1277ねんパリParis司教しきょうエティエンヌÉtienneタンピエTempierが219の命題めいだい断罪だんざいする布告ふこくはっした。異端いたんにおいがする哲学的てつがくてき主張しゅちょう根絶こんぜつせよ、と。そのリストのなかに、三年前さんねんまえんだばかりの修道士しゅうどうし立場たちばれる項目こうもくふくまれていた。トマスThomasアクィナスAquinasカトリックCatholic教会きょうかいんだ最大さいだい神学者しんがくしゃ。そのおとこ異端いたん嫌疑けんぎがかかった。

理由りゆう明快めいかいだった。アクィナスAquinasは、教会きょうかいがかつてきんじた異教いきょう哲学者てつがくしゃアリストテレスAristotelēs思想しそう全面的ぜんめんてきみ、キリストChristusきょう神学しんがく骨格こっかくにしてしまった。かみ存在そんざい理性りせいだけで証明しょうめいできる。道徳どうとく基礎きそ啓示けいじではなく人間にんげん本性ほんせいにある。信仰しんこうとりで理性りせいという異物いぶつんだのか。あるいはぎゃくに、理性りせい領土りょうど信仰しんこうまねれたのか。どちらにせよ、この修道士しゅうどうし両者りょうしゃ矛盾むじゅんしないというけに生涯しょうがいけた。

けの根拠こんきょはひとつ。真理しんりはひとつだ、と。かみ世界せかいつくったなら、理性りせい発見はっけんされる真理しんり啓示けいじによる真理しんりちがうはずがない。ちがってえるなら、どちらかのかた間違まちがっている。単純たんじゅん確信かくしんだが、だからこそ厄介やっかいだった。

死後しごねん異端いたん嫌疑けんぎ死後しご四十九ねん列聖れっせい死後しご六百余ねんカトリックCatholic公式こうしき哲学てつがく。この振幅しんぷくはげしさそのものが、かれくわだてのあやうさと底力そこぢから物語ものがたっている。西洋せいよう思想史しそうしもっと建築的けんちくてき体系たいけいきずいた人間にんげんが、最後さいご自分じぶん全著作ぜんちょさくを「わら」とんでふでった。

理性りせいかみ到達とうたつできるのか。道徳どうとく人間にんげん本性ほんせいにあるのか、それともだれかの命令めいれいにあるのか。いはどれも片付かたづいていない。150万語まんごくしたのちに「わら」とはなった沈黙ちんもくのほうが、あるいは体系たいけい中身なかみよりもずっとおおくをかたっている。

この記事きじ要点ようてん

  • いつつのみちquinque viaeクィンクエ・ウィアエ自然しぜん理性りせいだけでかみ存在そんざい論証ろんしょうするいつつの議論ぎろん(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第二問 第三項)。近代きんだい的な意味いみの「証明しょうめい」ではなく、運動うんどう因果いんが偶然性ぐうぜんせいといった世界せかい経験的けいけんてき特徴とくちょうから「原因げんいんなき原因げんいん」へさかのぼ論証ろんしょうだ。
  • 本質ほんしつ存在そんざい実在的じつざいてき区別くべつessentia et esseエッセンティア・エト・エッセ:あらゆる被造物ひぞうぶつにおいて、「それがなにであるか」と「それがること」はべつだ。うま本性ほんせいにはうま存在そんざいするという保証ほしょうふくまれていない。かみだけが本質ほんしつ存在そんざい一致いっちする唯一ゆいいつ存在者そんざいしゃ。この形而上学的けいじじょうがくてき区別くべつアクィナスAquinas全体系ぜんたいけい土台どだいになる。
  • 自然法しぜんほうlex naturalisレークス・ナートゥラーリス道徳どうとく規範きはんかみ恣意的しいてき命令めいれいではなく、理性的りせいてき被造物ひぞうぶつ永遠法えいえんほうに「参与さんよ」(participatioパルティキパーティオー)することで成立せいりつする。理性りせい人間にんげんにとってなにぜんかを発見はっけんできる。カトリックCatholic道徳どうとく伝統でんとう骨格こっかくであり、法実証主義ほうじっしょうしゅぎ神命説しんめいせついま衝突しょうとつつづけている。

生涯しょうがい時代じだい背景はいけい

1225ねんごろ伝統的でんとうてきには1がつ28にちとされるが確証かくしょうはない)、みなみイタリアItaliaロッカセッカRoccaseccaまれる。シチリアSicilia王国おうこく領域りょういきで、モンテ・カッシーノMonte Cassino修道院しゅうどういんのすぐちかく。貴族きぞくいえだ。五歳ごさいモンテ・カッシーノMonte Cassino献児けんじoblatusオブラートゥス)としてあずけられた。家族かぞくねらいは明白めいはくだった。息子むすこをいずれベネディクトBenedictusかい修道院長しゅうどういんちょうにすること。政治的せいじてきにも経済的けいざいてきにも有利ゆうりポストpostだ。ところがトマスThomasべつみちえらんだ。

1239ねんナポリNapoli大学だいがく入学にゅうがく皇帝こうていフリードリヒFriedrich二世にせい創設そうせつした世俗せぞく大学だいがくで、ここではじめてアリストテレスAristotelēs自然学しぜんがく形而上学けいじじょうがく本格的ほんかくてき出会であった。そして1244ねんごろ家族かぞく計画けいかく完全かんぜん裏切うらぎ決断けつだんくだす。修道院長しゅうどういんちょうではなく、托鉢たくはつ修道会しゅうどうかいであるドミニコDominicusかいはいったのだ。清貧せいひんむねとし、街頭がいとう説教せっきょうし、学問がくもんきる修道会しゅうどうかい家族かぞく激怒げきどした。あにたちがトマスThomas途中とちゅう拉致らちし、やく年間ねんかん実家じっかしろ監禁かんきんした。説得せっとく恫喝どうかつかなかった。トマスThomas監禁中かんきんちゅう聖書せいしょアリストテレスAristotelēsつづけた。

解放かいほうされたのちパリParisケルンKölnアルベルトゥスAlbertusマグヌスMagnus師事しじする。同級生どうきゅうせいたちは寡黙かもく巨体きょたいトマスThomasを「無口むくちうし」(bos mutusボース・ムートゥス)とんだ。アルベルトゥスAlbertusった。「このうしごえはやがて全世界ぜんせかいひびわたるだろう」と。予言よげん的中てきちゅうした。1265ねんから66ねんにかけて着手ちゃくしゅされた『神学大全しんがくたいぜん』(Summa Theologiaeスンマ・テオロギアエ)はやく150万語まんご西洋せいよう思想史しそうしもっと野心的やしんてき体系的たいけいてき著作ちょさく未完みかんのままわった。

1273ねん12がつ6にちミサMissa最中さいちゅうなにかがきた。神秘しんぴ体験たいけん詳細しょうさい不明ふめいだ。秘書ひしょレギナルドゥスReginaldus執筆しっぴつ再開さいかいうながすと、アクィナスAquinasこたえた。「わたしがいたすべてのものは、わらのようにおもわれる」(omnia quae scripsi videntur mihi paleaeオムニア・クアエ・スクリープスィー・ウィデントゥル・ミヒ・パレアエ)。ふでいた。二度にどかなかった。1274ねん3がつ7にちリヨンLyon公会議こうかいぎへのたび途上とじょうフォッサノーヴァFossanova修道院しゅうどういんぼつ享年きょうねん49。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1225ねんごろみなみイタリアItaliaロッカセッカRoccaseccaまれる
  • 1230ねんごろモンテ・カッシーノMonte Cassino修道院しゅうどういん献児けんじとしてはい
  • 1239ねんナポリNapoli大学だいがく入学にゅうがくアリストテレスAristotelēs出会であ
  • 1244ねんごろドミニコDominicusかい入会にゅうかい家族かぞく拉致らち監禁かんきんされる(やく年間ねんかん
  • 1245〜1252ねんパリParisケルンKölnアルベルトゥスAlbertusマグヌスMagnus師事しじ
  • 1252〜1259ねん第一だいいちパリParis教授きょうじゅ。『存在者そんざいしゃ本質ほんしつについて』執筆しっぴつ
  • 1265/66ねん:『神学大全しんがくたいぜん執筆しっぴつ開始かいし
  • 1269〜1272ねん第二だいにパリParis教授きょうじゅラテンLatinアヴェロエスAverroës主義者しゅぎしゃ保守ほしゅアウグスティヌスAugustinus主義者しゅぎしゃ論争ろんそう
  • 1273ねん12がつ6にち神秘しんぴ体験たいけん。「わら発言はつげん執筆しっぴつ停止ていし
  • 1274ねん3がつ7にちフォッサノーヴァFossanova修道院しゅうどういんにてぼつ
  • 1277ねんパリParisでの命題めいだい断罪だんざい一部いちぶアクィナスAquinas立場たちばかかわる
  • 1323ねん教皇きょうこうヨハネスJohannes二十二世にじゅうにせいにより列聖れっせい
  • 1879ねん教皇きょうこうレオLeo十三世じゅうさんせい回勅かいちょくアエテルニ・パトリスAeterni Patris』でトマスThomas主義しゅぎカトリックCatholic公式こうしき哲学てつがく

この哲学者てつがくしゃなにうたのか

十三じゅうさん世紀せいき危機ききは、一冊いっさつほんからはじまった。いや、何千冊なんぜんさつものほんアラビアArabia経由けいゆラテンLatin翻訳ほんやくされたアリストテレスAristotelēs全著作ぜんちょさくが、ヨーロッパEuropa大学だいがく洪水こうずいのようにながんだ。1210ねんパリParis教会きょうかい会議かいぎアリストテレスAristotelēs自然学しぜんがく著作ちょさく講読こうどくきんじた。1215ねんパリParis大学だいがく規約きやくでも同様どうよう。それでも流入りゅうにゅうまらなかった。問題もんだい中身なかみだ。アリストテレスAristotelēsかみは「不動ふどう動者どうしゃ」であり、世界せかい無関心むかんしんだ。創造そうぞうらない。世界せかい永遠えいえん存在そんざいしていて、はじまりがない。倫理りんり純粋じゅんすい自然的しぜんてきで、恩寵おんちょう救済きゅうさいらない。キリストChristusきょう教義きょうぎ正面しょうめんから衝突しょうとつする。

保守ほしゅ神学者しんがくしゃたち、とりわけフランシスコFranciscusかいボナヴェントゥラBonaventuraアリストテレスAristotelēs制限せいげん排除はいじょもとめた。反対はんたいきょくには、パリParis文学部ぶんがくぶにいたラテンLatinアヴェロエスAverroës主義者しゅぎしゃたち。ブラバンBrabantシゲルスSigerがその代表だいひょうだ。かれらは「二重にじゅう真理しんりせつ」をとなえた。哲学てつがく神学しんがくはそれぞれの領域りょういき矛盾むじゅんする結論けつろんたっしてよい、と。哲学的てつがくてきには世界せかい永遠えいえんだが、信仰的しんこうてきには創造そうぞうされた。矛盾むじゅんしているが両方りょうほうただしい──知的ちてき降伏こうふく整理せいりするための方便ほうべんだ。

アクィナスAquinas両方りょうほう拒否きょひした。アリストテレスAristotelēs排除はいじょするのは真理しんりへの冒涜ぼうとくだ。だが「二重にじゅう真理しんり」は論理的ろんりてき自殺じさつにすぎない。かれ根本こんぽん命題めいだい一行いちぎょう凝縮ぎょうしゅくされる。「恩寵おんちょう自然しぜんほろぼさず、むしろ完成かんせいさせる」(gratia non tollit naturam sed perficitグラーティア・ノン・トッリト・ナートゥーラム・セド・ペルフィキト、『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第一問 第八項 異論解答いろんかいとう二)。信仰しんこう理性りせい破壊はかいしない。『神学大全しんがくたいぜん』はまさにこの問題もんだいからはじまる。第一部 第一問 第一項、「せいなるおしえ(sacra doctrinaサクラ・ドクトリーナ)は哲学的てつがくてき諸学しょがくのほかに必要ひつようか」。反論はんろんう、理性りせいりるではないか、と。アクィナスAquinasこたえる。人間にんげん究極きゅうきょく目的もくてき救済きゅうさい)は理性りせい射程しゃていえる。だから啓示けいじる。理性りせいとどかない領域りょういき三位一体さんみいったい受肉じゅにく)をらすのが信仰しんこうだ。啓示けいじ理性りせいつぶすのではなく、理性りせいだけではくらいままの場所ばしょれる。すくなくともアクィナスAquinasはそうんだ。

核心かくしん理論りろん

1. いつつのみちquinque viaeクィンクエ・ウィアエ):理性りせい梯子はしごかみいた

神学大全しんがくたいぜん』第一部 第二問 第三項。アクィナスAquinasいつつの論証ろんしょうならべた。すべて世界せかい観察かんさつから出発しゅっぱつする。第一だいいち運動うんどうex motuエクス・モートゥー)。うごいているものはなにかにうごかされている。さかのぼりは無限むげんつづけられない。不動ふどう動者どうしゃにぶつかる。第二だいに作用因さよういん連鎖れんさex ratione causae efficientisエクス・ラティオーネ・カウサエ・エッフィキエンティス)。はじまりのない原因げんいんくさりからは、いままえにある結果けっかまれない。第三だいさん偶然性ぐうぜんせい必然性ひつぜんせいex possibili et necessarioエクス・ポッスィビリ・エト・ネケッサーリオー)。存在そんざいしなくてもよいものばかりの世界せかいが、なぜ存在そんざいしているのか。なにかが、みずから存在そんざいせざるをえないものとしてるはずだ。第四だいよん完全性かんぜんせい度合どあい(ex gradibusエクス・グラディブス)。ぜんいもの、よりぜんいものがあるなら、「もっとぜんいもの」が基準きじゅんとして要請ようせいされる。第五だいご目的もくてき秩序ちつじょex gubernatione rerumエクス・グベルナーティオーネ・レールム)。知性ちせいたない自然物しぜんぶつ規則的きそくてき目的もくてきかう。まとたるのは射手いてがいるからだ。

アンセルムスAnselmus存在論的そんざいろんてき証明しょうめいを、アクィナスAquinas退しりぞけている(第一部 第二問 第一項)。「かみ」という概念がいねんのなかをどれだけっても、かみ実在じつざいころがりてこない。出発点しゅっぱつてんはつねに世界せかいのほうだ。いしちる。える。植物しょくぶつびる。世界せかいがこのようにることの条件じょうけんさかのぼってう。後天的こうてんてきa posterioriア・ポステリオリ)な論証ろんしょうであって、先天的せんてんてきa prioriア・プリオリ)な証明しょうめいではない。

無限むげん遡行そこう不可能性ふかのうせいはよく誤解ごかいされる。アクィナスAquinas問題もんだいにしているのは時間じかんじょう過去かこへの遡行そこうではない。かれ世界せかい永遠えいえん存在そんざいしてきた可能性かのうせい理性りせいでは排除はいじょできないとみとめている(『世界せかい永遠性えいえんせいについて』De Aeternitate Mundiデ・アエテルニターテ・ムンディー、1271ねん)。問題もんだいは「いまこの瞬間しゅんかん」の存在そんざい依存いぞん関係かんけいだ。つえいしうごかし、つえうごかす。この「本質的ほんしつてき系列けいれつ」(series per se ordinataセリエース・ペル・セ・オルディナータ)は、中間ちゅうかん原因げんいんがいくらえても、最初さいしょうごかすちからがなければなにはじまらない。時間じかんではなく存在論的そんざいろんてき依存いぞんはなしだ。

近代きんだい批判ひはん手厳てきびしい。ヒュームHume因果律いんがりつそのものをうたがった。カントKantかみ存在そんざい証明しょうめい理論りろん理性りせい越権えっけんだんじた。ラッセルRussellは「なぜ世界せかいには原因げんいん必要ひつようで、かみには必要ひつようないのか」とかえした。いつつのみち論破ろんぱされたのか。されていない、と現代げんだいトマスThomas主義者しゅぎしゃう。アクィナスAquinasう「原因げんいん」は時間じかんじょうの「先行せんこうする出来事できごと」ではなく、存在そんざい依存いぞん関係かんけいだからだ。ヒュームHume批判ひはんはそもそもべつ平面へいめんっている、というわけだ。っているかどうかもふくめて、決着けっちゃくはついていない。

2. 本質ほんしつ存在そんざいessentia et esseエッセンティア・エト・エッセ):もっとふか形而上学的けいじじょうがくてき亀裂きれつ

存在者そんざいしゃ本質ほんしつについて』(De Ente et Essentiaデ・エンテ・エト・エッセンティア、1252〜56ねんごろ)と『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第三問から第四問。あらゆる被造物ひぞうぶつにおいて、「それがなにであるか」(本質ほんしつessentiaエッセンティア)と「それがること」(存在そんざいesseエッセ)は実在的じつざいてき区別くべつされる。ねこ本性ほんせい完璧かんぺき記述きじゅつしても、そこからねこ実際じっさい存在そんざいすることはてこない。ねこ存在そんざいしなくてもよい。にもかかわらず存在そんざいしている。なぜか。存在そんざいあたえるものがあるからだ。

かみだけが例外れいがいかみ本質ほんしつ存在そんざいそのもの(ipsum esse subsistensイプスム・エッセ・スブシステンス)。かみは「なにであるか」と「ること」が一致いっちしている唯一ゆいいつ存在者そんざいしゃであり、だからこそ存在そんざいしないことがありえない。この「実在的じつざいてき区別くべつ」はアクィナスAquinasもっと独自どくじ形而上学的けいじじょうがくてき貢献こうけんだ。アヴィケンナAvicennaイブンIbnスィーナーSīnā)が概念的がいねんてき区別くべつにとどめたものを、アクィナスAquinas実在じつざい構造こうぞうそのものにえた。創造者そうぞうしゃ被造物ひぞうぶつ断絶だんぜつ世界せかい偶然性ぐうぜんせい自然しぜん神学しんがく可能性かのうせい。すべてがこの区別くべつからながる。

この議論ぎろん背後はいごには、アリストテレスAristotelēs現実態げんじつたいactusアクトゥス)と可能態かのうたいpotentiaポテンティア)の枠組わくぐみがある。被造物ひぞうぶつ存在そんざいesseエッセ)は「すべての現実態げんじつたい現実性げんじつせい」(actualitas omnium actuumアクトゥアーリタース・オムニウム・アクトゥウム)だ、とアクィナスAquinasう(『能力論のうりょくろん』第七問 第二項 異論解答いろんかいとう九)。本質ほんしつ存在そんざいうつわであり、存在そんざいはそのうつわたすみずのようなものだ。コップcupかたちみずかたちめるように、本質ほんしつ存在そんざいかた限定げんていする。かみだけがうつわなきみず限定げんていなき存在そんざいそのもの。アヴェロエスAverroësイブン・ルシュドIbn Rushd)はこの区別くべつみとめなかった。存在そんざい本質ほんしつそとにあるのではなく、本質ほんしつそのものの一側面いちそくめんだ、と。アクィナスAquinasにとってこの否認ひにん致命的ちめいてきだった。実在的じつざいてき区別くべつなしには、かみ世界せかい断絶だんぜつえ、汎神論はんしんろんへのみちひらく。

3. 存在そんざい類比るいひanalogia entisアナロギア・エンティス):かみについてうそをつかずにかた方法ほうほう

かみ存在者そんざいしゃのなかのひとつではない。ねこい、友人ゆうじんい、このパンがい。では「かみい」とうとき、おな意味いみなのか。おな意味いみだとすればかみ被造物ひぞうぶつきずりろされる(一義性いちぎせいunivocitasウニウォキタース。後のドゥンス・スコトゥスDuns Scotus立場たちば)。まったくちが意味いみだとすればかみについてなにかたれなくなる(多義性たぎせいaequivocitasアエクィウォキタース)。

アクィナスAquinas第三だいさんみちえらんだ。類比るいひanalogiaアナロギア)。帰属きぞく類比るいひ比例ひれい類比るいひ駆使くしし、人間にんげん言葉ことばかみについて不完全ふかんぜんだが正当せいとうかたりうることをろんじた(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第十三問)。700年後ねんごプロテスタントProtestant神学者しんがくしゃカールKarlバルトBarthはこの教説きょうせつを「はんキリストの発明はつめい」とんだ(『教会きょうかい教義学きょうぎがく序文じょぶん)。人間にんげん理性りせいかみばせるという発想はっそうそのものが、啓示けいじ絶対性ぜったいせいけがす、と。

ただし類比るいひ言葉ことば技法ぎほうだけの問題もんだいではない。アクィナスAquinasはそもそも人間にんげんかみちかづくみちみっつにけた。否定ひていみちvia negationisウィア・ネガティオーニス)。かみ有限ゆうげんではない、物体ぶったいではない、変化へんかしない。「ではないもの」をけずっていく。原因げんいんみちvia causalitatisウィア・カウサリターティス)。被造物ひぞうぶつぜんさや知恵ちえかみ原因げんいんつから、かみにもぜんさや知恵ちえがあると推論すいろんできる。卓越たくえつみちvia eminentiaeウィア・エミネンティアエ)。かみぜんさは被造物ひぞうぶつのそれを無限むげんえる。みっつのみちわさってはじめて機能きのうする。ひとければ、かみ人間にんげん投影とうえいになるか、あるいはまったくの沈黙ちんもくめられる。どちらに ころんでも神学しんがく瓦解がかいする。みっつのみち同時どうじあるくというのは、ようするにそういうきわどい作業さぎょうだった。

4. 自然法しぜんほうlex naturalisレークス・ナートゥラーリス):人間にんげん本性ほんせいきざまれた道徳どうとく

神学大全しんがくたいぜん』第一の二部 第九十問から第九十七問。永遠法えいえんほうlex aeternaレークス・アエテルナ)はかみ理性的りせいてき統治とうち自然法しぜんほうはその永遠法えいえんほうへの理性的りせいてき被造物ひぞうぶつの「参与さんよ」だ。第一だいいち原理げんり:「ぜんはなされ追求ついきゅうされるべきであり、あくけられるべきである」(bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandumボーヌム・エスト・ファキエンドゥム・エト・プロセクエンドゥム・エト・マールム・ウィタンドゥム、第一の二部 第九十四問 第二項)。ここから自己じこ保存ほぞん生殖せいしょく教育きょういくかみ認識にんしき社会しゃかいのなかでの生活せいかつという自然的しぜんてき傾向性けいこうせいみちびかれる。

アクィナスAquinasほう四層よんそうかさねた。頂点ちょうてん永遠法えいえんほうかみ全被造物ぜんひぞうぶつ統治とうちする理性的りせいてき計画けいかくそのものだ。自然法しぜんほうは、その永遠法えいえんほう人間にんげん理性りせい表面ひょうめんかびがったもの。人定法じんていほうlex humanaレークス・フーマーナ)は自然法しぜんほう原理げんり具体的ぐたいてき社会しゃかいとした実定法じっていほう神法しんぽうlex divinaレークス・ディーウィーナ)は聖書せいしょ啓示けいじされたほうで、理性りせいとどかない領域りょういきおぎなう(第九十一問)。肝心かんじんなのはここだ。自然法しぜんほうそむ人定法じんていほうは「ほう腐敗ふはい」(legis corruptioレーギス・コッルプティオー、第九十五問 第二項)にすぎず、「ほうというよりむしろ暴力ぼうりょく」(magis sunt violentiae quam legesマーギス・スント・ウィオレンティアエ・クアム・レーゲース、第九十六問 第四項)だ。悪法あくほうにはしたがわなくてよい。20世紀せいきアメリカAmericaで、マーティン・ルーサー・キングMartin Luther KingジュニアJr.が「バーミンガムBirmingham刑務所けいむしょからの手紙てがみ」でいたのは、このアクィナスAquinas一節いっせつだった。

第一だいいち原理げんり不変ふへんだが、そこからみちびかれる第二次的だいにじてき戒律かいりつ事情じじょうによってわりうる、とアクィナスAquinasみとめている(第九十四問 第四〜五項)。「あずかったものはかえすべし」という原則げんそくも、かえせばひところ武器ぶきになる場合ばあい適用てきようされない。自然法しぜんほう石板せきばんきざまれた不動ふどうのリストではなく、実践的じっせんてき理性りせいratio practicaラティオー・プラクティカ)が具体的ぐたいてき状況じょうきょうのなかではたら原理げんりだ。この柔軟性じゅうなんせい見落みおとすと、自然法しぜんほうろん教条的きょうじょうてき道徳どうとくリストに矮小化わいしょうかされる。

それでも亀裂きれつのこる。ヒュームHumeの「存在そんざい」から「当為とうい」をみちびけないという原則げんそくis-ought gapイズ・オウト・ギャップ)。人間にんげんなにであるかの記述きじゅつから、なにをすべきかの規範きはんてこない、と。法実証主義ほうじっしょうしゅぎハートHartケルゼンKelsen)はほう社会的しゃかいてき事実じじつ還元かんげんし、自然法しぜんほう退しりぞけた。オッカムOckham神命説しんめいせつぎゃく方向ほうこうからめる。ぜんいことがぜんいのではなく、かみめいじたからぜんいのだ、と。アクィナスAquinasはこれをこばむ。かみ殺人さつじんぜんめいじることはありえない。なぜならぜん人間にんげん本性ほんせいざしているからだ。ここで議論ぎろん堂々どうどうめぐりにはいる。本性ほんせいとはなにか。だれがそれをめるのか。自然法しぜんほうろんいま論争ろんそう火種ひだねでありつづける理由りゆうは、ここにある。

5. たましい身体しんたい形相けいそうプラトンPlatōnてき二元論にげんろんへの拒否きょひ

神学大全しんがくたいぜん』第一部 第七十五問から第七十六問。たましい身体しんたいめられた別個べっこ実体じったいではない。プラトンPlatōnはそうかんがえたが、アクィナスAquinasアリストテレスAristotelēsしたがった。たましい身体しんたい実体的じったいてき形相けいそうforma substantialisフォルマ・スブスタンティアーリス)だ。人間にんげんたましい身体しんたい合成ごうせいではなく、たましいによってきている身体しんたいというひとつの実体じったいだ。かんがえるのもあるくのもおなじ「わたし」であって、ふたつの存在者そんざいしゃ同居どうきょしているのではない。

この質料形相論しつりょうけいそうろんhylomorphismusヒュレモルフィスムス)は認識論にんしきろんにも直結ちょっけつする。人間にんげん知性ちせい白紙はくしだ(tabula rasaタブラ・ラーサアリストテレスAristotelēs霊魂れいこんについて』第三巻 第四章に由来ゆらいし、アクィナスAquinasは『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第八十四問 第三項で生得せいとく観念かんねん明確めいかく退しりぞけている)。生得せいとく観念かんねんはない。感覚かんかく個別こべつ事物じぶつからぞうphantasmaファンタスマ)をり、能動のうどう知性ちせいintellectus agensインテッレクトゥス・アーゲンス)がそこから普遍的ふへんてき形相けいそう抽象ちゅうしょうする。感覚かんかくなしに知性ちせいはたらかない。「知性ちせいのうちにあるものは、さき感覚かんかくのうちにあった」(nihil est in intellectu quod non prius fuerit in sensuニヒル・エスト・イン・インテッレクトゥー・クォド・ノン・プリウス・フエリト・イン・センスー後世こうせいのスコラ学的がくてき格言かくげんだが、趣旨しゅしは『真理論しんりろん』第二問 第三項の議論ぎろん対応たいおうする)。身体しんたい条件じょうけんであって、さまたげではない。デカルトDescartes二元論にげんろんとは正反対せいはんたい方角ほうがくだ。

だがアクィナスAquinasアリストテレスAristotelēsえる。知性的ちせいてきたましいanima intellectivaアニマ・インテッレクティーウァ)は自存的じそんてきsubsistensスブシステンス)であり、身体しんたい死後しご存続そんぞくしうる。ただしそれは不完全ふかんぜん状態じょうたいであって、身体しんたい復活ふっかつによって人間にんげん本性ほんせい完成かんせいされる。アリストテレスAristotelēs自然学しぜんがくキリストChristusきょう復活ふっかつ信仰しんこうのあいだにられたつなうえを、アクィナスAquinasあるいた。1270ねん断罪だんざいでは、アヴェロエスAverroës主義しゅぎの「全人類ぜんじんるい単一たんいつ知性ちせいしかない」というせつ単一たんいつ知性ちせいろん)が標的ひょうてきになったが、アクィナスAquinas自身じしんもこれとはげしくたたかった(『知性ちせい単一性たんいつせいについて』De Unitate Intellectus contra Averroistasデ・ウーニターテ・インテッレクトゥース・コントラ・アウェッロイスタース、1270ねん)。かんがえているのは宇宙うちゅう精神せいしんではない、この身体しんたいったとしての「わたし」だ。この論点ろんてんは、のちデカルトDescartesコギトcogitoともひびうが、経路けいろはまるでちがう。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 神学大全しんがくたいぜん』(Summa Theologiaeスンマ・テオロギアエ、1265〜1273ねん未完みかん):三構成こうせいかみについて、道徳どうとく生活せいかつについて、キリストChristusについて。やく150万語まんご独自どくじの「問題もんだい」(quaestioクアエスティオー形式けいしきかれている。各項かくこうarticulusアルティクルス)の冒頭ぼうとう反論はんろんobjectionesオビエクティオーネース)をならべ、「しかし反対はんたいに」(sed contraセド・コントラ)で権威けんいしめし、「こたえてう」(respondeoレスポンデオー)で自説じせつ展開てんかいし、反論はんろんいちつずつ応答おうとうする。つまり反対はんたい意見いけんさきく。この構造こうぞうそのものにアクィナスAquinas知的ちてき誠実せいじつさがあらわれている。邦訳ほうやく山田やまだあきらほかやく創文社そうぶんしゃぜん45かん)。
  • 対異教徒大全たいいきょうとたいぜん』(Summa contra Gentilesスンマ・コントラ・ゲンティーレース、1259〜1265ねん):非信者ひしんじゃけたキリストChristusきょう弁護べんごよんかん。『神学大全しんがくたいぜん』より哲学的てつがくてきいろい。
  • 存在者そんざいしゃ本質ほんしつについて』(De Ente et Essentiaデ・エンテ・エト・エッセンティア、1252〜56ねんごろ):みじか初期しょき著作ちょさくだが、トマスThomas形而上学けいじじょうがくかぎ本質ほんしつ存在そんざい区別くべつむならここから。
  • 真理しんりについて』(Quaestiones Disputatae de Veritateクアエスティオーネース・ディスプターターエ・デ・ウェリターテ、1256〜59ねん):真理しんり認識にんしき摂理せつりをめぐる29の討論とうろん問題もんだい認識論にんしきろん関心かんしんがあるなら必読ひつどく
  • 知性ちせい単一性たんいつせいについて』(De Unitate Intellectus contra Averroistasデ・ウーニターテ・インテッレクトゥース・コントラ・アウェッロイスタース、1270ねん):ブラバンBrabantシゲルスSiger単一たんいつ知性ちせいろんへの論駁ろんばく論争ろんそう現場げんばそのもの。激烈げきれつにして精密せいみつ
  • アリストテレスAristotelēs注解ちゅうかい:『自然学しぜんがく』『形而上学けいじじょうがく』『霊魂れいこんについて』『ニコマコスNikomachos倫理学りんりがく』。アクィナスAquinasアリストテレスAristotelēsをどうみ、どう改変かいへんしたかがわかる。

主要しゅよう批判ひはん論争ろんそう

1277ねんパリParis断罪だんざい司教しきょうタンピエTempierねらったのはおもラテンLatinアヴェロエスAverroës主義しゅぎだったが、えをらった命題めいだいアクィナスAquinas立場たちばれていた。たとえば「質料的しつりょうてき個体化こたいか原理げんり」にかんするもの。フランシスコFranciscusかいドミニコDominicusかい知的ちてき覇権はけんあらそいが背景はいけいにある。1325ねんパリParis司教しきょうアクィナスAquinasにかかわる断罪だんざい正式せいしき撤回てっかいした。

ドゥンス・スコトゥスDuns Scotus(1266〜1308)は存在そんざい類比るいひりかかった。「存在そんざい」はかみにも被造物ひぞうぶつにも一義的いちぎてきunivoceウニウォケー)に述語じゅつごされる、と。この攻撃こうげきトマスThomas主義しゅぎ繊細せんさい均衡きんこうさぶった。オッカムOckhamのウィリアム(1287ねんごろ〜1347)は普遍ふへん実在性じつざいせい剃刀かみそりけずとした。唯名論ゆいめいろんnominalismusノミナリスムス)はトマスThomas的な実在論じつざいろん土台どだいくずす。普遍ふへん実在じつざいしないなら、「人間にんげん本性ほんせい」も名前なまえだけの存在そんざいになり、自然法しぜんほう基盤きばんくずれる。

近代きんだいからの砲撃ほうげき容赦ようしゃない。ヒュームHume因果律いんがりつ必然性ひつぜんせい否定ひていし、いつつのみち前提ぜんていくずした。存在そんざいから当為とういみちびけないという原則げんそくは、自然法しぜんほう根幹こんかんくさびんだ。カントKantかみ存在そんざい証明しょうめい理論りろん理性りせい能力のうりょくえていると宣告せんこくした。バルトBarthの「はんキリストの発明はつめい発言はつげんは、自然しぜん神学しんがくそのものへの全面ぜんめん否定ひていだった。人間にんげん理性りせいかみ到達とうたつできるという主張しゅちょうは、かみ絶対的ぜったいてき他者性たしゃせい冒涜ぼうとくする、と。

だがもっとえない批判ひはんは、そとからではなくうちからた。1273ねん12がつ神秘しんぴ体験たいけんのち、150万語まんごをかけてげた体系たいけいを、当人とうにんが「わらにすぎない」とった。理性りせいげた体系たいけいこうがわに、理性りせいではとどかないものをたのか。それとも疲労ひろうやまいか。わからない。だがこの沈黙ちんもくは、体系たいけい内部ないぶからは説明せつめいがつかない。理性りせい信仰しんこう関係かんけいについてアクィナスAquinasいた150万語まんごよりも、くのをやめたというひとつの事実じじつのほうが、あつかいにこまる。

影響えいきょう遺産いさん

1323ねん列聖れっせい。1567ねん、「教会きょうかい博士はかせ」(Doctor Ecclesiaeドクトル・エクレーシアエ)の称号しょうごう。1879ねん教皇きょうこうレオLeo十三世じゅうさんせい回勅かいちょくアエテルニ・パトリスAeterni Patris』がトマスThomas主義しゅぎカトリックCatholic公式こうしき哲学てつがく指定していした。この決定けってい二十にじゅう世紀せいきカトリックCatholic知識人ちしきじん地形ちけい形成けいせいした。ジャックJacquesマリタンMaritainエティエンヌÉtienneジルソンGilsonヨーゼフJosefピーパーPieper。いずれもトマスThomas主義しゅぎ土壌どじょうからそだった思想家しそうかだ。

法哲学ほうてつがくへの影響えいきょう直接的ちょくせつてきだ。ジョンJohnフィニスFinnisジャーメインGermainグリゼズGrisezアクィナスAquinas自然法しぜんほうろん現代げんだい法理論ほうりろんとして再構築さいこうちくした。エリザベスElizabethアンスコムAnscombeとく倫理学りんりがく復権ふっけんにはトマスThomas的ながある。分析ぶんせき哲学てつがく宗教しゅうきょう哲学てつがくでも、プランティンガPlantingaスウィンバーンSwinburneいつつのみち格闘かくとうつづけている。アクィナスAquinas博物館はくぶつかんおさまる気配けはいがない。

個々ここ教説きょうせつよりも、態度たいどのこったのかもしれない。異教いきょう哲学者てつがくしゃ思想しそうを、おそれずにまなぶ。真理しんりだれおうと真理しんりだ。アリストテレスAristotelēs異教徒いきょうとであろうが、論理学ろんりがくただしいならただしい。アヴィケンナAvicennaムスリムMuslimであろうが、形而上学けいじじょうがくからまなぶべきものはまなぶ。真理しんり出自しゅつじわない。十三じゅうさん世紀せいきにあって、これは途方とほうもなく過激かげき態度たいどだった。

正戦論せいせんろんbellum iustumベッルム・ユストゥム)もまたアクィナスAquinas遺産いさんだ。戦争せんそう正当せいとうであるための三条件さんじょうけん、すなわち正当せいとう権威けんい正当せいとう理由りゆうただしい意図いと(『神学大全しんがくたいぜん』第二の二部 第四十問 第一項)は、国際法こくさいほうにおける武力ぶりょく行使こうし正当化せいとうか基準きじゅん原型げんけいになった。21世紀せいき軍事ぐんじ介入かいにゅうをめぐる議論ぎろんでも、この枠組わくぐみはきている。1962ねんはじまった第二だいにバチカンVaticanus公会議こうかいぎも、アクィナスAquinas神学しんがく教育きょういく模範もはんとして再確認さいかくにんした(『司祭しさい養成ようせいかんする教令きょうれい第十六条だいじゅうろくじょう)。カトリックCatholic知的ちてき伝統でんとうからアクィナスAquinasがしたら、あとにのこるものがどれだけあるか。かんがえてみるとぞっとする程度ていどには、この修道士しゅうどうし影響えいきょうふかい。

現代げんだいへの接続せつぞく

AIにたましいはあるか。アクィナスAquinasなら即答そくとうする。ない。知性ちせいはたらきは非物質的ひぶっしつてきだからだ(『神学大全しんがくたいぜん』第一部 第七十五問 第二項)。機械きかいがどれほど精緻せいち出力しゅつりょくをしても、それは「理解りかい」ではなく情報じょうほう操作そうさにすぎない。この線引せんびきがいまでも通用つうようするかどうかはべつはなしだが、通用つうようしないとるには「理解りかい」と「模倣もほう」の境界きょうかいをどこかにかなければならず、それはかけほど簡単かんたんではない。

自然法しぜんほう生命せいめい倫理りんり中絶ちゅうぜつ安楽死あんらくし同性婚どうせいこんをめぐるカトリックCatholic公式こうしき見解けんかいは、すべてアクィナスAquinas自然法しぜんほうろんさかのぼる。賛成さんせいするにせよ反対はんたいするにせよ、この枠組わくぐみをらなければ議論ぎろん入口いりぐちにすらてない。「人間にんげん本性ほんせいざしたぜん」は存在そんざいするのか。それとも道徳どうとく社会しゃかいめにすぎないのか。コンビニで弁当べんとううようにルールruleえらべるのか。「そうではない」とかんじる直感ちょっかんおおくのひとにあるだろうが、その直感ちょっかん言葉ことばにしようとすると途端とたんむずかしくなる。アクィナスAquinas自然法しぜんほうろんは、その困難こんなん正面しょうめんからんだこころみだ。

世俗せぞく時代じだい信仰しんこう居場所いばしょてるか。「理性りせい」が「科学かがく」と同義どうぎになった世界せかいで、信仰しんこう認識論的にんしきろんてき権利けんり主張しゅちょうできるのか。アクィナスAquinasはできるとった。チャールズCharlesテイラーTaylorの『世俗せぞく時代じだい』(A Secular Ageア・セキュラー・エイジ、2007ねん)は、このトマスThomas的ないから出発しゅっぱつしている。理性りせい信仰しんこう同居どうきょできた時代じだいわったのか。それとも、同居どうきょ放棄ほうきした近代きんだいのほうがいびつなのか。テイラーTaylorほんが600ページpageえるのは、このいがみじかこたえをゆるさないからだろう。

読者どくしゃへの

  • 理性りせいだけでは証明しょうめいできないが、しんだとしんじていることが、あなたにはあるか。あるとすれば、そのしんささえているのはなにか。
  • 道徳どうとく発見はっけんされるものか、発明はつめいされるものか。「ひところしてはならない」は人間にんげん本性ほんせいざしているのか、それとも社会しゃかいめたルールなのか。あなたはどちらの前提ぜんていきているか。
  • アクィナスAquinas神秘しんぴ体験たいけんのち自分じぶん全著作ぜんちょさくを「わら」とんだ。あなたがきずいてきたもの、しんじてきたことが、ある瞬間しゅんかん全部ぜんぶ無意味むいみえた経験けいけんはあるか。

名言めいげん出典しゅってんつき)

恩寵おんちょう自然しぜんほろぼさず、むしろ完成かんせいさせる」 出典しゅってんトマスThomasアクィナスAquinas神学大全しんがくたいぜん』第一部 第一問 第八項 異論解答いろんかいとう二/原文げんぶん:"Gratia non tollit naturam sed perficit."

信仰しんこう理性りせい関係かんけい一文いちぶん凝縮ぎょうしゅくした定式ていしき恩寵おんちょう自然しぜん否定ひていしない。完成かんせいさせる。このみじか一文いちぶんに、アクィナスAquinas全企図ぜんきとまっている。

ぜんはなされ追求ついきゅうされるべきであり、あくけられるべきである」 出典しゅってんトマスThomasアクィナスAquinas神学大全しんがくたいぜん』第一の二部 第九十四問 第二項/原文げんぶん:"Bonum est faciendum et prosequendum, et malum vitandum."

自然法しぜんほう第一だいいち原理げんりたりまえこえるが、この「たりまえ」を根拠こんきょづけることが、どれほどむずかしいか。近代きんだい倫理学りんりがく大半たいはんは、この一文いちぶん正当化せいとうかをめぐる格闘かくとうだ。

存在そんざいするものすべてにおいて、その本質ほんしつとはべつ存在そんざい(エッセ)がなければならない」 出典しゅってんトマスThomasアクィナスAquinas存在者そんざいしゃ本質ほんしつについて』第四章の趣旨しゅしにもとづく要約ようやく原文げんぶん関連かんれん箇所かしょ):"In omni eo quod est praeter eius essentiam, oportet quod esse suum sit aliud ab eius essentia."

本質ほんしつ存在そんざい実在的じつざいてき区別くべつトマスThomas形而上学けいじじょうがく核心かくしんがこの一文いちぶんにある。あるものがなにであるかと、そのものがることは、おなじではない。

「わたしがいたすべてのものはわらのようにおもわれる」 出典しゅってん秘書ひしょレギナルドゥスReginaldusデ・ピペルノde Piperno証言しょうげん原文げんぶん:"Omnia quae scripsi videntur mihi paleae respectu eorum quae vidi et revelata sunt mihi."

150万語まんごいたおとこ最後さいご言葉ことばたもののまえでは、いたものはすべてわらだ、と。理性りせい大伽藍だいがらんきずいた人間にんげんが、その彼方かなたなにたのか。だれにもわからない。

参考さんこう文献ぶんけん

  • 原典げんてんラテンLatin:Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Editio Leonina.
  • 原典げんてん邦訳ほうやくトマスThomasアクィナスAquinas神学大全しんがくたいぜん山田やまだあきらほかやく創文社そうぶんしゃぜん45かん)。
  • 原典げんてん英訳えいやく:Thomas Aquinas, De Ente et Essentia, trans. Armand Maurer, Pontifical Institute of Mediaeval Studies, 1968.
  • 研究書けんきゅうしょ:Brian Davies, The Thought of Thomas Aquinas, Oxford University Press, 1992.
  • 研究書けんきゅうしょ:Étienne Gilson, The Christian Philosophy of St. Thomas Aquinas, Random House, 1956.
  • 研究書けんきゅうしょ邦語ほうご稲垣いながき良典よしのりトマスThomasアクィナスAquinas神学しんがく創文社そうぶんしゃ、1993ねん
  • 概説がいせつ邦語ほうご山本やまもと芳久よしひさトマスThomasアクィナスAquinas 理性りせい神秘しんぴ岩波新書いわなみしんしょ、2017ねん
  • 概説がいせつ:Edward Feser, Aquinas: A Beginner's Guide, Oneworld, 2009.
  • 補助ほじょウェブweb資料しりょう:"Thomas Aquinas", Stanford Encyclopedia of Philosophy.