1889年1月3日、トリノのカルロ・アルベルト広場で、一人の男が馬の首に抱きつきました。御者が鞭で打っている老馬を見て、泣きながら駆け寄ったのです。フリードリヒ・ニーチェ、44歳。それから11年、彼は二度と正気に戻りませんでした。
けれどもこの崩壊の直前、1888年の秋から冬にかけて、ニーチェはおそろしい速度で書いていました。『偶像の黄昏』『反キリスト者』『この人を見よ』。ヨーロッパの知的地盤が沈下しつつあることを、同時代の誰よりも鋭く感じていた人物が、自らの精神の地盤を失っていく。その皮肉に気づいていた人は、当時ほとんどいなかったでしょう。生前に売れた本は数百部。読者のいない書斎で、ニーチェはひとり格闘していたのです。
ニーチェが格闘した相手は、ひとことで言えば虚無でした。神が死んだ。あるいはもっと正確に言えば、これまで西洋の道徳と意味を支えてきた土台が、もはや信じるに足りない。教会の鐘はまだ鳴っています。道徳の教科書はまだ使われている。けれども土台は朽ちている。冬の庭に立つ枯れ木のように、見かけは立っているのに、根はすでに死んでいる。
では、その先に何があるのか。
ニーチェはこの問いから逃げませんでした。虚無のなかに沈むのでもなく、道徳を疑うことを不道徳だと退けるのでもない。道徳そのものの起源を掘り起こして、その根に何が絡みついているかを見ること。そのうえで生を丸ごと肯定する道を探すこと。ニーチェの哲学は、その一点に懸かっています。
この記事の要点
- 「神の死」とニヒリズム:キリスト教的な神と、それに支えられてきた道徳・形而上学の体系がもはや信じられなくなったとき、人間は意味の真空に放り出されます。ニーチェはこの事態を「ニヒリズム」と呼び、来るべき二百年の歴史として予告しました。『悦ばしき知識』第125節の「狂人」の寓話がその診断の核です。
- 道徳の系譜学:善悪は天から降ってきたものではなく、歴史のなかで作られたものです。ニーチェは道徳の起源を掘り起こし、強者の道徳(主人道徳)を弱者がルサンチマン(怨恨)によって転倒させた過程を、『道徳の系譜学』で描き出しました。善と呼ばれるものの裏側にある権力の力学を暴く仕事です。
- 永遠回帰と超人:生の全面的肯定:ニヒリズムの先にニーチェが差し出したのは、永遠回帰(ewige Wiederkunft)という思考実験でした。あなたのこの人生が、寸分違わず永遠に繰り返されるとしたら、あなたはそれを望めるか。この問いに「然り」と答えられる者。それが超人(Übermensch)の姿です。
生涯と時代背景
1844年10月15日、プロイセン王国ザクセン州リュッツェン近郊のレッケン村に生まれました。父カール・ルートヴィヒはルター派の牧師でした。のちに神の死を宣告する哲学者が、牧師の家に生まれたのです。両方の祖父も牧師。信仰の厚い家庭です。けれども父はニーチェが4歳のとき脳の病で亡くなり、翌年には弟も没しています。牧師館を追われた母と妹と祖母のなかで育った少年は、女性ばかりの家庭で静かに本を読み、音楽を奏で、詩を書いていました。
14歳で名門シュルプフォルタ学院に入学します。ここはフィヒテやランケも学んだ全寮制の厳格な学校で、古典語の教育に力を注いでいました。ニーチェはギリシャ語とラテン語に没頭し、音楽にも熱中しています。ボン大学に進んだのちライプツィヒ大学に転じ、古典文献学を学びました。ここでの二つの出会いが、生涯を変えます。ひとつは古書店で偶然手に取ったショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』。もうひとつは作曲家リヒャルト・ヴァーグナーとの邂逅です。
ショーペンハウアーの悲観主義と、ヴァーグナーの音楽が体現するギリシャ悲劇の再生。若きニーチェはこのふたつに酔いました。1869年、まだ博士号も取得していない24歳で、バーゼル大学の古典文献学教授に招聘されます。師のフリードリヒ・リッチュルの強力な推薦でした。異例の抜擢です。けれどもニーチェの関心はすでに、文献の校訂よりも文化の診断へと移っていました。
バーゼル時代の10年間は、激しい変容の時期です。1872年に処女作『悲劇の誕生』を刊行しましたが、文献学の同僚たちからは黙殺され、若手文献学者ウラーモヴィッツ=メレンドルフから痛烈な批判を浴びました。学問的なキャリアに傷がつきます。ヴァーグナーとの友情も、1876年のバイロイト音楽祭を境に冷えていきました。ヴァーグナーの芸術がますますキリスト教的神秘主義とドイツ国粋主義に傾いていくことに、ニーチェは耐えられなくなったのです。
1879年、激しい偏頭痛と視力の衰えのため教授職を辞します。35歳。年金はわずかで、安い下宿を転々としながら書き続ける生活が始まりました。夏はスイスのシルス・マリア、冬は南仏のニースや北伊のトリノ。孤独な放浪の10年間に、主要著作のほとんどが書かれました。読者はほぼいない。出版は自費に近い形です。山の稜線を歩きながら構想を練り、簡素な部屋に戻って書く。体は痛みに苛まれ、目はほとんど見えません。それでも書くことをやめなかった。
1889年1月の精神崩壊ののち、母フランツィスカの、のちに妹エリーザベトの介護を受けながら、1900年8月25日にヴァイマルで没しました。享年55。皮肉なことに、死後にこそ名声は爆発しました。そしてその名声は、妹エリーザベトによる遺稿の恣意的な編集と、ナチスによる政治的利用とともに、歪んだ形で広がっていきます。
ミニ年表
- 1844年:プロイセン・レッケンに生まれる(父はルター派牧師)
- 1849年:父カール・ルートヴィヒが脳軟化症で死去
- 1858年:シュルプフォルタ学院に入学
- 1865年:ライプツィヒに転学、ショーペンハウアーの著作と出会う
- 1868年:リヒャルト・ヴァーグナーと初めて会う
- 1869年:24歳でバーゼル大学古典文献学教授に就任
- 1870年:普仏戦争に衛生兵として従軍、赤痢とジフテリアに罹患
- 1872年:『悲劇の誕生』刊行
- 1876年:バイロイト音楽祭を機にヴァーグナーとの決裂が始まる
- 1878年:『人間的、あまりに人間的』刊行
- 1879年:健康悪化によりバーゼル大学を辞職。放浪の生活が始まる
- 1882年:『悦ばしき知識』刊行(「神は死んだ」)。ルー・ザロメとの出会いと失恋
- 1883〜85年:『ツァラトゥストラはこう言った』全四部執筆
- 1886年:『善悪の彼岸』刊行
- 1887年:『道徳の系譜学』刊行
- 1888年:『偶像の黄昏』『反キリスト者』『この人を見よ』執筆(トリノにて)
- 1889年1月:トリノで精神崩壊
- 1900年8月25日:ヴァイマルにて没。享年55
この哲学者は何を問うたのか
ニーチェ以前、西洋の道徳と意味の体系には、揺るぎないように見える支柱がありました。プラトンの善のイデア。キリスト教の神。カントの道徳法則。いずれも、善と悪の区別を人間の意志を超えた場所に根づかせていました。道徳は天から降ってくるもの、あるいは理性のなかに刻まれているもの。人間が作ったのではなく、発見するもの。そういう前提です。
ニーチェは、この前提そのものを問いに付しました。善と呼ばれるものは、本当に善なのか。謙虚さや同情や自己犠牲が徳とされるのはなぜか。誰がそう決めたのか。どういう力の配置のなかで、そう決められたのか。道徳を守るかどうかではなく、道徳の「価値」そのものを問う。それまでの哲学がほとんど手をつけなかった問いです。
『善悪の彼岸』の序文でニーチェはこう書いています。「真理への意志とは何か。(中略)その意志の価値について問われたことは、いまだかつてない。(中略)道徳における善と悪の価値を問うことが必要である」(Jenseits von Gut und Böse, Vorrede)。道徳を守るかどうかではなく、道徳の価値を問う。善と悪を区別するのではなく、善悪の彼岸(向こう側)に立つ。これがニーチェの挑戦でした。
庭の土を掘ってみたら、そこに長年埋まっていた古い管が腐食しているのを見つけた。それを見なかったことにして土を被せ直すこともできる。けれどもニーチェは掘り続けたのです。
核心理論
1. 悲劇の誕生:アポロンとディオニュソス
1872年の処女作『悲劇の誕生──音楽の精神からの』(Die Geburt der Tragödie aus dem Geiste der Musik)は、学術論文としては破格でした。厳密な文献学の作法を逸脱した、熱に浮かされたような書物です。ニーチェはここで、ギリシャ文化の根底にふたつの衝動を見ました。アポロン的なもの(秩序、形、明晰さ、個体の境界)と、ディオニュソス的なもの(陶酔、混沌、個の溶解、生の根源的な力)。
ギリシャ悲劇はこの両者の緊張の上に成り立っていました。苦痛と破壊に満ちた物語を、美しい形式のなかに包み込むことで、生の恐ろしさを直視しつつ肯定する。ところがエウリピデスの時代に、変化が訪れます。ニーチェによれば、エウリピデスはソクラテス的な合理主義を舞台に持ち込み、悲劇の合唱隊(コロス)を後退させ、筋立てと心理描写を前面に押し出しました。理性で説明できないものは排除される。「美しくあるためには、すべてが意識的でなければならない」(『悲劇の誕生』第12節)というソクラテス的命題のもとで、ディオニュソス的な深みは理性の光に晒され、蒸発してしまったのです。秋の祭りの夜に感じる胸の高鳴り。理屈では説明できない、生の底から突き上げてくるもの。ニーチェがディオニュソス的と呼んだのは、そのような力です。
この処女作には多くの粗さが残されています。ニーチェ自身、のちに「一冊の不可能な本」と呼んで距離を置きました(『この人を見よ』)。けれども芸術によって生を肯定するという主題は、形を変えながら最後までニーチェの思想を貫いていきます。
2. 「神は死んだ」:ニヒリズムの診断
『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft、1882年)の第125節。白昼にランプを灯して市場を駆け回る狂人が叫びます。「神は死んだ! 神は死んだままだ! そして我々が殺したのだ!」(Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet!)。市場の人々は笑います。狂人は言います。「わたしは早く来すぎた」と。
勝ち誇った無神論者の宣言ではありません。狂人は歓喜しているのではなく、怯えている。ニーチェが描いているのは喪失の恐怖です。神という概念に支えられてきた意味の体系が崩壊したとき、人間はどうなるのか。「地平線を拭い去ったのは我々ではなかったか。この大地は今や太陽から解き放たれたのではないか。我々はどこへ動いているのか。すべての方向から離れていくのではないか」(第125節)。方角のわからない海に漂う船のような不安です。
ニーチェは遺稿のなかでこう記しています。「ニヒリズムが戸口に立っている。この最も不気味な客はどこから来るのか」(遺稿、1885〜86年)。ニヒリズムとは、最高の諸価値が無価値になることです。目的が欠けている。「何のために?」への答えが欠けている。ニーチェはこの事態を避けるべきものではなく、通過すべきものと見ました。真冬の畑。表面はすべて凍りついている。けれども凍りつくことなしには、春の芽吹きも訪れない。ニヒリズムを恐れて古い価値にしがみつくのではなく、その向こう側に新しい価値を創造すること。それがニーチェの求めたものでした。
3. 道徳の系譜学:善悪の起源を暴く
1887年の『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral)は、ニーチェの著作のなかで最も論証の構造が明確な一冊です。三つの論文から成り、それぞれが道徳の起源を異なる角度から掘り起こしていきます。
第一論文「『善と悪』、『良いと悪い』」でニーチェは、道徳の二つの起源を対置します。主人道徳(Herrenmoral)では、強い者が自らの力と卓越を「良い」(gut)と呼び、それに劣るものを「悪い」(schlecht)と呼びます。子どもが走り回って「速い!」と自分を誇るような率直さ。そこには罪の意識はありません。
ところが奴隷道徳(Sklavenmoral)はまったく別の仕方で生まれます。弱者は強者に勝てない。その悔しさと怒りが、行動に転じることなく内部に蓄積されます。これをニーチェはルサンチマン(怨恨)と呼びました。ルサンチマンのなかで、弱者は価値を転倒させます。強いことは「悪」であり、弱いことこそ「善」である、と。謙虚さ、従順さ、同情。これらが徳とされたのは、弱者がみずからの弱さを正当化するためだった、とニーチェは論じます。
これは不穏な主張です。「弱者への同情は悪だ」と読まれかねない。けれどもニーチェの眼目はそこにはないでしょう。彼が問うているのは、道徳が自明のものとして受け入れられているとき、その裏側にはどのような力の配置があるのか、ということです。近所づきあいのなかで「いい人」と呼ばれるとき、それは本当に相手の徳を指しているのか。それとも「従順で扱いやすい」という意味ではないか。ニーチェの系譜学は、そうした居心地の悪い問いを突きつけてきます。
第二論文「『負い目』、『良心の疚しさ』、およびその類のもの」は、罪の意識の起源を追います。ニーチェによれば、「負い目」(Schuld)はもともと経済的な「負債」(Schulden)から派生した概念です。債務者が返済できなければ、債権者は苦痛を与えることで補償を得た。やがて人間は、自分の攻撃的な衝動を外に向けることができなくなったとき、それを内側に向けるようになります。この自己への攻撃が「良心の疚しさ」(schlechtes Gewissen)の起源である、とニーチェは論じました。文明化の過程で、人間は自らの獣性を抑圧し、そのエネルギーを自分自身に向けた。罪の意識とは、檻に入れられた野生動物が自らの身体を傷つけるようなものです。
第三論文「禁欲主義的理想は何を意味するか」は、苦行や自己否定をなぜ人間は求めるのかを問います。禁欲主義的理想(asketisches Ideal)は、修道士にとっては生の否定に意味を与えるものであり、哲学者にとっては静穏な思索の条件であり、学者にとっては客観性という仮面です。ニーチェの核心的な洞察はこうです。人間は「何も欲しない」ことには耐えられない。無を欲することさえ、何も欲しないよりはましなのです(Zur Genealogie der Moral, III, §28)。禁欲主義とは、虚無よりも生の否定を選んだ人間の最後の砦であった、ということです。
4. 力への意志:支配ではなく自己超克
「力への意志」(der Wille zur Macht)。この概念ほど誤読されたものはないかもしれません。弱肉強食の正当化、暴力の賛美。ナチスがこの概念を利用したことも、誤解を深めました。けれどもニーチェのテキストに即して読めば、力への意志は他者への支配よりも、自己超克(Selbstüberwindung)に重心があります。
この概念の背景には、師であり仮想敵でもあるショーペンハウアーがいます。ショーペンハウアーは世界の根底に「生への意志」(Wille zum Leben)を見て、それは盲目な衝動であるがゆえに苦の源泉であると論じました。救いは意志の否定にある、と。ニーチェはこの結論を引き受けませんでした。意志の否定ではなく、意志の方向を変えること。単に生き延びようとするのではなく、自らを超えようとする力。それが力への意志です。
『ツァラトゥストラはこう言った』第二部「自己超克について」でツァラトゥストラはこう語ります。「生あるもののあるところ、そこには意志もある。だがそれは生への意志ではなく(中略)力への意志である」("Von der Selbst-Überwindung")。生きものは自己を保存するだけでなく、自らを超えようとする。成長し、変容し、より大きな力を実現しようとする。庭のつるが塀を這い上がっていくのは、塀を支配したいからではなく、伸びることそのものが生きることだからです。
ただし注意が必要です。妹エリーザベトが編纂した遺稿集『力への意志』(Der Wille zur Macht、1901年初版)は、ニーチェ自身が完成させた著作ではありません。断片を恣意的に配列し、一冊の体系書に仕立てたものです。カウフマンやコリ=モンティナーリによる批判校訂版によって、ニーチェの本来の構想との乖離が明らかになっています。力への意志を語るとき、この文献学的な事情は常に念頭に置くべきでしょう。
5. 超人:「人間は克服されるべきものである」
『ツァラトゥストラはこう言った』(Also sprach Zarathustra、1883〜85年)の冒頭、10年間の孤独を経て山を降りてきたツァラトゥストラが、市場の群衆にこう告げます。「わたしはあなたがたに超人を教える。人間は克服されるべきものである」("Ich lehre euch den Übermenschen. Der Mensch ist etwas, das überwunden werden soll.")。
超人(Übermensch)は、生物学的な進化の産物ではありません。人種的な優越とも無関係です。神が死んだのちに、みずから価値を創造し、生を丸ごと引き受けられる者の姿です。ツァラトゥストラは第一部「三段の変化」("Von den drei Verwandlungen")で、精神が超人へと近づく道筋を三つの比喩で語ります。駱駝(Kamel)は重荷を背負い、「汝なすべし」という義務に耐える。獅子(Löwe)は「我欲す」と吼え、古い価値の竜「汝なすべし」を破壊する。けれども獅子は壊すことしかできません。新しい価値を創るのは、幼子(Kind)の無垢です。「幼子は無垢であり忘却であり、ひとつの新しい始まりである」。砂場で遊ぶ子どもの目のような、まっさらな肯定の力。
ツァラトゥストラはその対極として「末人」(der letzte Mensch)を描きます。末人は快適さだけを求め、危険を避け、「幸福を発明した」と言って瞬きする存在です。何にも深く関わらず、何も賭けず、穏やかに衰退していく。群衆は超人の話には耳を貸さず、末人を歓呼で迎えました。ニーチェが恐れたのは、暴力よりもこの安楽な衰弱だったのかもしれません。
6. 永遠回帰:生の究極的な肯定
1881年8月、スイスのシルス・マリア。湖のほとりを散歩していたニーチェは、ひとつの巨大な岩のそばで立ち止まりました。そこで永遠回帰の思想が稲妻のように閃いたと、遺稿に記されています。「人間と時間の6000フィート彼方にて」という走り書き。山の空気と湖面の静けさのなかで降りてきた直観が、のちに『悦ばしき知識』第341節で言葉になります。
「最大の重荷」と題されたその断章。ある夜、あなたの最も孤独な孤独のなかに悪魔が忍び込んできて、こう囁くとする。「おまえが今生き、また生きてきたこの生を、おまえはもう一度、そしてなお無数に繰り返し生きなければならないだろう」。すべての苦痛も喜びも、すべての些細なことも壮大なことも、寸分違わず繰り返される。そのとき、あなたは歯を食いしばって悪魔を呪うか、それとも「おまえは神だ、これほど神々しいことを聞いたことがない」と答えるか。
永遠回帰(ewige Wiederkunft)は、宇宙論の仮説なのか、倫理的な思考実験なのか。研究者のあいだでも見解は分かれています。けれどもこの問いの鋭さは、解釈の相違を超えて胸に迫ります。いまのこの生を、変更なしに、もう一度引き受けることができるか。あの朝の口論も。あの雨の午後の退屈も。あの失敗も、あの後悔も。すべてをふくめて「然り」と言えるか。
この肯定を、ニーチェは運命愛(amor fati)と呼びました。「わたしの方程式は、あるがままのものを必然として肯定すること──ただ耐えるだけでなく(中略)愛すること」(『この人を見よ』「なぜわたしはこれほど賢明なのか」第10節)。運命に耐えるのではない。受け入れるだけでもない。愛する。この飛躍に、ニーチェ哲学のもっとも過激な核があります。
主要著作ガイド
- 『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragödie、1872年):処女作。アポロン的なものとディオニュソス的なものの対でギリシャ悲劇の本質を論じた挑発的な一冊です。文献学の作法を逸脱しており、専門家からは激しく批判されましたが、芸術による生の肯定という主題は生涯を貫きます。邦訳:秋山英夫訳、岩波文庫。
- 『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft、1882年):「神は死んだ」(第125節)と永遠回帰(第341節)がともに登場する要の著作です。箴言形式で書かれ、軽やかな筆致のなかに鋭利な刃がひそんでいます。邦訳:村井則夫訳、河出文庫。
- 『ツァラトゥストラはこう言った』(Also sprach Zarathustra、1883〜85年):ニーチェが自らの最高傑作とみなした哲学小説です。預言者ツァラトゥストラの放浪と説教を通じて、超人・永遠回帰・力への意志が物語として展開されます。詩と散文のあいだを行き来する独特の文体。難解ですが、声に出して読むとリズムの美しさが伝わります。邦訳:氷上英廣訳、岩波文庫。
- 『善悪の彼岸』(Jenseits von Gut und Böse、1886年):ツァラトゥストラの思想を散文で展開した論集です。哲学者の偏見、道徳の自然史、民族と祖国の問題などを切れ味鋭く論じています。邦訳:中山元訳、光文社古典新訳文庫。
- 『道徳の系譜学』(Zur Genealogie der Moral、1887年):ニーチェの著作のなかで最も体系的に論証が展開されており、学術的な入門にも適しています。邦訳:中山元訳、光文社古典新訳文庫。
- 『この人を見よ』(Ecce Homo、執筆1888年、刊行1908年):自伝と自己注釈。「なぜわたしはこれほど賢明なのか」「なぜわたしはこれほど良い本を書くのか」など、挑発的な章題が並びます。誇大妄想の兆候か、深い自己認識か。その境界を読者は自分で判断しなければなりません。
主要な批判と論争
ニーチェの思想をめぐる最大の論争は、ナチスによる政治的利用です。妹エリーザベト・フェルスター=ニーチェは、反ユダヤ主義者の夫ベルンハルト・フェルスターの思想的方向に沿うよう遺稿を編集し、ニーチェ文庫をナチ党に接近させました。ヒトラーは1934年にニーチェ文庫を訪問し、エリーザベトと並んで写真に収まっています。けれどもニーチェ自身は、反ユダヤ主義を繰り返し嫌悪しており、ドイツ国粋主義をも辛辣に批判していました。反ユダヤ主義の出版人テオドール・フリッチュに宛てた1887年3月23日付の書簡では、反ユダヤ主義者への嫌悪を隠していません。『この人を見よ』でも「反ユダヤ主義者に対しては容赦しない」と明言しています(Ecce Homo, "Warum ich so gute Bücher schreibe", §1)。戦後の研究、とりわけウォルター・カウフマンの仕事(Nietzsche: Philosopher, Psychologist, Antichrist, 1950)がこの歪曲を正しました。
マルティン・ハイデガーは、ニーチェを西洋形而上学の完成者として解釈しました(『ニーチェ』全二巻、1961年)。力への意志は存在者の存在についての最後の形而上学的命名であり、ニーチェは形而上学を克服したのではなく、その極限を体現した、と。この読解は強力ですが、ニーチェをハイデガーの枠組みに押し込みすぎているという批判もあります。
フェミニズムからの批判も避けられません。ニーチェのテキストには女性蔑視と読める箇所がいくつもあります。「女のもとへ行くのか? 鞭を忘れるな」(『ツァラトゥストラ』第一部「老いた女と若い女」)。この発言が物語のなかの老女の台詞であること、ニーチェの女性にかんする記述には矛盾や多層性があることを考慮しても、なお問題は残ります。思想の鋭さと偏見の深さは、ひとりの人間のなかに共存しうるものです。
分析哲学の伝統からは、ニーチェの論証の厳密さに疑問が呈されることがあります。箴言、比喩、挑発、誇張。論理の連鎖というよりも、直観の閃きの連なり。それをどう評価するかは、哲学に何を求めるかによって変わるでしょう。
影響と遺産
20世紀の思想地図で、ニーチェに触れていない場所を探す方が難しいかもしれません。実存主義。ヤスパースはニーチェを限界状況の思想家として読み、ハイデガーは形而上学の完成者として対決しました。サルトルの「実存は本質に先立つ」は、ニーチェの価値創造の系譜に連なります。カミュの『シーシュポスの神話』が問うた「不条理における反抗」も、ニーチェなしには考えられない主題です。
フランスのポスト構造主義にとって、ニーチェは決定的な源泉でした。ミシェル・フーコーの系譜学(権力と知の関係の分析)は、ニーチェの道徳の系譜学を直接の方法論的範としています。ジル・ドゥルーズはニーチェの力の概念を独自に展開し、ジャック・デリダはニーチェの文体そのものに脱構築の萌芽を見ました。
心理学の分野では、ジークムント・フロイトがニーチェに対して微妙な距離を保ちつつも、無意識の衝動や抑圧の機制についてニーチェが先取りしていたことを認めています。良心の疚しさを自らへの攻撃衝動の内向化と見る『道徳の系譜学』第二論文の分析は、フロイトの超自我(Über-Ich)理論と驚くほど重なります。アルフレート・アードラーの「権力への意志」概念は、名前からしてニーチェからの借用です。
文学ではトーマス・マンが繰り返しニーチェに立ち返りました。『ヴェネツィアに死す』のなかのアポロン的秩序とディオニュソス的陶酔の相克は、『悲劇の誕生』の変奏と読めます。リルケ、イェイツ、ヘルマン・ヘッセにも深い影響を与えています。音楽ではリヒャルト・シュトラウスの交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』(1896年)が広く知られ、グスタフ・マーラーの交響曲第三番(1896年)第四楽章は『ツァラトゥストラ』の「酔歌」にテキストを取っています。哲学の枠をはるかに超えて、ニーチェの言葉と問いは20世紀の文化全体に浸透しています。
現代への接続
日曜日の朝、教会に行かなくなった人は、何を拠り所にして生きているのでしょうか。宗教が日常の行動規範を提供していた時代は過ぎつつあります。それに代わるものとして、個人の自由と選択が掲げられる。けれどもその自由は、ときに果てしない迷いになる。何を食べるか、何を着るか、誰と暮らすか。選択肢は増えたのに、選ぶための基準が見つからない。ニーチェが予告したニヒリズムは、劇的な破局としてではなく、静かな倦怠として訪れているのかもしれません。
「畜群道徳」(Herdenmoral)という概念もまた、日常のなかに息づいています。周囲と同じであることを求める圧力。出る杭は打たれる。職場の空気を読み、学校では浮かないように振る舞う。ニーチェは、こうした同調の力学のなかに、生の衰弱を見ていました。自分自身であることの勇気を手放して、群れのなかに紛れる。それは安全かもしれないが、生きているといえるのか。
自己超克という主題は、日々の暮らしのなかにも静かに響いています。昨日の自分を超えること。他人を負かすのではなく、自分自身の惰性に抗うこと。朝、布団から出るのが辛い冬の日に、それでも起き上がること。子どもが昨日は跳べなかった跳び箱を今日跳ぶとき、そこに小さな超克がある。ニーチェの思想は、壮大な体系というよりも、ひとりひとりの生の只中に投げ込まれた問いなのでしょう。
読者への問い
- あなたの生が永遠に繰り返されるとしたら、いまのこの一日を、変えずにもう一度引き受けることができるか。
- あなたが「善い」と信じている行動のなかに、ルサンチマン(誰かへの怨恨の裏返し)はひそんでいないか。
- 周囲と同じであることの安心と、自分自身であることの孤独。あなたはどちらを選ぶか。その選択を、自分で引き受ける覚悟はあるか。
名言(出典つき)
「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が殺したのだ」 出典:フリードリヒ・ニーチェ『悦ばしき知識』第125節/原文:"Gott ist todt! Gott bleibt todt! Und wir haben ihn getödtet!"
無神論の歓喜ではなく、価値の土台が崩れたことへの戦慄。市場で叫ぶ狂人の声は、誰にも聞き届けられませんでした。
「わたしを殺さないものは、わたしを強くする」 出典:フリードリヒ・ニーチェ『偶像の黄昏』「箴言と矢」第8節/原文:"Was mich nicht umbringt, macht mich stärker."
苦難を美化しているのではありません。苦痛を経たのちにもなお立っている者のなかには、以前にはなかった力が宿る。ただし、殺されてしまう者もいるということを、ニーチェは承知していたはずです。
「怪物と闘う者は、その過程で自らも怪物にならぬよう気をつけよ。深淵をのぞくとき、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」 出典:フリードリヒ・ニーチェ『善悪の彼岸』第146節/原文:"Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, dass er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein."
悪と向き合うことの代償への警告です。正義のために戦う者が、いつしか自らの内に暴力を宿してしまうこと。ニーチェの箴言のなかでも、もっとも広く引かれる一節です。
参考文献
- (原典・独語):Friedrich Nietzsche, Sämtliche Werke: Kritische Studienausgabe (KSA), hrsg. von Giorgio Colli und Mazzino Montinari, 15 Bde., de Gruyter, 1980.(標準批判校訂版)
- (原典・邦訳):ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』氷上英廣訳、岩波文庫。
- (原典・邦訳):ニーチェ『道徳の系譜学』中山元訳、光文社古典新訳文庫。
- (原典・邦訳):ニーチェ『善悪の彼岸』中山元訳、光文社古典新訳文庫。
- (研究書):Walter Kaufmann, Nietzsche: Philosopher, Psychologist, Antichrist, 4th ed., Princeton University Press, 1974.(戦後のニーチェ再評価の基礎を築いた古典)
- (研究書):Maudemarie Clark, Nietzsche on Truth and Philosophy, Cambridge University Press, 1990.
- (研究書・邦語):須藤訓任『ニーチェ──〈永劫回帰〉という迷宮』講談社選書メチエ。
- (伝記):Rüdiger Safranski, Nietzsche: Biographie seines Denkens, Carl Hanser Verlag, 2000.(邦訳:山本尤訳『ニーチェ──その思考の伝記』法政大学出版局)
- (補助ウェブ資料):"Friedrich Nietzsche", Stanford Encyclopedia of Philosophy.