒大全たいいきょうとたいぜん』(Summa contra Gentilesスンマ・コントラ・ゲンティーレース、1259〜1265年ねん):非信者ひしんじゃに向むけたキリストChristus教きょうの弁護べんご。四よん巻かん。『神学大全しんがくたいぜん』より哲学的てつがくてき色いろが濃こい。
  • 『存在者そんざいしゃと本質ほんしつについて』(De Ente et Essentiaデ・エンテ・エト・エッセンティア、1252〜56年ねん頃ごろ):短みじかい初期しょき著作ちょさくだが、トマスThomas形而上学けいじじょうがくの鍵かぎ。本質ほんしつと存在そんざいの区別くべつを読よむならここから。
  • 『真理しんりについて』(Quaestiones Disputatae de Veritateクアエスティオーネース・ディスプターターエ・デ・ウェリターテ、1256〜59年ねん):真理しんり・認識にんしき・摂理せつりをめぐる29の討論とうろん問題もんだい。認識論にんしきろんに関心かんしんがあるなら必読ひつどく。
  • 『知性ちせいの単一性たんいつせいについて』(De Unitate Intellectus contra Averroistasデ・ウーニターテ・インテッレクトゥース・コントラ・アウェッロイスタース、1270年ねん):ブラバンBrabantのシゲルスSigerの単一たんいつ知性ちせい論ろんへの論駁ろんばく。論争ろんそうの現場げんばそのもの。激烈げきれつにして精密せいみつ。
  • アリストテレスAristotelēs注解ちゅうかい:『自然学しぜんがく』『形而上学けいじじょうがく』『霊魂れいこんについて』『ニコマコスNikomachos倫理学りんりがく』。アクィナスAquinasがアリストテレスAristotelēsをどう読よみ、どう改変かいへんしたかがわかる。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

1277年ねんのパリParis断罪だんざい。司教しきょうタンピエTempierが狙ねらったのは主おもにラテンLatin・アヴェロエスAverroës主義しゅぎだったが、巻まき添ぞえを食くらった命題めいだいがアクィナスAquinasの立場たちばに触ふれていた。たとえば「質料的しつりょうてき個体化こたいかの原理げんり」に関かんするもの。フランシスコFranciscus会かいとドミニコDominicus会かいの知的ちてき覇権はけん争あらそいが背景はいけいにある。1325年ねん、パリParis司教しきょうはアクィナスAquinasにかかわる断罪だんざいを正式せいしきに撤回てっかいした。

ドゥンス・スコトゥスDuns Scotus(1266〜1308)は存在そんざいの類比るいひに斬きりかかった。「存在そんざい」は神かみにも被造物ひぞうぶつにも一義的いちぎてき(univoceウニウォケー)に述語じゅつごされる、と。この攻撃こうげきはトマスThomas主義しゅぎの繊細せんさいな均衡きんこうを揺ゆさぶった。オッカムOckhamのウィリアム(1287年ねん頃ごろ〜1347)は普遍ふへんの実在性じつざいせいを剃刀かみそりで削けずり落おとした。唯名論ゆいめいろん(nominalismusノミナリスムス)はトマスThomas的な実在論じつざいろんの土台どだいを掘ほり崩くずす。普遍ふへんが実在じつざいしないなら、「人間にんげんの本性ほんせい」も名前なまえだけの存在そんざいになり、自然法しぜんほうの基盤きばんは崩くずれる。

近代きんだいからの砲撃ほうげきは容赦ようしゃない。ヒュームHumeは因果律いんがりつの必然性ひつぜんせいを否定ひていし、五いつつの道みちの前提ぜんていを掘ほり崩くずした。存在そんざいから当為とういを導みちびけないという原則げんそくは、自然法しぜんほうの根幹こんかんに楔くさびを打うち込こんだ。カントKantは神かみの存在そんざい証明しょうめいが理論りろん理性りせいの能力のうりょくを超こえていると宣告せんこくした。バルトBarthの「反はんキリストの発明はつめい」発言はつげんは、自然しぜん神学しんがくそのものへの全面ぜんめん否定ひていだった。人間にんげんの理性りせいで神かみに到達とうたつできるという主張しゅちょうは、神かみの絶対的ぜったいてき他者性たしゃせいを冒涜ぼうとくする、と。

だが最もっとも手てに負おえない批判ひはんは、外そとからではなく内うちから来きた。1273年ねん12月がつの神秘しんぴ体験たいけんの後のち、150万語まんごをかけて組くみ上あげた体系たいけいを、当人とうにんが「藁わらにすぎない」と言いった。理性りせいで積つみ上あげた体系たいけいの向むこう側がわに、理性りせいでは届とどかないものを見みたのか。それとも疲労ひろうか病やまいか。わからない。だがこの沈黙ちんもくは、体系たいけいの内部ないぶからは説明せつめいがつかない。理性りせいと信仰しんこうの関係かんけいについてアクィナスAquinasが書かいた150万語まんごよりも、書かくのをやめたという一ひとつの事実じじつのほうが、扱あつかいに困こまる。

影響えいきょうと遺産いさん

1323年ねん、列聖れっせい。1567年ねん、「教会きょうかい博士はかせ」(Doctor Ecclesiaeドクトル・エクレーシアエ)の称号しょうごう。1879年ねん、教皇きょうこうレオLeo十三世じゅうさんせいの回勅かいちょく『アエテルニ・パトリスAeterni Patris』がトマスThomas主義しゅぎをカトリックCatholicの公式こうしき哲学てつがくに指定していした。この決定けっていは二十にじゅう世紀せいきのカトリックCatholic知識人ちしきじんの地形ちけいを形成けいせいした。ジャックJacques・マリタンMaritain、エティエンヌÉtienne・ジルソンGilson、ヨーゼフJosef・ピーパーPieper。いずれもトマスThomas主義しゅぎの土壌どじょうから育そだった思想家しそうかだ。

法哲学ほうてつがくへの影響えいきょうは直接的ちょくせつてきだ。ジョンJohn・フィニスFinnisとジャーメインGermain・グリゼズGrisezはアクィナスAquinasの自然法しぜんほう論ろんを現代げんだいの法理論ほうりろんとして再構築さいこうちくした。エリザベスElizabeth・アンスコムAnscombeの徳とく倫理学りんりがく復権ふっけんにはトマスThomas的な根ねがある。分析ぶんせき哲学てつがくの宗教しゅうきょう哲学てつがくでも、プランティンガPlantingaやスウィンバーンSwinburneが五いつつの道みちと格闘かくとうし続つづけている。アクィナスAquinasは博物館はくぶつかんに収おさまる気配けはいがない。

個々ここの教説きょうせつよりも、態度たいどが残のこったのかもしれない。異教いきょうの哲学者てつがくしゃの思想しそうを、恐おそれずに学まなぶ。真理しんりは誰だれが言いおうと真理しんりだ。アリストテレスAristotelēsが異教徒いきょうとであろうが、論理学ろんりがくが正ただしいなら正ただしい。アヴィケンナAvicennaがムスリムMuslimであろうが、形而上学けいじじょうがくから学まなぶべきものは学まなぶ。真理しんりの出自しゅつじを問とわない。十三じゅうさん世紀せいきにあって、これは途方とほうもなく過激かげきな態度たいどだった。

正戦論せいせんろん(bellum iustumベッルム・ユストゥム)もまたアクィナスAquinasの遺産いさんだ。戦争せんそうが正当せいとうであるための三条件さんじょうけん、すなわち正当せいとうな権威けんい・正当せいとうな理由りゆう・正ただしい意図いと(『神学大全しんがくたいぜん』第二の二部 第四十問 第一項)は、国際法こくさいほうにおける武力ぶりょく行使こうしの正当化せいとうか基準きじゅんの原型げんけいになった。21世紀せいきの軍事ぐんじ介入かいにゅうをめぐる議論ぎろんでも、この枠組わくぐみは生いきている。1962年ねんに始はじまった第二だいにバチカンVaticanus公会議こうかいぎも、アクィナスAquinasを神学しんがく教育きょういくの模範もはんとして再確認さいかくにんした(『司祭しさい養成ようせいに関かんする教令きょうれい』第十六条だいじゅうろくじょう)。カトリックCatholicの知的ちてき伝統でんとうからアクィナスAquinasを引ひき剥はがしたら、あとに残のこるものがどれだけあるか。考かんがえてみるとぞっとする程度ていどには、この修道士しゅうどうしの影響えいきょうは深ふかい。

現代げんだいへの接続せつぞく

AIに魂たましいはあるか。アクィナスAquinasなら即答そくとうする。ない。知性ちせいの働はたらきは非物質的ひぶっしつてきだからだ(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第七十五問 第二項)。機械きかいがどれほど精緻せいちな出力しゅつりょくをしても、それは「理解りかい」ではなく情報じょうほうの操作そうさにすぎない。この線引せんびきが今いまでも通用つうようするかどうかは別べつの話はなしだが、通用つうようしないと言いい切きるには「理解りかい」と「模倣もほう」の境界きょうかいをどこかに引ひかなければならず、それは見みかけほど簡単かんたんではない。

自然法しぜんほうと生命せいめい倫理りんり。中絶ちゅうぜつ・安楽死あんらくし・同性婚どうせいこんをめぐるカトリックCatholicの公式こうしき見解けんかいは、すべてアクィナスAquinasの自然法しぜんほう論ろんに遡さかのぼる。賛成さんせいするにせよ反対はんたいするにせよ、この枠組わくぐみを知しらなければ議論ぎろんの入口いりぐちにすら立たてない。「人間にんげんの本性ほんせいに根ねざした善ぜん」は存在そんざいするのか。それとも道徳どうとくは社会しゃかいの取とり決きめにすぎないのか。コンビニで弁当べんとうを買かうようにルールruleを選えらべるのか。「そうではない」と感かんじる直感ちょっかんは多おおくの人ひとにあるだろうが、その直感ちょっかんを言葉ことばにしようとすると途端とたんに難むずかしくなる。アクィナスAquinasの自然法しぜんほう論ろんは、その困難こんなんに正面しょうめんから取とり組くんだ試こころみだ。

世俗せぞくの時代じだいに信仰しんこうは居場所いばしょを持もてるか。「理性りせい」が「科学かがく」と同義どうぎになった世界せかいで、信仰しんこうは認識論的にんしきろんてきな権利けんりを主張しゅちょうできるのか。アクィナスAquinasはできると言いった。チャールズCharles・テイラーTaylorの『世俗せぞくの時代じだい』(A Secular Ageア・セキュラー・エイジ、2007年ねん)は、このトマスThomas的な問といから出発しゅっぱつしている。理性りせいと信仰しんこうが同居どうきょできた時代じだいは終おわったのか。それとも、同居どうきょを放棄ほうきした近代きんだいのほうが歪いびつなのか。テイラーTaylorの本ほんが600ページpageを超こえるのは、この問といが短みじかい答こたえを許ゆるさないからだろう。

読者どくしゃへの問とい

  • 理性りせいだけでは証明しょうめいできないが、真しんだと信しんじていることが、あなたにはあるか。あるとすれば、その信しんを支ささえているのは何なにか。
  • 道徳どうとくは発見はっけんされるものか、発明はつめいされるものか。「人ひとを殺ころしてはならない」は人間にんげんの本性ほんせいに根ねざしているのか、それとも社会しゃかいが決きめたルールなのか。あなたはどちらの前提ぜんていで生いきているか。
  • アクィナスAquinasは神秘しんぴ体験たいけんの後のち、自分じぶんの全著作ぜんちょさくを「藁わら」と呼よんだ。あなたが築きずいてきたもの、信しんじてきたことが、ある瞬間しゅんかんに全部ぜんぶ無意味むいみに見みえた経験けいけんはあるか。

名言めいげん(出典しゅってんつき)

「恩寵おんちょうは自然しぜんを滅ほろぼさず、むしろ完成かんせいさせる」 出典しゅってん:トマスThomas・アクィナスAquinas『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第一問 第八項 異論解答いろんかいとう二/原文げんぶん:"Gratia non tollit naturam sed perficit."

信仰しんこうと理性りせいの関係かんけいを一文いちぶんに凝縮ぎょうしゅくした定式ていしき。恩寵おんちょうは自然しぜんを否定ひていしない。完成かんせいさせる。この短みじかい一文いちぶんに、アクィナスAquinasの全企図ぜんきとが詰つまっている。

「善ぜんはなされ追求ついきゅうされるべきであり、悪あくは避さけられるべきである」 出典しゅってん:トマスThomas・アクィナスAquinas『神学大全しんがくたいぜん』第一の二部 第九十四問 第二項/原文げんぶん:"Bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandum."

自然法しぜんほうの第一だいいち原理げんり。当あたり前まえに聞きこえるが、この「当あたり前まえ」を根拠こんきょづけることが、どれほど難むずかしいか。近代きんだい倫理学りんりがくの大半たいはんは、この一文いちぶんの正当化せいとうかをめぐる格闘かくとうだ。

「存在そんざいするものすべてにおいて、その本質ほんしつとは別べつに存在そんざい(エッセ)がなければならない」 出典しゅってん:トマスThomas・アクィナスAquinas『存在者そんざいしゃと本質ほんしつについて』第四章の趣旨しゅしにもとづく要約ようやく/原文げんぶん(関連かんれん箇所かしょ):"In omni eo quod est praeter eius essentiam, oportet quod esse suum sit aliud ab eius essentia."

本質ほんしつと存在そんざいの実在的じつざいてき区別くべつ。トマスThomas形而上学けいじじょうがくの核心かくしんがこの一文いちぶんにある。あるものが何なにであるかと、そのものが在あることは、同おなじではない。

「わたしが書かいたすべてのものは藁わらのように思おもわれる」 出典しゅってん:秘書ひしょレギナルドゥスReginaldus・デ・ピペルノde Pipernoの証言しょうげん/原文げんぶん:"Omnia quae scripsi videntur mihi paleae respectu eorum quae vidi et revelata sunt mihi."

150万語まんごを書かいた男おとこの最後さいごの言葉ことば。見みたものの前まえでは、書かいたものはすべて藁わらだ、と。理性りせいの大伽藍だいがらんを築きずいた人間にんげんが、その彼方かなたに何なにを見みたのか。誰だれにもわからない。

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん・ラテンLatin語ご):Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Editio Leonina.
  • (原典げんてん・邦訳ほうやく):トマスThomas・アクィナスAquinas『神学大全しんがくたいぜん』山田やまだ晶あきらほか訳やく、創文社そうぶんしゃ(全ぜん45巻かん)。
  • (原典げんてん・英訳えいやく):Thomas Aquinas, De Ente et Essentia, trans. Armand Maurer, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 1968.
  • (研究書けんきゅうしょ):Brian Davies, The Thought of Thomas Aquinas, Oxford University Press, 1992.
  • (研究書けんきゅうしょ):Étienne Gilson, The Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas, Random House, 1956.
  • (研究書けんきゅうしょ・邦語ほうご):稲垣いながき良典よしのり『トマスThomas・アクィナスAquinasの神学しんがく』創文社そうぶんしゃ、1993年ねん。
  • (概説がいせつ・邦語ほうご):山本やまもと芳久よしひさ『トマスThomas・アクィナスAquinas 理性りせいと神秘しんぴ』岩波新書いわなみしんしょ、2017年ねん。
  • (概説がいせつ):Edward Feser, Aquinas: A Beginner's Guide, Oneworld, 2009.
  • (補助ほじょウェブweb資料しりょう):"Thomas Aquinas", Stanford Encyclopedia of Philosophy.