紀元前6世紀、ミレトスの港に立つひとりの男が、青銅板の上に世界を描いていた。エーゲ海、黒海、地中海、そしてその外縁に広がる大洋。アナクシマンドロスは、知られている限り最初の世界地図を製作した人物である。しかし彼の真の功績は地図ではない。目に見える世界の「外側」に、目に見えないものを見たことだ。
師タレスは「万物の根源は水だ」と主張した。アナクシマンドロスはこう問い返した。「なぜ水なのか。水は火と対立する。対立するものの一方が根源であるはずがない」。そして彼が提示した答えは、いかなる特定の性質にも限定されない「無限定なもの(ト・アペイロン)」だった。これは西洋思想史における抽象概念の誕生である。具体的な物質ではなく、概念によって世界を説明する。この知的跳躍なしに、現代の数学も物理学も存在しえなかった。
この記事の要点
- 哲学史上最初の「建設的批判」:アナクシマンドロスは師タレスの問い(万物の根源は何か)を継承しつつ、その回答(水)を論理的に否定した。問いを共有しながら回答を刷新する。これが「哲学的伝統」の原型である。
- 抽象思考の誕生:「ト・アペイロン」は具体的な物質ではなく、感覚では捉えられない原理である。五感で触れられるものだけが実在するのではない、という発想は後の形而上学・数学・理論物理学のすべてに通じる。
- 宇宙の「脱中心化」:大地は何にも支えられず宇宙の中心に浮いている、という彼の宇宙論は、「支える亀」や「支える柱」を不要にした。説明に神話的支持体を必要としない、自足した宇宙像の最初の提示である。
生涯と時代背景
アナクシマンドロスは紀元前610年頃、イオニア地方の港湾都市ミレトスに生まれた。師タレスより約14歳年下であり、伝統的にはタレスの「弟子ないし後継者」とされる(ディオゲネス・ラエルティオス『列伝』第2巻1-2節)。ただし「弟子」という言葉の正確な意味(制度的な師弟関係なのか、知的影響を受けた年少の同市民なのか)は、この時代には確定しがたい。
ミレトスは当時、東地中海で最も繁栄した交易都市のひとつだった。75ないし90もの植民市を擁したとされ(プリニウス『博物誌』5.112、セネカ書簡88.44では75を数える)、エジプト・バビロニア・リュディアとの交易を通じて多様な知識と技術が流入していた。とりわけバビロニアの天文記録の精度は高く、日食・月食の周期(サロス周期)を経験的に把握していたことが楔形文字粘土板から知られている。また、バビロニアの創成叙事詩『エヌマ・エリシュ』には、原初の混沌(ティアマト)から対立を通じて世界が形成されるというモチーフがあり、アナクシマンドロスの「ト・アペイロンからの対立物の分離」との構造的類似がしばしば指摘される(ウェスト『East Face of Helicon』, Oxford UP, 1997, pp.85-91)。
ただし決定的な違いがある。バビロニアの神話では創成が神々の行為として語られる。アナクシマンドロスはそうした神話的行為者を排除し、自然の原理のみで世界を説明した。この脱神話化こそが、ミレトス学派の決定的な知的革新である。
アナクシマンドロスの活動は多岐にわたる。彼はギリシャにグノーモーン(日時計の指針)を導入したと伝えられ(ディオゲネス・ラエルティオス『列伝』第2巻1節。なおヘロドトス『歴史』第2巻109節は、グノーモーン自体がバビロニアからギリシャに伝わったとしており、アナクシマンドロスはその媒介者だった可能性がある)、至点と分点の時刻を測定した。また、知られている限り最初の世界地図を製作し(アガテメロス『地理学概要』1.1)、さらにミレトスからアポロニアへの植民を指揮したとも伝えられる(アエリアノス『雑録』第3巻17章)。思弁的哲学者であると同時に、実践的な技術者・政治家でもあったのだ。
彼はまた、ギリシャ散文による最初の哲学書『自然について(ペリ・ピュセオース)』を著したとされる(テミスティオス『弁論』第26巻317c-d。ただしこの帰属の正確さは議論がある)。それ以前のギリシャの知的伝統は、ヘシオドスの『神統記』に代表されるように韻文(叙事詩形式)で書かれていた。散文で自然の原理を論じるという選択自体が、韻文による神話的語りからの意識的な離脱を示している。タレスが著作を残さなかった(あるいは散逸した)のに対し、アナクシマンドロスは自身の思想を文字として定着させた最初の哲学者である。ただし現存する断片はわずか1つだけであり、他のすべては後世の著者による間接的証言(テスティモニア)として伝わる。
ミニ年表
- 前610年頃:イオニア地方ミレトスに生まれる
- 前580年代:師タレスのもとで(あるいはその影響下で)自然哲学を学ぶ
- 前570年頃:グノーモーン(日時計)をギリシャに導入。至点・分点を観測
- 前560年頃:最初の世界地図を製作。『自然について』を著す
- 前547/546年頃:ミレトスにて没(タレスとほぼ同時期)
アナクシマンドロスは何を問うたのか
アナクシマンドロスが直面した問題は、師タレスの遺産そのものだった。タレスは「万物の根源(アルケー)は水である」と主張した。しかしアナクシマンドロスはこの回答に根本的な欠陥を見出す。
その批判の論理は、アリストテレスの報告(『自然学』204b22-29)をもとに学者が再構成すると、おおよそ以下のようになる。水は火と対立する。湿は乾と対立する。もし水が万物の根源であるなら、水と対立する火はどのようにして水から生じうるのか。対立するものの一方が根源であるなら、他方を消滅させてしまうはずだ。したがって根源は、いかなる特定の元素とも「対立しない」もの、つまり特定の性質をもたないもの──でなければならない。この推論がアナクシマンドロス自身の言葉でどこまで明示的だったかは不明だが、ト・アペイロンという概念の論理的帰結として、多くの研究者がこの再構成を妥当としている。
この推論は単なる回答の差し替えではない。タレスの問い「万物の根源は何か」を受け入れたうえで、その答えが満たすべき論理的条件を明示したのである。「根源は特定の性質をもってはならない」。この制約条件の発見こそが、アナクシマンドロスの哲学的革新だった。
これは哲学史上最初の「内在的批判」(相手の前提を共有しつつ、その帰結の矛盾を突く)と言える。ポパーはこれを「合理的伝統」の始まりと評している(Popper, Conjectures and Refutations, 1963, Ch.5)。師の回答を無批判に受け入れるのでもなく、全面否定するのでもなく、問いの枠組みを保存しつつ回答を改良する。この態度こそが、科学と哲学が「進歩」できる根本的な理由である。
核心理論
1. ト・アペイロン── 無限定なるもの
アナクシマンドロスが提示したアルケーは「ト・アペイロン」、つまり「無限定なるもの」あるいは「限りなきもの」である。この語は「ペラス(限界)」の否定形であり、空間的に無限であるという意味と、質的に無限定(=特定の性質に限定されない)であるという意味の両方を含みうる。アリストテレスは主に前者の意味で論じ(『自然学』第3巻4-8章)、テオフラストスの証言(シンプリキオス経由)は後者を強調する。現代の研究者の多くは、アナクシマンドロス自身の意図としては質的な無限定性が核心であったと考えている(Kirk & Raven, 1983, pp.110-117)。
ト・アペイロンは水でも火でも空気でもない。それは万物を生み出しながら、自らはいかなる特定の性質にも固定されない。この発想の革新性は、感覚的に把握できないものを根源に据えた点にある。タレスの「水」は目で見て手で触れることができた。しかしト・アペイロンは五感では捉えられない。ここに、経験的事物を超えた「理論的存在者」を思考の対象とする伝統(後に「形而上学」と呼ばれることになるもの)の起源がある。
現代物理学における「場(フィールド)」の概念(それ自体は目に見えないが、すべての物質と力の源泉であるもの)は、ト・アペイロンの遠い子孫と言えなくもない。量子場理論において、素粒子は場の「励起状態」として理解される。場そのものは特定の粒子ではないが、すべての粒子がそこから生じる。アナクシマンドロスが2600年前に直観した構造と、驚くほど似ている。
2. 対立物の分離と回帰── 宇宙生成論
万物はいかにしてト・アペイロンから生じるのか。アナクシマンドロスの答えは「対立物の分離」である。ト・アペイロンの内部から、まず熱と冷、乾と湿といった対立する性質の対が分離する。この分離から具体的な元素(火、空気、水、土)が生じ、世界が形成される(擬プルタルコス『ストロマテイス』第2章、シンプリキオス『自然学注解』24.13-25)。
しかし分離した対立物は、やがてト・アペイロンへと回帰する。この生成と消滅の循環は、現存する唯一の断片(DK 12 B1)に凝縮されている:
"万物がそこから生成するところのものへと、万物は消滅もする、必然に従って。なぜなら万物は、時の定めに従って、互いにその不正(アディキア)に対する罰と償いを支払うからである。" ── シンプリキオス『自然学注解』24.18-21(DK 12 B1)。テオフラストス経由の伝承。
この断片は西洋哲学で現存する最古の散文テクストのひとつである。しかし、ここには有名な解釈問題がある。「不正(アディキア)」「罰」「償い」といった法的・倫理的用語は、アナクシマンドロス自身の言葉なのか、それとも後世のテオフラストスが要約する際に挿入した比喩なのか?
カーク(1955)はこの法的語彙をテオフラストスに帰し、アナクシマンドロス自身の表現は「必然に従って(κατὰ τὸ χρεών)」の部分に限られると論じた。一方カーン(1960)は、法的用語こそアナクシマンドロスの原語であり、彼が宇宙秩序を法的正義のアナロジーで捉えていたと主張する。
いずれの立場をとるにせよ、この断片の核心は明瞭だ。対立物の一方(たとえば夏の暑さ)が他方(冬の寒さ)を「侵犯」すると、やがて均衡が回復される。宇宙は法廷のように、秩序によって統治されている。
この思想は、生態学における「動的平衡」や、経済学の「均衡理論」と構造的に類似する。重要なのは、アナクシマンドロスの宇宙が一方向的な崩壊ではなく、循環的な修復に向かう点だ。近代熱力学はエントロピー増大による不可逆的な「熱的死」を予言する。これとは対照的に、アナクシマンドロスの宇宙では逸脱が生じるたびに「償い」によって均衡が回復される。生態学のホメオスタシス(恒常性維持、つまり逸脱を検知し、元の状態へ自動修正するシステム)に近い発想である。アナクシマンドロスの宇宙は、対立の緊張によって動き、均衡への回帰によって秩序を保つ自己調節的システムだった。この「対立と均衡」の図式は、ヘラクレイトスの「闘争」論、エンペドクレスの「愛と争い」を経て、ヘーゲルの弁証法にまで流れ込む。
3. 宇宙の脱中心化── 大地は何にも支えられていない
アナクシマンドロスの宇宙論で最も驚くべき主張は、大地は何にも支えられず、宇宙の中央に浮いているというものだ(アリストテレス『天体について』295b10-16)。タレスは「大地は水の上に浮いている」としたが、これでは「その水は何に支えられているのか」という無限後退に陥る。アナクシマンドロスはこの後退を断ち切った。大地が落下しないのは、あらゆる方向に対して等距離にあるため、動く理由がないからだ、と。
この論証は「充足理由律」の原初的形態である。動くべき十分な理由がないならば、動かない。ライプニッツが17世紀に定式化するこの原理を、アナクシマンドロスは2200年前に宇宙論に適用していた。
彼の宇宙モデルでは、大地は円柱形(高さが直径の3分の1)で、その周囲を火の輪が同心円状に取り巻く。天体は火の輪に開いた穴から漏れ出る光であるとされた(アエティオス『学説誌』第2巻20-25章)。太陽の輪は最も外側にあり、地球の27倍の大きさ、月の輪は18倍とされた。これらは9の倍数(9×1=星の輪、9×2=月の輪、9×3=太陽の輪)であり、宇宙が3:6:9(あるいは1:2:3)という整然とした数学的比率で構成されているとするモデルである。ピュタゴラス学派に先立ち、「宇宙の構造を数で記述する」という態度の最古の例とされる。
さらに議論を呼ぶのが、アナクシマンドロスが「無数の世界」を主張したかどうかという問題である。アウグスティヌスやアエティオスの証言は、ト・アペイロンから無限に多くの世界が生成しうると伝える(アエティオス『学説誌』第1巻3章3節)。もしこの伝承が正しければ、われわれの宇宙はト・アペイロンから生まれた無数の世界のひとつにすぎず、これは現代の「マルチバース仮説」との驚くべき構造的類似を示す。ただし、コーンフォードのように「無数の世界」は同時並行的ではなく時間的に継起する(一つの世界が滅びた後に別の世界が生じる)と解する研究者もおり、またカーク(1955)のようにこの伝承自体の信頼性を疑う立場もある。
4. 生物の起源── 原初の進化論
アナクシマンドロスは生物の起源についても思索した。彼によれば、最初の生物は海中の湿った環境で生まれ、棘のある殻に覆われていた。やがて乾いた陸地に移行する際に殻が破れ、異なる生活様式に適応した(アエティオス『学説誌』第5巻19章1節)。
さらに驚くべきことに、人間は魚のような生物の中で育ち、自活できるようになってから外に出たと主張した(擬プルタルコス『ストロマテイス』第2章、ヒッポリュトス『全異端反駁』第1巻6章6節)。その理由は、人間の幼児は他の動物に比べて自立に長い時間を要するため、最初から現在の姿で出現したのでは生存できなかったはずだ、というものである。
これをダーウィンの進化論の「先駆」と呼ぶのは過大評価だろう。自然選択のメカニズムも、変異と遺伝の概念もない。しかし、生物は現在の姿のまま始めから存在したのではなく、異なる形態から変化してきたという発想と、その根拠を合理的観察(人間の幼児の脆弱性)に求める態度は、神話的創造論とは明確に異なる。アナクシマンドロスは、生命の起源を神の行為ではなく自然の過程として考えた最初の思想家の一人である。
主要著作ガイド
アナクシマンドロスの著作は散逸しており、現存するのはわずか1断片(DK 12 B1)のみである。以下は彼の思想を復元するための文献ガイドである。
- ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第2巻1-2節(加来彰俊訳、岩波文庫) ── アナクシマンドロスの生涯と業績の概要を伝える最も簡潔な伝記的資料。
- 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997年) ── ミレトス学派全体を日本語で平易に概説する。タレスとの関係やト・アペイロンの意味が明快に整理されている。
- アリストテレス『自然学』第3巻4-8章(出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫) ── アリストテレスがト・アペイロン(無限)を体系的に分析する。アナクシマンドロスへの直接的言及を含む。ただしアリストテレス自身の理論枠組みに引き寄せた解釈である点に注意。
- G.S. Kirk, J.E. Raven, M. Schofield『The Presocratic Philosophers』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.4(邦訳: 内山勝利他訳『ソクラテス以前の哲学者たち』京都大学学術出版会) ── アナクシマンドロスの全断片・全証言を原典批判的に検討する。ト・アペイロンの解釈問題について最も詳細な議論を提供する。
- C.H. Kahn『Anaximander and the Origins of Greek Cosmology』, Columbia UP, 1960(再版: Hackett, 1994) ── アナクシマンドロス研究の古典的モノグラフ。宇宙論の詳細な再構成を行う。
主要な批判と論争
1. アナクシメネスの批判(同時代・後継者):ミレトス学派の第三世代であるアナクシメネスは、アナクシマンドロスのト・アペイロンが「あまりにも不確定で説明力に乏しい」と考えたようである。彼はアルケーを再び具体的な物質、空気(アエール)に戻し、その濃縮と希薄化によって万物の変化を説明した(テオフラストス、シンプリキオス経由)。つまり「無限定なもの」では変化のメカニズムが説明できない、という批判である。これは正当な指摘であり、アナクシマンドロスの理論に「具体的な変化のプロセス」が不足していたことを示す。
2. アリストテレスの批判(後世):アリストテレスは「無限なものは原理たりえない」と主張する(『自然学』204a-206b)。彼によれば、無限なものは「完成されていない」(未完了態)であり、原理は「完成されたもの」でなければならない。また、無限を実在するものとして認めると論理的矛盾が生じる。ただし、アリストテレスがアナクシマンドロスの「アペイロン」を空間的無限として解釈しているのか質的無限定性として解釈しているのかは、テクストの読みによって変わる。
3. 現代の解釈論争:ト・アペイロンの正確な意味をめぐって、20世紀以降の研究者の間で激しい論争が続いている。(a)空間的・量的に無限な物質とする説(コーンフォード、CQ 28、1934)、(b)質的に無限定であるとする説(カーク「Some Problems in Anaximander」、CQ 5、1955)、(c)空間的にも質的にも無限定なものとする折衷説(カーン、1960)が主な立場である。さらに近年では、ト・アペイロンは「アルケー」ですらなく、万物を包み込む「場」ないし「環境」と解すべきだとする立場(グラハム、2006)も提出されている。決定的な証拠は不足しており、わずか1断片と後世の証言からアナクシマンドロスの真意を復元することの困難さを物語っている。
影響と遺産
先行思想:タレスの自然哲学(アルケー探究の枠組みそのもの)、バビロニア天文学(グノーモーン、天文観測の技術的基盤)、近東の宇宙創成論(原初のカオスからの宇宙生成というモチーフ)。
直接的後継者:アナクシメネスはアルケーを「空気」として具体化したが、濃縮と希薄化というメカニズムを導入することで、アナクシマンドロスが残した「変化のプロセス」の問題に応答した。ヘラクレイトスの「対立物の統一」思想は、アナクシマンドロスの「対立物の分離と回帰」を変奏したものと見なせる。
遠い後継者:プラトンの「受容体(コーラ)」(『ティマイオス』49a-52d。それ自体はいかなる形も持たないが、すべての形を受け入れる)は、ト・アペイロンの哲学的洗練形態と言える。アリストテレスの「質料(ヒュレー)」概念にも影響がある。近代以降では、カントの「物自体(ディング・アン・ジッヒ)」(認識の形式を剥ぎ取ったあとに残る、知りえない基体)や、スピノザの「実体(substantia)」にも構造的な類似が認められる。
科学への波及:大地が何にも支えられずに浮いているという宇宙論は、コペルニクス的転回の遠い前史である。宇宙の構造を数学的比率で記述しようとした態度は、ピュタゴラス学派を経てケプラーの惑星運動の法則へ至る流れの起点のひとつである。生物の起源に関する思索は、18世紀の博物学(ビュフォン、ラマルク)を経てダーウィンの進化論へと合流する知的水脈の、最も古い源泉のひとつである。
現代への接続
アナクシマンドロスの遺産は三つの次元で現代に生きている。
第一に、「見えないものを思考する」という態度。現代物理学の基本概念(場、エネルギー、暗黒物質、量子状態)はいずれも直接感覚では把握できない。理論的推論によってのみアクセスできる実在を認める思考様式は、アナクシマンドロスのト・アペイロンに始まる。数学の基底をなす無限や連続体、経済学が想定する「市場」もまた、五感で触れることはできない。目に見えないが万物の根底にあるもの。この概念の構造は、2600年を経てもなお科学と哲学の中核に位置している。
第二に、「批判的継承」という知の進め方。師を尊重しつつその回答を論理的に乗り越える。この態度は、学術論文の「先行研究批判」や、組織における「建設的な議論」と同型である。前の世代の仕事を全否定するのでもなく、無批判に受け入れるのでもなく、改良する。この姿勢は、アナクシマンドロスが哲学に刻み込んだDNAである。
第三に、「対立と均衡」の世界観。アナクシマンドロスの宇宙では、対立物が互いに「不正」を犯しては「償う」ことで秩序が維持される。この動的平衡の思想は、生態系の恒常性、民主主義における権力分立、市場経済における需給均衡など、現代社会の基本構造の多くに通底している。「一方的な支配は不正であり、やがて修正される」。これは宇宙の法則であると同時に、政治哲学の原理でもある。
読者への問い
- あなたの仕事や学問において、「師の回答」を受け入れつつも「問いの枠組みを保存したまま回答を改良した」経験はあるか? それはどのような知的勇気を要したか?
- 現代科学が扱う「見えない実在」(暗黒物質、量子場、数学的構造)は、ト・アペイロンとどこが似ていて、どこが決定的に異なるか?
- アナクシマンドロスの「対立物の均衡」モデルを現代社会に適用するなら、今もっとも「不正」が蓄積し、やがて「償い」が訪れる領域はどこだと思うか?
名言(出典つき)
"万物がそこから生成するところのものへと、万物は消滅もする、必然に従って。なぜなら万物は、時の定めに従って、互いにその不正に対する罰と償いを支払うからである。" ── シンプリキオス『自然学注解』24.18-21(DK 12 B1)。テオフラストス経由。西洋哲学で現存する最古の散文断片のひとつ。宇宙の生成と消滅を「正義」の概念で統治する、アナクシマンドロスの根本思想を凝縮する。/原文:引用文内の括弧内原語表記を参照
"万物の根源(アルケー)は無限定なるもの(ト・アペイロン)である。" ── アリストテレス『自然学』203b6-15 およびテオフラストス(シンプリキオス経由)による帰属。アナクシマンドロス自身の原語かどうかは議論があるが、彼の中心命題として広く認められている。/原文:引用文内の括弧内原語表記を参照
"大地は何にも支えられず、いかなるものにも強制されずにとどまっている。すべてのものからの距離が等しいために動くことがないのである。" ── アリストテレス『天体について』295b11-16(等距離ゆえの静止)。地球が円柱(太鼓状)であるという形状証言は、アエティオス『学説誌』III.10.2 および ヒッポリュトス『全異端駁論』I.6.3 に見える。/原文:引用文内の括弧内原語表記を参照
参考文献
- (断片と証言):H. Diels & W. Kranz 編『ソクラテス以前の哲学者たちの断片(Die Fragmente der Vorsokratiker)』第1巻、アナクシマンドロスの章(DK 12)。断片B1および全証言(A篇)を収録。
- (証言):アリストテレス『自然学』第3巻(出隆・岩崎允胤訳、岩波文庫); アリストテレス『天体について』(山本光雄訳、岩波文庫)── 大地の静止に関する証言(295b10-16);アエティオス『学説誌』III.10.2 および ヒッポリュトス『全異端駁論』I.6.3 ── 地球形状の証言。
- (伝記):ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第2巻1-2節(加来彰俊訳、岩波文庫)。
- (標準研究):G.S. Kirk, J.E. Raven, M. Schofield『The Presocratic Philosophers』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.4(邦訳: 内山勝利他訳『ソクラテス以前の哲学者たち』京都大学学術出版会)── アナクシマンドロスの断片と証言を最も厳密に検討する標準参考書。
- (専門研究):C.H. Kahn『Anaximander and the Origins of Greek Cosmology』, Columbia UP, 1960(再版: Hackett, 1994)── 宇宙論の詳細な再構成を行うモノグラフの古典。
- (概説):廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997年)── 日本語で読める定評のある入門概説。
- (科学哲学的視点):K.R. Popper『Conjectures and Refutations』, Routledge, 1963, Ch.5 ── 「合理的伝統」の起源としてアナクシマンドロスを論じる。批判的合理主義の観点から初期ギリシャ哲学を位置づける。
- (近東との比較):M.L. West『The East Face of Helicon: West Asiatic Elements in Greek Poetry and Myth』, Oxford UP, 1997 ── バビロニア・近東の宇宙論とギリシャ哲学の比較研究の標準文献。第3章がミレトス学派と近東の関係を論じる。
- (最新の研究動向):D.W. Graham『Explaining the Cosmos: The Ionian Tradition of Scientific Philosophy』, Princeton UP, 2006 ── ミレトス学派の科学的思考を再評価する近年の重要著作。