紀元前きげんぜん6世紀せいき、ミレトスΜίλητοςの港みなとに立たつひとりの男おとこが、青銅せいどう板ばんの上うえに世界せかいを描えがいていた。エーゲ海かい、黒海こっかい、地中海ちちゅうかい、そしてその外縁がいえんに広ひろがる大洋たいよう。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは、知しられている限かぎり最初さいしょの世界せかい地図ちずを製作せいさくした人物じんぶつである。しかし彼かれの真しんの功績こうせきは地図ちずではない。目めに見みえる世界せかいの「外側そとがわ」に、目めに見みえないものを見みたことだ。

師しタレスΘαλῆςは「万物ばんぶつの根源こんげんは水みずだ」と主張しゅちょうした。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςはこう問とい返かえした。「なぜ水みずなのか。水みずは火ひと対立たいりつする。対立たいりつするものの一方いっぽうが根源こんげんであるはずがない」。そして彼かれが提示ていじした答こたえは、いかなる特定とくていの性質せいしつにも限定げんていされない「無む限定げんていなもの(ト・アペイロンτὸ ἄπειρον)」だった。これは西洋せいよう思想しそう史しにおける抽象ちゅうしょう概念がいねんの誕生たんじょうである。具体ぐたい的てきな物質ぶっしつではなく、概念がいねんによって世界せかいを説明せつめいする。この知的ちてき跳躍ちょうやくなしに、現代げんだいの数学すうがくも物理ぶつり学がくも存在そんざいしえなかった。

この記事きじの要点ようてん

  • 哲学てつがく史上しじょう最初さいしょの「建設けんせつ的てき批判ひはん」:アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは師しタレスΘαλῆςの問とい(万物ばんぶつの根源こんげんは何なにか)を継承けいしょうしつつ、その回答かいとう(水みず)を論理ろんり的てきに否定ひていした。問といを共有きょうゆうしながら回答かいとうを刷新さっしんする。これが「哲学てつがく的てき伝統でんとう」の原型げんけいである。
  • 抽象ちゅうしょう思考しこうの誕生たんじょう:「ト・アペイロンτὸ ἄπειρον」は具体ぐたい的てきな物質ぶっしつではなく、感覚かんかくでは捉とらえられない原理げんりである。五感ごかんで触ふれられるものだけが実在じつざいするのではない、という発想はっそうは後のちの形而上学けいじじょうがく・数学すうがく・理論りろん物理ぶつり学がくのすべてに通つうじる。
  • 宇宙うちゅうの「脱だつ中心ちゅうしん化か」:大地だいちは何なににも支ささえられず宇宙うちゅうの中心ちゅうしんに浮ういている、という彼かれの宇宙うちゅう論ろんは、「支ささえる亀かめ」や「支ささえる柱はしら」を不要ふようにした。説明せつめいに神話しんわ的てき支持しじ体たいを必要ひつようとしない、自足じそくした宇宙うちゅう像ぞうの最初さいしょの提示ていじである。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは紀元前きげんぜん610年ねん頃ごろ、イオニアἸωνία地方ちほうの港湾こうわん都市としミレトスΜίλητοςに生うまれた。師しタレスΘαλῆςより約やく14歳さい年下とししたであり、伝統でんとう的てきにはタレスΘαλῆςの「弟子でしないし後継こうけい者しゃ」とされる(ディオゲネス・ラエルティオスDiogenes Laërtius『列伝Βίοι φιλοσόφων』第だい2巻かん1-2節せつ)。ただし「弟子でし」という言葉ことばの正確せいかくな意味いみ(制度せいど的てきな師弟してい関係かんけいなのか、知的ちてき影響えいきょうを受うけた年少ねんしょうの同どう市民しみんなのか)は、この時代じだいには確定かくていしがたい。

ミレトスΜίλητοςは当時とうじ、東ひがし地中海ちちゅうかいで最もっとも繁栄はんえいした交易こうえき都市としのひとつだった。75ないし90もの植民しょくみん市しを擁ようしたとされ(プリニウスPlinius『博物誌Naturalis Historia』5.112、セネカSeneca書簡しょかん88.44では75を数かぞえる)、エジプトΑἴγυπτος・バビロニアΒαβυλωνία・リュディアΛυδίαとの交易こうえきを通つうじて多様たような知識ちしきと技術ぎじゅつが流入りゅうにゅうしていた。とりわけバビロニアΒαβυλωνίαの天文てんもん記録きろくの精度せいどは高たかく、日食にっしょく・月食げっしょくの周期しゅうき(サロス周期しゅうき)を経験けいけん的てきに把握はあくしていたことが楔形文字くさびがたもじ粘土ねんど板ばんから知しられている。また、バビロニアΒαβυλωνίαの創成そうせい叙事詩じょじし『エヌマ・エリシュEnūma Eliš』には、原初げんしょの混沌こんとん(ティアマトTiamat)から対立たいりつを通つうじて世界せかいが形成けいせいされるというモチーフmotifがあり、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの「ト・アペイロンτὸ ἄπειρονからの対立たいりつ物ぶつの分離ぶんり」との構造こうぞう的てき類似るいじがしばしば指摘してきされる(ウェスト『East Face of Heliconヘリコンの東の顔』, Oxford UP, 1997, pp.85-91)。

ただし決定けってい的てきな違ちがいがある。バビロニアΒαβυλωνίαの神話しんわでは創成そうせいが神々かみがみの行為こういとして語かたられる。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςはそうした神話しんわ的てき行為こうい者しゃを排除はいじょし、自然しぜんの原理げんりのみで世界せかいを説明せつめいした。この脱だつ神話しんわ化かこそが、ミレトスΜίλητος学派がくはの決定的けっていてきな知的ちてき革新かくしんである。

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの活動かつどうは多岐たきにわたる。彼かれはギリシャにグノーモーンγνώμων(日時計ひどけいの指針ししん)を導入どうにゅうしたと伝つたえられ(ディオゲネス・ラエルティオスDiogenes Laërtius『列伝Βίοι φιλοσόφων』第だい2巻かん1節せつ。なおヘロドトスἩρόδοτος『歴史Ἱστορίαι』第だい2巻かん109節せつは、グノーモーンγνώμων自体じたいがバビロニアΒαβυλωνίαからギリシャに伝つたわったとしており、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςはその媒介ばいかい者しゃだった可能かのう性せいがある)、至し点てんと分ぶん点てんの時刻じこくを測定そくていした。また、知しられている限かぎり最初さいしょの世界せかい地図ちずを製作せいさくし(アガテメロスAgathemerus『地理学概要Γεωγραφίας ὑποτύπωσις』1.1)、さらにミレトスΜίλητοςからアポロニアἈπολλωνίαへの植民しょくみんを指揮しきしたとも伝つたえられる(アエリアノスAelianus『雑録ざつろく』第だい3巻かん17章しょう)。思弁しべん的てき哲学てつがく者しゃであると同時どうじに、実践じっせん的てきな技術ぎじゅつ者しゃ・政治せいじ家かでもあったのだ。

彼かれはまた、ギリシャ散文さんぶんによる最初さいしょの哲学てつがく書しょ『自然しぜんについて(ペリ・ピュセオースΠερὶ φύσεως)』を著あらわしたとされる(テミスティオスThemistius『弁論べんろん』第だい26巻かん317c-d。ただしこの帰属きぞくの正確せいかくさは議論ぎろんがある)。それ以前いぜんのギリシャの知的ちてき伝統でんとうは、ヘシオドスἩσίοδοςの『神統記Θεογονία』に代表だいひょうされるように韻文いんぶん(叙事詩じょじし形式けいしき)で書かかれていた。散文さんぶんで自然しぜんの原理げんりを論ろんじるという選択せんたく自体じたいが、韻文いんぶんによる神話しんわ的てき語かたりからの意識いしき的てきな離脱りだつを示しめしている。タレスΘαλῆςが著作ちょさくを残のこさなかった(あるいは散逸さんいつした)のに対たいし、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは自身じしんの思想しそうを文字もじとして定着ていちゃくさせた最初さいしょの哲学てつがく者しゃである。ただし現存げんそんする断片だんぺんはわずか1つだけであり、他たのすべては後世こうせいの著者ちょしゃによる間接かんせつ的てき証言しょうげん(テスティモニアtestimonia)として伝つたわる。

ミニ年表ねんぴょう

  • 前ぜん610年ねん頃ころ:イオニアἸωνία地方ちほうミレトスΜίλητοςに生うまれる
  • 前ぜん580年代ねんだい:師しタレスΘαλῆςのもとで(あるいはその影響えいきょう下かで)自然しぜん哲学てつがくを学まなぶ
  • 前ぜん570年ねん頃ころ:グノーモーンγνώμων(日時計ひどけい)をギリシャに導入どうにゅう。至し点てん・分ぶん点てんを観測かんそく
  • 前ぜん560年ねん頃ころ:最初さいしょの世界せかい地図ちずを製作せいさく。『自然についてΠερὶ Φύσεως』を著あらわす
  • 前ぜん547/546年ねん頃ころ:ミレトスΜίλητοςにて没ぼつ(タレスΘαλῆςとほぼ同どう時期じき)

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは何なにを問とうたのか

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが直面ちょくめんした問題もんだいは、師しタレスΘαλῆςの遺産いさんそのものだった。タレスΘαλῆςは「万物ばんぶつの根源こんげん(アルケーἀρχή)は水みずである」と主張しゅちょうした。しかしアナクシマンドロスἈναξίμανδροςはこの回答かいとうに根本こんぽん的てきな欠陥けっかんを見出みいだす。

その批判ひはんの論理ろんりは、アリストテレスἈριστοτέληςの報告ほうこく(『自然学Φυσική』204b22-29)をもとに学者がくしゃが再さい構成こうせいすると、おおよそ以下いかのようになる。水みずは火ひと対立たいりつする。湿しめは乾かんと対立たいりつする。もし水みずが万物ばんぶつの根源こんげんであるなら、水みずと対立たいりつする火ひはどのようにして水みずから生しょうじうるのか。対立たいりつするものの一方いっぽうが根源こんげんであるなら、他方たほうを消滅しょうめつさせてしまうはずだ。したがって根源こんげんは、いかなる特定とくていの元素げんそとも「対立たいりつしない」もの、つまり特定とくていの性質せいしつをもたないもの──でなければならない。この推論すいろんがアナクシマンドロスἈναξίμανδρος自身じしんの言葉ことばでどこまで明示めいじ的てきだったかは不明ふめいだが、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονという概念がいねんの論理ろんり的てき帰結きけつとして、多おおくの研究けんきゅう者しゃがこの再さい構成こうせいを妥当だとうとしている。

この推論すいろんは単たんなる回答かいとうの差さし替かえではない。タレスΘαλῆςの問とい「万物ばんぶつの根源こんげんは何なにか」を受うけ入いれたうえで、その答こたえが満みたすべき論理ろんり的てき条件じょうけんを明示めいじしたのである。「根源こんげんは特定とくていの性質せいしつをもってはならない」。この制約せいやく条件じょうけんの発見はっけんこそが、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの哲学てつがく的てき革新かくしんだった。

これは哲学てつがく史上しじょう最初さいしょの「内在ないざい的てき批判ひはん」(相手あいての前提ぜんていを共有きょうゆうしつつ、その帰結きけつの矛盾むじゅんを突つく)と言いえる。ポパーPopperはこれを「合理ごうり的てき伝統でんとう」の始はじまりと評ひょうしている(Popperポパー, Conjectures and Refutations推測と反駁, 1963, Ch.5)。師しの回答かいとうを無む批判ひはんに受うけ入いれるのでもなく、全面ぜんめん否定ひていするのでもなく、問といの枠組わくぐみを保存ほぞんしつつ回答かいとうを改良かいりょうする。この態度たいどこそが、科学かがくと哲学てつがくが「進歩しんぽ」できる根本こんぽん的てきな理由りゆうである。

核心かくしん理論りろん

1. ト・アペイロンτὸ ἄπειρον── 無む限定げんていなるもの

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが提示ていじしたアルケーἀρχήは「ト・アペイロンτὸ ἄπειρον」、つまり「無む限定げんていなるもの」あるいは「限かぎりなきもの」である。この語ごは「ペラスπέρας(限界げんかい)」の否定ひてい形けいであり、空間くうかん的てきに無限むげんであるという意味いみと、質的しつてきに無む限定げんてい(=特定とくていの性質せいしつに限定げんていされない)であるという意味いみの両方りょうほうを含ふくみうる。アリストテレスἈριστοτέληςは主おもに前者ぜんしゃの意味いみで論ろんじ(『自然学Φυσική』第だい3巻かん4-8章しょう)、テオフラストスΘεόφραστοςの証言しょうげん(シンプリキオスSimplicius経由けいゆ)は後者こうしゃを強調きょうちょうする。現代げんだいの研究けんきゅう者しゃの多おおくは、アナクシマンドロスἈναξίμανδρος自身じしんの意図いととしては質的しつてきな無む限定げんてい性せいが核心かくしんであったと考かんがえている(Kirk & Raven, 1983, pp.110-117)。

ト・アペイロンτὸ ἄπειρονは水みずでも火ひでも空気くうきでもない。それは万物ばんぶつを生うみ出だしながら、自みずからはいかなる特定とくていの性質せいしつにも固定こていされない。この発想はっそうの革新かくしん性せいは、感覚かんかく的てきに把握はあくできないものを根源こんげんに据すえた点てんにある。タレスΘαλῆςの「水みず」は目めで見みて手てで触ふれることができた。しかしト・アペイロンτὸ ἄπειρονは五感ごかんでは捉とらえられない。ここに、経験けいけん的てき事物じぶつを超こえた「理論りろん的てき存在そんざい者しゃ」を思考しこうの対象たいしょうとする伝統でんとう(後ごに「形而上学けいじじょうがく」と呼よばれることになるもの)の起源きげんがある。

現代げんだい物理ぶつり学がくにおける「場ば(フィールド)」の概念がいねん(それ自体じたいは目めに見みえないが、すべての物質ぶっしつと力ちからの源泉げんせんであるもの)は、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονの遠とおい子孫しそんと言いえなくもない。量子りょうし場じょう理論りろんにおいて、素粒子そりゅうしは場ばの「励起れいき状態じょうたい」として理解りかいされる。場ばそのものは特定とくていの粒子りゅうしではないが、すべての粒子りゅうしがそこから生しょうじる。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが2600年ねん前まえに直観ちょっかんした構造こうぞうと、驚おどろくほど似にている。

2. 対立たいりつ物ぶつの分離ぶんりと回帰かいき── 宇宙うちゅう生成せいせい論ろん

万物ばんぶつはいかにしてト・アペイロンτὸ ἄπειρονから生しょうじるのか。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの答こたえは「対立たいりつ物ぶつの分離ぶんり」である。ト・アペイロンτὸ ἄπειρονの内部ないぶから、まず熱ねつと冷ひや、乾かんと湿しめといった対立たいりつする性質せいしつの対たいが分離ぶんりする。この分離ぶんりから具体ぐたい的てきな元素げんそ(火ひ、空気くうき、水みず、土ど)が生しょうじ、世界せかいが形成けいせいされる(擬プルタルコスΠλούταρχος『ストロマテイスΣτρωματεῖς』第だい2章しょう、シンプリキオスSimplicius『自然学注解In Aristotelis Physicorum』24.13-25)。

しかし分離ぶんりした対立たいりつ物ぶつは、やがてト・アペイロンτὸ ἄπειρονへと回帰かいきする。この生成せいせいと消滅しょうめつの循環じゅんかんは、現存げんそんする唯一ゆいいつの断片だんぺん(DK 12 B1)に凝縮ぎょうしゅくされている:

"万物ばんぶつがそこから生成せいせいするところのものへと、万物ばんぶつは消滅しょうめつもする、必然ひつぜんに従したがって。なぜなら万物ばんぶつは、時ときの定さだめに従したがって、互たがいにその不正ふせい(アディキアἀδικία)に対たいする罰ばちと償つぐないを支払しはらうからである。" ── シンプリキオスSimplicius『自然学注解In Aristotelis Physicorum』24.18-21(DK 12 B1)。テオフラストスΘεόφραστος経由けいゆの伝承でんしょう。

この断片だんぺんは西洋せいよう哲学てつがくで現存げんそんする最古さいこの散文さんぶんテクストtextのひとつである。しかし、ここには有名ゆうめいな解釈かいしゃく問題もんだいがある。「不正ふせい(アディキアἀδικία)」「罰ばち」「償つぐない」といった法的ほうてき・倫理りんり的てき用語ようごは、アナクシマンドロスἈναξίμανδρος自身じしんの言葉ことばなのか、それとも後世こうせいのテオフラストスΘεόφραστοςが要約ようやくする際さいに挿入そうにゅうした比喩ひゆなのか?

カークKirk(1955)はこの法的ほうてき語彙ごいをテオフラストスΘεόφραστοςに帰かえし、アナクシマンドロスἈναξίμανδρος自身じしんの表現ひょうげんは「必然ひつぜんに従したがって(κατὰ τὸ χρεώνカタ・ト・クレオーン)」の部分ぶぶんに限かぎられると論ろんじた。一方いっぽうカーンKahn(1960)は、法的ほうてき用語ようごこそアナクシマンドロスἈναξίμανδροςの原語げんごであり、彼かれが宇宙うちゅう秩序ちつじょを法的ほうてき正義せいぎのアナロジーで捉とらえていたと主張しゅちょうする。

いずれの立場たちばをとるにせよ、この断片だんぺんの核心かくしんは明瞭めいりょうだ。対立たいりつ物ぶつの一方いっぽう(たとえば夏なつの暑あつさ)が他方たほう(冬ふゆの寒さむさ)を「侵犯しんぱん」すると、やがて均衡きんこうが回復かいふくされる。宇宙うちゅうは法廷ほうていのように、秩序ちつじょによって統治とうちされている。

この思想しそうは、生態せいたい学がくにおける「動的どうてき平衡へいこう」や、経済けいざい学がくの「均衡きんこう理論りろん」と構造こうぞう的てきに類似るいじする。重要じゅうようなのは、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの宇宙うちゅうが一方いっぽう向こう的てきな崩壊ほうかいではなく、循環じゅんかん的てきな修復しゅうふくに向むかう点てんだ。近代きんだい熱ねつ力学りきがくはエントロピーentropy増大ぞうだいによる不可逆ふかぎゃく的てきな「熱ねつ的てき死し」を予言よげんする。これとは対照たいしょう的てきに、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの宇宙うちゅうでは逸脱いつだつが生しょうじるたびに「償つぐない」によって均衡きんこうが回復かいふくされる。生態せいたい学がくのホメオスタシスhomeostasis(恒常こうじょう性せい維持いじ、つまり逸脱いつだつを検知けんちし、元もとの状態じょうたいへ自動じどう修正しゅうせいするシステム)に近ちかい発想はっそうである。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの宇宙うちゅうは、対立たいりつの緊張きんちょうによって動うごき、均衡きんこうへの回帰かいきによって秩序ちつじょを保たもつ自己じこ調節ちょうせつ的てきシステムだった。この「対立たいりつと均衡きんこう」の図式ずしきは、ヘラクレイトスἩράκλειτοςの「闘争とうそう」論ろん、エンペドクレスἘμπεδοκλῆςの「愛あいと争あらそい」を経へて、ヘーゲルHegelの弁証法べんしょうほうにまで流ながれ込こむ。

3. 宇宙うちゅうの脱だつ中心ちゅうしん化か── 大地だいちは何なににも支ささえられていない

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの宇宙うちゅう論ろんで最もっとも驚おどろくべき主張しゅちょうは、大地だいちは何なににも支ささえられず、宇宙うちゅうの中央ちゅうおうに浮ういているというものだ(アリストテレスἈριστοτέλης『天体についてΠερὶ Οὐρανοῦ』295b10-16)。タレスΘαλῆςは「大地だいちは水みずの上うえに浮ういている」としたが、これでは「その水みずは何なにに支ささえられているのか」という無限むげん後退こうたいに陥おちいる。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςはこの後退こうたいを断たち切きった。大地だいちが落下らっかしないのは、あらゆる方向ほうこうに対たいして等距離とうきょりにあるため、動うごく理由りゆうがないからだ、と。

この論証ろんしょうは「充足じゅうそく理由りゆう律りつ」の原初げんしょ的てき形態けいたいである。動うごくべき十分じゅうぶんな理由りゆうがないならば、動うごかない。ライプニッツLeibnizが17世紀せいきに定式ていしき化かするこの原理げんりを、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは2200年ねん前まえに宇宙うちゅう論ろんに適用てきようしていた。

彼かれの宇宙うちゅうモデルでは、大地だいちは円柱えんちゅう形けい(高たかさが直径ちょっけいの3分ぶんの1)で、その周囲しゅういを火ひの輪わが同心円どうしんえん状じょうに取とり巻まく。天体てんたいは火ひの輪わに開ひらいた穴あなから漏もれ出でる光ひかりであるとされた(アエティオスἈέτιος『学説誌Placita Philosophorum』第だい2巻かん20-25章しょう)。太陽たいようの輪わは最もっとも外側そとがわにあり、地球ちきゅうの27倍ばいの大おおきさ、月つきの輪わは18倍ばいとされた。これらは9の倍数ばいすう(9×1=星ほしの輪わ、9×2=月つきの輪わ、9×3=太陽たいようの輪わ)であり、宇宙うちゅうが3:6:9(あるいは1:2:3)という整然せいぜんとした数学すうがく的てき比率ひりつで構成こうせいされているとするモデルである。ピュタゴラスΠυθαγόρας学派がくはに先立さきだち、「宇宙うちゅうの構造こうぞうを数かずで記述きじゅつする」という態度たいどの最古さいこの例れいとされる。

さらに議論ぎろんを呼よぶのが、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが「無数むすうの世界せかい」を主張しゅちょうしたかどうかという問題もんだいである。アウグスティヌスAugustinusやアエティオスἈέτιοςの証言しょうげんは、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονから無限むげんに多おおくの世界せかいが生成せいせいしうると伝つたえる(アエティオスἈέτιος『学説誌Placita Philosophorum』第だい1巻かん3章しょう3節せつ)。もしこの伝承でんしょうが正ただしければ、われわれの宇宙うちゅうはト・アペイロンτὸ ἄπειρονから生うまれた無数むすうの世界せかいのひとつにすぎず、これは現代げんだいの「マルチバースmultiverse仮説かせつ」との驚おどろくべき構造こうぞう的てき類似るいじを示しめす。ただし、コーンフォード1934、CQ 28のように「無数むすうの世界せかい」は同時どうじ並行へいこう的てきではなく時間じかん的てきに継起けいきする(一ひとつの世界せかいが滅ほろびた後のちに別べつの世界せかいが生しょうじる)と解かいする研究けんきゅう者しゃもおり、またカークKirk(1955)のようにこの伝承でんしょう自体じたいの信頼しんらい性せいを疑うたがう立場たちばもある。

4. 生物せいぶつの起源きげん── 原初げんしょの進化しんか論ろん

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは生物せいぶつの起源きげんについても思索しさくした。彼かれによれば、最初さいしょの生物せいぶつは海中かいちゅうの湿しめった環境かんきょうで生うまれ、棘とげのある殻からに覆おおわれていた。やがて乾かわいた陸地りくちに移行いこうする際さいに殻からが破やぶれ、異ことなる生活せいかつ様式ようしきに適応てきおうした(アエティオスἈέτιος『学説誌Placita Philosophorum』第だい5巻かん19章しょう1節せつ)。

さらに驚おどろくべきことに、人間にんげんは魚さかなのような生物せいぶつの中なかで育そだち、自活じかつできるようになってから外そとに出でたと主張しゅちょうした(擬プルタルコスΠλούταρχος『ストロマテイスΣτρωματεῖς』第だい2章しょう、ヒッポリュトスἹππόλυτος『全異端反駁Refutatio Omnium Haeresium』第だい1巻かん6章しょう6節せつ)。その理由りゆうは、人間にんげんの幼児ようじは他たの動物どうぶつに比くらべて自立じりつに長ながい時間じかんを要ようするため、最初さいしょから現在げんざいの姿すがたで出現しゅつげんしたのでは生存せいぞんできなかったはずだ、というものである。

これをダーウィンDarwinの進化しんか論ろんの「先駆せんく」と呼よぶのは過大かだい評価ひょうかだろう。自然しぜん選択せんたくのメカニズムも、変異へんいと遺伝いでんの概念がいねんもない。しかし、生物せいぶつは現在げんざいの姿すがたのまま始はじめから存在そんざいしたのではなく、異ことなる形態けいたいから変化へんかしてきたという発想はっそうと、その根拠こんきょを合理ごうり的てき観察かんさつ(人間にんげんの幼児ようじの脆弱ぜいじゃく性せい)に求もとめる態度たいどは、神話しんわ的てき創造そうぞう論ろんとは明確めいかくに異ことなる。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςは、生命せいめいの起源きげんを神かみの行為こういではなく自然しぜんの過程かていとして考かんがえた最初さいしょの思想家しそうかの一人ひとりである。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの著作ちょさくは散逸さんいつしており、現存げんそんするのはわずか1断片だんぺん(DK 12 B1)のみである。以下いかは彼かれの思想しそうを復元ふくげんするための文献ぶんけんガイドである。

  • ディオゲネス・ラエルティオスDiogenes Laërtius『ギリシア哲学者列伝Βίοι φιλοσόφων』第だい2巻かん1-2節せつ(加来かく彰俊あきとし訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ) ── アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの生涯しょうがいと業績ぎょうせきの概要がいようを伝つたえる最もっとも簡潔かんけつな伝記でんき的てき資料しりょう。
  • 廣川ひろかわ洋一よういち『ソクラテス以前の哲学者The Presocratic Philosophers』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1997年ねん) ── ミレトスΜίλητος学派がくは全体ぜんたいを日本語にほんごで平易へいいに概説がいせつする。タレスΘαλῆςとの関係かんけいやト・アペイロンτὸ ἄπειρονの意味いみが明快めいかいに整理せいりされている。
  • アリストテレスἈριστοτέλης『自然学Φυσική』第だい3巻かん4-8章しょう(出隆いでたかし・岩崎いわさき允胤ちかたね訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ) ── アリストテレスἈριστοτέληςがト・アペイロンτὸ ἄπειρον(無限むげん)を体系たいけい的てきに分析ぶんせきする。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςへの直接的ちょくせつてき言及げんきゅうを含ふくむ。ただしアリストテレスἈριστοτέλης自身じしんの理論りろん枠組わくぐみに引ひき寄よせた解釈かいしゃくである点てんに注意ちゅうい。
  • G.S. Kirkカーク, J.E. Ravenレイヴン, M. Schofieldスコフィールド『The Presocratic Philosophersソクラテス以前の哲学者たち』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.4(邦訳ほうやく: 内山うちやま勝利かつとし他た訳やく『ソクラテス以前の哲学者たちThe Presocratic Philosophers』京都大きょうとだい学がく学術がくじゅつ出版しゅっぱん会かい) ── アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの全ぜん断片だんぺん・全ぜん証言しょうげんを原典げんてん批判ひはん的てきに検討けんとうする。ト・アペイロンτὸ ἄπειρονの解釈かいしゃく問題もんだいについて最もっとも詳細しょうさいな議論ぎろんを提供ていきょうする。
  • C.H. Kahnカーン『Anaximander and the Origins of Greek Cosmologyアナクシマンドロスとギリシャ宇宙論の起源』, Columbia UP, 1960(再版さいはん: Hackett, 1994) ── アナクシマンドロスἈναξίμανδρος研究けんきゅうの古典こてん的てきモノグラフmonograph。宇宙うちゅう論ろんの詳細しょうさいな再さい構成こうせいを行おこなう。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

1. アナクシメネスἈναξιμένηςの批判ひはん(同どう時代じだい・後継こうけい者しゃ):ミレトスΜίλητος学派がくはの第だい三さん世代せだいであるアナクシメネスἈναξιμένηςは、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςのト・アペイロンτὸ ἄπειρονが「あまりにも不ふ確定かくていで説明せつめい力りょくに乏とぼしい」と考かんがえたようである。彼かれはアルケーἀρχήを再ふたたび具体ぐたい的てきな物質ぶっしつ、空気くうき(アエールἀήρ)に戻もどし、その濃縮のうしゅくと希薄きはく化かによって万物ばんぶつの変化へんかを説明せつめいした(テオフラストスΘεόφραστος、シンプリキオスSimplicius経由けいゆ)。つまり「無む限定げんていなもの」では変化へんかのメカニズムが説明せつめいできない、という批判ひはんである。これは正当せいとうな指摘してきであり、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの理論りろんに「具体ぐたい的てきな変化へんかのプロセス」が不足ふそくしていたことを示しめす。

2. アリストテレスἈριστοτέληςの批判ひはん(後世こうせい):アリストテレスἈριστοτέληςは「無限むげんなものは原理げんりたりえない」と主張しゅちょうする(『自然学Φυσική』204a-206b)。彼かれによれば、無限むげんなものは「完成かんせいされていない」(未み完了かんりょう態たい)であり、原理げんりは「完成かんせいされたもの」でなければならない。また、無限むげんを実在じつざいするものとして認みとめると論理ろんり的てき矛盾むじゅんが生しょうじる。ただし、アリストテレスἈριστοτέληςがアナクシマンドロスἈναξίμανδροςの「アペイロン」を空間くうかん的てき無限むげんとして解釈かいしゃくしているのか質的しつてき無む限定げんてい性せいとして解釈かいしゃくしているのかは、テクストtextの読よみによって変かわる。

3. 現代げんだいの解釈かいしゃく論争ろんそう:ト・アペイロンτὸ ἄπειρονの正確せいかくな意味いみをめぐって、20世紀せいき以降いこうの研究けんきゅう者しゃの間まで激はげしい論争ろんそうが続つづいている。(a)空間くうかん的てき・量的りょうてきに無限むげんな物質ぶっしつとする説せつ(コーンフォードCornford、CQ 28、1934)、(b)質的しつてきに無む限定げんていであるとする説せつ(カークKirk「Some Problems in Anaximander」、CQ 5、1955)、(c)空間くうかん的てきにも質的しつてきにも無む限定げんていなものとする折衷せっちゅう説せつ(カーンKahn、1960)が主おもな立場たちばである。さらに近年きんねんでは、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονは「アルケーἀρχή」ですらなく、万物ばんぶつを包つつみ込こむ「場ば」ないし「環境かんきょう」と解かいすべきだとする立場たちば(グラハムGraham、2006)も提出ていしゅつされている。決定的けっていてきな証拠しょうこは不足ふそくしており、わずか1断片だんぺんと後世こうせいの証言しょうげんからアナクシマンドロスἈναξίμανδροςの真意しんいを復元ふくげんすることの困難こんなんさを物語ものがたっている。

影響えいきょうと遺産いさん

先行せんこう思想しそう:タレスΘαλῆςの自然しぜん哲学てつがく(アルケーἀρχή探究たんきゅうの枠組わくぐみそのもの)、バビロニア天文学てんもんがく(グノーモーンγνώμων、天文てんもん観測かんそくの技術ぎじゅつ的てき基盤きばん)、近東きんとうの宇宙うちゅう創成そうせい論ろん(原初げんしょのカオスΧάοςからの宇宙うちゅう生成せいせいというモチーフmotif)。

直接的ちょくせつてき後継こうけい者しゃ:アナクシメネスἈναξιμένηςはアルケーἀρχήを「空気くうき」として具体ぐたい化かしたが、濃縮のうしゅくと希薄きはく化かというメカニズムを導入どうにゅうすることで、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが残のこした「変化へんかのプロセス」の問題もんだいに応答おうとうした。ヘラクレイトスἩράκλειτοςの「対立たいりつ物ぶつの統一とういつ」思想しそうは、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの「対立たいりつ物ぶつの分離ぶんりと回帰かいき」を変奏へんそうしたものと見みなせる。

遠とおい後継こうけい者しゃ:プラトンΠλάτωνの「受容じゅよう体たい(コーラχώρα)」(『ティマイオスΤίμαιος』49a-52d。それ自体じたいはいかなる形かたちも持もたないが、すべての形かたちを受うけ入いれる)は、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονの哲学てつがく的てき洗練せんれん形態けいたいと言いえる。アリストテレスἈριστοτέληςの「質料しつりょう(ヒュレーὕλη)」概念がいねんにも影響えいきょうがある。近代きんだい以降いこうでは、カントKantの「物もの自体じたい(ディング・アン・ジッヒDing an sich)」(認識にんしきの形式けいしきを剥はぎ取とったあとに残のこる、知しりえない基体きたい)や、スピノザSpinozaの「実体じったい(substantia)」にも構造こうぞう的てきな類似るいじが認みとめられる。

科学かがくへの波及はきゅう:大地だいちが何なににも支ささえられずに浮ういているという宇宙うちゅう論ろんは、コペルニクスCopernicus的てき転回てんかいの遠とおい前史ぜんしである。宇宙うちゅうの構造こうぞうを数学すうがく的てき比率ひりつで記述きじゅつしようとした態度たいどは、ピュタゴラスΠυθαγόρας学派がくはを経へてケプラーKeplerの惑星わくせい運動うんどうの法則ほうそくへ至いたる流ながれの起点きてんのひとつである。生物せいぶつの起源きげんに関かんする思索しさくは、18世紀せいきの博物学はくぶつがく(ビュフォン、ラマルクLamarck)を経へてダーウィンDarwinの進化しんか論ろんへと合流ごうりゅうする知的ちてき水脈すいみゃくの、最もっとも古ふるい源泉げんせんのひとつである。

現代げんだいへの接続せつぞく

アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの遺産いさんは三みっつの次元じげんで現代げんだいに生いきている。

第だい一いちに、「見みえないものを思考しこうする」という態度たいど。現代げんだい物理ぶつり学がくの基本きほん概念がいねん(場じょう、エネルギー、暗黒あんこく物質ぶっしつ、量子りょうし状態じょうたい)はいずれも直接ちょくせつ感覚かんかくでは把握はあくできない。理論りろん的てき推論すいろんによってのみアクセスできる実在じつざいを認みとめる思考しこう様式ようしきは、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςのト・アペイロンτὸ ἄπειρονに始はじまる。数学すうがくの基底きていをなす無限むげんや連続れんぞく体たい、経済けいざい学がくが想定そうていする「市場しじょう」もまた、五感ごかんで触ふれることはできない。目めに見みえないが万物ばんぶつの根底こんていにあるもの。この概念がいねんの構造こうぞうは、2600年ねんを経へてもなお科学かがくと哲学てつがくの中核ちゅうかくに位置いちしている。

第だい二にに、「批判ひはん的てき継承けいしょう」という知ちの進すすめ方かた。師しを尊重そんちょうしつつその回答かいとうを論理ろんり的てきに乗のり越こえる。この態度たいどは、学術がくじゅつ論文ろんぶんの「先行せんこう研究けんきゅう批判ひはん」や、組織そしきにおける「建設けんせつ的てきな議論ぎろん」と同型どうけいである。前まえの世代せだいの仕事しごとを全ぜん否定ひていするのでもなく、無む批判ひはんに受うけ入いれるのでもなく、改良かいりょうする。この姿勢しせいは、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςが哲学てつがくに刻きざみ込こんだDNAである。

第だい三さんに、「対立たいりつと均衡きんこう」の世界せかい観かん。アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの宇宙うちゅうでは、対立たいりつ物ぶつが互たがいに「不正ふせい」を犯おかしては「償つぐなう」ことで秩序ちつじょが維持いじされる。この動的どうてき平衡へいこうの思想しそうは、生態せいたい系けいの恒常こうじょう性せい、民主みんしゅ主義しゅぎにおける権力けんりょく分立ぶんりつ、市場しじょう経済けいざいにおける需給じゅきゅう均衡きんこうなど、現代げんだい社会しゃかいの基本きほん構造こうぞうの多おおくに通つう底そこしている。「一方いっぽう的てきな支配しはいは不正ふせいであり、やがて修正しゅうせいされる」。これは宇宙うちゅうの法則ほうそくであると同時どうじに、政治せいじ哲学てつがくの原理げんりでもある。

読者どくしゃへの問とい

  • あなたの仕事しごとや学問がくもんにおいて、「師しの回答かいとう」を受うけ入いれつつも「問といの枠組わくぐみを保存ほぞんしたまま回答かいとうを改良かいりょうした」経験けいけんはあるか? それはどのような知的ちてき勇気ゆうきを要ようしたか?
  • 現代げんだい科学かがくが扱あつかう「見みえない実在じつざい」(暗黒あんこく物質ぶっしつ、量子りょうし場じょう、数学すうがく的てき構造こうぞう)は、ト・アペイロンτὸ ἄπειρονとどこが似にていて、どこが決定的けっていてきに異ことなるか?
  • アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの「対立たいりつ物ぶつの均衡きんこう」モデルを現代げんだい社会しゃかいに適用てきようするなら、今いまもっとも「不正ふせい」が蓄積ちくせきし、やがて「償つぐない」が訪おとずれる領域りょういきはどこだと思おもうか?

名言めいげん(出典しゅってんつき)

"万物ばんぶつがそこから生成せいせいするところのものへと、万物ばんぶつは消滅しょうめつもする、必然ひつぜんに従したがって。なぜなら万物ばんぶつは、時ときの定さだめに従したがって、互たがいにその不正ふせいに対たいする罰ばちと償つぐないを支払しはらうからである。" ── シンプリキオスSimplicius『自然学注解In Aristotelis Physicorum』24.18-21(DK 12 B1)。テオフラストスΘεόφραστος経由けいゆ。西洋せいよう哲学てつがくで現存げんそんする最古さいこの散文さんぶん断片だんぺんのひとつ。宇宙うちゅうの生成せいせいと消滅しょうめつを「正義せいぎ」の概念がいねんで統治とうちする、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの根本こんぽん思想しそうを凝縮ぎょうしゅくする。/原文げんぶん:引用文いんようぶん内ないの括弧かっこ内ない原語げんご表記ひょうきを参照さんしょう
"万物ばんぶつの根源こんげん(アルケーἀρχή)は無む限定げんていなるもの(ト・アペイロンτὸ ἄπειρον)である。" ── アリストテレスἈριστοτέλης『自然学Φυσική』203b6-15 およびテオフラストスΘεόφραστος(シンプリキオスSimplicius経由けいゆ)による帰属きぞく。アナクシマンドロスἈναξίμανδρος自身じしんの原語げんごかどうかは議論ぎろんがあるが、彼かれの中心ちゅうしん命題めいだいとして広ひろく認みとめられている。/原文げんぶん:引用文いんようぶん内ないの括弧かっこ内ない原語げんご表記ひょうきを参照さんしょう
"大地だいちは何なににも支ささえられず、いかなるものにも強制きょうせいされずにとどまっている。すべてのものからの距離きょりが等ひとしいために動うごくことがないのである。" ── アリストテレスἈριστοτέλης『天体についてΠερὶ Οὐρανοῦ』295b11-16(等距離とうきょりゆえの静止せいし)。地球ちきゅうが円柱えんちゅう(太鼓たいこ状じょう)であるという形状けいじょう証言しょうげんは、アエティオスἈέτιος『学説誌Placita』III.10.2 および ヒッポリュトスHippolytus『全異端駁論Refutatio』I.6.3 に見みえる。/原文げんぶん:引用文いんようぶん内ないの括弧かっこ内ない原語げんご表記ひょうきを参照さんしょう

参考さんこう文献ぶんけん

  • (断片だんぺんと証言しょうげん):H. Dielsディールス & W. Kranzクランツ 編へん『ソクラテスΣωκράτης以前いぜんの哲学てつがく者しゃたちの断片だんぺん(Die Fragmente der Vorsokratikerディー・フラグメンテ・デア・フォアゾクラティカー)』第だい1巻かん、アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの章しょう(DK 12)。断片だんぺんB1および全ぜん証言しょうげん(A篇へん)を収録しゅうろく。
  • (証言しょうげん):アリストテレスἈριστοτέλης『自然学Φυσική』第だい3巻かん(出隆いでたかし・岩崎いわさき允胤ちかたね訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ); アリストテレスἈριστοτέλης『天体についてΠερὶ Οὐρανοῦ』(山本やまもと光雄みつお訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ)── 大地だいちの静止せいしに関かんする証言しょうげん(295b10-16);アエティオスἈέτιος『学説誌Placita』III.10.2 および ヒッポリュトスHippolytus『全異端駁論Refutatio』I.6.3 ── 地球ちきゅう形状けいじょうの証言しょうげん。
  • (伝記でんき):ディオゲネス・ラエルティオスDiogenes Laërtius『ギリシア哲学者列伝Βίοι φιλοσόφων』第だい2巻かん1-2節せつ(加来かく彰俊あきとし訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ)。
  • (標準ひょうじゅん研究けんきゅう):G.S. Kirkカーク, J.E. Ravenレイヴン, M. Schofieldスコフィールド『The Presocratic Philosophersソクラテス以前の哲学者たち』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.4(邦訳ほうやく: 内山うちやま勝利かつとし他た訳やく『ソクラテス以前の哲学者たちThe Presocratic Philosophers』京都大きょうとだい学がく学術がくじゅつ出版しゅっぱん会かい)── アナクシマンドロスἈναξίμανδροςの断片だんぺんと証言しょうげんを最もっとも厳密げんみつに検討けんとうする標準ひょうじゅん参考さんこう書しょ。
  • (専門せんもん研究けんきゅう):C.H. Kahnカーン『Anaximander and the Origins of Greek Cosmologyアナクシマンドロスとギリシャ宇宙論の起源』, Columbia UP, 1960(再版さいはん: Hackett, 1994)── 宇宙うちゅう論ろんの詳細しょうさいな再さい構成こうせいを行おこなうモノグラフmonographの古典こてん。
  • (概説がいせつ):廣川ひろかわ洋一よういち『ソクラテス以前の哲学者The Presocratic Philosophers』(講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、1997年ねん)── 日本語にほんごで読よめる定評ていひょうのある入門にゅうもん概説がいせつ。
  • (科学かがく哲学てつがく的てき視点してん):K.R. Popperポパー『Conjectures and Refutations推測と反駁』, Routledge, 1963, Ch.5 ── 「合理ごうり的てき伝統でんとう」の起源きげんとしてアナクシマンドロスἈναξίμανδροςを論ろんじる。批判ひはん的てき合理ごうり主義しゅぎの観点かんてんから初期しょきギリシャ哲学てつがくを位置いちづける。
  • (近東きんとうとの比較ひかく):M.L. Westウェスト『The East Face of Helicon: West Asiatic Elements in Greek Poetry and Mythヘリコンの東の顔:ギリシャ詩と神話の西アジア的要素』, Oxford UP, 1997 ── バビロニア・近東きんとうの宇宙うちゅう論ろんとギリシャ哲学てつがくの比較ひかく研究けんきゅうの標準ひょうじゅん文献ぶんけん。第だい3章しょうがミレトスΜίλητος学派がくはと近東きんとうの関係かんけいを論ろんじる。
  • (最新さいしんの研究けんきゅう動向どうこう):D.W. Grahamグラハム『Explaining the Cosmos: The Ionian Tradition of Scientific Philosophy宇宙を説明する:イオニアの科学哲学の伝統』, Princeton UP, 2006 ── ミレトスΜίλητος学派がくはの科学かがく的てき思考しこうを再さい評価ひょうかする近年きんねんの重要じゅうよう著作ちょさく。