川に足を踏み入れる。水は絶えず流れ、同じ水は二度と戻らない。では、それは「同じ川」なのか。紀元前6世紀末、小アジアの都市エペソスに生きた哲学者ヘラクレイトスは、この問いに宇宙の根本原理を見た。
万物は流転する。しかしその変化は混沌ではない。昼と夜、生と死、戦争と平和。つまり対立するものは実はひとつであり、その背後には万物を貫く「ロゴス」(理法)が働いている。現代(気候変動、地政学的対立、技術革新)あらゆるものが加速度的に変化する時代にあって、「変化の中にこそ秩序がある」と語ったこの哲学者の声は、かつてないほど切実に響く。
だがヘラクレイトスは平易に語ることを拒んだ。謎めいた箴言で書き、大衆を軽蔑し、古代から「暗い人」(ホ・スコテイノス)と呼ばれた。その難解さは、しかし読む者に思考を強いるための意図的な仕掛けだった。ロゴスは言葉を聞くだけでは分からない。自ら探究し、目覚めなければならない。
本記事では、約130の断片を手がかりに、ヘラクレイトスの思想の核心(ロゴス、対立の統一、火の宇宙論)を解き明かし、なぜ2500年後の私たちがなお彼を読むべきかを追う。
この記事の要点
- ロゴス(理法):万物の変化の背後には、宇宙を貫く共通の理法がある。ヘラクレイトスはこれを「ロゴス」と呼び、自然・思考・言語を統一的に把握する原理とした。この概念はストア派を経て西洋哲学の中心概念となった。
- 万物流転と対立の統一:世界は絶えず変化し、対立するものは相互に依存し転化する。この動的均衡こそが秩序であり、変化と安定を同時に思考する弁証法的思考の原型である。
- 火の宇宙論:火は万物の根源であると同時に、変化そのものの象徴である。燃えながら形を変え続ける火のように、宇宙は永遠の生成変化のプロセスそのものである。
生涯と時代背景
ヘラクレイトスについて確実に分かっていることは驚くほど少ない。彼は紀元前535年頃、小アジア(現在のトルコ西部)のイオニア地方にある有力都市エペソスに生まれた。王族(バシレウス)の家系に属していたが、政治的特権を弟に譲ったと伝えられる(ディオゲネス・ラエルティオス『哲学者列伝』IX.6)。
エペソスはアルテミス神殿で知られる富裕な港湾都市であり、東西交易の要衝だった。しかしヘラクレイトスが生きた時代は、ペルシア帝国の圧力がイオニア諸都市に迫りつつある緊張の時期だった。紀元前499年のイオニアの反乱、紀元前494年のミレトス陥落。こうした激動のなかで、彼は変化と対立の本質を見つめた。
ヘラクレイトスは独学を誇り、師を持たなかったと主張した。「私は自分自身を探究した」(DK 22B101)。同時代の知識人(ピタゴラス、クセノファネス、ヘカタイオス)を痛烈に批判し、「博学(ポリュマティエー)は知性(ヌース)を教えない」(DK 22B40)と断じた。多くを知ることと真に理解することは別だ。この確信が、彼の哲学の出発点である。
彼は一冊の書物を著し、アルテミス神殿に奉納したと伝えられる。後世『自然について』(ペリ・ピュセオース)と呼ばれたこの著作は早くに散逸し、現在はおよそ130の断片が後世の著作家の引用を通じて残っている。紀元前475年頃に没したとされるが、正確な年代は不明である。
彼の性格は孤高そのものだった。貴族の血筋にふさわしい矜持を持ち、同胞の市民を軽蔑してやまなかった。エペソスの人々が優れた市民ヘルモドロスを追放したとき、ヘラクレイトスは「エペソスの成人は一人残らず首を吊って死に、この都市を未成年者に委ねるがよい」と吐き捨てた(DK 22B121)。アルテミス神殿の境内で子供たちとサイコロ遊びに興じ、「なぜ驚く? おまえたちと政治をするよりましだ」と言い放った逸話もある(ディオゲネス・ラエルティオスIX.3)。
晩年の伝承はさらに印象的だ。ヘラクレイトスは水腫(むくみ)を患い、医師に治療を求めたが、彼の謎めいた言い回し(「洪水を旱魃に変えられるか」)を理解する医師はいなかった。自ら牛糞のなかに身を埋めて「湿り」を追い出そうとし、そのまま没したとも伝えられる(ディオゲネス・ラエルティオスIX.3-4)。この逸話が史実かどうかは不確かだが、「乾いた魂」を善とする彼の思想と奇妙に呼応しており、ヘラクレイトスという人物の伝説化を物語っている。
ミニ年表
- 紀元前546年:ペルシアのキュロス2世がイオニア諸都市を征服
- 紀元前535年頃:エペソスに生まれる(王族の家系)
- 紀元前500年頃:著作『自然について』をアルテミス神殿に奉納したとされる
- 紀元前499〜494年:イオニアの反乱。ミレトス陥落
- 紀元前490年:マラトンの戦い
- 紀元前475年頃:エペソスにて没する
この哲学者は何を問うたのか
ミレトス学派は「万物の根源(アルケー)は何か」を問い、タレスは水を、アナクシメネスは空気を答えとした。ピタゴラスは数を持ち出した。これらはいずれも変化の背後にある不変の基体を求める発想だった。
ヘラクレイトスの問いは根本から異なる。彼は変化の「背後」ではなく、変化そのもののうちに秩序を見出した。問いは「世界は何からできているか」ではなく、「世界はなぜ変化しながら秩序を保つのか」だった。
この視点の転換は決定的に重要である。静的な基体ではなく動的なプロセスを実在の核心に据えたこと。ここにヘラクレイトスの独創性がある。後にヘーゲルは自らの弁証法の先駆をヘラクレイトスに見出し、「ヘラクレイトスの命題で、私の『論理学』に取り入れなかったものは一つもない」と述べた(『哲学史講義』)。
核心理論
1. ロゴス──万物を貫く理法
ヘラクレイトスの著作は次の言葉で始まったとされる。「このロゴスは常に存在しているのに、人間たちは理解しない。聞く前も、初めて聞いた後も」(DK 22B1)。ロゴス(λόγος)は古代ギリシャ語で「言葉」「理」「比率」「説明」など多義的な語だが、ヘラクレイトスはこれに独自の深い意味を込めた。
ヘラクレイトスはさらにこう述べる。
"「私にではなくロゴスに耳を傾けて、万物が一であることを認めるのが知恵である。」" 出典:DK 22B50(ヒッポリュトス『全異端反駁』IX.9.1に引用)
この断片はヘラクレイトスの哲学の核心を凝縮している。重要なのは「私にではなくロゴスに」という一節だ。ロゴスは個人の意見を超えた客観的真理であり、ヘラクレイトス自身もまたその媒介者にすぎない。哲学は個人の権威ではなく理の力によって語られるべきだ。これは哲学的態度の重要な宣言である。
ロゴスとは、万物の変化を支配する法則・原理であると同時に、それを語る言葉でもある。宇宙の構造と言語の構造が重なる。この二重性が極めて重要だ。ロゴスは客観的な自然法則であると同時に、人間が理性によって把握しうる知の対象でもある。
「一が万物であり、万物が一であるということ、これを知ることが知恵である」(DK 22B50の趣旨)。多様な現象の背後にある統一原理をロゴスと呼ぶとき、ヘラクレイトスは先行する自然哲学者たちの質料論的な問いを超えて、存在と認識の双方にまたがる原理を提示したのである。
ただし大多数の人間はロゴスを理解していない。「目と耳は蛮族の魂を持つ者には悪い証人である」(DK 22B107)。感覚は手がかりにはなるが、理性なしには真実には到達できない。ヘラクレイトスの箴言的文体は、読む者を受動的な聴取から能動的な思考へと誘う装置だった。
2. 万物流転──パンタ・レイ
「同じ川に入る者には、常に異なる水が流れている」(DK 22B12)。この「川の比喩」はヘラクレイトスの思想を象徴する最も有名なイメージである。なお「パンタ・レイ」(πάντα ῥεῖ、万物は流れる)という定式化はプラトン『クラテュロス』(402a)に由来し、ヘラクレイトス本人の言葉ではないとされる。
しかし重要なのは、これが単純な「すべては変わる」という主張ではないことだ。川は水が変わりながらも川であり続ける。ヘラクレイトスが見出したのは、変化のなかの持続、流転のなかの同一性、つまり動的平衡としての存在である。生物学でいう「恒常性」(ホメオスタシス)の発想は、ここにすでに胚胎している。
人間の身体もまた川のようなものだ。細胞は絶えず入れ替わり、数年前の自分と物質的にはほぼ別の存在でありながら、「私」は私であり続ける。ヘラクレイトスの洞察は、変化を否定するのではなく、変化のうちに秩序を見る知恵にある。
3. 対立の統一──見えない調和
「見えない調和は見える調和よりも強い」(DK 22B54)。ヘラクレイトスの思想で最も独創的な要素は、対立するものの統一の理論である。
「病が健康を快くし、飢えが満腹を、疲労が休息を快くする」(DK 22B111)。対立物は相互に定義し合い、一方がなければ他方も存在しえない。暑さを知らなければ寒さは分からない。死がなければ生の意味は成立しない。
さらに対立物は相互に転化する。「冷たいものは暖まり、暖かいものは冷え、湿ったものは乾き、乾いたものは潤う」(DK 22B126)。昼は夜に変わり、夜は昼に変わる。生は死に変わり、死は新しい生を生む。この動的な転化のプロセスこそが、宇宙の秩序(ロゴス)にほかならない。
ヘラクレイトスはこれを弓と竪琴の比喩で説明する。「反する力の結合(弓と竪琴のように)」(DK 22B51)。弓は弦と木が反対方向に引き合うことで機能する。竪琴は弦の張力と枠の抵抗との緊張から音楽が生まれる。対立がなければ調和もない。これがヘラクレイトスの中心命題である。
この思想はさらに三つの重要な断片で深化される。
まず「上りの道と下りの道は一つにして同じ」(DK 22B60)。山道は登る者には「上り」、降る者には「下り」であるが、道そのものは同じである。対立は視点の違いであり、実在としては一つ。この洞察は、物質の変化だけでなく認識の構造をも問うている。
次に、「同じもの(生きているものと死んだもの、覚めているものと眠っているもの、若いものと老いたもの)。なぜなら前者が変われば後者であり、後者が変われば前者だから」(DK 22B88)。ここでヘラクレイトスは、対立物が単に並存するのではなく、一方から他方への転化のプロセスとして連続していることを示す。生は死への途上であり、死は新たな生への転機である。
そして最も大胆な断片。「神は昼にして夜、冬にして夏、戦争にして平和、飽満にして飢餓」(DK 22B67)。対立の統一は単なる物理法則ではない。それは神的なものの本質そのものである。ヘラクレイトスの「神」はホメロスの神々のように人間に似た存在ではなく、対立するすべてのものを包摂する全体性であり、ロゴスの別名にほかならない。「一なるもの──唯一の知恵──はゼウスの名で呼ばれることを望み、また望まない」(DK 22B32)。神という名で呼んでよいが、既存の神概念には収まらない──この両義性がヘラクレイトスらしい。
4. 戦い──万物の父
「戦い(ポレモス)は万物の父であり、万物の王である」(DK 22B53)。現代の感覚では不穏に聞こえるこの言葉は、しかし軍事的戦争の礼賛ではない。ここでの「戦い」は対立・闘争・緊張(万物を生成させる原動力)のことだ。
もし対立が消滅すれば、世界そのものが消滅する。ヘラクレイトスはホメロスの詩句(「争いが神々と人間の間から消えますように」)を批判した。なぜなら争いがなくなれば調和もなくなるからだ(アリストテレス『ニコマコス倫理学』VIII.2, 1155b4参照)。平和は緊張の不在ではなく、対立する力が均衡している状態なのだ。
5. 火──世界の根源と変化の象徴
「この世界は、神々のいずれが作ったのでもなく人間のいずれが作ったのでもない。常にあったし、あるし、あるであろう──永遠に生きる火であり、一定の度合いで燃え、一定の度合いで消える」(DK 22B30)。これはヘラクレイトスの宇宙論を端的に示す最重要断片のひとつである。
火(ピュル)はミレトス学派の水や空気と同列の「元素」とも読めるが、より正確には変化のプロセスそのものの比喩である。火は燃料を消費しながら自らを維持する。つまり変化することによってのみ同一性を保つ。これはまさに「川の比喩」と同じ構造であり、ロゴスの具体化である。
ヘラクレイトスは火の変転を描く。「火の転変。まず海。海の半分は大地、半分は灼熱の風」(DK 22B31)。火→水→土→水→火という循環は、万物が火から生まれ火に帰るという宇宙の大きなリズムを表している。ここにも「一定の度合い」(つまりロゴスによる秩序)が貫いている。
なお、ヘラクレイトスが宇宙の周期的な大火災(エクピュローシス)を説いたかどうかは論争中である。ストア派はそう解釈したが、DK 22B30の「常にあった」という表現は宇宙の永遠性を含意しており、現代の多くの研究者はヘラクレイトス本人は世界の消滅と再生を説いていなかったと考えている。
6. 魂と倫理──乾いた魂
「乾いた魂は最も賢く最も優れている」(DK 22B118)。魂(プシュケー)は火と親縁関係にある。魂が「乾いている」とき(すなわち火に近いとき)、知性は鋭くなる。逆に魂が「湿る」と(酩酊や快楽に溺れると)知性は曇る。「酔っぱらいは少年に導かれる、足もとがおぼつかず、魂が湿っているから」(DK 22B117)。
魂の深さはロゴスの深さと結びついている。「魂の限界を歩いて見出すことはできないだろう。すべての道を行き尽くしても。それほど深いロゴスを持っているのだ」(DK 22B45)。魂は宇宙のロゴスと通じており、自己探究は宇宙探究と表裏一体である。
さらに注目すべきは、魂と水の循環を描く断片である。「魂にとっては水になることが死であり、水にとっては土になることが死である。しかし土から水が生まれ、水から魂が生まれる」(DK 22B36)。ここで魂は火→水→土という宇宙論的変転(B31)のなかに位置づけられる。魂が火に近いほど覚醒し、水へ向かうほど死に近づく。倫理と宇宙論がここで一体となる。善く生きることとは、魂を乾かし火に近づけること──すなわちロゴスに目覚めることにほかならない。
7. 目覚めと眠り──共通世界と私的世界
ヘラクレイトスは人間を「目覚めている者」と「眠っている者」に分けた。「目覚めている者たちにとって世界は一つであり共通であるが、眠っている者は各自私的な世界に向かう」(DK 22B89)。
「目覚め」とはロゴスを認識すること、つまり万物に共通する理法を理解することである。ロゴスは共通(クシュノン)であるのに、大多数の人間はあたかも私的な思慮を持っているかのように生きている(DK 22B2)。個人の思い込みや偏見に閉じこもることは「眠り」であり、ロゴスに従い共通の理性に目覚めることが「知恵」である。
ここに政治哲学の萌芽がある。「法(ノモス)のために戦うべきだ、城壁のために戦うように」(DK 22B44)。共同体の法は宇宙のロゴスから養われる(DK 22B114)。市民が共通のロゴスに従うとき、法は正当なものとなる。
8. 自然は隠れることを好む
ヘラクレイトスの認識論を貫くのは、真理は表面には現れないという確信である。
"「自然(ピュシス)は隠れることを好む。」" 出典:DK 22B123(テミスティオス『弁論』5.69bに引用)
この短い断片は、ヘラクレイトスの哲学全体の方法論的宣言でもある。真の姿(ピュシス)は、感覚に直接与えられるものの背後に隠されている。だからこそ、見かけに騙されず深く考えなければならない。彼の文体が難解であるのも、読者に安易な理解を許さず、自ら思考させるための意図的な戦略だったのかもしれない。
これと対をなすのがデルフォイの神託についての断片である。「デルフォイの神は語りもせず隠しもせず、示すのだ」(DK 22B93)。ロゴスは明示的に語られるものでも、完全に秘匿されるものでもなく、徴(セーメイオン)として示される。解釈を要する徴を読み解くこと。これがヘラクレイトスの考える「知恵」であり、彼自身の著作もまた神託のように書かれている。「暗い人」というあだ名は、彼が意図的に選んだコミュニケーションの様式の証でもある。
主要著作ガイド
- ヘラクレイトス本人の著作は散逸しており、断片のみが残る。以下は断片を読むための主要文献。
- ディールス=クランツ『ソクラテス以前の哲学者断片集』(DK)── ヘラクレイトスは22番。断片研究の基本文献。
- マルコヴィッチ, M. Heraclitus: Greek Text with a Short Commentary(1967, 2nd ed. 2001)── 断片の批判校訂と詳細な注釈。
- カーン, Charles H. The Art and Thought of Heraclitus(1979)── 断片を意味的連関に基づいて再配列し、ヘラクレイトスの思想を体系的に再構成。入門にも研究にも最適。
- 内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』第II巻(岩波書店、1997年)── DK断片の邦訳。
- プラトン『クラテュロス』── ヘラクレイトスの「万物流転」説についてのプラトンの解釈。
- アリストテレス『形而上学』I巻── ヘラクレイトスの火と変化の学説についての古代の証言。
主要な批判と論争
1. パルメニデスの反論:ヘラクレイトスの直後に登場したパルメニデスは、変化は論理的に不可能だと主張した。「あるものはあり、ないものはない」。変化とは「あるもの」が「ないもの」になることであり、理性はそれを受け入れられない。この対決(「変化」か「不変」か)は古代哲学を二分する根本問題となった。
2. プラトンの受容と批判:プラトンは感覚世界についてはヘラクレイトスの流転説を受け入れた。しかし、流転する世界の彼方に不変のイデアを置くことで、ヘラクレイトスとパルメニデスの統合を図った。『テアイテトス』(179e-183c)では、ヘラクレイトスの弟子を名乗る者たちの極端な流転説(知識の不可能性)が批判されている。
3. アリストテレスの批判:アリストテレスはヘラクレイトスが矛盾律(「同じものが同時にあり、かつないことはできない」)を侵犯していると批判した(『形而上学』IV.3, 1005b23-25)。対立するものが「同じ」だとする主張は論理の基本原則を破るのではないか。ただし、ヘラクレイトスが単純に矛盾律を否定したのか、それとも「同じ」の意味を拡張したのかは、現代の研究でも議論が続いている。
4. 断片の解釈問題:現代の研究では、断片の配列、真偽、文脈復元をめぐって見解が分かれる。カーク(1954)は火を比喩的に読み、グスリー(1962)は文字通りの元素と解釈する。ストア派経由の伝承がヘラクレイトスの本来の思想をどこまで正確に伝えているかも重要な争点である。
5. クラテュロスと極端な流転説:ヘラクレイトスの弟子と伝えられるクラテュロスは、師の流転説を極端に推し進めた。「同じ川に一度も入ることはできない」。ヘラクレイトスが「二度」と言ったところを「一度も」と強化したのである(アリストテレス『形而上学』IV.5, 1010a12-15)。万物がまったく同一性を持たないなら言語も意味を失うとして、クラテュロスは最終的に指を動かすだけになったという。この極端な帰結は、ヘラクレイトス自身の真意(変化のなかに秩序(ロゴス)を見出すこと)を逆に照らし出す。流転だけを強調し、ロゴスによる統一を無視すれば、ヘラクレイトスの哲学は解体してしまう。
影響と遺産
ストア派:ヘラクレイトスの最大の後継者はストア派である。ゼノン、クレアンテス、クリュシッポスはロゴスを宇宙の理性的原理として体系化し、火による宇宙の周期的消滅と再生(エクピュローシス)を教義に組み込んだ。ストア派のロゴス概念はキリスト教神学にも流入し、『ヨハネ福音書』冒頭の「初めに言(ロゴス)があった」へと繋がる。
ヘーゲルの弁証法:ヘーゲルはヘラクレイトスを弁証法の始祖として高く評価した。対立するものの統一、否定を通じた高次の総合)。この運動をヘーゲルはヘラクレイトスの断片に読み取り、自らの哲学体系の源泉とした。マルクスもまたヘーゲルを通じてヘラクレイトスの弁証法的思考を継承している。
ニーチェ:ニーチェは初期の著作『ギリシャ悲劇時代の哲学』でヘラクレイトスを「最も高貴な隣人」と呼んだ。生成と破壊を肯定する態度、大衆の意見への軽蔑、闘争の称揚。ニーチェは自らの哲学の先駆をヘラクレイトスに見出した。
ハイデガー:ハイデガーは一連の講義(『ヘラクレイトス』1943-44年、GA 55)でヘラクレイトスの断片に徹底的な読解を施した。特にB123「自然は隠れることを好む」を、存在そのものの自己隠蔽と自己開示の運動(アレーテイア=非隠蔽性としての真理)として読み解いた。ハイデガーにとってヘラクレイトスは、西洋形而上学が忘却した「存在の問い」を最初に思考した哲学者であった。
東洋思想との並行:ヘラクレイトスの思想には、東洋哲学(特に老子の『道徳経』)との驚くべき並行性がある。「道」と「ロゴス」はともに万物を貫く法則であり、言葉で十全には捉えられない原理である。老子の「禍は福の寄るところ、福は禍の伏すところ」(第58章)はヘラクレイトスの対立の統一と響き合う。直接の影響関係は証明されていないが、人類の哲学的思考が異なる文化圏で独立に類似の洞察に達しうることを示す興味深い事例である。
現代科学:散逸構造論(プリゴジン)、複雑系の科学、プロセス哲学(ホワイトヘッド)など、変化のなかの秩序を探究する現代の知の営みは、いずれもヘラクレイトス的な直観を共有している。
現代への接続
第一に、変化と同一性の問題。企業は人員も製品も変わりながら「同じ企業」であり続ける。国家は領土も国民も制度も変化しながら「同じ国家」と見なされる。AIは学習によってパラメータを更新し続ける。それは「同じAI」なのか。ヘラクレイトスの「川」の問いは、現代の同一性の哲学(パーソナル・アイデンティティ論)に直結する。
第二に、対立の生産性。民主主義は異なる意見の対立を前提とする。科学は仮説と反証の緊張から進歩する。市場経済は競争(対立)から革新を生む。「戦いは万物の父」という洞察は、対立を排除するのではなく生産的に組織する知恵を要請している。
第三に、動的平衡としての生命。生物学者福岡伸一は「動的平衡」という概念で生命を説明する。生命とは物質の流れが一定のパターンを維持することだ。これはまさにヘラクレイトスの「川」であり、「一定の度合いで燃え、一定の度合いで消える火」の現代科学版である。
読者への問い
- あなたは10年前の自分と「同じ人間」だと言えるか。何が変わり、何が変わっていないのか。同一性の根拠は何か。
- 対立や葛藤のない社会は理想だろうか、それとも停滞だろうか。ヘラクレイトスの「見えない調和」は現代社会にどのように実現しうるか。
- ヘラクレイトスは「大多数の人間は眠っている」と言った。SNSの情報洪水のなかで、「目覚め」とは具体的に何を意味するか。
名言(出典つき)
"「同じ川に入る者には、常に異なる水が流れている。」" 出典:DK 22B12(アリウス・ディデュモス経由、エウセビオス『福音の準備』に引用)/原文:"ποταμοῖσι τοῖσιν αὐτοῖσιν ἐμβαίνουσιν ἕτερα καὶ ἕτερα ὕδατα ἐπιρρεῖ"
"「この世界は、常にあったし、あるし、あるであろう──永遠に生きる火であり、一定の度合いで燃え、一定の度合いで消える。」" 出典:DK 22B30(クレメンス『ストロマテイス』V.104.1に引用)/原文:"κόσμον τόνδε, τὸν αὐτὸν ἁπάντων, οὔτε τις θεῶν οὔτε ἀνθρώπων ἐποίησεν, ἀλλ' ἦν ἀεὶ καὶ ἔστιν καὶ ἔσται πῦρ ἀείζωον, ἁπτόμενον μέτρα καὶ ἀποσβεννύμενον μέτρα"
"「戦いは万物の父であり、万物の王である。」" 出典:DK 22B53(ヒッポリュトス『全異端反駁』IX.9.4に引用)/原文:"πόλεμος πάντων μὲν πατήρ ἐστι, πάντων δὲ βασιλεύς"
"「私は自分自身を探究した。」" 出典:DK 22B101(プルタルコス『コロテス駁論』1118cに引用)/原文:"ἐδιζησάμην ἐμεωυτόν"
"「私にではなくロゴスに耳を傾けて、万物が一であることを認めるのが知恵である。」" 出典:DK 22B50(ヒッポリュトス『全異端反駁』IX.9.1に引用)/原文:"οὐκ ἐμοῦ, ἀλλὰ τοῦ λόγου ἀκούσαντας ὁμολογεῖν σοφόν ἐστιν ἓν πάντα εἶναι"
"「自然は隠れることを好む。」" 出典:DK 22B123(テミスティオス『弁論』5.69bに引用)/原文:"φύσις κρύπτεσθαι φιλεῖ"
参考文献
- (原典資料):Diels, H. & Kranz, W. Die Fragmente der Vorsokratiker, 6th ed., 1951.(DK 22B断片)── 先ソクラテス期断片集の標準版
- (原典資料):Aristotelēs, Metaphysica I, IV; Nicomachean Ethics VIII.2; De Anima I.2.── ヘラクレイトスへの古代の主要証言
- (研究書):Kahn, Charles H. The Art and Thought of Heraclitus. Cambridge UP, 1979.── 断片の意味的再構成
- (研究書):Kirk, G.S. Heraclitus: The Cosmic Fragments. Cambridge UP, 1954.── 宇宙論断片の古典的校訂・注釈
- (研究書):Marcovich, M. Heraclitus: Greek Text with a Short Commentary. 2nd ed., Sankt Augustin: Academia, 2001.── 批判校訂の標準
- (邦語文献):内山勝利編『ソクラテス以前哲学者断片集』第II巻、岩波書店、1997年。── DK断片集の邦訳
- (研究書):Graham, Daniel W. The Texts of Early Greek Philosophy. Cambridge UP, 2010.── DKを補完する新しい断片集
- (研究書):Heidegger, Martin. Heraklit (GA 55). Klostermann, 1979.── ヘラクレイトスの断片をめぐる講義録
- (概説):Stanford Encyclopedia of Philosophy, "Heraclitus" (Daniel W. Graham). https://plato.stanford.edu/entries/heraclitus/