1640ねん11がつイングランドEnglandくずれかけていました。国王こくおうチャールズCharles一世いっせい議会ぎかい対立たいりつ修復しゅうふく不能ふのう段階だんかいたっし、街路がいろでは暴徒ぼうとさけび、教会きょうかいでは聖職者せいしょくしゃたちがたがいを異端いたんののしっていました。52さい家庭教師かていきょうしあがりの学者がくしゃトマスThomasホッブズHobbesは、王党派おうとうはちか立場たちばゆえに危険きけんかんじ、ドーヴァーDover海峡かいきょうわたってパリParisげました。みずかみとめるところによれば「最初さいしょげたもののひとり」です。臆病おくびょうじる素振そぶりはありませんでした。恐怖きょうふこそが、この人物じんぶつにとって哲学てつがく出発点しゅっぱつてんだったからです。

パリParisでの亡命ぼうめい生活せいかつは11ねんおよびました。そのあいだに、海峡かいきょうこうでは内戦ないせん勃発ぼっぱつし、国王こくおうくびち、共和政きょうわせい樹立じゅりつされました。秩序ちつじょ崩壊ほうかいしうる。ほう沈黙ちんもくすれば、ひとひところす。ホッブズHobbesはこのはだか事実じじつ直視ちょくしし、そこから国家こっか存在そんざい理由りゆういちからてようとしました。1651ねん刊行かんこうされた『リヴァイアサンLeviathan』がその結実けつじつです。

ホッブズHobbesいは単純たんじゅんで、容赦ようしゃがありません。なぜ人間にんげん他人たにん服従ふくじゅうしなければならないのか。かみがそうめいじたから、ではありません。おう血筋ちすじ高貴こうきだから、でもない。人間にんげんはなっておけばたがいを破壊はかいするからです。平和へいわしければ、だれかにつるぎわたすしかない。神学しんがく伝統でんとう迂回うかいせず、恐怖きょうふ理性りせいだけで政治せいじ正当性せいとうせいてた最初さいしょ人物じんぶつ、それがホッブズHobbesでした。

その論理ろんり冷酷れいこくうつるかもしれません。けれども冷酷れいこくさのおくに、内戦ないせん死者ししゃ人間にんげんの、切実せつじついがよこたわっています。

平和へいわ対価たいかはいくらなのか。自由じゆうのどこまでをせば、ころいはまるのか。

この記事きじ要点ようてん

  • 自然状態しぜんじょうたいと「万人ばんにん万人ばんにんたいする闘争とうそう政治的せいじてき権威けんい存在そんざいしない状態じょうたいを、ホッブズHobbesは「万人ばんにん万人ばんにんたいする戦争せんそう」(bellum omnium contra omnesベッルム・オムニウム・コントラ・オムネース)とえがきました。人間にんげん身体しんたい能力のうりょくにおいてほぼ平等びょうどうであり、その平等びょうどうから競争きょうそう不信ふしん名誉欲めいよよくまれ、恒常的こうじょうてき暴力ぼうりょく危険きけんしょうじます。『リヴァイアサンLeviathan』第十三しょう展開てんかいされた、近代きんだい政治せいじ哲学てつがくもっと有名ゆうめい思考しこう実験じっけんです。
  • 社会契約しゃかいけいやく主権しゅけん自然状態しぜんじょうたい恐怖きょうふからのがれるため、人々ひとびと相互そうご契約けいやくむすび、一人ひとり人格じんかく(あるいは合議体ごうぎたい)にみずからの権利けんり譲渡じょうとします。こうしてまれた主権者しゅけんしゃsovereignソヴリン)は絶対的ぜったいてき権力けんりょくち、臣民しんみんはそれに服従ふくじゅうします。権力けんりょく正当性せいとうせいかみではなく人間にんげん合意ごういいた転換点てんかんてんです。
  • 機械論的きかいろんてき人間観にんげんかん唯物論ゆいぶつろんホッブズHobbes人間にんげん精巧せいこう機械きかいなしました。感覚かんかく外部がいぶ物体ぶったい運動うんどう神経しんけいつうじてのうつたわった結果けっかにすぎず、欲望よくぼう嫌悪けんお体内たいない微小びしょう運動うんどうとして説明せつめいされます。この徹底てっていした唯物論ゆいぶつろん政治せいじ理論りろんささえ、近代きんだい自然しぜん科学かがく方法ほうほう人間にんげん社会しゃかいみました。

生涯しょうがい時代じだい背景はいけい

1588ねん4がつ5にちイングランドEngland南西部なんせいぶウィルトシャーWiltshireウェストポートWestport現在げんざいマームズベリーMalmesbury近郊きんこう)にまれました。ちち田舎いなか牧師ぼくしでしたが、教区きょうくべつ牧師ぼくし教会きょうかい門前もんぜんなぐいをし、そのまま逃亡とうぼうして行方不明ゆくえふめいになっています。ホッブズHobbes叔父おじ手袋てぶくろ職人しょくにんられ、そだてられました。のちにホッブズHobbesラテンLatin韻文いんぶん自伝じでんのなかでこうしるしています。「はは恐怖きょうふ双子ふたごをわたしとともにとした」と。スペインSpain無敵艦隊むてきかんたいアルマダArmada)がイングランドEnglandせまっているというらせにおびえたははが、早産そうざんかれんだという伝承でんしょうです。誇張こちょうはあるにせよ、恐怖きょうふみずからの出生しゅっしょうむすびつけるかたくちが、すでにこの思想家しそうか気質きしつ物語ものがたっているようにおもわれます。

14さいオックスフォードOxford大学だいがくモードリンMagdalenホールHall入学にゅうがくしました。スコラSchola哲学てつがく教育きょういくけましたが、満足まんぞくはしなかったようです。論理学ろんりがく教科書きょうかしょより地図帳ちずちょうながめていたとつたえられます。1608ねん学位がくい卒業そつぎょうし、キャヴェンディッシュCavendish(のちのデヴォンシャーDevonshire伯爵はくしゃく)のわか当主とうしゅ家庭教師かていきょうしとなりました。この一族いちぞくとの関係かんけいホッブズHobbes生涯しょうがいつうじてつづき、経済的けいざいてき安定あんてい知的ちてき環境かんきょうをもたらしました。貴族きぞく蔵書ぞうしょかこまれ、ヨーロッパ各地かくちへのたび同行どうこうできる環境かんきょうは、大学だいがくせきかなかったホッブズHobbesにとって、かけがえのないまなびのでした。

1629ねんホッブズHobbesトゥキュディデスThucydidesの『戦史せんし』(History of the Peloponnesian Warヒストリー・オブ・ザ・ペロポネシアン・ウォー)を英訳えいやくして刊行かんこうしました。古代こだいアテナイAthens民主政みんしゅせいがいかにしておろかな戦争せんそうすすんだかをえがいた歴史書れきししょです。ホッブズHobbesはそこに同時代どうじだいイングランドEnglandかさねていたのでしょう。民衆みんしゅう情念じょうねんまわされる政治せいじあぶうさ。弁論べんろん群衆ぐんしゅうあおり、冷静れいせい判断はんだんうしなわれていく過程かてい翻訳ほんやく序文じょぶんホッブズHobbesは、トゥキュディデスThucydidesを「もっと政治的せいじてき歴史家れきしか」とたたえ、民主政みんしゅせいよわさをりにしたそのふで敬意けいいひょうしています。のちの政治せいじ哲学てつがく種子しゅしは、この翻訳ほんやく仕事しごとのなかにすでにかれていたのでしょう。

1610年代ねんだいから30年代ねんだいにかけて、ホッブズHobbes家庭教師かていきょうしとしてヨーロッパ大陸たいりく三度さんど旅行りょこうしています。第三回だいさんかい(1634〜1636ねん)のたびがとりわけ決定的けっていてきでした。パリParisではマランMarinメルセンヌMersenne神父しんぷ学問がくもんサークルにくわわり、デカルトDescartesガッサンディGassendiらと交流こうりゅうしました。フィレンツェFirenzeでは老齢ろうれいガリレオGalileo訪問ほうもんしています。運動うんどう物体ぶったいだけで世界せかい説明せつめいする機械論的きかいろんてき自然観しぜんかんふかれ、そこに人間にんげん国家こっか問題もんだい接続せつぞくする着想ちゃくそうたとかんがえられます。

1640ねんパリParis亡命ぼうめい。1642ねんに『市民論しみんろん』(De Civeデ・キーウェ)を刊行かんこうし、1651ねんに『リヴァイアサンLeviathan』をロンドンLondon出版しゅっぱんしました。ところがこの著作ちょさくは、王党派おうとうはからも議会派ぎかいはからもてきつくることになります。王党派おうとうはは、主権しゅけん神授しんじゅではなく契約けいやくもとづけたことにいきどおりました。教会きょうかいは、宗教しゅうきょう主権者しゅけんしゃ管轄かんかついたことに激怒げきどしました。パリParisられなくなったホッブズHobbesは1651ねんまつイングランドEngland帰国きこくし、クロムウェルCromwell体制たいせい服従ふくじゅうしています。ホッブズHobbes理論りろんらせば、実効的じっこうてき秩序ちつじょ維持いじしている権力けんりょくこそ正当せいとう主権者しゅけんしゃなのですから、これは理論りろん行動こうどう一致いっちでもありました。

1660ねん王政復古おうせいふっこのあと、チャールズCharles二世にせいはかつて数学すうがくおしえてもらったおんからホッブズHobbes年金ねんきんあたえました。けれども議会ぎかいホッブズHobbes著作ちょさく無神論むしんろんとして調査ちょうさし、1666ねんロンドンLondon大火たいかののちには、神罰しんばつ原因げんいんとしてホッブズHobbes書物しょもつ槍玉やりだまげています。出版しゅっぱん規制きせいけながらもホッブズHobbesつづけました。87さいホメロスHomērosの『オデュッセイアOdysseia』を、翌年よくねん88さいで『イリアスIlias』の英訳えいやくおくしています。1679ねん12がつ4にち、91さいぼつ最期さいご言葉ことばは「暗闇くらやみなかおおきな跳躍ちょうやくをする」だったとつたえられています。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1588ねんイングランドEnglandウィルトシャーWiltshireまれる(スペインSpain無敵艦隊むてきかんたい来襲らいしゅうとし
  • 1603ねんオックスフォードOxford大学だいがくモードリンMagdalenホールHall入学にゅうがく
  • 1608ねん卒業そつぎょうキャヴェンディッシュCavendish家庭教師かていきょうし
  • 1629ねんトゥキュディデスThucydides戦史せんし』の英訳えいやく刊行かんこう
  • 1634〜36ねん第三回だいさんかいヨーロッパ旅行りょこうメルセンヌMersenneサークルcircle参加さんかガリレオGalileo訪問ほうもん
  • 1640ねんパリParis亡命ぼうめい。『ほう原理げんり』(The Elements of Law写本しゃほん回覧かいらん
  • 1642ねん:『市民論しみんろん』(De Cive刊行かんこうイングランドEngland内戦ないせん勃発ぼっぱつ
  • 1646ねん亡命ぼうめいちゅう皇太子こうたいしチャールズCharles(のちの二世にせい)に数学すうがく教授きょうじゅ
  • 1649ねんチャールズCharles一世いっせい処刑しょけい
  • 1651ねん:『リヴァイアサンLeviathan刊行かんこう帰国きこく
  • 1655ねん:『物体論ぶったいろん』(De Corpore刊行かんこう
  • 1658ねん:『人間論にんげんろん』(De Homine刊行かんこう
  • 1679ねん12がつ4にちデヴォンシャーDevonshireハードウィックHardwickホールHallにてぼつ享年きょうねん91

この哲学者てつがくしゃなにうたのか

それ以前いぜん政治せいじ思想しそうでは、政治的せいじてき権威けんい根拠こんきょかみもとめられていました。おうかみから権力けんりょくさずかる。教会きょうかい霊的れいてき権威けんいにおいて世俗せぞく権力けんりょく超越ちょうえつする。アリストテレスAristotelēs以来の伝統でんとうでは、人間にんげんは「政治的せいじてき動物どうぶつ」(zōon politikonゾーオン・ポリティコン)であり、共同体きょうどうたいのなかでこそ本性ほんせい実現じつげんする存在そんざいでした。国家こっか自然しぜんまれるもの。トマスThomasアクィナスAquinasかみほうから自然法しぜんほうみちびき、世俗せぞく秩序ちつじょ永遠えいえん秩序ちつじょのなかに位置いちづけました。政治せいじ宇宙うちゅう秩序ちつじょ一部いちぶであり、人間にんげん勝手かって設計せっけいするものではなかったのです。

ホッブズHobbesは、この前提ぜんていをすべてりました。人間にんげん本性上ほんせいじょう政治的せいじてきではない。共同体きょうどうたい自然しぜんまれるのではなく、人為的じんいてきつくられる。つくるのは恐怖きょうふ計算けいさんです。人間にんげん自然しぜんもとめるのはぜんではなく安全あんぜんであり、とくではなく生存せいぞんです。『市民論しみんろん』の献辞けんじホッブズHobbesはこうしるしています。「わたしは人間にんげん本性上ほんせいじょう社会しゃかいてきした存在そんざいであるということを否認ひにんする」と。二千年にせんねん伝統でんとうくつがえす、しずかな宣戦布告せんせんふこくでした。

リヴァイアサンLeviathan』の序論じょろんには、こうしるされています。「自然しぜんかみがこの世界せかいつく統治とうちする技術ぎじゅつ)は、人間にんげん技術ぎじゅつによって模倣もほうされる。(中略)技術ぎじゅつはさらにすすんで、自然しぜんもっとすぐれた作品さくひんである人間にんげんをも模倣もほうする。なぜならコモンウェルスCommonwealthあるいは国家こっかラテンLatinキーウィタースCivitas)とばれるあの偉大いだいリヴァイアサンLeviathanは、人工的じんこうてき人間にんげんにほかならない」。初版しょはん扉絵とびらえには、無数むすうちいさな人間にんげん身体しんたい構成こうせいされた巨人きょじんが、片手かたてつるぎ片手かたて司教杖しきょうじょうち、おかうえから都市とし見下みおろす姿すがたえがかれています。世俗せぞく宗教しゅうきょう両方りょうほう権威けんい一身いっしんにな人工的じんこうてき巨人きょじん国家こっか自然しぜん産物さんぶつではなく、人間にんげん設計せっけいする機械きかいです。この転換てんかんが、近代きんだい政治せいじ哲学てつがくとびらひらきました。

核心かくしん理論りろん

1. 機械論的きかいろんてき人間観にんげんかん人間にんげん精巧せいこう機械きかいである

リヴァイアサンLeviathan』第一部「人間にんげんについて」は、政治せいじ理論りろんではなく人間論にんげんろんからはじまります。感覚かんかくとはなにか。外部がいぶ物体ぶったい感覚かんかく器官きかん圧力あつりょくくわえ、その運動うんどう神経しんけい経由けいゆしてのうたっし、のうから心臓しんぞうへの反作用はんさようとして知覚ちかくまれる(第一しょう)。いろおとあじも、物体ぶったいがわにあるのではなく、感覚かんかく器官きかんつうじてまれる現象げんしょうにすぎません。想像力そうぞうりょく衰退すいたいした感覚かんかくであり(第二しょう)、思考しこう想像そうぞう連鎖れんさであり(第三しょう)、言語げんご思考しこう名前なまえ技術ぎじゅつです(第四しょう)。ガリレオGalileo天体てんたい運動うんどう力学りきがく説明せつめいしたように、ホッブズHobbes人間にんげんこころ運動うんどう物体ぶったい説明せつめいしようとしたのです。

欲望よくぼうappetiteアペタイト)と嫌悪けんおaversionアヴァージョン)は、体内たいない微小びしょう運動うんどう方向ほうこうにすぎません。対象たいしょうかう運動うんどう欲望よくぼうはなれる運動うんどう嫌悪けんお。「ぜん」とはひとほっするものの名前なまえであり、「あく」とは嫌悪けんおするものの名前なまえです(第六しょう)。善悪ぜんあく客観的きゃっかんてき基準きじゅんはありません。ここにはプラトンPlatōnぜんイデアIdeaも、アリストテレスAristotelēs目的論もくてきろんもない。あるのは運動うんどう物体ぶったいだけです。たとえばあさ通勤つうきん電車でんしゃせきゆずるとき、私たちはそれを「ぜん」とびます。けれどもホッブズHobbesわせれば、それは相手あいて苦痛くつうることへの嫌悪けんお、あるいは他者たしゃからの好意こういたいという欲望よくぼう運動うんどうであって、天上てんじょうぜんれたわけではないのです。

この人間観にんげんかんから、ある帰結きけつみちびかれます。人間にんげんえずなにかをほっつづける存在そんざいであるということ。「欲望よくぼう完全かんぜん停止ていし幸福こうふくぶことはできない。なぜなら感覚かんかく想像力そうぞうりょくうごかなくなったものきていないからだ」(第六しょう)。幸福こうふく到達点とうたつてんではなく、欲望よくぼうから欲望よくぼうへのない移行いこうです。まればぬ。だからこそ人間にんげん権力けんりょくもとつづけます。「すべての人間にんげん共通きょうつうする一般的いっぱんてき傾向けいこうとして、権力けんりょくうえにさらに権力けんりょくもとめるない欲望よくぼうがあり、それはによってのみむ」(第十一しょう)。権力けんりょくへの欲望よくぼう悪徳あくとくではなく、生存せいぞん条件じょうけんなのです。

2. 自然状態しぜんじょうたい万人ばんにん万人ばんにんたいする闘争とうそう

リヴァイアサンLeviathan』第十三しょう近代きんだい政治せいじ哲学てつがくもっとまれ、もっと論争ろんそうんだしょうです。ホッブズHobbes共通きょうつう権力けんりょく存在そんざいしない状態じょうたい、すなわち自然状態しぜんじょうたいstate of natureステイト・オブ・ネイチャー)を思考しこう実験じっけんとしてえがきました。

出発点しゅっぱつてん平等びょうどうです。おどろかれるかもしれませんが、ホッブズHobbes人間にんげん平等びょうどうから出発しゅっぱつします。ただし、それは権利けんり平等びょうどうではありません。殺傷さっしょう能力のうりょく平等びょうどうです。「身体しんたい能力のうりょくかんして、もっとよわものでももっとつよものころすのに十分じゅうぶんちからっている。秘密ひみつ策略さくりゃくによって、あるいはおな危険きけんにさらされている他者たしゃとの結託けったくによって」(第十三しょう)。ねむっている巨漢きょかん子供こどもいしなぐころせる。だれもがだれかにころされうる。この冷徹れいてつ認識にんしきから、ホッブズHobbes議論ぎろんうごはじめます。

この平等びょうどうから、みっつのあらそいの原因げんいんまれます。だい一に競争きょうそうcompetitionコンペティション)。おなじものをほっするもの二人ふたりいて、ともにれられないとき、両者りょうしゃてきになります。だい二に不信ふしんdiffidenceディフィデンス)。相手あいてがいつおそってくるかわからないので、先制せんせい攻撃こうげきこそが合理的ごうりてき選択せんたくとなります。だい三に名誉めいよgloryグローリー)。侮辱ぶじょくければ報復ほうふくしなければめられる。ちからのあるものだという評判ひょうばん維持いじしなければ標的ひょうてきにされます。隣家りんかとの境界きょうかいをめぐる些細ささいないさかいをおもかべてみてください。そこに仲裁ちゅうさいする第三者だいさんしゃがいなければ、不満ふまんはどこまでふくらむでしょうか。ホッブズHobbesはその論理ろんり極限きょくげんまですすめました。

「このような状態じょうたいにおいては、勤労きんろう果実かじつ確保かくほされず、したがって土地とち耕作こうさくもなく、航海こうかいもなく、(中略)学芸がくげいもなく、文字もじもなく、社会しゃかいもない。そして最悪さいあくなのは、暴力ぼうりょくによるへのない恐怖きょうふ危険きけんがあることであり、人間にんげんせい孤独こどくで、まずしく、きたなく、残忍ざんにんで、みじかい」(第十三しょう)。英語えいご原文げんぶん "solitary, poor, nasty, brutish, and short" は、政治せいじ哲学てつがく史上しじょうもっと有名ゆうめいいつつの形容詞けいようしでしょう。

ただし、ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたい歴史的れきしてき事実じじつとして提示ていじしたのではありません。「すべての時代じだい全面的ぜんめんてき戦争せんそう状態じょうたいがあったとはしんじない」と明記めいきしています。これは論理的ろんりてき帰結きけつです。もし共通きょうつう権力けんりょくえたらなにこるか、というい。ただしホッブズHobbes例証れいしょうわすれません。アメリカAmerica先住民せんじゅうみん生活せいかつホッブズHobbesはそう理解りかいしていました)、内戦ないせんイングランドEngland、そして国家間こっかかん関係かんけい国際こくさい社会しゃかいには主権者しゅけんしゃがいないため、くにくにはつねに自然状態しぜんじょうたいにある、と。さらにホッブズHobbesは、読者どくしゃ日常にちじょうにもけさせます。「あなたはたびるとき武装ぶそうし、ねむるときかぎをかけるではないか」。隣人りんじん信用しんようしていないことを、行動こうどうしめしている、と。

3. 自然権しぜんけん自然法しぜんほう恐怖きょうふから理性りせい

自然状態しぜんじょうたいにおいて、人間にんげん自然権しぜんけんright of natureライト・オブ・ネイチャー)をちます。みずからの生命せいめい保存ほぞんするためにあらゆる手段しゅだんもちいる自由じゆう。ただし、この自由じゆう無制限むせいげんであるがゆえに自滅じめつ的です。全員ぜんいん全員ぜんいんたいしてなんでもできるならば、だれ安全あんぜん保障ほしょうされません。

ここで理性りせい登場とうじょうします。自然法しぜんほうlaw of natureロー・オブ・ネイチャー)とは、理性りせい発見はっけんする一般いっぱん規則きそくのことです。ホッブズHobbes自然法しぜんほうを19じょうげていますが、その核心かくしん最初さいしょみっつに凝縮ぎょうしゅくされます。第一だいいち自然法しぜんほう:「平和へいわもとめ、それにしたがえ」。平和へいわられないときにかぎり、戦争せんそうのあらゆる手段しゅだんもちいてよい(第十四しょう)。第二だいに自然法しぜんほう:「人々ひとびと同様どうようにそうする意志いしがあるならば、万物ばんぶつたいするこの権利けんり放棄ほうきし、人々ひとびとたいしては自分じぶん人々ひとびとからゆるされるのとおなじだけの自由じゆう満足まんぞくせよ」。そして第三だいさん自然法しぜんほう:「むすばれた契約けいやく履行りこうせよ」(第十五しょう)。ホッブズHobbesはこの第三だいさん自然法しぜんほうから正義せいぎ概念がいねんみちびきました。正義せいぎとは契約けいやくまもることであり、不正義ふせいぎとは契約けいやくやぶることです。契約けいやく以前には正義せいぎ不正義ふせいぎもない。

論理ろんり筋道すじみち簡潔かんけつです。恐怖きょうふ人間にんげん理性りせいかわせる。理性りせい平和へいわ条件じょうけんみちびく。その条件じょうけんとは、各人かくじん自然権しぜんけん一部いちぶ放棄ほうきして相互そうご制約せいやくうこと。けれどもここに根本的こんぽんてき困難こんなんがあります。約束やくそくだけではまもられない。「つるぎなき契約けいやく言葉ことばにすぎず、ひと拘束こうそくするちからをまったくたない」(第十七しょう)。罰則ばっそくのない職場しょくばのルールを、すべてのひと自発的じはつてきまもつづけるでしょうか。ホッブズHobbes人間にんげん善意ぜんいしんじませんでした。しんじなかったからこそ、制度せいど設計せっけいしようとしたのです。

4. 社会契約しゃかいけいやくリヴァイアサンLeviathan誕生たんじょう

契約けいやくまもらせるちからがなければ、契約けいやく空文くうぶんわります。だからこそ共通きょうつう権力けんりょく必要ひつようになります。ホッブズHobbesはここで、社会契約しゃかいけいやくという概念がいねんげました。各人かくじん相互そうご契約けいやくむすび、「わたしはこの人物じんぶつ(あるいはこの合議体ごうぎたい)にわたしの統治とうちする権利けんり授権じゅけん譲渡じょうとする。あなたもまた同様どうようにあなたの権利けんりかれ譲渡じょうとし、かれのすべての行為こうい承認しょうにんするという条件じょうけんにおいて」と宣言せんげんします(第十七しょう)。

注意ちゅういはらうべきは、契約けいやく構造こうぞうです。契約けいやく臣民しんみん同士どうしのあいだでむすばれるのであって、主権者しゅけんしゃ契約けいやく当事者とうじしゃではありません。したがって主権者しゅけんしゃ契約けいやくやぶることができません(契約けいやくむすんでいないのですから)。臣民しんみん主権者しゅけんしゃ不正ふせいうったえることもできません(主権者しゅけんしゃ行為こういはすべて臣民しんみん自身じしん授権じゅけんしたものですから)。この論理ろんり緻密ちみつであると同時どうじに、おそろしくもあります。こうしてまれた巨大きょだい人工的じんこうてき人格じんかく。それがリヴァイアサンLeviathanです。『旧約聖書きゅうやくせいしょ』「ヨブJob」に登場とうじょうする、地上ちじょうてきなきうみ怪物かいぶつです。「地上ちじょうにはかれならぶものはない。かれおそれなきものとしてつくられた」(ヨブJob41しょう33せつ)。

主権者しゅけんしゃ権力けんりょく絶対的ぜったいてきでなければならない、とホッブズHobbesろんじます。権力けんりょく分割ぶんかつすれば内戦ないせん逆戻ぎゃくもどりする。国王こくおう議会ぎかい権力けんりょくったイングランドEnglandなにきたか。ホッブズHobbes自国じこく惨禍さんか論拠ろんきょにしました。立法りっぽう司法しほう行政ぎょうせい軍事ぐんじ課税かぜい検閲けんえつ、すべてがひとつのになければならない。ここには三権分立さんけんぶんりつ発想はっそうはまったくありません。それどころか、権力けんりょく分割ぶんかつこそが内戦ないせん原因げんいんだとされるのです。

5. 主権しゅけん限界げんかい自己じこ保存ほぞん権利けんり譲渡じょうとできない

ホッブズHobbes絶対ぜったい主権しゅけんきましたが、無条件むじょうけん服従ふくじゅうもとめたのではありません。ひとつだけ、けっして譲渡じょうとできない権利けんりがあります。自己じこ保存ほぞん権利けんりです。「契約けいやくによってみずからを防衛ぼうえいしないと約束やくそくするものはいない」(第十四しょう)。主権者しゅけんしゃが「ね」とめいじたとき、臣民しんみんにはそれにしたが義務ぎむがありません。自己じこ保存ほぞんのために国家こっかつくったのですから、国家こっか自己じこ保存ほぞんおびやかすなら服従ふくじゅう根拠こんきょえるのです。

第二十一だいにじゅういちしょう臣民しんみん自由じゆうについて」は、この問題もんだいをさらにげています。ほう沈黙ちんもくしている領域りょういきでは、臣民しんみん自由じゆうえます。売買ばいばい契約けいやく住居じゅうきょ選択せんたく食事しょくじ内容ないようどもの教育きょういくほう規制きせいおよばないところで、ひと自由じゆうのままです。絶対的ぜったいてき主権しゅけんとは、主権者しゅけんしゃがすべてを命令めいれいするということではありません。命令めいれいくだされたとき、それにとなえる正当せいとう手段しゅだん存在そんざいしない、ということです。

主権者しゅけんしゃ臣民しんみん保護ほごする能力のうりょくうしなったとき、臣民しんみん服従ふくじゅう義務ぎむ消滅しょうめつします(第二十一しょう)。「主権者しゅけんしゃ権力けんりょく目的もくてき臣民しんみん安全あんぜんである」(第三十しょう)。保護ほごなくして服従ふくじゅうなし。ここに、ホッブズHobbesクロムウェルCromwell体制たいせいへの服従ふくじゅう正当化せいとうかできた論理ろんりがあります。実効的じっこうてき保護ほごしている権力けんりょく正当せいとう権力けんりょくであって、血筋ちすじ正統性せいとうせい問題もんだいではありません。征服せいふくによる国家こっか設立せつりつによる国家こっかも、臣民しんみん服従ふくじゅううなが動機どうきおなじ。恐怖きょうふです(第二十しょう)。

6. 宗教しゅうきょう国家こっか:「暗闇くらやみ王国おうこく」への批判ひはん

リヴァイアサンLeviathan』は四部よんぶ構成こうせいです。第三部だいさんぶキリスト教きりすときょうコモンウェルスCommonwealthについて」と第四部だいよんぶ暗闇くらやみ王国おうこくについて」が全体ぜんたいのおよそ半分はんぶんめており、現代げんだい読者どくしゃはこの部分ぶぶんばしがちですが、ホッブズHobbesにとってはここが核心かくしんでした。なぜなら17世紀せいき内戦ないせんこした最大さいだい要因よういんは、宗教しゅうきょうだったからです。ピューリタンPuritan牧師ぼくしたちが説教壇せっきょうだんから国王こくおうへの抵抗ていこうあおり、カトリックCatholic司祭しさいたちは教皇きょうこうへの忠誠ちゅうせい世俗せぞくほうよりうえきました。ホッブズHobbesはその両方りょうほう問題もんだいにしています。

ホッブズHobbes主張しゅちょうはこうです。宗教的しゅうきょうてき権威けんい世俗的せぞくてき権力けんりょく並立へいりつすれば、臣民しんみんはどちらにしたがうべきかわからなくなります。「二人ふたり主人しゅじんつかえることはできない」。したがって聖書せいしょ解釈権かいしゃくけん主権者しゅけんしゃ帰属きぞくします。聖書せいしょなに意味いみするかをめるのは教会きょうかいではなく国家こっかです。ホッブズHobbes聖書せいしょ丹念たんねんみ、教皇きょうこう世俗的せぞくてき権力けんりょくみとめる根拠こんきょ聖書せいしょのどこにもないと論証ろんしょうしました。教皇きょうこう世俗的せぞくてき権力けんりょくホッブズHobbesは「暗闇くらやみ王国おうこく」とび、スコラSchola哲学てつがく形而上学けいじじょうがくを「空虚くうきょ哲学てつがく」とだんじました。カトリックCatholicからもプロテスタントProtestantからもにくまれた所以ゆえんです。

ただしここには、内心ないしん自由じゆうという留保りゅうほのこされています。ホッブズHobbes信仰しんこう内面ないめん問題もんだいとしてみとめました。おおやけ礼拝れいはい形式けいしき主権者しゅけんしゃさだめますが、こころのなかでなにしんじるかまでは強制きょうせいできません。「信仰しんこう内的ないてきなものであり、ほうちからえることはできない」(第四十二しょう)。おおやけには主権者しゅけんしゃしたがい、むねのうちでは自由じゆういのる。絶対ぜったい主権しゅけんはがねのような論理ろんりのなかに、良心りょうしん自由じゆうというちいさなまどのこされていること。そのまどがのちにどれほどおおきくひらかれていくかを、ホッブズHobbes自身じしん予見よけんしていなかったかもしれません。

7. 言語げんご哲学てつがく言葉ことば誤用ごようあらそいを

ホッブズHobbes政治せいじ哲学者てつがくしゃとしてのみかたられがちですが、言語げんごについてのするど分析ぶんせき見逃みのがせません。『リヴァイアサンLeviathan』第四しょうと第五しょうで、ホッブズHobbes言葉ことばよっつの濫用らんよう列挙れっきょしました。意味いみ不安定ふあんてい言葉ことば使つかうこと。比喩ひゆ文字通もじどおりにること。意志いし言葉ことばいつわること。言葉ことば他人たにんきずつけること。ホッブズHobbes推理すいりreasoningリーズニング)を計算けいさんreckoningレコニング)と同一視どういつししています。名前なまえ正確せいかく定義ていぎし、定義ていぎしたがって加減かげんする。そこに曖昧あいまいさがはいめば、計算けいさんくるいます。

正義せいぎ」「自由じゆう」「権利けんり」。こうした言葉ことばを、人々ひとびとはそれぞれことなる意味いみ使つかい、おな言葉ことば使つかっているのに合意ごういいたりません。家庭かてい食卓しょくたくで「公平こうへい」という言葉ことばたとき、おやおなじものをしているでしょうか。フランシスFrancisベーコンBaconが「市場しじょうのイドラ」として指摘してきした問題もんだいつうじますが、ホッブズHobbesはそれを政治的せいじてき紛争ふんそう直接ちょくせつ原因げんいんとして位置いちづけました。言葉ことば定義ていぎ統一とういつする権限けんげんもまた、主権者しゅけんしゃ帰属きぞくする。なに正義せいぎであるかをめるのは個人こじん良心りょうしんではなく、主権者しゅけんしゃほうです。息苦いきぐるしい帰結きけつです。けれどもホッブズHobbesかえすでしょう。各人かくじんがそれぞれの「正義せいぎ」をかかげてゆずらなかったとき、なにこったか、と。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • リヴァイアサンLeviathan』(1651ねん):ホッブズHobbes主著しゅちょです。人間論にんげんろんから国家論こっかろん宗教論しゅうきょうろんへとすす四部よんぶ構成こうせい英語えいごかれ、のちにラテンLatin語版ごばん(1668ねん)もされました。政治せいじ哲学てつがく古典こてんとして一度いちどりたい一冊いっさつです。邦訳ほうやく水田みずたひろしやくリヴァイアサンLeviathan岩波文庫いわなみぶんこ(全四さつ)。角田つのだ安正やすまさやくリヴァイアサンLeviathan光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ
  • 市民論しみんろん』(De Civeデ・キーウェ、1642ねん):『リヴァイアサンLeviathan』の政治せいじ理論りろん原型げんけいです。ラテンLatinかれ、ヨーロッパじゅうまれました。自然状態しぜんじょうたい自然法しぜんほう主権しゅけん理論りろんがすでに明確めいかく展開てんかいされています。邦訳ほうやく本田ほんだ裕志ひろしやく市民論しみんろん京都大学きょうとだいがく学術がくじゅつ出版会しゅっぱんかい
  • ほう原理げんり』(The Elements of Law, Natural and Politicジ・エレメンツ・オブ・ロー、1640ねん写本しゃほん回覧かいらん、1650ねん刊行かんこう):最初さいしょ政治せいじ哲学てつがく体系的たいけいてき著述ちょじゅつです。英語えいごかれ、簡潔かんけつ入門にゅうもんにはここからむのもよいでしょう。
  • 物体論ぶったいろん』(De Corporeデ・コルポレ、1655ねん):ホッブズHobbes自然しぜん哲学てつがくです。運動うんどう物体ぶったい基礎きそとする機械論的きかいろんてき世界観せかいかん展開てんかいしており、幾何学きかがくもとづく哲学てつがく構想こうそうれます。
  • ビヒモスBehemoth』(1679ねん刊行かんこう執筆しっぴつ1668年頃ねんごろ):イングランドEngland内戦ないせん歴史れきし原因げんいん分析ぶんせきした対話たいわ形式けいしき著作ちょさくです。ホッブズHobbes理論りろん歴史れきし適用てきようした記録きろくとして、独特どくとくあじわいがあります。

主要しゅよう批判ひはん論争ろんそう

同時代どうじだい反発はんぱつ激烈げきれつなものでした。ブラムホールBramhall司教しきょうは『リヴァイアサンLeviathan』を無神論むしんろんだんじ、自由じゆう意志いしをめぐって長期ちょうきにわたる論争ろんそうひろげました。ホッブズHobbes自由じゆう意志いし否定ひていし、人間にんげん行為こうい先行せんこうする原因げんいん連鎖れんさによって決定けっていされるとろんじました。オックスフォードOxford大学だいがくは1683ねんに『リヴァイアサンLeviathan』と『市民論しみんろん』を焚書ふんしょしょしています。

ジョンJohnロックLockeは『統治とうち二論にろん』(1689ねん)において、名指なざしはけつつもホッブズHobbes結論けつろん全面的ぜんめんてきくつがえしました。ロックLocke自然状態しぜんじょうたい戦争せんそうではなく、自然法しぜんほう支配しはいする平和へいわ状態じょうたいです。人間にんげんには生命せいめい自由じゆう財産ざいさんへの自然権しぜんけんがあり、政府せいふがそれを侵害しんがいすれば抵抗ていこうする権利けんりがある。ここに立憲りっけん主義しゅぎ絶対ぜったい主権しゅけん分岐ぶんきまれます。ロックLockeホッブズHobbes反論はんろんしているのですが、ホッブズHobbes設定せっていした枠組わくぐみ(自然状態しぜんじょうたいから社会契約しゃかいけいやくへ)をそのままもちいています。いのかたちぎながら、こたえだけをえたのです。

ジャンJean=ジャックJacquesルソーRousseauべつ角度かくどから異議いぎとなえました。ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたいは、すでに社会化しゃかいかされた人間にんげんはだかにしただけではないか、と。競争きょうそう不信ふしん名誉欲めいよよく自然しぜん属性ぞくせいではなく、社会しゃかいえつけたものではないのか(『人間にんげん不平等ふびょうどう起源論きげんろん』1755ねん)。ルソーRousseauはこういています。「ホッブズHobbes野蛮人やばんじん姿すがたえがいたつもりで、市民しみん姿すがたえがいていた」と。この指摘してきにはするどさがあります。ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたい歴史れきしではなく思考しこう実験じっけんだとしても、そこで想定そうていされる人間像にんげんぞう普遍的ふへんてきなのか、それとも17世紀せいきイングランドEngland反映はんえいなのか。このいはいまひらかれたままです。

20世紀せいきはいって、カールCarlシュミットSchmittホッブズHobbes再評価さいひょうかしました(『リヴァイアサンLeviathan近代国家きんだいこっか生成せいせい没落ぼつらく』1938ねん)。シュミットSchmittは、ホッブズHobbes内心ないしん自由じゆうのこしたことがリヴァイアサンLeviathan致命的ちめいてき亀裂きれつれたとろんじています。私的してき信仰しんこうみとめた瞬間しゅんかんに、おおやけわたくし区別くべつまれ、やがて国家こっか空洞化くうどうかさせる、と。シュミットSchmitt自身じしんナチNazi体制たいせい協力きょうりょくした人物じんぶつですので、この読解どっかいはそれ自体じたい政治的せいじてき緊張きんちょうはらんでいます。

影響えいきょう遺産いさん

ホッブズHobbes政治せいじ哲学てつがくかたそのものをえました。ホッブズHobbes以後、政治せいじ哲学てつがくは「権力けんりょくはなぜ正当せいとうか」といういをけてとおれなくなりました。ロックLockeルソーRousseauカントKantつづ社会契約論しゃかいけいやくろん系譜けいふはすべて、ホッブズHobbes問題設定もんだいせっていいでいます。ジョンJohnロールズRawlsの『正義論せいぎろん』(1971ねん)における「原初状態げんしょじょうたい」(original positionオリジナル・ポジション)は、ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたい変奏へんそうしたものとむことができます。

国際こくさい関係論かんけいろんでは、ホッブズHobbesは「リアリズムrealism」の始祖しそとして参照さんしょうされます。国家間こっかかんには主権者しゅけんしゃがいない。したがって国際こくさい社会しゃかい自然状態しぜんじょうたいにある。国家こっか自国じこく安全あんぜん最優先さいゆうせんし、信頼しんらいできるのはちから均衡きんこうのみ。ハンスHansモーゲンソーMorgenthauケネスKennethウォルツWaltz国際こくさい政治せいじ理論りろんそこには、ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたいよこたわっています。

法哲学ほうてつがく分野ぶんやでは、ホッブズHobbes法実証主義ほうじっしょうしゅぎlegal positivismリーガル・ポジティヴィズム)の先駆せんくなされています。ほうとは主権者しゅけんしゃ命令めいれいであり、自然しぜん理法りほうでもかみ意志いしでもありません。ジョンJohnオースティンAustin命令めいれいせつ(19世紀せいき)、H.L.A.ハートHartの『ほう概念がいねん』(1961ねん)は、ホッブズHobbesたんはっするいの延長線上えんちょうせんじょうにあります。

哲学てつがくそとにも影響えいきょうおよんでいます。ゲームgame理論りろんにおける「囚人しゅうじんのジレンマ」は、ホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたい同型どうけい構造こうぞうっています。各人かくじん合理的ごうりてき行動こうどうした結果けっか全員ぜんいんにとって最悪さいあく結果けっかまれる。協力きょうりょく強制きょうせいする第三者だいさんしゃホッブズHobbesでいう主権者しゅけんしゃ)がいなければ、合理的ごうりてき個人こじん協力きょうりょくしません。マンションの管理かんり組合くみあい共用きょうよう部分ぶぶん清掃せいそうだれもやりたがらないという身近みぢか場面ばめんにも、この構造こうぞうかおします。

現代げんだいへの接続せつぞく

災害さいがい直後ちょくご電気でんきまりみずず、警察けいさつ機能きのうしなくなったとき、なにこるでしょうか。おおくの場合ばあい人々ひとびとたすいます。けれども略奪りゃくだつこります。秩序ちつじょ薄氷はくひょううえにある。ホッブズHobbesいがあざやかによみがえ瞬間しゅんかんは、秩序ちつじょらいだときです。停電ていでんしたよるまち行政ぎょうせい崩壊ほうかいした被災ひさいほう支配しはいとどかない領域りょういきホッブズHobbesは、秩序ちつじょがいかにこわれやすいか、その維持いじにいかにおおきな代価だいかはらわれているかを、400年前ねんまえきつけました。夜道よみち一人ひとりあるけること。とした財布さいふ交番こうばんとどいていること。それらは自然しぜんめぐみではなく、だれかが維持いじしている秩序ちつじょ賜物たまものです。

国際こくさい社会しゃかいは、いまなおホッブズHobbes自然状態しぜんじょうたいちか場所ばしょです。国連こくれんには主権者しゅけんしゃちからがありません。安全あんぜん保障ほしょう理事会りじかい決議けつぎ拒否権きょひけん骨抜ほねぬきにされ、条約じょうやく強制力きょうせいりょくいています。あるくに隣国りんこく侵攻しんこうしたとき、抑止よくしできるのは道義どうぎではなくちから均衡きんこうです。「つるぎなき契約けいやく言葉ことばにすぎない」。この一文いちぶんは、国際法こくさいほう脆弱ぜいじゃくさをしずかに見据みすえています。

自由じゆう安全あんぜん交換こうかんという問題もんだいもまた、えてはおりません。治安ちあんのためにどこまで監視かんし許容きょようするか。感染症かんせんしょう拡大かくだいふせぐためにどこまで移動いどう自由じゆう制限せいげんできるか。学校がっこう校則こうそくはどこまでゆるされるか。ホッブズHobbesならばこうこたえるでしょう。安全あんぜんがなければ自由じゆうもない、と。けれども私たちはかえさなければなりません。安全あんぜんのためにした自由じゆうは、本当ほんとうかえってくるのか、と。

読者どくしゃへの

  • もし警察けいさつ一週間いっしゅうかん機能きのう停止ていししたら、あなたのまちはどうなるか。ホッブズHobbesえがいた自然状態しぜんじょうたいは、空想くうそうか、それとも秩序ちつじょえたときにあらわれる現実げんじつ一端いったんか。
  • 安全あんぜんのためにあなたがしてもよい自由じゆうなにか。そこにせんくとしたら、その根拠こんきょなにか。
  • 国際こくさい社会しゃかいに「リヴァイアサンLeviathan」は必要ひつようか。もし世界せかい政府せいふのようなものが実現じつげんしたとして、それは平和へいわをもたらすか、それともべつ暴力ぼうりょくむか。

名言めいげん出典しゅってんつき)

人間にんげんせい孤独こどくで、まずしく、きたなく、残忍ざんにんで、みじかい」 出典しゅってんトマスThomasホッブズHobbesリヴァイアサンLeviathan』第十三しょう原文げんぶん:"…and the life of man, solitary, poor, nasty, brutish, and short."

自然状態しぜんじょうたいにおける人間にんげんせい要約ようやくした一文いちぶんです。いつつの形容詞けいようし矢継やつばやたたみかけられ、文体ぶんたいそのものが暴力ぼうりょくのリズムをびています。

つるぎなき契約けいやく言葉ことばにすぎず、ひと拘束こうそくするちからをまったくたない」 出典しゅってんトマスThomasホッブズHobbesリヴァイアサンLeviathan』第十七しょう原文げんぶん:"Covenants, without the sword, are but words and of no strength to secure a man at all."

約束やくそくはそれを強制きょうせいするちからがあってはじめて意味いみちます。国際こくさい条約じょうやくから職場しょくばのルールまで、この洞察どうさつてはまる場面ばめんきません。

万人ばんにん万人ばんにんたいする戦争せんそう出典しゅってんトマスThomasホッブズHobbesリヴァイアサンLeviathan』第十三しょう原文げんぶん:"…a war as is of every man against every man."(ラテンLatinけいbellum omnium contra omnes

自然状態しぜんじょうたい別名べつめいです。「戦争せんそう」とは実際じっさい戦闘せんとうのことではなく、戦闘せんとうへの傾向けいこう持続じぞくしている状態じょうたいします、とホッブズHobbes注記ちゅうきしています。あめっている時間じかんだけが悪天候あくてんこうではないのとおなじように。

参考さんこう文献ぶんけん

  • 原典げんてん英語えいご:Thomas Hobbes, Leviathan, ed. Noel Malcolm, 3 vols., Clarendon Press, 2012.(オックスフォードOxfordばん標準ひょうじゅんテキストtext
  • 原典げんてん邦訳ほうやくトマスThomasホッブズHobbesリヴァイアサンLeviathan水田みずたひろしやく岩波文庫いわなみぶんこ(全四さつ)。
  • 原典げんてん邦訳ほうやくトマスThomasホッブズHobbesリヴァイアサンLeviathan角田つのだ安正やすまさやく光文社こうぶんしゃ古典こてん新訳しんやく文庫ぶんこ
  • 研究書けんきゅうしょ:Quentin Skinner, Hobbes and Republican Liberty, Cambridge University Press, 2008.
  • 研究書けんきゅうしょ:Noel Malcolm, Aspects of Hobbes, Clarendon Press, 2002.
  • 研究書けんきゅうしょ邦語ほうご田中たなかひろし『ホッブズ──リヴァイアサンLeviathan哲学てつがく岩波新書いわなみしんしょ
  • 研究書けんきゅうしょ邦語ほうご加藤かとうたかし『ホッブズの政治せいじ哲学てつがく──自然しぜん人為じんい自由じゆう東京大学とうきょうだいがく出版会しゅっぱんかい
  • 概説がいせつ:A. P. Martinich, Hobbes: A Biography, Cambridge University Press, 1999.
  • 補助ほじょウェブweb資料しりょう:"Thomas Hobbes", Stanford Encyclopedia of Philosophy.