息を吐いてみてほしい。口をすぼめて吹けば冷たい風が出る。口を大きく開けて「ハァ」と吐けば温かい息が出る。同じ空気なのに、なぜ温度が変わるのか。紀元前6世紀のミレトスで、この日常的な観察から宇宙の根本原理を引き出した哲学者がいた。アナクシメネスである。
師タレスは「万物は水だ」と言い、兄弟子アナクシマンドロスは「万物は無限定なもの(ト・アペイロン)だ」と言った。アナクシメネスは再び具体的な物質、空気(アエール)に戻った。一見すると後退に見える。だが彼の真の革新は、アルケーの選択ではなく、変化のメカニズムを初めて明示したことにある。空気が濃縮すれば風、雲、水、土、石になり、希薄化すれば火になる。たった一つの原理と一つのメカニズムで、世界の多様性を説明する。この「何(What)」から「どのように(How)」への転換は、2600年後の現代科学の方法論そのものである。
この記事の要点
- メカニズムの導入:タレスもアナクシマンドロスも「根源は何か」に答えたが、「根源からどのように万物が生じるか」を説明できなかった。アナクシメネスは濃縮(ピュクノーシス)と希薄化(マノーシス)という定量的な変化メカニズムを初めて提示し、この欠落を埋めた。
- 経験的検証の萌芽:息の実験(口をすぼめると冷たく、開くと温かい)は、理論を日常的な経験で裏付けようとする態度の最古の事例のひとつである。仮説と観察の対応。つまり科学的方法の原型がここにある。
- 量的変化による質的変化:空気の「量的」な濃淡の変化が、火・水・土という「質的に」異なる物質を生む。この発想は、現代物理学における相転移(水が氷や蒸気になる)や、情報理論における量子化と構造的に同型である。
- ミレトス学派の完結:タレスが「何(What)」を、アナクシマンドロスが「なぜ(Why)」を、アナクシメネスが「どのように(How)」を問うた。三世代にわたるこの探究の深化は、あらゆる学問領域における研究プログラムのプロトタイプである。
生涯と時代背景
アナクシメネスは紀元前585年頃、イオニア地方の港湾都市ミレトスに生まれた。テオフラストスの証言(シンプリキオス経由)によれば、アナクシマンドロスの「仲間(ἑταῖρος)」であり、伝統的にはミレトス学派の第三世代に位置づけられる(ディオゲネス・ラエルティオス『列伝』第2巻3節)。ただし「弟子」という表現はテオフラストスのものであり、厳密な師弟制度を意味するのか、同じ知的伝統に属する後輩を指すのかは確定しがたい。なお、同名の「ランプサコスのアナクシメネス」(前380年頃〜前320年頃)はアレクサンドロス大王に随行した修辞学者であり、本記事のミレトスのアナクシメネスとは約200年隔たった別人である。古代の文献ではときに混同されるため、注意が必要だ。
アナクシメネスが活動した前6世紀後半のミレトスは、大きな地政学的変動の只中にあった。紀元前547/546年、ペルシアのキュロス大王がリュディア王クロイソスを滅ぼし、イオニア地方はペルシア帝国の支配下に入った。タレスとアナクシマンドロスがともに前546年頃に没したとされることを考えると、アナクシメネスはミレトスの知的黄金期の最後の世代に属する。彼の哲学的営みは、ペルシア支配という政治的激変のさなかで行われたのである。前494年のイオニア反乱鎮圧でミレトスは壊滅的な打撃を受け、ミレトス学派の知的伝統は事実上途絶する。アナクシメネスは、その終焉の直前に活動した最後の大哲学者だった。
ミレトスの交易都市としての性格は変わらなかった。エジプト、バビロニア、フェニキアとの交易を通じて流入する知識(とりわけバビロニアの天文観測データや気象に関する経験知)は、アナクシメネスの「空気」への注目に影響を与えた可能性がある。古代メソポタミアでは風の方角と気象変化の観測記録が蓄積されており(エヌマ・アヌ・エンリル文書群)、空気・風・息が生命と深く結びつくという観念は近東に広く見られた。ヘブライ語の「ルーアハ(רוח)」が「風」「息」「霊」の三つの意味を持つように、「目に見えない気体」と「生命の原理」を同一視する発想は古代地中海世界に広く共有されていた。
アナクシメネスもまた著作『自然について(ペリ・ピュセオース)』を著したと伝えられる(ディオゲネス・ラエルティオス『列伝』第2巻3節)。同書によれば、彼は「素朴で簡潔なイオニア方言(ἁπλῇ καὶ ἀπερίττῳ Ἰάδι)」で書いた。ディオゲネスはこの文体的特徴をわざわざ記録しており、師アナクシマンドロスの(おそらくより晦渋な)散文との対比を意識していた可能性がある。著作そのものは散逸しており、現存する断片はわずか3つ(DK 13 B1, B2, B3)である。ミレトス学派の三人(タレス、アナクシマンドロス、アナクシメネス)のなかで、アナクシメネスの人物像は最も薄い。哲学以外の業績(タレスの日食予言やオリーブ商売、アナクシマンドロスの世界地図や植民指揮)に相当する逸話は伝わっておらず、後世の人々にとって彼は「理論の人」として記憶された。
ミニ年表
- 前585年頃:イオニア地方ミレトスに生まれる
- 前560年代:アナクシマンドロスの影響下で自然哲学を研究
- 前547/546年:ペルシアによるリュディア征服。イオニアがペルシア帝国の支配下に入る
- 前546年頃:タレス、アナクシマンドロスが没。アナクシメネスがミレトス学派を継承
- 前540〜530年代:『自然について』を著す。空気のアルケー説と濃縮・希薄化メカニズムを体系化
- 前528/525年頃:ミレトスにて没
アナクシメネスは何を問うたのか
アナクシメネスが直面した問題は、ミレトス学派の二人の先達が残した「未完の宿題」だった。タレスは「万物の根源は水だ」と主張したが、水からどのようにして火や土が生じるのか。変化のプロセスを説明していない。アナクシマンドロスは根源を「無限定なもの(ト・アペイロン)」とすることで、対立物の問題を回避した。しかし「無限定なもの」は感覚で把握できず、そこから具体的な物質がどうやって生じるのかは依然として不明瞭だった。
つまり、ミレトス学派には二つの欠落があった。第一に、「根源は何か(What)」には答えたが、「どのように変化するか(How)」に答えていない。第二に、アナクシマンドロスの「ト・アペイロン」は論理的に洗練されていたが、経験的に把握しにくく、具体的な説明力に乏しい。
アナクシメネスの戦略は、この二つの欠落を同時に埋めることだった。根源を再び具体的な物質、空気に戻すことで経験的なアクセスを回復し、同時に「濃縮と希薄化」という変化の原理を導入することで、一つの物質からすべての物質が生じるプロセスを説明する。「何であるか」と「どう変わるか」を一体として提示した。これがアナクシメネスの革新だった。
この転換の意義は大きい。現代の科学において、「何であるか」(存在論)だけでは科学的説明として不十分であり、「どのようなメカニズムで変化するか」(プロセスの記述)が不可欠である。ダーウィンの進化論が「自然選択」というメカニズムを示したこと、ニュートンが「万有引力」という力学を定式化したこと。これらはすべて「How」への回答である。アナクシメネスは、この「How」を哲学に持ち込んだ最初の人物なのだ。
核心理論
1. 空気(アエール)── なぜ再び具体的な物質に戻ったのか
アナクシメネスが万物の根源に選んだのは「空気(ἀήρ / アエール)」である。ただし、ここで重要な語義上の注意がある。古代ギリシャ語の ἀήρ は、現代語の「空気(エアー)」(透明で乾いた気体)とは意味がかなり異なる。ホメロスやヘシオドスにおいて ἀήρ は「霧」「靄(もや)」「暗い水蒸気」を意味する語であり、透明な大気は αἰθήρ(アイテール)と呼ばれた(Kirk & Raven, 1983, pp.144-145)。アナクシメネスの「アエール」もまた、われわれが日常的にイメージする無色透明の気体というよりも、目に見えないが世界を満たす、霧のような湿った気体的存在として理解すべきである。この理解は、空気が濃縮して「雲→水」になるというプロセスの自然さを際立たせる。霧が凝結して雨になる過程そのものだからだ。
テオフラストスの報告(シンプリキオス『自然学注解』24.26-25.1)によれば、アナクシメネスは空気を「無限(アペイロン)」であるとしつつ、それを取り巻く性質を「空気」として特定した。つまり、アナクシマンドロスの「無限定性」を完全に否定したわけではなく、無限なるものに具体的な正体を与えたのである。
なぜ空気なのか。いくつかの理由が推測される。第一に、空気は目に見えない(あるいは霧のように半透明な)がいたるところに存在する。タレスの「水」のように特定の場所に限定されず、世界全体を満たしている。第二に、空気は生命と直結する。息(プネウマ)を止めれば人は死ぬ。アナクシメネスの現存断片B2はこの類推を明示する:
"われわれの魂が空気であってわれわれを統御しているように、プネウマ(息・気)と空気が全宇宙を包み込んでいる。" ── アエティオス『学説誌』第1巻3章4節(DK 13 B2)。ただし、この断片のテクストにはいくつかの読みの異同があり、「魂が空気である」の部分がアナクシメネス自身の表現か後世の解釈かは議論がある。
ここに見られるのは、ミクロコスモス(人間=小宇宙)とマクロコスモス(世界=大宇宙)の類推である。人間の身体が呼吸によって生かされているように、宇宙全体も空気によって生かされている。この類推は後にプラトン(『ティマイオス』)やストア派の宇宙論に継承され、中世のネオプラトニズム、さらにはルネサンス期の自然哲学にまで流れ込む壮大な知的系譜の出発点のひとつである。
第三に、空気はタレスの「水」に対するアナクシマンドロスの批判(「対立物の一方は根源たりえない」)をある程度回避できる。空気は冷たくも温かくもなりうる「中間的」な性質を持ち、水と火のどちらか一方に固定されない。アナクシメネスの選択は、具体性とアペイロンの無限定性の間の折衷案だった。
2. 濃縮(ピュクノーシス)と希薄化(マノーシス)── 最初の変化のメカニズム
アナクシメネスの最大の革新は、空気という一つの物質から万物が生じるメカニズムを明示したことにある。そのメカニズムとは「濃縮(πύκνωσις / ピュクノーシス)」と「希薄化(μάνωσις / マノーシス)」である(テオフラストス、シンプリキオス『自然学注解』24.26-25.1; 擬プルタルコス『ストロマテイス』第3章)。
空気が希薄化すると、より熱く軽くなり、やがて火になる。逆に空気が濃縮すると、まず風が生じ、さらに濃縮して雲、水、土、石になる。つまり、空気の密度が変わるだけで(それ以外の原理を追加することなく)宇宙のすべての物質が説明される:
火 ← 希薄化 ← 空気 → 濃縮 → 風 → 雲 → 水 → 土 → 石
なお、アエティオス(『学説誌』第1巻3章4節)の証言では、この濃縮のプロセスを表す語としてπίλησις(ピレーシス)が用いられている。これは羊毛を圧縮してフェルトを作る「縮絨(しゅくじゅう)」の工程に由来する比喩であり、繊維を押し固めて別の質感の物質に変える日常技術からの着想である。ミレトスは古代世界有数の羊毛産業都市でもあり、アナクシメネスがこの比喩を選んだことには、地場産業の経験知が反映されている可能性がある。
この理論の革新性は三つある。
第一に、連続的な変化である。火から石まで、物質の種類は断絶なく連続している。種類の違いは本質の違いではなく、密度の「程度」の違いにすぎない。これは現代物理学における相転移(水が温度によって氷・液体・蒸気に変わる)の直観的な先取りである。
第二に、定量性の萌芽である。「濃い/薄い」という変化は、原理的に「どのくらい濃いか/薄いか」という量的な問いに開かれている。アナクシメネス自身が数値的な定量化を行ったわけではないが、変化を質的な飛躍ではなく量的な連続として捉える態度は、後のピュタゴラス学派の数学的自然観や、近代科学の定量的方法論の遠い源流である。
第三に、メカニズムの一元性である。濃縮と希薄化という「たった一つの変化の原理」で万物の多様性を説明する。複数の原理や複数の力を導入しない。この理論的節約(オッカムの剃刀の精神)は、科学理論の美徳の核心である。
3. 息の実験── 経験的検証の最古の試み
アナクシメネスは自説を裏付けるために、驚くべき「実験」を提示した。現存断片B1(擬プルタルコス『ストロマテイス』第3章)に伝えられるこのエピソードは、科学史上最も古い経験的検証の試みのひとつとして知られる。
口をすぼめて息を吹くと、出てくる空気は冷たい。口を大きく開けて「ハァ」と息を吐くと、出てくる空気は温かい。アナクシメネスはこの日常的な観察を次のように解釈した。口をすぼめて吹くとき、空気は圧縮されて(濃縮されて)冷たくなる。口を開いて吐くとき、空気は広がって(希薄化して)温かくなる。これは自説(濃縮は冷却を生み、希薄化は加熱を生む)の経験的証拠だ、と。
現代の物理学の視点から見ると、この説明は実は誤っている。口をすぼめて吹くと冷たいのは、空気の流速が上がることで周囲の空気を巻き込み(エントレインメント効果)、体温より低い室温の空気が混合するためであり、断熱膨張や圧縮の効果ではない。「ハァ」と吐くと温かいのは、低速で吐き出された息が体温に近いままだからである。
しかし、結論の正誤よりも方法の意義が重要だ。アナクシメネスは、宇宙論的な理論を日常の身体的経験で検証しようとした。「理論が正しいなら、こういう現象が観察されるはずだ」。この仮説演繹的な推論の構造は、フランシス・ベーコンやガリレオが2000年以上後に定式化する科学的方法の原型である。結果は間違っていたが、アプローチは正しかった。
4. 宇宙論── 平らな大地と空気の宇宙
アナクシメネスの宇宙論は、空気のアルケー説の自然な帰結として構成されている。ヒッポリュトス(『全異端反駁』第1巻7章)やアエティオス(『学説誌』第2-3巻の各節)の証言によれば、大地は平らな円盤状であり、空気の上に浮かんでいる。ちょうど木の葉が風に支えられるように。アナクシマンドロスの「等距離による静止」という洗練された議論と比較すると、やや素朴な説明に後退しているようにも見える。
天体についてもアナクシメネスは独自の見解を持っていた。星々は地球から最も遠いのではなく、火のようなものが空気中に張り付いた「鋲(びょう)」のようなものであるとされた(アエティオス『学説誌』第2巻14章3-4節)。太陽は平らで、大地の周囲を(大地の下を通過するのではなく)帽子のように頭の周りを回るように運動するとした。夜になるのは太陽が大地の下に沈むのではなく、大地の高い部分に隠されるためだ、と。
この宇宙論はアナクシマンドロスの同心円モデルと比べて後退に見えるかもしれない。しかし、すべてを「空気とその濃淡」で一貫して説明しようとする理論的一貫性は評価に値する。大地が浮くのも、天体が輝くのも、雲や雨が生じるのも、すべて空気の振る舞いとして統一的に説明されるのだ。
とりわけ注目すべきは、アナクシメネスが気象現象を体系的に説明した点である。アエティオス(『学説誌』第3巻)やヒッポリュトス(『全異端反駁』第1巻7章)の証言によれば、彼は以下のように論じた。雨は空気が濃縮して雲になり、さらに圧縮されて水として落下する現象である。濃縮がさらに進むと雹(ひょう)になり、雪は水に空気(風)が混じって凝固したものである。虹は太陽光が濃密な雲に当たって生じる。地震は大地が過度に乾燥し亀裂が入るか、逆に過度に湿潤になって崩壊することで起きる。いずれも空気中の水分の濃縮・希薄化に帰着する。雷と稲妻は風が雲を引き裂くときに生じるとした。これらの説明は個々に見れば不正確だが、すべてを「空気の密度変化」という単一の原理で統一的に導出しようとした点こそが革新的である。個別現象ごとに別々の神を持ち出す神話的説明とは、根本的に異なる知的態度だ。
5. 魂と宇宙の同型性── マクロコスモスとミクロコスモス
断片B2で示される「魂=空気、宇宙=空気」という等式は、単なる比喩以上の理論的射程を持つ。人間の生命を維持する原理(呼吸=空気)と、宇宙を維持する原理(アルケー=空気)が同一の物質であるならば、人間を理解することは宇宙を理解することに直結し、その逆もまた然りである。
このマクロコスモス=ミクロコスモスの発想は、西洋思想史で繰り返し回帰する強力なモチーフとなった。プラトンの『ティマイオス』は宇宙を「大きな生物」として描き、ストア派はプネウマ(気息)を宇宙の統御原理とした。ルネサンスのパラケルススは人体を宇宙の縮図として医学を構想し、20世紀のジェームズ・ラヴロックは地球全体を自己調節的なシステム(ガイア仮説)として理論化した。
現代のフラクタル理論(部分と全体が自己相似的な構造を持つ)もまた、スケールの異なる世界が同型の構造を共有するという直観を数学的に表現したものである。アナクシメネスの魂=空気の等式は、この壮大な系譜の出発点のひとつだ。
主要著作ガイド
アナクシメネスの著作は散逸しており、現存するのはわずか3断片(DK 13 B1, B2, B3)のみである。以下は彼の思想を復元するための文献ガイドである。
- ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第2巻3節(加来彰俊訳、岩波文庫) ── アナクシメネスの生涯と業績の簡潔な伝記的概要。ミレトス学派三代の関係を理解する出発点。
- 廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997年) ── ミレトス学派全体を日本語で平易に概説する。タレス→アナクシマンドロス→アナクシメネスの思想的展開が明快に整理されている。
- アリストテレス『形而上学』第1巻984a(出隆訳、岩波文庫) ── アリストテレスが初期自然哲学者のアルケー論を体系的に分析する。アナクシメネスへの言及を含む。
- G.S. Kirk, J.E. Raven, M. Schofield『The Presocratic Philosophers』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.5(邦訳:内山勝利他訳『ソクラテス以前の哲学者たち』京都大学学術出版会) ── アナクシメネスの全断片・全証言を原典批判的に検討する。濃縮・希薄化メカニズムの解釈問題について最も詳細な議論を提供する。
- D.W. Graham『Explaining the Cosmos: The Ionian Tradition of Scientific Philosophy』, Princeton UP, 2006, Ch.3 ── ミレトス学派の科学的思考を再評価する近年の重要著作。アナクシメネスの方法論的革新に焦点を当てる。
主要な批判と論争
1. ヘラクレイトスの批判(同時代・後続):エフェソスのヘラクレイトスは、ミレトス学派が「一つの根源物質」を特定しようとする営み全体に懐疑的だったと見なされることがある。彼にとって重要なのは物質の正体ではなく、対立と変化の永続的なプロセスそのものだった。「火」をアルケーに据えたとされるヘラクレイトスだが、彼の火は物質というよりも変化の象徴であり、アナクシメネスの「空気」とは異なる次元の議論である。
2. アリストテレスの評価と限界指摘(後世):アリストテレスはアナクシメネスの濃縮・希薄化理論を「対立する性質による変化」として理解し(『自然学』第1巻4章187a12-23)、自身の質料変化論の先駆として一定の評価を与えている。また『形而上学』第1巻3章(984a5)では、アナクシメネスを「空気を万物の根源とした」哲学者として明確に言及する。しかし同時に、アナクシメネスが「空気はなぜ変化するのか」──変化の作用因──を説明していない点を批判する。空気は濃縮し希薄化するが、その変化を引き起こす力は何なのか。アナクシメネスは空気に「永遠の運動」が内在すると暗黙に前提したが、それは論証なき仮定だ、とアリストテレスは見なす。
ただし、この批判はアリストテレス自身の「四原因説」(とりわけ動力因と目的因の要求)を基準としている。アナクシメネスの議論を公正に評価しているかどうかには、疑問の余地がある。
3. 現代の解釈論争:アナクシメネスの理論は「後退」か「前進」かをめぐって、研究者の評価が分かれている。(a)バーネット(1892)やガスリー(1962)は、具体的な物質に戻ったことをアナクシマンドロスの抽象的思考からの「後退」と見なした。(b)一方、カーク&レイヴン(1983)やグラハム(2006)は、メカニズムの導入を重視し、これを科学的方法論における「前進」と評価する。(c)近年では、ルイス(2009)のように、アナクシメネスの理論を「初期ギリシャの物質理論」全体の文脈に位置づけ、後退/前進という二項対立を超えた再評価を試みる研究もある。
影響と遺産
先行思想:タレスのアルケー探究(「何か」を問う枠組み)、アナクシマンドロスのト・アペイロン(無限定性と対立物の分離という発想)、バビロニアの気象観測記録(風と天候の経験的知識)。アナクシメネスは先行する二人の問いと回答を批判的に統合した。
直接的後継者:ディオゲネス・オブ・アポロニア(前5世紀後半)は、アナクシメネスの空気=アルケー説を明示的に継承し、空気に「知性(ノエーシス)」を付与することでアナクサゴラスのヌース(知性)との折衷を試みた。シンプリキオス(『自然学注解』151.31)はディオゲネスを「ほぼアナクシメネスの模倣者」と評している。アリストファネスの喜劇『雲』(前423年初演)でソクラテスが「空気」や「渦」を崇めているように描かれるのは、当時アテナイで知られていたディオゲネスの学説を戯画化したものと考えられている。つまり、アナクシメネスの思想は、直弟子を介してアテナイの大衆文化にまで浸透していたのである。
エンペドクレスと多元論への橋渡し:アナクシメネスの「一つの物質から多くの物質が生じる」モデルは、後のエンペドクレス(前5世紀)が提出した「四元素説」(土・水・空気・火)の前提条件を整えた。エンペドクレスは一元論を放棄して多元論に移行したが、その「空気」「水」「火」「土」という元素のリストは、アナクシメネスが濃縮・希薄化のスペクトル上に並べた物質をそのまま独立の根源に昇格させたものと見ることができる。
ストア派への影響:ストア派(前3世紀〜)は「プネウマ(気息)」を宇宙の統御原理とする理論を展開した。プネウマは「火と空気の混合物」であり、宇宙全体に浸透して張力(トノス)と統一性を与えるとされた。クリュシッポス(前3世紀)のプネウマ論における「膨張と収縮」の二運動は、アナクシメネスの「希薄化と濃縮」と驚くべき構造的類似を示す。アナクシメネスの「魂=空気」「宇宙=空気」の等式がストア派のプネウマ論へ直接流入したかどうかは議論があるが、ポセイドニオス(前1世紀)やセネカ(後1世紀)を通じた間接的な影響は広く認められている。
科学史への波及:濃縮と希薄化というメカニズムの発想は、近代化学の「気体の状態方程式」(ボイルの法則:圧力と体積の反比例関係、1662年)や、物理学の相転移理論と構造的に対応する。「一つの物質が密度の変化によって異なる状態を示す」というモデルは、アナクシメネスが2600年前に提示し、現代の科学がようやく精密に定式化したものである。
ミレトス学派の完結──三人の遺産
アナクシメネスの死とともに、ミレトス学派の約80年にわたる知的伝統は幕を閉じた。三人が遺した問いと方法を整理すれば、彼らの共同作業の全貌が浮かび上がる。タレスが「何であるか(What)」を問い、アナクシマンドロスが「なぜそうでなければならないか(Why)」を問い、アナクシメネスが「どのように変化するか(How)」を問うた。What → Why → How──この三段階の深化は、あらゆる学問領域における探究のプロトタイプである。
ミレトス学派は、神話的説明に代わる自然主義的・合理的な世界説明の枠組みを確立した。彼ら以降、ギリシャ哲学は「万物の根源は何か」という問いをめぐって爆発的に展開する。ヘラクレイトスの火、ピュタゴラスの数、パルメニデスの存在、エンペドクレスの四元素、アナクサゴラスのヌース、そしてデモクリトスの原子。この壮大な知的競争のすべてが、ミレトスの三人が切り拓いた問いの地平の上に成り立っている。
現代への接続
アナクシメネスの遺産は二つの次元で現代に生きている。
第一に、「メカニズムの要求」。現代科学において「何であるか」を示すだけでは不十分であり、「どのようにしてそうなるか」を説明するメカニズムが求められる。ダーウィンが進化の「事実」だけでなく「自然選択」というメカニズムを提示したこと、ワトソンとクリックがDNAの「構造」だけでなく「複製の仕組み」を明らかにしたこと。科学の進歩は常に「How」の深化である。アナクシメネスが2600年前にこの要求を最初に満たした。
第二に、「量的変化が質的変化を生む」という発想。水が0℃で氷になり、100℃で蒸気になる。同じH2O分子が、温度という「量的」パラメータの変化によって「質的に」まったく異なる姿を取る。マルクスが『資本論』で展開した「量から質への転化」(ヘーゲル弁証法由来)、臨界質量を超えると連鎖反応が始まる核物理学、ある閾値を超えると系全体の振る舞いが一変する生態学の「転換点」。これらすべてに、アナクシメネスの直観が木霊している。「もっと多く」が「まったく別のもの」になる。この驚くべき原理を、最初に明示的に示したのがアナクシメネスの濃縮・希薄化理論なのである。
第三に、「一元的還元主義」の原型としての意義がある。現代物理学が目指す「万物の理論(セオリー・オブ・エブリシング)」、つまり重力・電磁力・強い力・弱い力のすべてを一つの枠組みで記述するものは、「世界の多様性をたった一つの原理に還元する」というアナクシメネスの知的衝動と同じ構造を持つ。もちろん、現代物理学の数学的洗練とアナクシメネスの素朴な空気一元論は比較にならない。
だが、「世界は見かけほど複雑ではないはずだ」「背後に単純な統一原理があるはずだ」という信念。この科学を駆動する最も深い動機を最初に明示したのが、ミレトスの三人であり、とりわけ「一つの物質+一つのメカニズム」で完結する体系を示したアナクシメネスなのである。
読者への問い
- あなたの専門分野で、「何であるか」は分かっているが「どのようにしてそうなるか」がまだ解明されていない問題は何か。アナクシメネスの態度に倣って、「How」を問い直してみよ。
- 量的な変化が質的な変化を引き起こした経験(たとえば練習の蓄積がある日突然「できる」に変わった経験)はあるか。それは「濃縮と希薄化」のアナロジーでどう説明できるか。
- アナクシメネスの息の実験は、結論は誤りだがアプローチは正しかった。科学史を見れば、正しい方法論から間違った結論が生まれ、それが修正されて真理に近づくケースは無数にある。あなた自身の仕事や学びのなかで、「方法は正しかったが結論は間違っていた」経験はあるか。その経験から何を学んだか。
- タレスは「何であるか」を、アナクシマンドロスは「なぜそうでなければならないか」を、アナクシメネスは「どのように変化するか」を問うた。あなたが今直面している問題は、What・Why・Howのどの段階にあるか。次に問うべきは何か。
名言(出典つき)
"われわれの魂が空気であってわれわれを統御しているように、プネウマと空気が全宇宙を包み込んでいる。" ── アエティオス『学説誌』第1巻3章4節(DK 13 B2)。マクロコスモスとミクロコスモスの同型性を端的に表す、アナクシメネスの最も重要な断片。
"空気が濃縮されると、まず風が生まれ、さらに雲が生じ、さらに濃くなると水、さらには土、そして石となる。逆に希薄化すると火になる。" ── テオフラストス(シンプリキオス『自然学注解』24.26-25.1 経由)。DK 13 A5。濃縮と希薄化のメカニズムを記述する最も体系的な証言。
"空気は無限であり、万物がそこから生成し、そこへ消滅する。" ── テオフラストス(シンプリキオス『自然学注解』24.26 経由)。DK 13 A5。アナクシメネスのアルケー論の根幹を伝える証言。空気にアナクシマンドロスの「無限」の属性を統合している。
参考文献
- (断片と証言):H. Diels & W. Kranz 編『ソクラテス以前の哲学者たちの断片(Die Fragmente der Vorsokratiker)』第1巻、アナクシメネスの章(DK 13)。断片B1-B3および全証言(A篇)を収録。
- (証言):アリストテレス『形而上学』第1巻(出隆訳、岩波文庫)──984a5前後でアナクシメネスに言及;シンプリキオス『自然学注解』24.26-25.1──テオフラストス経由の最も詳細な証言。
- (伝記):ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』第2巻3節(加来彰俊訳、岩波文庫)。
- (標準研究):G.S. Kirk, J.E. Raven, M. Schofield『The Presocratic Philosophers』2nd ed., Cambridge UP, 1983, Ch.5(邦訳:内山勝利他訳『ソクラテス以前の哲学者たち』京都大学学術出版会)── アナクシメネスの断片と証言を最も厳密に検討する標準参考書。
- (概説):廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』(講談社学術文庫、1997年)── 日本語で読める定評のある入門概説。
- (科学的方法論の観点):D.W. Graham『Explaining the Cosmos: The Ionian Tradition of Scientific Philosophy』, Princeton UP, 2006 ── ミレトス学派の科学的思考を再評価する近年の重要著作。アナクシメネスのメカニズム導入の意義を詳述。
- (断片新版):A. Laks & G.W. Most 編『Early Greek Philosophy』(Loeb Classical Library 524-532, Harvard UP, 2016)── DK に代わる新標準版。アナクシメネスの全断片・証言を原文・英訳対照で収録。
- (古典研究):J. Burnet『Early Greek Philosophy』, 4th ed., A&C Black, 1930(初版1892)── アナクシメネスを「後退」と評した古典的解釈の代表。現在は修正されているが、学説史的に重要。
- (通史):W.K.C. Guthrie『A History of Greek Philosophy』Vol.1, Cambridge UP, 1962 ── ミレトス学派全体を扱う包括的な通史。バーネットの評価を踏襲しつつも修正を加えている。
- (近年の再評価):P. Curd & D.W. Graham 編『The Oxford Handbook of Presocratic Philosophy』, Oxford UP, 2008 ── 初期ギリシャ哲学の最新の研究動向を網羅する。アナクシメネスの方法論的革新に関する複数の論考を含む。