夕食の席で、家族のなかに政治や宗教の話題が持ち出されたとき、空気がわずかに張りつめるのを感じたことはないでしょうか。誰かが「まあ、その話はやめておきましょう」と静かに言い、話題は天気や近所の桜の開花に移る。あの小さな沈黙。あの微かな退き。私たちは日ごろ、意識しないままに「寛容」という行為を繰り返しています。
けれども寛容は、食卓の気まずさを回避する処世術にとどまるものではありません。隣人があなたとはまったく異なる神を信じているとき。同僚がどうしても受け入れがたい政治的信条を掲げているとき。相手が間違っていると心の底から思いながら、それでもなおその人の隣に座り続けることは可能でしょうか。ここには、食事の場の気遣いとは次元の違う問いが潜んでいます。
人類の歴史は、この問いに対して長いあいだ、血で答えてきました。異端を焼き、異教徒を追放し、信仰の相違を理由に都市を焼いた。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパを引き裂いた宗教戦争は、「正しい信仰」を武力で強制しようとした試みがどこへ行き着くかを、灰と死体の山で教えてくれました。寛容という理念は、静かな書斎で生まれたのではありません。焦土のうえに、もう二度と繰り返すまいという苦い決意とともに芽を出したのです。
ロックは信仰を強制することの不可能を論じ、ヴォルテールは冤罪事件を前にして狂信の愚かさを告発しました。ミルは個人の自由を守る防波堤として「危害原理」を据え、ポパーは寛容そのものが自壊する逆説を突きつけた。ロールズは信念の異なる人々が政治的原理のうえで合意する道筋を描き、ウェンディ・ブラウンは「寛容する側」に隠れた権力を暴きました。数世紀にわたる格闘の足跡を、ここからたどってみましょう。
この記事の要点
- 信仰は強制できない:ロックは『寛容についての書簡』(1689年)で、魂の救済は内面の確信にしかありえず、剣で信仰を植えつけることはできないと論じました。この洞察は政教分離と信教の自由の土台となっています。
- 危害原理と個人の自律:ミルは『自由論』(1859年)で、他者への危害がない限り個人の自由は制限されるべきではないという原理を打ち立てました。多数派の横暴から少数意見を守るこの構想は、近代自由主義の背骨です。
- 寛容のパラドクス:ポパーは『開かれた社会とその敵』(1945年)で、無制限の寛容は不寛容によって滅ぼされると警告しました。寛容な社会を維持するためには、不寛容に対して毅然と立つ覚悟が必要である──この逆説はいまなお未解決です。
なぜこの問いが問われてきたのか
人が集まれば意見は割れます。何を食べるか、子をどう育てるか、死後に何があるか。些細な好みの違いなら笑って済ませられます。しかし信仰や正義にかかわる違いは、ときに相手の存在そのものを否定したくなるほどの摩擦を生みます。寛容の問いは、哲学の書棚に収まる抽象ではなく、台所の隣から漂ってくる見知らぬ香辛料の匂いくらい、身近なところから始まります。
この問いが切迫するのは、相手の信念を単に「好みの違い」とは片づけられないときです。自分が深く正しいと信じていることに照らして、相手は明らかに誤っている。それでも干渉せず、力で正そうとしない。寛容とは、無関心でもなければ諦めでもありません。自分の信念を保ちながら、なお相手の信念を持つ権利を認める。その綱渡りに似た営みです。
歴史は、この綱を踏み外したときに何が起きるかを記録しています。1572年8月のサン・バルテルミの虐殺では、一夜のうちに数千人のユグノーが殺されました。30年戦争(1618〜1648年)はドイツの人口を三分の一にまで減らしたとも言われています。信仰の純粋さを守るために隣人を殺す。その繰り返しのなかから、「共存のための知恵」としての寛容が浮かび上がってきたのです。
厄介なのは、寛容がどこか真理への無関心に似て見えることでしょう。「何を信じてもいい」とは、「何が正しいかはどうでもいい」という意味なのか。寛容を唱えた哲学者たちの多くは、じつは真理に対して深い関心を持っていました。真理を追求するからこそ、強制では真理に到達できないことを知っていた。庭の木を引っぱっても早く育つわけではないように、信仰もまた、自らの根を張る時間を必要とするのではないでしょうか。
テーマの起源と変遷
古代ローマは、被征服民の神々をおおむね容認しました。帝国の秩序を乱さない限り、何を拝んでもよかった。ところがキリスト教が国教となってから、風景は一変します。「唯一の真の神」を掲げる一神教にとって、異端は魂を蝕む病であり、放置すれば共同体全体が汚染される。中世の異端審問は、こうした論理のうえに築かれていました。腐った果実は籠から取り除かねばならない、と。
宗教改革(16世紀)がその統一を砕きました。ルターが教皇の権威に異を唱え、カルヴァンがジュネーヴに独自の神政を敷き、カトリックとプロテスタントは剣を手に向き合いました。1555年のアウクスブルクの和議は「領主の宗教がその地の宗教」(cuius regio eius religio)という原則で休戦をもたらしましたが、これは個人の信教の自由ではなく、領主の選択に臣民が従うという仕組みにすぎませんでした。1648年のヴェストファーレン条約はアウクスブルクの原則を再確認しつつカルヴァン派にも適用を拡大しましたが、真の寛容にはほど遠い妥協でした。泥だらけの畑に杭を打って境界を引いたようなもの。根本の問い──なぜ異なる信仰を認めるべきなのか──には答えていませんでした。
その問いに正面から向き合ったのが啓蒙期の哲学者たちです。ロック、ベール、ヴォルテールは、それぞれの角度から寛容の根拠を論じました。19世紀にはミルが寛容を宗教の領域から思想と生活全般に拡張し、20世紀には全体主義の経験が寛容の限界と条件をめぐる新しい問いを生み出しました。川が上流から下流へと姿を変えながら流れるように、寛容の概念もまた、時代ごとに水量と流路を変えてきたのです。
ミニ年表
- 1553年:カルヴァンのジュネーヴでミシェル・セルヴェが異端として火刑に処される
- 1555年:アウクスブルクの和議──「領主の宗教がその地の宗教」の原則
- 1572年:サン・バルテルミの虐殺。フランス全土で数千のユグノーが殺害される
- 1648年:ヴェストファーレン条約。アウクスブルクの原則をカルヴァン派にも拡大
- 1686年:ベール『哲学的註解』(Commentaire philosophique)刊行
- 1689年:ロック『寛容についての書簡』(Epistola de Tolerantia)刊行
- 1763年:ヴォルテール『寛容論』(Traité sur la tolérance)刊行。カラス事件がきっかけ
- 1786年:ジェファソンのヴァージニア信教自由法が成立(起草は1777年)
- 1859年:ミル『自由論』(On Liberty)刊行
- 1945年:ポパー『開かれた社会とその敵』(The Open Society and Its Enemies)刊行
- 1993年:ロールズ『政治的リベラリズム』(Political Liberalism)刊行
- 1995年:ユネスコ「寛容の原則に関する宣言」採択
主要な立場と論証
ロック──信仰は強制できない
1689年、亡命先のオランダでロックは『寛容についての書簡』(Epistola de Tolerantia)を匿名で出版しました。イングランドでは国教会と非国教徒の対立が続き、名誉革命の余波がまだ冷めやらぬ時代でした。ロックの論証はきわめて明快です。魂の救済は内面の真摯な確信によるほかない。力で信仰を押しつけても、生まれるのは偽善者だけであって、真の信者ではない。
ロックは市民政府と宗教の管轄を明確に分けました。政府の仕事は生命・財産・自由といった現世の利益を守ることであり、魂の行く先まで管理する権限は持たない。教会は自発的な結社にすぎず、脱退の自由がなければならない。井戸の水は皆で共有するが、井戸のそばで何を祈るかは各人に委ねられるべきだ。そういう感覚に近いかもしれません。
ただしロックの寛容にはよく知られた限界があります。無神論者は対象外でした。神を信じない者は誓約を守る根拠を持たないから信用できない、とロックは考えました。カトリック教徒も除外されています。教皇という外国の君主に忠誠を誓う者は国家の安全を脅かすという理由でした。寛容の理念そのものが、その出発点において排除を含んでいた。この矛盾は、寛容の歴史に最初から影を落としています。
それでもなお、信仰は強制しえないというロックの洞察は、種のようなものでした。蒔かれた土地の性質に応じて、のちにさまざまな花を咲かせることになります。政教分離、信教の自由、良心の自由──近代民主主義の骨格をなす原理の多くが、ロックのこの小さな書簡にその根を持っています。
ベールとヴォルテール──良心の権利と理性の武器
ロックより3年早く、フランスの亡命ユグノー知識人ピエール・ベールは『哲学的註解』(Commentaire philosophique、1686年)を著しました。ベールの核心にある主張は大胆です。たとえ誤った信仰であっても、誠実な良心に従って抱かれている限り、その良心は尊重されなければならない。誤りうる良心(conscience errante)にも権利がある──この着想は、寛容の射程を大きく広げるものでした。
ヴォルテールはそこに、風刺と怒りという燃料を注ぎ込みました。1762年、トゥールーズの商人ジャン・カラスが処刑されます。息子マルク=アントワーヌが自宅で死亡しているのが発見され──自殺と見られていますが──父のカラスが息子のカトリックへの改宗を阻むために殺害したと告発されたのです。証拠は薄弱で、宗教的偏見が裁判を歪めていました。ヴォルテールは3年にわたる運動の末に名誉回復を勝ち取り(1765年)、その経験から『寛容論』(Traité sur la tolérance、1763年)を著しました。狂信は無実の人間を車裂きにする。ヴォルテールはその具体的な残酷さを読者の目の前に突きつけたのです。
なお、「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守る」という有名な言葉は、ヴォルテール自身の言葉ではありません。1906年にエヴリン・ベアトリス・ホールが伝記のなかでヴォルテールの態度を要約した一節であり、原典に対応する箇所はありません。とはいえ、この一文がヴォルテールの精神をよく捉えていることもまた確かでしょう。彼にとって寛容とは、理性の名において狂信と闘う武器でもあったのです。
ミル──個人の自律と「危害原理」
1859年に刊行されたミルの『自由論』(On Liberty)は、寛容の議論を宗教の領域からはるかに遠くまで押し広げました。ミルが見据えていたのは、国王や教会の専制ではなく、「多数者の暴虐」(tyranny of the majority)という、もっと静かで浸透力のある圧力でした。法律が禁じなくとも、世間の目が異端を押しつぶす。村の井戸端で囁かれる噂の力は、ときに法廷の判決よりも重い。
ミルが据えた原理は簡潔です。「文明社会の成員に対し、その意志に反して権力を行使することが正当とされるのは、他の成員に対する危害を防ぐという目的に限られる」(第1章)。他者を傷つけない限り、何を信じ、何を語り、どのように暮らすかは個人の領分であり、社会も国家も立ち入るべきではない。これがいわゆる「危害原理」(harm principle)です。
第2章では、意見の自由がなぜ不可欠であるかが論じられます。ある意見を封じることは、その意見が正しい場合には真理への道を閉ざすことになり、誤っている場合でも、正しい意見が反論を通じて鍛えられる機会を奪うことになる。使われない筋肉が衰えるように、反論にさらされない信念は教条へと硬直する。第3章の「個性について」では、人間の幸福にとって「生き方の実験」(experiments in living)が欠かせないことが強調されます。他人と違う生き方は社会の豊かさの源泉であって、排除すべき逸脱ではないのです。
ただしミルの危害原理は、「危害とは何か」をめぐる果てしない論争を呼びました。精神的な苦痛は危害に含まれるのか。差別的な発言は、聞く者の尊厳を傷つけるという意味で「危害」なのか。原理の明快さは、適用の段になると霧のなかに消えてしまうことがあります。
ポパー──寛容のパラドクス
1945年、カール・ポパーは『開かれた社会とその敵』(The Open Society and Its Enemies)の第1巻第7章注4で、後世に深く刻まれる逆説を提示しました。
「無制限の寛容は、かならず寛容の消滅に行き着く。もし不寛容な者たちに対してさえ無制限の寛容を及ぼすならば、寛容な者たちは滅ぼされ、寛容もろともに滅びるであろう」 出典:カール・ポパー『開かれた社会とその敵』第1巻第7章注4(1945年)
ナチズムがヴァイマル共和国の民主的制度を利用して権力を握り、民主主義そのものを破壊した記憶が、ポパーのこの警告の背後にあります。庭に蔓草が侵入したとき、「草も植物だから」と放っておけば、やがて庭の花はすべて絞め殺される。寛容もまた、自らを守る意志がなければ生き残れないのではないか。
ただしポパーは、不寛容な言論をすべて弾圧せよとは言っていません。理性的な議論に応じる用意がある限り、不寛容な主張も言論の場で反論すべきだ、と。問題は、議論を拒否し暴力に訴える者に対してどうするか、です。このとき寛容な社会は、自らの存続のために不寛容に対して不寛容でなければならない。しかし、誰がその線を引くのか。線を引く権力そのものが濫用されたらどうなるのか。ポパーのパラドクスは、答えではなく問いとして私たちの前にあり続けています。
ロールズ──重なり合う合意
ジョン・ロールズは、寛容の問いを正義論の枠組みのなかに位置づけました。『正義論』(A Theory of Justice、1971年)の§35では、「正しい社会は不寛容な者を寛容すべきか」という問いが正面から扱われています。ロールズの答えは慎重です。不寛容な集団であっても、憲法体制そのものを脅かさない限り寛容されるべきである。なぜなら、不寛容な者を抑圧することは、正義の原理そのものを裏切ることになるから。
のちの『政治的リベラリズム』(Political Liberalism、1993年)で、ロールズは「合理的な多元主義の事実」(the fact of reasonable pluralism)という概念を導入しました。自由な制度のもとでは、人々がそれぞれ異なる包括的教説──宗教や哲学や人生観──を抱くのは自然なことであり、それを無理に一つにまとめることはできない。では共通の政治的基盤はどこにあるのか。ロールズは「重なり合う合意」(overlapping consensus)に希望を託しました。異なる信念の持ち主が、それぞれの理由から同じ政治的原理を支持する。人生の意味では合意できなくても、正義の原理では合意できる。家の形は違っても、通る道は共有できる、という構想です。
ロールズの枠組みは「政治的であって形而上学的ではない」ことを強調します。神の存在や魂の不滅について合意する必要はない。大切なのは、自由で平等な市民として互いを尊重する政治的関係を築けるかどうか。この構想はきわめて精緻ですが、批判もあります。「合理的な」多元主義とは結局、リベラリズムを受け入れる範囲の多元主義にすぎないのではないか。本当に根の深い対立──リベラリズムそのものを拒む立場──には届いていないのではないか。
ウェンディ・ブラウン──寛容への批判的視座
2006年、政治理論家ウェンディ・ブラウンは『嫌悪を規制する』(Regulating Aversion: Tolerance in the Age of Identity and Empire)を著し、寛容という概念そのものに鋭い疑問を投げかけました。寛容とは誰が誰を「寛容する」のか。そこには権力の非対称がないか。「私はあなたを寛容します」という言葉は、暗に「私にはあなたを排除する力がある。だが今はそうしないでおく」と言っているのではないか。
ブラウンは、寛容の言説が政治的な不平等を覆い隠す機能を持つことに注意を促します。ある集団の置かれた困難が、構造的な差別や経済的な不正に起因するものであるとき、「寛容しましょう」という呼びかけは、根本原因に目を向けさせないための装置になりかねない。雨漏りのする屋根を直さずに、「雨を受け入れましょう」と言っているようなものだ、と。
ブラウンはさらに、寛容が文明と野蛮の境界線を引く道具としても機能してきたことを指摘します。「寛容な我々」と「不寛容な彼ら」という図式は、帝国の論理にも容易に転用されうる。
彼女は寛容を全面的に否定しているわけではありません。寛容という言葉が何を隠し、何を正当化しているかに敏感であるべきだ、と求めているのです。寛容を美徳として無批判に称揚するのではなく、その裏側に目を凝らすこと。この姿勢もまた、寛容をめぐる思索には欠かせないものではないでしょうか。
重要な論争点
不寛容に対する寛容の限界
ポパーのパラドクスは理論の問題にとどまりません。1949年のドイツ基本法(憲法)は「闘う民主主義」(streitbare Demokratie)の概念を採用し、民主主義を廃止しようとする政党を禁止する制度を設けました。ナチスの台頭という苦い経験から生まれた仕組みです。しかし、不寛容な言論をどの時点で規制すべきかという判断は、つねに権力の恣意と紙一重です。
ヘイトスピーチと表現の自由
ジェレミー・ウォルドロンは『ヘイトスピーチという危害』(The Harm in Hate Speech、2012年)で、差別的言論は標的とされた人々の「社会における地位の保障」(assurance of standing)を傷つけると論じました。単なる感情の問題ではなく、市民としての尊厳が掘り崩される実害がある、と。これに対して、表現の自由を重視する立場からは、言論の規制は萎縮効果をもたらし、結局は弱者の声をも封じてしまうという反論があります。オリヴァー・ウェンデル・ホームズがアブラムズ対合衆国事件(1919年)の反対意見で述べた「思想の自由市場」(free trade in ideas)の構想は、いまなお力を持っています。秤のどちら側に傾くべきかは、容易には決まりません。
承認と寛容の区別
チャールズ・テイラーは「承認の政治」(The Politics of Recognition、1994年)のなかで、単に「我慢する」ことと、相手の存在を対等なものとして積極的に承認することの違いを論じました。寛容は消極的な共存にとどまる危険があり、少数者は「我慢されている」だけで「認められている」わけではないと感じうる。ライナー・フォルストもまた『対立のなかの寛容』(Toleranz im Konflikt、2003年)で寛容の四つの構想を整理し、「許可」としての寛容と「尊重」としての寛容を明確に区別しています。軒先を貸すことと、隣の部屋に迎え入れることは違います。寛容はどちらであるべきなのか。
影響と展開
寛容の理念は、まず法の骨格に組み込まれました。1786年に制定されたジェファソンのヴァージニア信教自由法は、合衆国憲法修正第1条への道を開きました。フランス人権宣言(1789年)第10条もまた信教の自由を明記しています。ロックが蒔いた種は、大西洋を渡り、革命の土壌に根を下ろしました。
20世紀には、全体主義の経験が寛容の議論にあらたな奥行きを加えました。ナチズムとスターリニズムは、不寛容が国家規模で制度化されたとき何が起きるかを世界に見せつけた。戦後の国際人権体制──世界人権宣言(1948年)、国際人権規約──は、信教・思想・表現の自由を基本的権利として明文化しました。1995年のユネスコ「寛容の原則に関する宣言」は、寛容を受動的な我慢ではなく、「世界の文化の豊かさ、表現の形態、人間であることの在り方の多様さへの尊重と理解」と定義しています。
哲学の内部では、フォルストの研究が寛容の概念史を大きく整理しました。フォルストは寛容に四つの構想──許可、共存、尊重、尊敬──を見出し、それぞれの歴史的文脈と規範的射程を区別しました。寛容は一枚岩の概念ではなく、歴史のなかで何層にも重なった地層のようなものです。
文学もまた寛容の問いに向き合ってきました。レッシングの戯曲『賢者ナータン』(1779年)に登場する「三つの指輪の寓話」は、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの三つの宗教がいずれも真正でありうることを示唆し、寛容の精神を物語の形で伝えました。哲学の論証が頭に訴えるものだとすれば、物語は胸に届く。寛容の歴史は、その両方の力で編まれてきたのです。
現代への接続
私たちは日ごろ、寛容を試される場面に囲まれています。職場で自分とはまるで異なる価値観を持つ同僚と机を並べるとき。子どもの学校で、教育の方針をめぐって保護者の意見が割れるとき。宗教の異なる家庭が同じ地域で暮らすとき。寛容はつねに、抽象的な原理としてではなく、具体的な隣人の顔として目の前に現れます。
難しいのは、相手の信念が自分の核心にある価値──たとえば人間の平等──と衝突するときでしょう。差別を正当化する信念を「寛容」すべきなのか。寛容の名のもとに沈黙することが、じつは不正への加担になっていないか。川の流れを堰き止めれば氾濫するが、何もしなければ土手は崩れる。寛容の実践とは、つねにこの二つの危険のあいだで舵を取ることかもしれません。
ロックからブラウンまで、寛容をめぐる思索の歴史が教えてくれるのは、寛容は完成された徳ではなく、絶えず問い直されるべき実践だということでしょう。寛容であること自体は目的ではない。異なる信念を持つ人々が、なお同じ空の下で共に暮らしてゆくための、終わりのない手入れのようなもの。庭は一度整えれば済むものではありません。雑草は伸び、季節は変わり、新しい花が芽を出す。その都度、手を入れ続けること。
読者への問い
- あなたが最も「寛容」を試されるのは、どのような場面でしょうか。そのとき、寛容と沈黙の境界はどこにありますか。
- もし寛容な社会を破壊しようとする運動が現れたとき、あなたは寛容の原則をどこまで守り、どこで手放しますか。
- 相手を「寛容する」ことと「認める」ことは同じでしょうか。違うとすれば、何が足りないのでしょうか。
名言・重要引用
「魂の世話は各人自身に属するものであり、各人自身に委ねられなければならない」 出典:ジョン・ロック『寛容についての書簡』(Epistola de Tolerantia、1689年)/原文:"The care of each man's salvation belongs only to himself."
信仰が内面の問題である限り、外部の力で介入することには意味がない。ロックの寛容論の核心を凝縮した一文です。政教分離の原理は、ここに根を持っています。
「私はあなたの意見には反対だが、あなたがそれを言う権利は命をかけて守ろう」 出典:エヴリン・ベアトリス・ホール『ヴォルテールの友人たち』(The Friends of Voltaire、1906年)/原文:"I disapprove of what you say, but I will defend to the death your right to say it."
広くヴォルテールの言葉として知られていますが、実際には伝記作家ホールがヴォルテールの態度を要約したものです。出典の正確さは保ちつつ、寛容の精神をこれほど鮮やかに言い表した言葉もまた少ないでしょう。
「もし全人類から一人を除いた全員が同じ意見であり、たった一人だけが反対の意見を持っていたとしても、その一人を沈黙させることは正当ではない。それは、たった一人が権力を握って全人類を沈黙させることが正当ではないのと同じである」 出典:ジョン・スチュアート・ミル『自由論』第2章(On Liberty、1859年)/原文:"If all mankind minus one were of one opinion, and only one person were of the contrary opinion, mankind would be no more justified in silencing that one person than he, if he had the power, would be justified in silencing mankind."
少数意見の保護を力強く訴えた一節です。多数であることは正しいことの証にはならない。一人の声を封じることは、その声が真理であった場合、全員の損失になる。ミルの主張はここに集約されます。
「合理的な多元主義という事実は、人間の理性が自由な制度のもとで働いた帰結のひとつにほかならない」 出典:ジョン・ロールズ『政治的リベラリズム』序論(Political Liberalism、1993年)/原文:"The fact of reasonable pluralism is the normal result of the exercise of human reason within the framework of the free institutions of a constitutional democratic regime."
意見が分かれるのは理性の欠陥ではなく、理性が自由に働いた結果である。ロールズのこの認識は、寛容を理性の弱さへの妥協ではなく、理性の帰結として捉え直すものです。
参考文献
- (原典):John Locke, Epistola de Tolerantia / A Letter Concerning Toleration, 1689.
- (原典):Pierre Bayle, Commentaire philosophique sur ces paroles de Jésus-Christ: Contrains-les d'entrer, 1686.
- (原典):Voltaire, Traité sur la tolérance, 1763.
- (原典):John Stuart Mill, On Liberty, 1859.
- (原典):Karl Popper, The Open Society and Its Enemies, 2 vols., 1945.
- (原典):John Rawls, A Theory of Justice, 1971; Political Liberalism, expanded ed., Columbia University Press, 1993/2005.
- (原典・邦訳):ロック『寛容についての手紙』加藤節訳、岩波文庫。
- (原典・邦訳):ミル『自由論』斉藤悦則訳、光文社古典新訳文庫。
- (研究書・論文):Wendy Brown, Regulating Aversion: Tolerance in the Age of Identity and Empire, Princeton University Press, 2006.
- (研究書・論文):Rainer Forst, Toleranz im Konflikt: Geschichte, Gehalt und Gegenwart eines umstrittenen Begriffs, Suhrkamp, 2003.
- (研究書・論文):Jeremy Waldron, The Harm in Hate Speech, Harvard University Press, 2012.
- (研究書・論文):Charles Taylor, "The Politics of Recognition", in Multiculturalism: Examining the Politics of Recognition, ed. Amy Gutmann, Princeton University Press, 1994.
- (概説書):"Toleration", Stanford Encyclopedia of Philosophy.