1961年ねん4月がつ、エルサレムJerusalemの法廷ほうてい。防弾ぼうだんガラスの仕切しきりの向むこうに座すわっている男おとこは、痩やせて禿はげ上あがった、どこにでもいそうな中年ちゅうねんの官吏かんりでした。アドルフAdolf・アイヒマンEichmann。ナチスNazis親衛隊しんえいたい中佐ちゅうさとして、ヨーロッパ各地かくちから強制きょうせい収容所しゅうようじょへのユダヤJuden人じん移送いそうを組織そしきした人物じんぶつです。傍聴席ぼうちょうせきにいたハンナHannah・アーレントArendtは、悪魔あくまを見みるつもりで法廷ほうていに来きていたのかもしれません。けれどもそこにいたのは、悪魔あくまではなかった。陳腐ちんぷな決きまり文句もんくを繰くり返かえし、命令めいれいに従したがっただけだと主張しゅちょうする、薄うすっぺらな男おとこでした。

アーレントArendtは戦慄せんりつしました。大量たいりょう虐殺ぎゃくさつを実行じっこうした人間にんげんが、怪物かいぶつでも狂人きょうじんでもなく、ただ「考かんがえなかった」人間にんげんだったとしたら。悪あくは深淵しんえんから湧わき上あがるものではなく、思考しこうの欠如けつじょから、表面ひょうめんに広ひろがるものだとしたら。アーレントArendtが「悪あくの凡庸ぼんようさ」(the banality of evilザ・バナリティ・オブ・イーヴル)と名なづけたこの洞察どうさつは、彼女かのじょに激はげしい非難ひなんをもたらしました。けれどもそれは、20世紀せいきの政治せいじ思想しそうに最もっとも深ふかい傷痕きずあとを残のこした問といのひとつとなりました。

アーレントArendtの思想しそうは書斎しょさいのなかだけで育そだったものではありません。ユダヤJuden人じんとしてナチスから逃にげ、無国籍むこくせきの難民なんみんとして十八年じゅうはちねんを過すごし、全体ぜんたい主義しゅぎがひとりの人間にんげんを余計者よけいものに変かえていく過程かていを、自みずからの身体しんたいで知しった人物じんぶつです。その経験けいけんから紡つむぎ出だされた問といがあります。人間にんげんが人間にんげんであるとはどういうことか。政治せいじとは何なにか。ともに生いきるとはどういうことか。

この記事きじの要点ようてん

  • 「悪あくの凡庸ぼんようさ」:ホロコーストHolocaustを遂行すいこうしたアイヒマンEichmannは悪魔的あくまてきな怪物かいぶつではなく、命令めいれいに従したがい自分じぶんの頭あたまで考かんがえることを放棄ほうきした凡庸ぼんような官僚かんりょうでした。思考しこうの不在ふざいこそが巨大きょだいな悪あくを可能かのうにする。この洞察どうさつは『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』(1963年ねん)で提起ていきされ、激はげしい論争ろんそうを巻まき起おこしました。
  • 活動的生ヴィータ・アクティーヴァ(vita activa)の三区分さんくぶん:『人間にんげんの条件じょうけん』(1958年ねん)でアーレントArendtは人間にんげんの営いとなみを労働ろうどう(labor)・仕事しごと(work)・活動かつどう(action)の三層さんそうに分わけました。なかでも活動かつどう、すなわち他者たしゃのあいだで言葉ことばと行為こういを通つうじて自みずからを現あらわすことこそが、人間にんげんを固有こゆうの存在そんざいたらしめるものです。
  • 全体ぜんたい主義しゅぎと「権利けんりを持もつ権利けんり」:『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』(1951年ねん)でアーレントArendtは、ナチズムとスターリニズムを従来じゅうらいの専制せんせい政治せいじとは異ことなる新あたらしい支配しはい形態けいたいとして分析ぶんせきしました。国家こっかに属ぞくさない人間にんげんはあらゆる権利けんりを失うしなう。そこから「権利けんりを持もつ権利けんり」(the right to have rights)という根源的こんげんてきな概念がいねんが生うまれました。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

1906年ねん10月がつ14日にち、ハノーファーHannoverのリンデンLinden地区ちくで、ある世俗的せぞくてきなユダヤJuden人じん家庭かていに女おんなの子こが生うまれました。幼おさなくして父ちちを亡なくし、育そだったのはケーニヒスベルクKönigsberg。カントKantの街まちです。かつて永遠えいえん平和へいわを夢ゆめ見みた哲学者てつがくしゃと同おなじ通とおりを歩あるきながら、少女しょうじょは哲学てつがくと文学ぶんがくに惹ひかれていきました。14歳さいでカントKantの『純粋じゅんすい理性りせい批判ひはん』を読よんでいたと伝つたえられますから、その早熟そうじゅくさは並なみのものではありません。

1924年ねん、マールブルクMarburg大学だいがくに入学にゅうがくしたとき、彼女かのじょを待まっていたのはマルティンMartin・ハイデガーHeideggerでした。18歳さいの学生がくせいと35歳さいの教授きょうじゅ。恋愛れんあい関係かんけいが生うまれ、やがて短みじかい歳月さいげつのうちに終おわりました。けれどもこの出会であいが残のこした傷きずは、ずっとあとまで疼うずき続つづけます。ハイデガーHeideggerがのちにナチ党とうに入党にゅうとうし、フライブルクFreiburg大学だいがく総長そうちょうとして体制たいせいに加担かたんしたとき、アーレントArendtは何なにを思おもったでしょうか。偉大いだいな知性ちせいが政治せいじの場面ばめんで驚おどろくほどの愚おろかさを示しめすことがある。この苦にがい認識にんしきは、のちに「思考しこうと判断はんだん」の問題もんだいを深ふかく掘ほり下さげるとき、いつも遠とおくに見みえる灯あかりのように、彼女かのじょの思索しさくを導みちびいたのではないかと思おもわれます。

ハイデガーHeideggerのもとを離はなれ、ハイデルベルクHeidelberg大学だいがくでカールKarl・ヤスパースJaspersに師事しじ。博士はかせ論文ろんぶんの題目だいもくは「アウグスティヌスAugustinusにおける愛あいの概念がいねん」(Der Liebesbegriff bei Augustin、1929年ねん)でした。ヤスパースJaspersとの絆きずなはハイデガーHeideggerとのそれとはまるで違ちがいました。互たがいの誠実せいじつさに支ささえられた師弟してい関係かんけいは、戦争せんそうと亡命ぼうめいの歳月さいげつを越こえて、最後さいごまで続つづくことになります。

1933年ねん、ナチスが政権せいけんを掌握しょうあく。アーレントArendtはシオニストZionist団体だんたいの依頼いらいで反はんユダヤ的てき宣伝せんでんの資料しりょう収集しゅうしゅうを行おこない、ゲシュタポGestapoに逮捕たいほされました。釈放しゃくほうののちパリParisに逃にげ、1941年ねんにアメリカAmericaへ渡わたります。その間あいだずっと、彼女かのじょは無国籍むこくせきでした。パスポートpassportを持もたない人間にんげん。どの国くにの門もんを叩たたいても「おまえはここにいる資格しかくがない」と告つげられる人間にんげん。アメリカAmerica市民権しみんけんを得えたのは1951年ねんのこと。十八年じゅうはちねんにわたる無権利むけんりの時間じかんを経へてようやく、彼女かのじょは「どこかに属ぞくする」人間にんげんになりました。この経験けいけんの傷きずは、彼女かのじょの政治せいじ思想しそうのいちばん深ふかいところに埋うまっています。

1951年ねん、『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』の刊行かんこうで一躍いちやく注目ちゅうもくを集あつめます。その後ごの歩あゆみは速はやい。1958年ねんに『人間にんげんの条件じょうけん』、1963年ねんに『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』と『革命かくめいについて』。シカゴChicago大学だいがく、ニュースクールNew Schoolで教壇きょうだんに立たち、晩年ばんねんは『精神せいしんの生活せいかつ』の執筆しっぴつに没頭ぼっとうしていました。1975年ねん12月がつ4日にち、ニューヨークNew Yorkの自宅じたくで心臓しんぞう発作ほっさ。69歳さいでした。タイプライターtypewriterには『精神せいしんの生活せいかつ』第三部だいさんぶ「判断はんだん」の扉とびらページが挟はさまれていました。白紙はくしのままで。

ミニ年表ねんぴょう

  • 1906年ねん:ハノーファーHannover・リンデンLindenに生うまれる(世俗的せぞくてきユダヤJuden人じん家庭かてい)
  • 1924年ねん:マールブルクMarburg大学だいがくに入学にゅうがく、ハイデガーHeideggerに師事しじ
  • 1926年ねん:ハイデルベルクHeidelbergに移うつりヤスパースJaspersのもとへ
  • 1929年ねん:博士はかせ論文ろんぶん「アウグスティヌスAugustinusにおける愛あいの概念がいねん」提出ていしゅつ
  • 1933年ねん:ゲシュタポGestapoに逮捕たいほ・釈放しゃくほう。パリParisに亡命ぼうめい
  • 1940年ねん:南仏なんふつギュルスGurs収容所しゅうようじょに抑留よくりゅう、のち脱出だっしゅつ
  • 1941年ねん:夫おっとハインリヒHeinrich・ブリュッヒャーBlücherとともにニューヨークNew Yorkに到着とうちゃく
  • 1951年ねん:『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』刊行かんこう。アメリカAmerica市民権しみんけん取得しゅとく
  • 1958年ねん:『人間にんげんの条件じょうけん』刊行かんこう
  • 1961年ねん:エルサレムJerusalemでアイヒマンEichmann裁判さいばんを傍聴ぼうちょう(『ニューヨーカーNew Yorker』特派員とくはいんとして)
  • 1963年ねん:『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』『革命かくめいについて』刊行かんこう
  • 1967〜75年ねん:ニュースクールNew Schoolで教鞭きょうべん
  • 1975年ねん12月がつ4日にち:ニューヨークNew Yorkにて急逝きゅうせい。享年きょうねん69。『精神せいしんの生活せいかつ』未完みかん

この哲学者てつがくしゃは何なにを問とうたのか

アーレントArendt以前、西洋せいようの政治せいじ哲学てつがくはおおむね、支配しはいと服従ふくじゅうの問題もんだいとして政治せいじを語かたってきました。誰だれが支配しはいするべきか。権力けんりょくはどう正当化せいとうかされるか。プラトンPlatōnの哲人王てつじんおうからホッブズHobbesの主権者しゅけんしゃ、ルソーRousseauの一般意志いっぱんいしに至いたるまで、政治せいじはつねに統治とうちの技術ぎじゅつでした。

アーレントArendtはまったく違ちがう場所ばしょから出発しゅっぱつしました。政治せいじとは支配しはいではない。複数ふくすうの人間にんげんが集あつまり、言葉ことばを交かわし、ともに行為こういすること。それが政治せいじの始はじまりです。

台所だいどころで家族かぞくが食卓しょくたくを囲かこむ夕方ゆうがたのことを思おもい浮うかべてみてください。話はなしの中身なかみはたわいもないかもしれません。けれどもそこには、人ひとと人ひとのあいだに小ちいさな空間くうかんが生うまれている。アーレントArendtが守まもろうとしたのは、その「あいだ」でした。ひとりの人間にんげんが他者たしゃの前まえに現あらわれ、自みずからの声こえで語かたり、誰だれにも予測よそくできない何なにかを始はじめる。全体ぜんたい主義しゅぎはこの「あいだ」を踏ふみ潰つぶしました。人々ひとびとを孤立こりつさせ、信頼しんらいを腐食ふしょくさせ、公的こうてきな空間くうかんそのものを消けした。アーレントArendtの問といは、その廃墟はいきょのなかから立たち上あがってきたものです。

彼女かのじょは自みずからを「政治せいじ理論家りろんか」(political theorist)と呼よび、「哲学者てつがくしゃ」と呼よばれることを拒こばみました。哲学者てつがくしゃは孤独こどくのなかで真理しんりを求もとめる。けれども政治せいじは複数性ふくすうせい(pluralityプルラリティ)のなかでしか成なり立たたない。ひとりでは政治せいじはできない。畑はたけを一人ひとりで耕たがやすことはできても、広場ひろばを一人ひとりで作つくることはできないように。

核心かくしん理論りろん

1. 全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん:人間にんげんを「余計者よけいもの」にする支配しはい

『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』(The Origins of Totalitarianismジ・オリジンズ・オブ・トータリテリアニズム、1951年ねん)は、反はんユダヤ主義しゅぎ、帝国ていこく主義しゅぎ、全体ぜんたい主義しゅぎの三みっつの流ながれを遡さかのぼる大著たいちょです。ナチズムもスターリニズムも、過去かこの暴君ぼうくんたちとは根本的こんぽんてきに違ちがう。暴君ぼうくんは反対者はんたいしゃを弾圧だんあつしますが、全体ぜんたい主義しゅぎはそこで止とまらない。人間にんげんそのものを「余計者よけいもの」(superfluousスーパーフルアス)に変かえ、存在そんざいしたこと自体じたいをなかったことにしようとする。アーレントArendtがこの異様いような支配しはいの前まえで立たち止どまったのは、それが従来じゅうらいの政治せいじ概念がいねんでは到底とうてい捉とらえられないものだったからです。

強制きょうせい収容所しゅうようじょはその核心かくしんでした。アーレントArendtはこう書かいています。収容所しゅうようじょの目的もくてきは単たんなる殺害さつがいではなく、人間にんげんの自発性じはつせいそのものを破壊はかいすることです。法的ほうてき人格じんかくの剥奪はくだつ(権利けんりを持もつ存在そんざいであることの否定ひてい)、道徳的どうとくてき人格じんかくの破壊はかい(良心りょうしんに基もとづく選択せんたくを不可能ふかのうにする)、そして個性こせいの消去しょうきょ(ひとりの人間にんげんを他たの人間にんげんと交換こうかん可能かのうな存在そんざいにする)。雨あめのなかで一本いっぽんずつ根ねを抜ぬかれていく草くさのように、人間にんげんであることの条件じょうけんが一枚いちまいずつ剥はがされていく。

ここから「権利けんりを持もつ権利けんり」(the right to have rights)という概念がいねんが浮うかび上あがります。人権じんけんは国家こっかが保障ほしょうするものですが、国家こっかに属ぞくさなくなった人間にんげんはどうなるのか。アーレントArendtは自分じぶんの経験けいけんからこの問といを突つきつけました。難民なんみんは権利けんりの担にない手てではなく、権利けんりの体系たいけいから排除はいじょされた存在そんざいです。権利けんりよりも前まえに、権利けんりを持もちうる主体しゅたいとして認みとめられること。それが最もっとも根源的こんげんてきな権利けんりなのだ、と。

『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』の結末けつまつでアーレントArendtは、全体ぜんたい主義しゅぎが根ねを下おろす土壌どじょうとして「孤立こりつ」(lonelinessロンリネス、独語Verlassenheitフェアラッセンハイト)を挙あげています。これは一人ひとりでいる状態じょうたい(solitudeソリテュード、独語Einsamkeitアインザムカイト)とは違ちがいます。孤独こどくのなかで人ひとは自分じぶん自身と対話たいわできます。けれども孤立こりつとは、自分じぶん自身との対話たいわさえ失うしない、世界せかいのなかに居場所いばしょがないと感かんじる状態じょうたいです。夕暮ゆうぐれの台所だいどころで、誰だれとも言葉ことばを交かわさず、自分じぶんの考かんがえにさえ触ふれられなくなるような時間じかん。全体ぜんたい主義しゅぎは、人々ひとびとをこの孤立こりつのなかに追おい込こみ、そこに支配しはいを打うち込こんだのです。

2. 「悪あくの凡庸ぼんようさ」:考かんがえないことの恐おそろしさ

『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann──悪あくの凡庸ぼんようさについての報告ほうこく』(Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evilアイヒマン・イン・ジェルサレム、1963年ねん)は、雑誌ざっし『ニューヨーカーNew Yorker』に寄よせた裁判さいばん傍聴ぼうちょう記きがもとになっています。冷静れいせいな筆致ひっちの奥おくに、アーレントArendtの戸惑とまどいが滲にじんでいる一冊いっさつです。

アイヒマンEichmannは狂信者きょうしんしゃではありませんでした。反はんユダヤ主義しゅぎの信念しんねんに突つき動うごかされたわけでもない。彼かれは出世しゅっせを望のぞみ、上司じょうしの命令めいれいに従したがい、書類しょるいを処理しょりし、列車れっしゃの時刻表じこくひょうを整ととのえました。彼かれが運はこんでいたのは貨物かもつではなく人間にんげんでしたが、その区別くべつについて立たち止どまって考かんがえることがなかった。アーレントArendtが「凡庸ぼんよう」と呼よんだのは、悪あくが小ちいさいという意味いみではありません。悪あくを行おこなった人間にんげんの内面ないめんに深ふかさがない、ということです。根ねがないのに表面ひょうめんを覆おおい尽つくす雑草ざっそうのように、思考しこうの不在ふざいは際限さいげんなく広ひろがりうるのです。

この報告ほうこくは嵐あらしのような批判ひはんを浴あびました。犠牲者ぎせいしゃであるユダヤ人じんの指導層しどうそう(ユーデンラートJudenrat)がナチスの移送いそうに協力きょうりょくした事実じじつに触ふれた箇所かしょが、犠牲者ぎせいしゃへの冒涜ぼうとくだと受うけ取とられたのです。旧友きゅうゆうたちが離はなれていきました。けれどもアーレントArendtの問といの核かくは別べつのところにあります。体制たいせいのなかで普通ふつうに暮くらしている人間にんげんが、考かんがえることを止やめたとき、どこまで悪あくに加担かたんしうるのか。この問といは、法廷ほうていの被告ひこくにではなく、傍聴席ぼうちょうせきのすべての人間にんげんに向むけられています。のちにアーレントArendtは『精神せいしんの生活せいかつ』のなかで、思考しこうを「風かぜ」に喩たとえました。思考しこうの風かぜは目めに見みえるものを残のこさない。けれどもその風かぜが吹ふくところで、凍こおりついた慣習かんしゅうや固定こてい観念かんねんが融とかされる(The Life of the Mind, "Thinking", ch. 3)。アイヒマンEichmannのなかでは、その風かぜがまったく吹ふいていなかったのです。

3. 活動的生ヴィータ・アクティーヴァ:労働ろうどう・仕事しごと・活動かつどう

1958年ねんの『人間にんげんの条件じょうけん』(The Human Conditionザ・ヒューマン・コンディション)。原題げんだいのドイツDeutsch語版ごばんは『活動的生ヴィータ・アクティーヴァ』(Vita activa oder Vom tätigen Leben、1960年ねん)です。アーレントArendtはここで、人間にんげんの営いとなみを三みっつの層そうに分わけました。

ひとつめは労働ろうどう(laborレイバー)。生命せいめいの維持いじに結むすびついた営いとなみです。食たべ、眠ねむり、掃除そうじし、また汚よごれ、また掃除そうじする。永遠えいえんに終おわらない循環じゅんかん。朝あさ起おきて台所だいどころに立たつとき、昨日きのうも今日きょうも同おなじことの繰くり返かえしだと感かんじることがあるでしょう。それが労働ろうどうの性格せいかくです。痕跡こんせきを残のこさない。消費しょうひされて消きえる。

ふたつめは仕事しごと(workワーク)。労働ろうどうが消きえるものに縛しばられているのに対たいして、仕事しごとは耐久性たいきゅうせいのあるものを作つくる営いとなみです。家いえを建たてる。道具どうぐを作つくる。本ほんを書かく。仕事しごとは世界せかいに持続じぞくするものを付つけ加くわえます。職人しょくにんが木きを削けずって椅子いすを作つくる。その椅子いすは作つくり手てがいなくなっても残のこる。人間にんげんが住すまう世界せかいを構築こうちくするのが仕事しごとです。

そして三みっつめが活動かつどう(actionアクション)。労働ろうどうや仕事しごととは質しつのまったく異ことなる層そうです。他者たしゃのあいだで言葉ことばと行為こういを通つうじて自みずからを現あらわす営いとなみです。物ものを介かいさず、人ひとと人ひとのあいだで直接ちょくせつに生うまれるもの。活動かつどうは予測よそくがつきません。ひとたび言葉ことばを発はっし、行為こういを始はじめれば、その結果けっかは制御せいぎょできない。種たねを蒔まいたひとが、どんな花はなが咲さくか完全かんぜんには知しりえないように。けれどもこの予測よそく不可能性ふかのうせいこそが、活動かつどうの尊厳そんげんです。人間にんげんはひとりひとり異ことなるからこそ、何なにが始はじまるかわからない。アーレントArendtはこの始はじまりの力ちからをナタリティnatality(出生しゅっしょう、誕生たんじょうの条件じょうけん)と呼よびました。

活動かつどうには危あやうさも伴ともないます。始はじめたことの結果けっかは取とり消けせない。発はっした言葉ことばは戻もどらない。アーレントArendtはこの取とり返かえしのつかなさに対たいする二ふたつの処方しょほうを示しめしました。ひとつは赦ゆるし(forgivenessフォーギヴネス)。過去かこの行為こういに縛しばられ続つづける者ものを、赦ゆるしによって解とき放はなつこと。もうひとつは約束やくそく(promiseプロミス)。不確ふたしかな未来みらいのなかに信頼しんらいの島しまをつくること。隣人りんじんに「明日あしたも来くるよ」と言いう子こどもの言葉ことば。些細ささいな約束やくそくが、人ひとと人ひとのあいだに小ちいさな確たしかさをつくります。赦ゆるしと約束やくそくがなければ、活動かつどうは破壊はかいにしかならないでしょう(『人間にんげんの条件じょうけん』第五章だいごしょう第33〜34節せつ)。

4. 公的こうてき領域りょういきと政治的せいじてき行為こうい

支配しはいではなく、ともに語かたり行為こういすること。それがアーレントArendtの描えがく政治せいじの姿すがたでした。彼女かのじょがこの公的こうてき領域りょういき(public realmパブリック・レルム)の原型げんけいを求もとめたのは、古代こだいギリシャGriechischのポリスpolisです。市民しみんは広場ひろば(アゴラagora)に集あつまり、対等たいとうな者ものとして議論ぎろんしました。そこでは暴力ぼうりょくではなく説得せっとくが力ちからでした。アーレントArendtはこの経験けいけんを理想化りそうかしているという批判ひはんを受うけていますが、彼女かのじょが見みていたのは歴史れきしの事実じじつというよりも、政治せいじの原型げんけいです。

ここに、ひとつの鮮あざやかな区別くべつがあります。権力けんりょく(powerパワー)と暴力ぼうりょく(violenceヴァイオレンス)。権力けんりょくは人々ひとびとが集あつまり協力きょうりょくするところに生うまれ、人々ひとびとが散ちらばれば消きえます。暴力ぼうりょくは道具どうぐによって増幅ぞうふくされますが、権力けんりょくの代替だいたいにはなりえません(『暴力ぼうりょくについて』On Violence、1970年ねん)。暴力ぼうりょくが支配しはいする場所ばしょでは、権力けんりょくはすでに失うしなわれている。町内会ちょうないかいの寄より合あいでさえ、一人ひとりが怒鳴どなり始はじめれば対話たいわは壊こわれます。暴力ぼうりょくは権力けんりょくを壊こわすことはできても、権力けんりょくを作つくることはできないのです。

5. ナタリティnatality:始はじまりの力ちから

西洋せいよう哲学てつがくは長ながいあいだ、死しを中心ちゅうしんに据すえてきました。ハイデガーHeideggerの「死しへの存在そんざい」(Sein zum Todeザイン・ツム・トーデ)はその典型てんけいです。アーレントArendtはそこに異いを唱となえました。人間にんげんの条件じょうけんを定さだめるのは死しではなく誕生たんじょうである、と。ナタリティnatality(誕生たんじょうの条件じょうけん)。『人間にんげんの条件じょうけん』のもっとも深ふかい水脈すいみゃくは、ここを流ながれています。

ひとりの子こどもが生うまれるたびに、世界せかいにはかつて存在そんざいしなかった誰だれかが現あらわれます。その存在そんざいは予測よそくできない。何なにを語かたり、何なにを始はじめるか、誰だれにもわからない。「人間にんげんが行為こういしうるのは、各人かくじんがそれぞれ固有こゆうであるがゆえである」(『人間にんげんの条件じょうけん』第五章だいごしょう)。全体ぜんたい主義しゅぎはこの固有性こゆうせいを潰つぶそうとしました。けれども新あたらしい生命せいめいはつねに到来とうらいします。春はるの野原のはらに芽めが吹ふくように、予期よきしない始はじまりがいつも訪おとずれる。アーレントArendtの思想しそうのなかで、最もっとも静しずかな希望きぼうはここに宿やどっています。

6. 判断力はんだんりょく:未完みかんの問とい

『精神せいしんの生活せいかつ』(The Life of the Mindザ・ライフ・オブ・ザ・マインド)。晩年ばんねんのアーレントArendtが心血しんけつを注そそいでいたこの大作たいさくは、三巻さんかんで構想こうそうされました。第一部だいいちぶ「思考しこう」(Thinking)、第二部だいにぶ「意志いし」(Willing)は書かき上あげられました。けれども第三部だいさんぶ「判断はんだん」(Judging)は一行いちぎょうも書かかれることなく、著者ちょしゃは世よを去さりました。

けれどもその輪郭りんかくは講義こうぎや論文ろんぶんから窺うかがえます。アーレントArendtはカントKantの『判断力はんだんりょく批判ひはん』に手てがかりを求もとめました。美うつくしいものを前まえにしたとき、私たちは個人的こじんてきな好このみを超こえて「これは美うつくしい」と判断はんだんします。論理ろんりの演繹えんえきではなく、個別こべつの事例じれいに直面ちょくめんして、規則きそくなしに判断はんだんする力ちから。カントKantはそこに「拡大かくだいされた心性しんせい」(erweiterte Denkungsartエアヴァイテルテ・デンクングスアルト)という概念がいねんを置おきました。自分じぶんの立場たちばだけでなく、他者たしゃの立場たちばからも物事ものごとを眺ながめる想像力そうぞうりょく。アーレントArendtはこの概念がいねんに、政治的せいじてき判断はんだんの核心かくしんを見みていました。前例ぜんれいのない状況じょうきょうで、規則きそくに頼たよらず判断はんだんする力ちから。アイヒマンEichmannに欠かけていたのは、まさにそれでした。

「判断はんだん」の巻かんは書かかれませんでした。けれども白紙はくしのまま残のこされたその頁ページは、読よむ者もののひとりひとりに問といを差さし出だしているようにも思おもわれます。あなたはどう判断はんだんするのか、と。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 『全体ぜんたい主義しゅぎの起源きげん』(The Origins of Totalitarianism、1951年ねん):反はんユダヤ主義しゅぎ・帝国ていこく主義しゅぎ・全体ぜんたい主義しゅぎの三部さんぶ構成こうせい。20世紀せいき政治せいじ思想しそうの必読ひつどく書しょ。分量ぶんりょうは多おおいですが、第三部だいさんぶだけでも読よむ価値かちがあります。邦訳ほうやく:大久保おおくぼ和郎かずおほか訳やく、みすず書房みすずしょぼう。
  • 『人間にんげんの条件じょうけん』(The Human Condition、1958年ねん):労働ろうどう・仕事しごと・活動かつどうの三みっつの概念がいねんで人間にんげんの営いとなみを分析ぶんせきした代表作だいひょうさくです。政治せいじ哲学てつがくに関心かんしんのある方かたには、ここから入はいるのがよいでしょう。邦訳ほうやく:志水しみず速雄はやお訳やく、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ。
  • 『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』(Eichmann in Jerusalem、1963年ねん):裁判さいばん傍聴ぼうちょう記きであり、20世紀せいき最もっとも論争ろんそうを呼よんだ政治せいじ思想しそう書しょのひとつ。読よみやすい文体ぶんたいで書かかれています。邦訳ほうやく:大久保おおくぼ和郎かずお訳やく、みすず書房みすずしょぼう。
  • 『革命かくめいについて』(On Revolution、1963年ねん):アメリカAmerica革命かくめいとフランスFrance革命かくめいを比較ひかくし、政治的せいじてき自由じゆうの条件じょうけんを論ろんじた著作ちょさくです。邦訳ほうやく:志水しみず速雄はやお訳やく、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ。
  • 『精神せいしんの生活せいかつ』(The Life of the Mind、死後しご刊行かんこう1978年ねん):「思考しこう」と「意志いし」の二巻にかんが完成かんせい、「判断はんだん」は未完みかん。アイヒマンEichmann裁判さいばんをきっかけに思考しこうと悪あくの関係かんけいを根底こんていから問とい直なおした遺作いさくです。邦訳ほうやく:佐藤さとう和夫かずお訳やく、岩波書店いわなみしょてん。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』をめぐる論争ろんそうは、刊行かんこうから60年ねんを経へても収おさまっていません。歴史家れきしかラウルRaul・ヒルバーグHilbergは、アーレントArendtが自分じぶんの研究けんきゅう(『ヨーロッパ・ユダヤJuden人じんの破壊はかい』)に依拠いきょしながらも十分じゅうぶんに認みとめなかったと不満ふまんを述のべています。近年きんねんの研究けんきゅう(ベッティーナBettina・シュタングネトStangneth『エルサレムJerusalem以前いぜんのアイヒマンEichmann』2011年ねん)は、アイヒマンEichmannが法廷ほうていで見みせた「凡庸ぼんような」態度たいどは演技えんぎだった面めんがあることを示しめしています。アーレントArendtは法廷ほうていでの印象いんしょうに引ひきずられすぎたのかもしれません。ただし「考かんがえないことが悪あくを可能かのうにする」という洞察どうさつそのものは、アイヒマンEichmannの実像じつぞうがどうであれ、依然いぜんとして鋭するどい力ちからを持もっています。

ポリスpolisへの傾斜けいしゃについても批判ひはんがあります。古代こだいアテナイAthensの市民しみんは自由じゆう男性だんせいに限かぎられ、奴隷どれいと女性じょせいは排除はいじょされていました。アーレントArendtの公的こうてき領域りょういきの理想りそうは、この排除はいじょの構造こうぞうを十分じゅうぶんに問とうていないのではないか。フェミニズムfeminismの研究者けんきゅうしゃ(ボニーBonnie・ホーニグHonig、シーラSeyla・ベンハビブBenhabibら)は、アーレントArendtの枠組わくぐみを批判的ひはんてきに継承けいしょうしつつ、公私こうしの境界きょうかいを問とい直なおす作業さぎょうを続つづけています。

ハイデガーHeideggerとの関係かんけいもまた、繰くり返かえし議論ぎろんの対象たいしょうになります。ナチに加担かたんした哲学者てつがくしゃを、なぜアーレントArendtは戦後せんごも完全かんぜんには切きり捨すてなかったのか。この問といに簡単かんたんな答こたえはありません。思想しそうの力ちからと人間にんげんの弱よわさは、ときに同おなじ人物じんぶつのなかに同居どうきょするのでしょう。

影響えいきょうと遺産いさん

「悪あくの凡庸ぼんようさ」という言葉ことばは、いつしか学問がくもんの垣根かきねを越こえました。新聞しんぶんの社説しゃせつに現あらわれ、日常にちじょうの会話かいわにも入はいり込こんでいます。官僚かんりょう制せいのなかで責任せきにんが霧きりのように拡散かくさんし、誰だれもが「自分じぶんは命令めいれいに従したがっただけだ」と口くちにする構造こうぞう。スタンリーStanley・ミルグラムMilgramが1963年ねんに行おこなった服従ふくじゅう実験じっけんは、実験室じっけんしつのなかでアーレントArendtの直観ちょっかんを裏うらづけたものとして、広ひろく知しられています。

政治せいじ理論りろんの分野ぶんやでは、ユルゲンJürgen・ハーバーマスHabermasの公共圏こうきょうけんの理論りろんがアーレントArendtの公的こうてき領域りょういきの議論ぎろんに大おおきな刺激しげきを受うけています。「権利けんりを持もつ権利けんり」の概念がいねんは、難民なんみん・無国籍者むこくせきしゃの問題もんだいがますます深刻しんこくになる現在げんざい、国際法こくさいほうや人権論じんけんろんの領域りょういきで繰くり返かえし参照さんしょうされます。ジュディスJudith・バトラーButler、エティエンヌÉtienne・バリバールBalibarら現代げんだいの政治せいじ哲学者てつがくしゃも、アーレントArendtを批判的ひはんてきに継承けいしょうしながら自みずからの仕事しごとを展開てんかいしています。

日本にほんでもアーレントArendtへの関心かんしんは高たかく、2012年ねんの映画えいが『ハンナHannah・アーレントArendt』(マルガレーテMargarethe・フォンvon・トロッタTrotta監督かんとく)は異例いれいのヒットhitを記録きろくしました。「考かんがえる」とは何なにか。この根本的こんぽんてきな問といが、時代じだいを超こえて人々ひとびとの胸むねに届とどいたのでしょう。

現代げんだいへの接続せつぞく

職場しょくばで「上うえがそう決きめたから」と言いって、違和感いわかんのある指示しじをそのまま実行じっこうしたことはないでしょうか。学校がっこうで「みんながそうしているから」と、自分じぶんの判断はんだんを棚たなに上あげたことは。アーレントArendtの問といは、歴史れきしの教訓きょうくんとしてではなく、毎朝まいあさの判断はんだんのなかに宿やどっています。思考しこうを停止ていししたとき、善良ぜんりょうな人間にんげんでさえ悪あくに手てを貸かしうる。大おおきな決断けつだんだけの話はなしではありません。日々ひびの小ちいさな場面ばめんで、立たち止どまって考かんがえるか否いなか。

「権利けんりを持もつ権利けんり」の問といは、難民なんみんの数かずが過去かこ最多さいたを更新こうしんし続つづける現在げんざい、その切実せつじつさは薄うすまるどころか、年ねんごとに増ましているようです。パスポートpassportを持もたない人間にんげん。どの国くにからも受うけ入いれを拒こばまれる人間にんげん。人権じんけんは「人間にんげんであること」に基もとづくはずなのに、国籍こくせきがなければ人権じんけんが保障ほしょうされない。アーレントArendtが70年前ねんまえに突つきつけたこの矛盾むじゅんは、解消かいしょうされるどころか深ふかまっているように見みえます。

ナタリティnatalityの思想しそうは、静しずかに力ちからを与あたえてくれます。世界せかいがどれほど暗くらく見みえても、新あたらしい人間にんげんはつねに生うまれてくる。そのひとりが何なにを始はじめるか、誰だれにもわからない。赤あかん坊ぼうの泣なき声ごえ。あの予測よそくできない、圧倒的あっとうてきな始はじまりの力ちからを、アーレントArendtは信しんじていました。

読者どくしゃへの問とい

  • あなたが最後さいごに「おかしい」と感かんじながらも黙だまって従したがったのは、いつのことか。そのとき何なにが思考しこうを止とめていたのか。
  • 「権利けんりを持もつ権利けんり」を持もたない人ひとが目めの前まえにいるとき、あなたにできることは何なにか。
  • あなたの周囲しゅういに「公的こうてき領域りょういき」はあるか。対等たいとうな者ものとして言葉ことばを交かわせる場所ばしょを、あなたは持もっているか。

名言めいげん(出典しゅってんつき)

「悪あくの問題もんだいは、我々われわれの時代じだいの根本こんぽん問題もんだいとなるであろう」 出典しゅってん:ハンナHannah・アーレントArendt、カールKarl・ヤスパースJaspers宛あて書簡しょかん、1946年ねん8月がつ17日にち/原文げんぶん:"The problem of evil will be the fundamental question of postwar intellectual life in Europe."

戦後せんごまもなく師しヤスパースJaspersに宛あてた手紙てがみの一節いっせつです。強制きょうせい収容所しゅうようじょの実態じったいが明あきらかになりつつあった時期じきの言葉ことば。悪あくは過去かこの問題もんだいではなく、これから問とわれるべきものだとアーレントArendtは見みていました。

「世界せかいへの愛あいのために」 出典しゅってん:ハンナHannah・アーレントArendt、『人間にんげんの条件じょうけん』の仮題かだい(1955年ねんヤスパースJaspers宛あて書簡しょかんにて言及げんきゅう)/原文げんぶん:"Amor mundi"(ラテンLatin語ご)

のちに『人間にんげんの条件じょうけん』となる著作ちょさくの仮題かだいとしてアーレントArendtが構想こうそうしていた言葉ことばです。世界せかいを愛あいすること。人間にんげんが作つくり、住すまい、壊こわしもする、このもろい共同きょうどうの場所ばしょを。

「最もっとも暗くらい時代じだいにあってさえ、人ひとにはなにかしらの光ひかりを期待きたいする権利けんりがある」 出典しゅってん:ハンナHannah・アーレントArendt『暗くらい時代じだいの人々ひとびと』序文じょぶん/原文げんぶん:"Even in the darkest of times we have the right to expect some illumination."(Men in Dark Times, 1968, Preface)

レッシングLessing、ローザRosa・ルクセンブルクLuxemburgら、暗くらい時代じだいを生いきた人々ひとびとの肖像しょうぞうを描えがいたエッセイessay集しゅうの序文じょぶんから。光ひかりは理論りろんや概念がいねんからではなく、個々ここの人間にんげんの生せいと行為こういから射さすのだ、とアーレントArendtは記しるしています。

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん・英語えいご):Hannah Arendt, The Origins of Totalitarianism, new ed., Harcourt, 1968.
  • (原典げんてん・英語えいご):Hannah Arendt, The Human Condition, 2nd ed., University of Chicago Press, 1998.
  • (原典げんてん・英語えいご):Hannah Arendt, Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil, rev. ed., Penguin, 2006.
  • (原典げんてん・邦訳ほうやく):ハンナHannah・アーレントArendt『人間にんげんの条件じょうけん』志水しみず速雄はやお訳やく、ちくま学芸がくげい文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん・邦訳ほうやく):ハンナHannah・アーレントArendt『エルサレムJerusalemのアイヒマンEichmann』大久保おおくぼ和郎かずお訳やく、みすず書房みすずしょぼう。
  • (研究書けんきゅうしょ):Margaret Canovan, Hannah Arendt: A Reinterpretation of Her Political Thought, Cambridge University Press, 1992.
  • (伝記でんき):Elisabeth Young-Bruehl, Hannah Arendt: For Love of the World, 2nd ed., Yale University Press, 2004.
  • (研究書けんきゅうしょ・邦語ほうご):矢野やの久美子くみこ『ハンナHannah・アーレントArendt──「戦争せんそうの世紀せいき」を生いきた政治せいじ哲学者てつがくしゃ』中公新書ちゅうこうしんしょ。
  • (補助ほじょウェブweb資料しりょう):"Hannah Arendt", Stanford Encyclopedia of Philosophy.