怒いかりを感かんじたことのない人間にんげんはいない。満員まんいん電車でんしゃで足あしを踏ふまれても謝あやまりもしない。上司じょうしに理不尽りふじんなことを言いわれる。SNSエスエヌエスで見知みしらぬ誰だれかに罵倒ばとうされる。そのとき胸むねの奥おくで熱あついものがこみ上あげ、拳こぶしが握にぎられ、言いい返かえしたくなる。セネカSenecaが紀元後きげんご41年ねん頃ごろに書かいた『怒いかりについて』(De Iraデ・イーラー)は、まさにその瞬間しゅんかんを扱あつかっている。怒いかりとは何なにか。なぜ起おきるのか。そして、どうすれば止とめられるのか。

この問といがセネカSenecaにとって切実せつじつだった理由りゆうは、彼かれの生いきた時代じだいを見みればわかる。皇帝こうていカリグラCaligulaは気きに入いらない元老げんろう院いん議員ぎいんを晩餐ばんさん会かいのさなかに処刑しょけいさせた。怒いかりに駆かられた権力けんりょく者しゃがどれほどの破壊はかいを撒まき散ちらすか、セネカSenecaは間近まぢかで見みてきた。カリグラCaligula自身じしんに殺ころされかけてもいる。怒いかりは、セネカSenecaにとって教室きょうしつの議題ぎだいではなく、命いのちに関かかわる問題もんだいだった。

『怒いかりについて』は全ぜん3巻かんからなる。第だい1巻かんでは怒いかりの本性ほんせいを定義ていぎし、第だい2巻かんでは怒いかりの発生はっせい過程かていを三段階さんだんかいに分解ぶんかいして予防よぼう法ほうを説とき、第だい3巻かんではすでに生しょうじた怒いかりをいかに鎮しずめるかの実践じっせん的てき技法ぎほうを提示ていじする。哲学てつがく書しょでありながら、同時どうじに治療ちりょうの手引てびきでもある。読よみ終おえたとき、怒いかりの仕組しくみが透すけて見みえるようになるかもしれない。それだけでは怒いかりは消きえないが、飲のみ込こまれる前まえに立たち止どまることはできるようになるだろう。

原著げんちょの三巻さんかん構成こうせいに沿そって、怒いかりをめぐるセネカSenecaの議論ぎろんを追おってみよう。定義ていぎから診断しんだんへ、診断しんだんから処方しょほう箋せんへ。読よみ進すすめるうちに見みえてくるのは、2000年ねん前まえのこのテキストtextが、現代げんだいの認知にんち行動こうどう療法りょうほうが扱あつかう構造こうぞうと驚おどろくほど重かさなっているという事実じじつだ。そしてもう一ひとつ。怒いかりの処方しょほう箋せんを書かいたこの哲学者てつがくしゃは、のちに暴君ぼうくんネロNeroの師しとなり、自分じぶんが戒いましめた怒いかりの渦うずに巻まき込こまれていく。処方しょほう箋せんを書かいた医者いしゃが、やがて患者かんじゃになる。その皮肉ひにくも、この書物しょもつの一部いちぶだ。

この記事きじの要点ようてん

  • 怒いかりは「一時的いちじてきな狂気きょうき」であり、理性りせいと両立りょうりつしない:セネカSenecaはアリストテレスAristotelēs派はの「適度てきどな怒いかりは有益ゆうえき」という主張しゅちょうを全面ぜんめん的てきに退しりぞける。怒いかりは量りょうの問題もんだいではなく質しつの問題もんだいであり、少量しょうりょうでも毒どくは毒どくだ。セネカSenecaが間近まぢかで見みた暴君ぼうくんカリグラCaligulaの振ふる舞まいが、この確信かくしんを裏打うらうちしている。
  • 怒いかりの三段階さんだんかいモデルmodel──刺激しげき・判断はんだん・暴走ぼうそう:外的がいてき刺激しげきによる不随意ふずいいの身体しんたい反応はんのう(第一だいいち運動うんどう)、「不当ふとうだ」という判断はんだんへの同意どうい(第二だいに段階だんかい)、理性りせいを圧倒あっとうする制御せいぎょ不能ふのうの激情げきじょう(第三だいさん段階だんかい)。歯止はどめをかけられるのは第二だいに段階だんかいだけであり、現代げんだいの認知にんち行動こうどう療法りょうほうもまったく同おなじことを言いっている。
  • 具体ぐたい的てきな治療ちりょう技法ぎほうの宝庫ほうこ:鏡かがみで自分じぶんの怒いかった顔かおを見みること、遅延ちえん(「まず待まて」)の技術ぎじゅつ、毎晩まいばんの自己じこ省察せいさつ。セネカSenecaが第だい3巻かんで列挙れっきょする処方しょほう箋せんは、抽象ちゅうしょう論ろんではなく明日あすの朝あさから試ためせる実践じっせんである。

書物しょもつの基本きほん情報じょうほう

  • 著者ちょしゃ:ルキウス・アンナエウス・セネカLucius Annaeus Seneca(紀元前きげんぜん4年ねん頃ごろ〜後ご65年ねん)
  • 成立せいりつ年代ねんだい:紀元後きげんご41年ねん頃ごろ(クラウディウスClaudius帝てい治世ちせい初期しょき、カリグラCaligula暗殺あんさつ直後ちょくごの時期じき。異説いせつあり)
  • ジャンルgenre:哲学てつがく対話たいわ篇へん(対話たいわ体たいの道徳どうとく論文ろんぶん。実際じっさいにはほぼ独白どくはく形式けいしきで、兄あにノウァトゥスNovatus(のちのガッリオGallio)に宛あてたもの)
  • 原題げんだい:De Iraデ・イーラー(全ぜん3巻かん)
  • 主要しゅよう邦訳ほうやく:兼利かねとし琢也たくや訳やく『怒いかりについて 他一篇いっぺん』岩波いわなみ文庫ぶんこ
  • 英訳えいやく:R. A. KasterR. A. カスター & M. C. NussbaumM. C. ヌスバウム(eds.編), Seneca: Anger, Mercy, Revengeセネカ:怒り、慈悲、復讐, University of Chicago Pressシカゴ大学出版局, 2010

目次もくじマップmap

  • 第だい1巻かん:怒いかりとは何なにか──怒いかりの定義ていぎ、アリストテレスAristotelēs派はとの論争ろんそう、怒いかりの破壊はかい性せいの実例じつれい(I.1〜I.21)
  • 第だい2巻かん:怒いかりの発生はっせいメカニズムmechanismと予防よぼう──三段階さんだんかいモデルmodel、怒いかりやすい性格せいかくの分析ぶんせき、原因げんいんの除去じょきょ(II.1〜II.36)
  • 第だい3巻かん:怒いかりの治療ちりょう──身体しんたい的てき制御せいぎょと遅延ちえんの技術ぎじゅつ、赦ゆるしの論理ろんり、鏡かがみと夜よるの省察せいさつ、人生じんせいの短みじかさ(III.1〜III.43)

原著げんちょ目次もくじに沿そった逐次ちくじ解説かいせつ

1. 第だい1巻かん──怒いかりの正体しょうたい(I.1〜I.21)

「怒いかりほど多おおくの都市としを滅ほろぼし、多おおくの民族みんぞくを奴隷どれいに落おとし、多おおくの国家こっかを瓦解がかいさせた疫病えきびょうはない」(I.2.1)。冒頭ぼうとうからいきなり怒いかりの破壊はかい力りょくが叩たたきつけられる。セネカSenecaが描えがく怒いかれる人間にんげんの肖像しょうぞうは生々なまなましい。血走ちばしった目め、震ふるえる唇くちびる、歯はを食くいしばる顔かお、拳こぶしを叩たたきつける手て。「その顔かおを見みよ」(I.1.3-4)。怒いかった人間にんげんの顔かおは獣けものに似にている、とセネカSenecaは言いう。抽象ちゅうしょう的てきな議論ぎろんではなく、怒いかった人間にんげんの醜みにくさを直接ちょくせつ描えがいている。

核心かくしんの議論ぎろんは第だい1巻かん前半ぜんはんで展開てんかいされる定義ていぎ論争ろんそうだ。セネカSenecaは怒いかりを「不正ふせいを受うけた(あるいは受うけたと思おもい込こんだ)ことへの報復ほうふく欲求よっきゅう」と定義ていぎする(I.2.3b)。ポイントpointは「思おもい込こんだ」にある。実際じっさいに不正ふせいが行おこなわれたかどうかは関係かんけいない。自分じぶんが「不当ふとうに扱あつかわれた」と判断はんだんした瞬間しゅんかん、怒いかりの導火線どうかせんに火ひがつく。

ここで見落みおとせないのが、セネカSenecaが怒いかりを理性りせい的てき存在そんざいに固有こゆうの現象げんしょうと位置いちづけている点てんだ(I.3)。野獣やじゅうは凶暴きょうぼうにはなるが、怒いかりはしない。怒いかりには「不正ふせいを受うけた」という判断はんだんが必要ひつようであり、判断はんだんは理性りせいの機能きのうだからだ。同おなじ理由りゆうで、幼児ようじの癇癪かんしゃくも厳密げんみつな意味いみでの怒いかりではない。理性りせいが十分じゅうぶんに発達はったつしていなければ、「自分じぶんは不当ふとうに扱あつかわれた」という判断はんだんを下くだすことができない。セネカSenecaはさらに、怒いかりと類似るいじしながらも異ことなるものを区別くべつする(I.4)。好戦こうせん性せい(feritasフェリタース)は性格せいかくの傾向けいこうであって判断はんだんを含ふくまない。残忍ざんにんさ(saevitiaサエウィティア)は刑罰けいばつに快かいを覚おぼえる病やまいであり、怒いかりとは別べつの悪徳あくとくだ。怒いかりが理性りせいを前提ぜんていにしているという逆説ぎゃくせつ──理性りせいなしには成立せいりつしないのに、一度いちど成立せいりつすれば理性りせいを破壊はかいする──が、この書物しょもつ全体ぜんたいを貫つらぬく。

ここでセネカSenecaはアリストテレスAristotelēs派は(逍遥しょうよう学派がくは)と正面しょうめんからぶつかる。アリストテレスAristotelēsは『ニコマコスNicomachos倫理りんり学がく』で「適切てきせつな状況じょうきょうで適切てきせつな程度ていどに怒いかることは徳とくである」と論ろんじていた(IV.5, 1125b-1126a)。不正ふせいを見みても怒いからない人間にんげんは鈍感どんかんであり、怒いかりは行動こうどうの原動力げんどうりょくになりうる、と。セネカSenecaの反論はんろんは鮮烈せんれつだ。怒いかりは量りょうを調節ちょうせつできる感情かんじょうではない。一度いちど火ひがついたら自分じぶんの意志いしで消けすことはできない。「怒いかりを制御せいぎょするくらいなら、最初さいしょから締しめ出だす方ほうがたやすい」(I.7.2)。家いえのなかに火ひを入いれてから火加減ひかげんを調節ちょうせつしようとする人ひとがいるだろうか。消防しょうぼう士しの仕事しごとは火事かじを管理かんりすることではなく、火事かじを起おこさないことだ。

ここで見落みおとせないのは、セネカSenecaが怒いかりを「一時的いちじてきな狂気きょうき」(brevis insaniaブレウィス・インサーニア)と呼よんでいることだ(I.1.2)。ローマRomaの詩人しじんホラティウスHoratiusが『書簡しょかん詩し』で使つかった言葉ことばを踏ふまえた表現ひょうげんだが、セネカSenecaはこれを比喩ひゆではなく文字通もじどおりに受うけ取とる。狂人きょうじんは自分じぶんが狂くるっていることを知しらない。怒いかった人間にんげんも同おなじだ。自分じぶんの行動こうどうが正当せいとうだと確信かくしんしている。その確信かくしんこそが病やまいの症状しょうじょうだ、とセネカSenecaは見みる。

逍遥しょうよう学派がくはは「怒いかりは兵士へいしの戦意せんいを高たかめる」とも主張しゅちょうした。セネカSenecaはこれにも噛かみつく(I.9-11)。怒いかりで戦たたかう兵士へいしは無謀むぼうになるだけだ。統制とうせいを失うしなった軍隊ぐんたいは烏合うごうの衆しゅうに等ひとしい。蛮族ばんぞくは怒いかりに任まかせて突撃とつげきし、ローマRoma軍ぐんの規律きりつある陣形じんけいに壊滅かいめつさせられた。勇気ゆうきと怒いかりは別べつのものだ、とセネカSenecaは言いい切きる。勇気ゆうきは理性りせいに従したがい、怒いかりは理性りせいを踏ふみにじる。

第だい1巻かん後半こうはん(I.12〜I.21)では、怒いかりの破壊はかい力りょくを歴史れきし的てき実例じつれいで畳たたみかける。ペルシアPersia王おうカンビュセスCambysēsは酔よった怒いかりのなかで友人ゆうじんの息子むすこの心臓しんぞうを矢やで射抜いぬいた(I.15)。アレクサンドロスAlexandros大王だいおうは宴席えんせきで最愛さいあいの友ともクレイトスKleitosを槍やりで突つき殺ころし、酔よいが醒さめてから絶叫ぜっきょうした(I.17)。怒いかりに身みを委ゆだねた瞬間しゅんかん、人ひとは取とり返かえしのつかないことをする。後悔こうかいは必かならずやってくるが、行為こういは戻もどせない。セネカSenecaがこれらの事例じれいを積つみ上あげるのは、論証ろんしょうのためだけではない。読者どくしゃの心こころに恐怖きょうふを刻きざみたかったのだろう。怒いかりを許容きょようすることが、どこに行いきつくか、ということを。

ローマRomaの将軍しょうぐんピソPisoの逸話いつわは背筋せすじが寒さむくなる(I.18)。ピソPisoは休暇きゅうかから同僚どうりょうなしに帰還きかんした兵士へいしを、同僚どうりょうを殺ころしたと断だんじて処刑しょけいを命めいじた。ところが処刑しょけい直前ちょくぜん、行方ゆくえ不明ふめいだった同僚どうりょうが無事ぶじに帰かえってきた。百人ひゃくにん隊長たいちょうは処刑しょけいを中止ちゅうしし、三人さんにんをそろえてピソPisoのもとに連つれ帰かえった。慈悲じひを期待きたいしてのことだ。ところがピソPisoは激怒げきどし、三人さんにん全員ぜんいんの処刑しょけいを命めいじた。最初さいしょの兵士へいしは元もとの罪つみで、百人ひゃくにん隊長たいちょうは命令めいれい違反いはんで、そして生いきて帰かえった同僚どうりょうは「二人ふたりの処刑しょけいの原因げんいんを作つくった」罪つみで。無実むじつが証明しょうめいされたにもかかわらず、怒いかりは三みっつの新あたらしい罪つみを捏造ねつぞうした。怒いかりは反証はんしょうされると、消きえるのではなく、さらに凶暴きょうぼうになる。ここにセネカSenecaが怒いかりの「制御せいぎょ」を信しんじない根拠こんきょがある。

2. 第だい2巻かん前半ぜんはん──三段階さんだんかいモデルmodel(II.1〜II.6)

第だい1巻かんが「怒いかりは悪あくである」という診断しんだんだったとすれば、第だい2巻かんは「怒いかりはどう発生はっせいするか」の解剖かいぼうに入はいる。この巻かんが本書ほんしょの核心かくしんだろう。

まずセネカSenecaは根本こんぽん問題もんだいに踏ふみ込こむ──怒いかりは人間にんげんの本性ほんせいに属ぞくするのか(II.1-4)。怒いかりが自然しぜんなものであれば制御せいぎょは困難こんなんであり、後天こうてん的てきなものであれば除去じょきょが可能かのうだ。セネカSenecaの答こたえは明快めいかいだ。怒いかりは自然しぜんに反はんする。なぜなら自然しぜんは人間にんげんを相互そうご扶助ふじょのために作つくり、怒いかりは相互そうご破壊はかいに向むかうからだ。反論はんろんが来くる──「しかし怒いかりは至いたるところにあるではないか。自然しぜんでなくて何なにか」。セネカSenecaは切きり返かえす。悪徳あくとくが広ひろく見みられるからといって自然しぜんとは限かぎらない。病やまいは蔓延まんえんするが、病やまいが自然しぜんだとは誰だれも言いわない。この問といを片かたづけた上うえで、セネカSenecaは怒いかりの発生はっせいメカニズムmechanismの解剖かいぼうに入はいる。

セネカSenecaは怒いかりの発生はっせいを三みっつの段階だんかいに分わける(II.4.1)。第一だいいち段階だんかい──外的がいてき刺激しげきが不随意ふずいいの身体しんたい反応はんのう(primus motusプリームス・モートゥス、第一だいいち運動うんどう)を引ひき起おこす。顔かおが紅潮こうちょうする、声こえが上あがる、血圧けつあつが上あがる。たとえば電車でんしゃで足あしを踏ふまれたとき、カッかっと身体からだが熱あつくなるあの瞬間しゅんかんだ。これは意志いしとは無関係むかんけいに起おきる反射はんしゃであり、怒いかりそのものではない。高たかいところから下したを覗のぞいて足あしが竦すくむのと同おなじで、止とめようがない。

第二だいに段階だんかい──理性りせいが「自分じぶんは不当ふとうに扱あつかわれた、報復ほうふくすべきだ」という判断はんだんを下くだし、それに「同意どうい」(assensusアッセンスス)する。わかりやすく言いえば、「あいつがあいつが悪わるい、許ゆるせない」と自分じぶんに言いい聞きかせる瞬間しゅんかんだ。ここで初はじめて怒いかりが怒いかりになる。決定けってい的てきに重要じゅうようなのは、この同意どういは自動じどう的てきではない、ということだ。同意どういを保留ほりゅうする余地よちがある。「あの人ひとは私わたしを侮辱ぶじょくした」という印象いんしょうに対たいして、「本当ほんとうにそうか?」と問とい返かえす一瞬いっしゅんの隙間すきま。その隙間すきまにセネカSenecaはすべてを賭かける。

第三だいさん段階だんかい──同意どういを与あたえてしまえば、感情かんじょうは理性りせいを圧倒あっとうし、制御せいぎょ不能ふのうの暴走ぼうそうに入はいる。こうなったら手遅ておくれだ。濁流だくりゅうに呑のまれた人間にんげんが「ここで止とまろう」と決きめることはできない。だからこそ、介入かいにゅうすべきは第二だいに段階だんかいなのだ。川かわの上流じょうりゅうで堰せきき止とめるのであって、氾濫はんらんした後あとで水みずを汲くみ出だすのではない。

現代げんだいの認知にんち行動こうどう療法りょうほう(CBTシービーティー)は、同おなじ構造こうぞうを実験じっけんと臨床りんしょうで裏付うらづけた。出来事できごと(刺激しげき)→認知にんち(解釈かいしゃく)→感情かんじょう(反応はんのう)。感情かんじょうを変かえたければ、認知にんち(解釈かいしゃくの仕方しかた)を変かえよ。セネカSenecaは実験じっけん室しつの代かわりに宮廷きゅうていで、同おなじ構造こうぞうに気きづいていた。

3. 第だい2巻かん中盤ちゅうばん──怒いかりやすさの原因げんいん分析ぶんせき(II.7〜II.22)

三段階さんだんかいモデルmodelを提示ていじした後あと、セネカSenecaはなぜ人ひとは怒いかりやすくなるのかを分析ぶんせきする。怒いかりの原因げんいんは外そとにあるのではなく、受うけ取とる側がわの条件じょうけんにある、というのがセネカSenecaの見立みたてだ。

「柔弱にゅうじゃくさ」(mollitiaモッリティア)がまず挙あげられる。甘あまやかされて育そだった者ものは些細ささいなことで怒いかる。不便ふべんや不快ふかいに耐たえる訓練くんれんを経へていないからだ(II.21.6)。もう一ひとつの原因げんいんが「過大かだいな自己じこ評価ひょうか」(aestimatio suiアエスティマーティオー・スイー)だ。自分じぶんは特別とくべつな扱あつかいを受うけるべきだ、と信しんじている人間にんげんは、普通ふつうの扱あつかいを侮辱ぶじょくと感かんじる。レストランrestaurantで料理りょうりが遅おそいだけで激昂げきこうする客きゃく。あの怒いかりの正体しょうたいは「待またされるべきではない人間にんげんだ」という肥大ひだいした自己じこ像ぞうにある。

セネカSenecaが列挙れっきょする怒いかりの原因げんいんはさらに続つづく(II.10-17)。「猜疑さいぎ心しん」──友人ゆうじんの何気なにげない言葉ことばに裏うらの意味いみを読よみ込こみ、侮辱ぶじょくを探さがし出だす人間にんげん。「忘恩ぼうおん」──恩おんを施ほどこした相手あいてが感謝かんしゃしないことへの怒いかり。「野心やしん」──自分じぶんが昇進しょうしんしなかったのは不当ふとうだ、という確信かくしん。共通きょうつうするのは、怒いかりの本当ほんとうの原因げんいんは外そとの出来事できごとではなく、出来事できごとに投影とうえいされる自分じぶんの期待きたいと前提ぜんていにあるという洞察どうさつだ。セネカSenecaはまた、「忙いそがしすぎる人間にんげん」が怒いかりやすいと指摘してきする(II.12)。多忙たぼうは精神せいしんの余裕よゆうを奪うばい、ささいな障害しょうがいが大おおきな怒いかりに化かける。政務せいむに追おわれる高官こうかんがわずかな遅延ちえんにも激怒げきどするのは、怒いかりっぽい性格せいかくのせいではなく、余裕よゆうのない状況じょうきょうのせいだ。

身体しんたいの条件じょうけんも見逃みのがせない。「疲労ひろう・空腹くうふく・飲酒いんしゅ・不眠ふみん」(II.19-20)が怒いかりの閾値いきちを下さげる。セネカSenecaは怒いかりを純粋じゅんすいに精神せいしん的てきな問題もんだいとしてではなく、身体しんたいと環境かんきょうの条件じょうけんとの相互そうご作用さようとして捉とらえている。寝不足ねぶそくの朝あさに些細ささいなことで怒いかりが爆発ばくはつした経験けいけんのある人ひとなら、この観察かんさつは妙みょうに生々なまなましい。

4. 第だい2巻かん後半こうはん──予防よぼうの技術ぎじゅつ(II.22〜II.36)

原因げんいんがわかれば予防よぼうができる。セネカSenecaは第だい2巻かん後半こうはんで、怒いかりを未然みぜんに防ふせぐための具体ぐたい的てきな方策ほうさくを展開てんかいする。

「解釈かいしゃくを疑うたがえ」。誰だれかに侮辱ぶじょくされたと感かんじたとき、まず自分じぶんの解釈かいしゃくを検証けんしょうせよ。「あの人ひとは本当ほんとうに私わたしを傷きずつけようとしたのか? 単たんに不注意ふちゅういだったのではないか? 私わたしが過敏かびんなだけではないか?」(II.22.3)。現代げんだいの心理しんり療法りょうほうでいう「認知にんちの再構成さいこうせい」──つまり、出来事できごとそのものではなく、出来事できごとに対たいする自分じぶんの受うけ取とり方かたを点検てんけんする技術ぎじゅつだ。セネカSenecaは実験じっけんデータdataなしに、同おなじ構造こうぞうに辿たどり着ついていたことになる。

「自分じぶんの弱よわさを知しれ」。怒いかりやすい人間にんげんは、怒いかりを刺激しげきする状況じょうきょうを避さけろ。騒々そうぞうしい場所ばしょ、不快ふかいな相手あいて、疲労ひろうした状態じょうたいでの重要じゅうような会話かいわ。「空腹くうふくや渇かわきがあるときに論争ろんそうしてはならない」(II.20.2)。酒さけを飲のんだ状態じょうたいで夫婦ふうふ喧嘩げんかをすれば取とり返かえしがつかないことになる。2000年ねん前まえから変かわらない話はなしではある。

子こどもの教育きょういくにも筆ふでが及およぶ(II.21)。幼少ようしょう期きから忍耐にんたいと節制せっせいを教おしえよ。甘あまやかしすぎれば怒いかりっぽい大人おとなができる。泣なけば何なんでも手てに入はいると学まなんだ子こどもは、大人おとなになっても怒いかりで世界せかいを動うごかそうとする。

つきあう相手あいての選択せんたくにもセネカSenecaは踏ふみ込こむ(II.25)。怒いかりっぽい人間にんげんの傍そばにいれば、怒いかりは伝染でんせんする。穏おだやかな人間にんげんと過すごせ。陰気いんきな話題わだいを避さけ、軽かるい読よみものや音楽おんがくで精神せいしんを和やわらげよ(II.20.4)。意志いしの力ちからで怒いかりを抑おさえつけるのではなく、怒いかりが湧わきにくい環境かんきょうを先さきに作つくっておく。いわば精神せいしんの環境かんきょう設計せっけいだ。根性こんじょう論ろんではなく、環境かんきょう論ろんだ。

5. 第だい3巻かん前半ぜんはん──すでに生しょうじた怒いかりへの対処たいしょ(III.1〜III.15)

第だい2巻かんが予防よぼう医学いがくだったとすれば、第だい3巻かんは救急きゅうきゅう医療いりょうだ。すでに怒いかりが生しょうじたとき、どうするか。

セネカSenecaはまず身体しんたいを通つうじた制御せいぎょ法ほうを示しめす(III.9-10)。怒いかりを感かんじたら声こえを低ひくくし、歩調ほちょうを緩ゆるめ、顔かおの表情ひょうじょうを意識いしき的てきに柔やわらげよ。拳こぶしを握にぎれば怒いかりが増まし、手てを開ひらけば怒いかりが和やわらぐ。身体しんたいの姿勢しせいが感情かんじょうに作用さようする、とセネカSenecaは考かんがえる。友人ゆうじんの役割やくわりにも言及げんきゅうがある(III.10)。怒いかりの最中さいちゅうに信頼しんらいできる友人ゆうじんが「落おち着つけ」と声こえをかけること。それ自体じたいが治療ちりょうになりうる。ただし相手あいてが怒いかりの渦中かちゅうにいるときは正面しょうめんから反論はんろんするな、とセネカSenecaは戒いましめる。怒いかりに怒いかりで応おうじれば火ひに油あぶらを注そそぐだけだ。怒いかりが少すこし収おさまるのを待まち、そのあとで穏おだやかに語かたりかけよ。

セネカSenecaのもう一ひとつの処方しょほう箋せんは「遅延ちえん」(moraモラ)だ。「怒いかりの最大さいだいの治療ちりょう薬やくは時間じかんをおくことである」(III.12.4, 原文げんぶん:"Maximum remedium irae mora est")。怒いかりを感かんじたら、行動こうどうするな。返事へんじを書かくな。口くちを開ひらくな。時間じかんが怒いかりの勢いきおいを削そぐ。10分ぷん後ごには馬鹿ばからしく思おもえることが、今いまこの瞬間しゅんかんは命いのちがけに思おもえる。怒いかりは自分じぶんの大おおきさを知しらない。時間じかんは、怒いかりの実際じっさいの大おおきさを教おしえてくれる。

この「まず待まて」は単純たんじゅんだが、侮あなどれない。SNSエスエヌエスで怒いかりに任まかせて投稿とうこうボタンbuttonを押おした経験けいけんのある人ひとなら、翌朝よくあさの後悔こうかいを知しっているだろう。セネカSenecaが求もとめたのは、投稿とうこうボタンbuttonと指ゆびのあいだに一拍いっぱくの沈黙ちんもくを挟はさむことだ。

「相手あいての立場たちばに身みを置おけ」(III.12)も処方しょほう箋せんの一ひとつだ。怒いかりは自分じぶんだけが被害ひがい者しゃだという錯覚さっかくを生うむ。だが相手あいてにも事情じじょうがある。「彼かれは若わかい。許ゆるせ。彼女かのじょは無知むちだ。許ゆるせ。彼かれは酔よっていた。許ゆるせ」(III.24.2)。赦ゆるしは相手あいてのためではなく、自分じぶんの心こころを毒どくから守まもるためにある。

6. 第だい3巻かん中盤ちゅうばん──赦ゆるしの技術ぎじゅつ(III.16〜III.30)

第だい3巻かんの中盤ちゅうばんで、セネカSenecaは個別こべつの技法ぎほうから視野しやを広ひろげ、他者たしゃの怒いかりへの対処たいしょと、怒いかりの根本こんぽん原因げんいんである人間にんげんの不完全ふかんぜんさそのものに向むき合あう。まず怒いかっている他者たしゃの扱あつかい方かただ(III.16-18)。権力けんりょく者しゃが怒いかっているときには直接ちょくせつ対決たいけつするな。気きをそらし、娯楽ごらくを与あたえ、良よい知しらせで和やわらげよ。アウグストゥスAugustus帝ていの腹心ふくしんアテノドロスAthenodōrosは、皇帝こうていに「怒いかりを感かんじたらアルファベットalphabetを最後さいごまで唱となえてから行動こうどうせよ」と助言じょげんした(III.18)。ここにも「遅延ちえん」の原理げんりが貫つらぬかれている。

続つづいてセネカSenecaは、怒いかりを鎮しずめる最もっとも根源こんげん的てきな方法ほうほうとして赦ゆるしの論理ろんりを展開てんかいする(III.19-28)。侮辱ぶじょくを受うけたとき、まず侮辱ぶじょくの発信はっしん者しゃの性質せいしつを吟味ぎんみせよ。「子こどもだ、許ゆるせ。女おんなだ、許ゆるせ。命令めいれいされたのだ、許ゆるせ。無知むちだった、許ゆるせ」(III.24.2)。相手あいてが弱者じゃくしゃなら寛大かんだいであれ。強者きょうしゃなら賢明けんめいであれ。対等たいとうの者ものなら忍耐にんたいせよ(III.24.3)。この赦ゆるしは弱よわさの表あらわれではない。怒いかりという毒どくを飲のまないための知恵ちえだ。怒いかりを抱いだき続つづけることは、相手あいてを罰ばっするつもりで自分じぶんを蝕むしばむことだ。

この文脈ぶんみゃくでセネカSenecaは有名ゆうめいな対比たいひを持もち出だす(III.25-28)。哲学者てつがくしゃデモクリトスDēmokritosは人間にんげんの愚おろかさを見みて笑わらい、ヘラクレイトスHērakleitosは泣ないた。「我々われわれは悪わるい人間にんげんのあいだに住すんでいるのだ。泣なくにはもう遅おそい。笑わらうべきだ」(III.28.1-2)。セネカSenecaは笑わらう側がわに立たつ。人間にんげんは不完全ふかんぜんであり、過あやまちを犯おかす。それは怒いかりの理由りゆうではなく、人間にんげんの条件じょうけんそのものだ。不完全ふかんぜんな存在そんざいに完全かんぜんを求もとめるから怒いかるのであって、不完全ふかんぜんを織おり込こみ済ずみにすれば怒いかりの根ねが断たたれる。怒いかりを全面ぜんめん禁止きんしするのは非人間ひにんげん的てきではないか──この反論はんろんをセネカSenecaは知しっている。だが退しりぞかない。裁判さいばん官かんは怒いかりなしに判決はんけつを下くだす。医者いしゃは怒いかりなしに患部かんぶを切きる(I.16)。正義せいぎは冷静れいせいな理性りせいで実行じっこうできるし、そうすべきだ。別べつの著作ちょさく『寛容かんようについて』(De Clementiaデ・クレメンティアー I.2.2)でセネカSenecaは「すべての人間にんげんを許ゆるすことは残酷ざんこくだし、誰だれをも許ゆるさないことも残酷ざんこくだ」と書かいた。罰ばつは必要ひつようだ。だがその罰ばつに怒いかりを混まぜるな。

7. 第だい3巻かん終盤しゅうばん──鏡かがみ、夜よるの省察せいさつ、人生じんせいの短みじかさ(III.30〜III.43)

第だい3巻かん後半こうはんは怒いかりの些末さまつさへの自覚じかくを促うながす(III.29-35)。我々われわれが怒いかる理由りゆうの大半たいはんは取とるに足たらない。奴隷どれいが水みずをぬるく出だした、ガラスglassの杯さかずきが割われた、寝台しんだいの配置はいちが気きに入いらない。こうした些事さじに怒いかるのは「神経しんけい質しつで不幸ふこうな人間にんげんの特徴とくちょう」だとセネカSenecaは言いい切きる(III.35)。怒いかりの対象たいしょうを吟味ぎんみすれば、ほとんどの場合ばあい、その対象たいしょうは怒いかりに値あたいしない。

セネカSenecaは鏡かがみを道具どうぐとして使つかう(II.36, III.36)。怒いかりの最中さいちゅうに自分じぶんの顔かおを鏡かがみで見みてみよ。歪ゆがんだ表情ひょうじょう、吊つり上あがった眉まゆ、引ひきつった口元くちもと。その醜みにくさが冷水れいすいになる。「もし怒いかりの間あいだに鏡かがみを見みることができたなら、誰だれもがそれを認みとめたくなくなるだろう」。自分じぶんの顔かおを見みたくない、という感覚かんかくが怒いかりを削そぐ。

本書ほんしょのなかでも特とくに具体ぐたい的てきなのが「夜よるの省察せいさつ」だ(III.36)。セネカSenecaは毎晩まいばん、就寝しゅうしん前まえに一日いちにちの行動こうどうを振ふり返かえったと告白こくはくする。「今日きょう、治なおした悪癖あくへきは何なにか。どの欲望よくぼうに抵抗ていこうしたか。どの点てんで良よくなったか」。これは自分じぶんを断罪だんざいするためではなく、少すこしでも良よくなるための点検てんけんだ。若わかい頃ころに師事しじした新しんピュタゴラスPythagoras派はの哲学者てつがくしゃソティオンSotionから受うけ継ついだこの習慣しゅうかんを、セネカSenecaは自分じぶんの生活せいかつのなかで実行じっこうし続つづけた。日記にっきとも懺悔ざんげとも自己じこコーチングcoachingともつかない、静しずかな習慣しゅうかんだ。

最後さいごの数すう章しょうでは、人生じんせいの短みじかさが改あらためて呼よび出だされる(III.42-43)。限かぎられた時間じかんを怒いかりに費ついやすのか。宴うたげの席せきで酒さけをこぼされたことで一晩ひとばん中じゅう不機嫌ふきげんでいるのか。「人生じんせいは短みじかい。怒いかりにくれている暇ひまはない」。この一文いちぶんで、『怒いかりについて』は『人生じんせいの短みじかさについて』と手てを結むすぶ。時間じかんの哲学てつがくと怒いかりの哲学てつがくは、セネカSenecaのなかでは一ひとつのものだった。

核心かくしん概念がいねんと論証ろんしょうの骨格こっかく

セネカSenecaの議論ぎろんを骨ほねだけにすると、こうなる。

  • 前提ぜんてい1:怒いかりは「不正ふせいを受うけたという判断はんだん」に基もとづく報復ほうふく欲求よっきゅうである
  • 前提ぜんてい2:その判断はんだんは誤あやまりうる(実際じっさいには不正ふせいがなくても怒いかりは起おきる)
  • 前提ぜんてい3:怒いかりは一度いちど暴走ぼうそうすると制御せいぎょできない
  • 結論けつろん:怒いかりは「制御せいぎょして利用りようする」ものではなく、「発生はっせいさせない」ものである
  • 方法ほうほう:判断はんだんへの「同意どうい」を保留ほりゅうする(第二だいに段階だんかいへの介入かいにゅう)

この骨格こっかくには飛躍ひやくがある。「怒いかりは制御せいぎょできない」という前提ぜんてい3は、アリストテレスAristotelēs派はが認みとめないところだ。適度てきどな怒いかりを維持いじできる人間にんげんはいないのか? セネカSenecaは「いない」と断言だんげんする。しかしこれは経験けいけん的てきな主張しゅちょうであり、論理ろんり的てきな必然ひつぜんではない。ここに本書ほんしょの最大さいだいの弱点じゃくてんがある。

背景はいけいにあるのは、ストアStoa派はの根本こんぽん原理げんり「アパテイアapatheia」(情念じょうねんからの解放かいほう)だ。誤解ごかいされやすいが、これは「何なにも感かんじない冷血れいけつ人間にんげんになれ」という意味いみではない。ここでいう情念じょうねん(pathosパトス)は、美うつくしい景色けしきに感動かんどうしたり友人ゆうじんの死しを悼いたんだりする自然しぜんな感覚かんかくのことではない。誤あやまった判断はんだんに基もとづいて暴走ぼうそうする激はげしい衝動しょうどうのことだ。怒いかり、恐怖きょうふ、過度かどの快楽かいらく、過度かどの悲嘆ひたん。これらは認知にんちの歪ゆがみから生しょうじるのであって、感覚かんかくの鋭敏えいびんさとは別べつの問題もんだいだ。アリストテレスAristotelēs派はが目指めざす「メトリオパテイアmetriopatheia」(情念じょうねんの節度せつど)──つまり怒いかりを適度てきどに保たもつこと──と、ストアStoa派はが目指めざす「アパテイアapatheia」──怒いかりを根ねこそぎ取とり除のぞくこと──は、出発しゅっぱつ点てんからして違ちがう。怒いかりを量りょうの問題もんだいと見みるか、質しつの問題もんだいと見みるか。セネカSenecaにとって怒いかりは「少すこしなら良よい」ものではなく、存在そんざいそのものが病やまいなのだ。

主要しゅような解釈かいしゃく論争ろんそう

1. 怒いかりの全面ぜんめん否定ひていは正ただしいか:アリストテレスAristotelēs派はは「義ぎ憤ふん」(不正ふせいに対たいする適度てきどな怒いかり)を徳とくと見みなした。セネカSenecaはこれを退しりぞけるが、現代げんだいの道徳どうとく心理しんり学がく(ヌスバウムNussbaum、ソロモンSolomonなど)は怒いかりの道徳どうとく的てき機能きのうを再さい評価ひょうかしている。差別さべつや不正ふせいに対たいする怒いかりが社会しゃかい変革へんかくの原動力げんどうりょくになった歴史れきしは枚挙まいきょに暇いとまがない。怒いかりを手放てばなして心こころの平穏へいおんを得える──個人こじんとしてはそれでいい。だが、社会しゃかいの不正ふせいに立たち向むかう力ちからまで手放てばなしてしまわないか。

2. 三段階さんだんかいモデルmodelの「第一だいいち運動うんどう」は何なにか:第一だいいち段階だんかいの不随意ふずいい反応はんのう(primus motusプリームス・モートゥス)をセネカSenecaは「怒いかりの準備じゅんびであって怒いかりではない」と言いう。しかしストアStoa派はの創設そうせつ期きの大物おおものクリュシッポスChrysipposは、感情かんじょうとは判断はんだんそのものだと定義ていぎしていた(「感情かんじょうは理性りせいの過剰かじょうな衝動しょうどう」)。判断はんだんの手前てまえで身体しんたいが勝手かってに反応はんのうする段階だんかいがあるなど、クリュシッポスChrysipposの枠組わくぐみには存在そんざいしない。セネカSenecaがこれを認みとめたのは、正統せいとうストアStoa派はからの明確めいかくな逸脱いつだつだが、おかげで理論りろんは人間にんげんの実感じっかんにずっと近ちかづいた。研究けんきゅう者しゃのあいだでは、この逸脱いつだつがポセイドニオスPoseidōniosの影響えいきょうかどうかが議論ぎろんされている(Sorabji, 2000ソラブジ、2000年; Cooper, 2004クーパー、2004年)。

3. 執筆しっぴつ年代ねんだいと宛先あてさき:本書ほんしょは兄あにノウァトゥスNovatusに宛あてて書かかれたが、成立せいりつ時期じきについてはカリグラCaligula治世ちせい末期まっき(40年ねん頃ごろ)とする説せつとクラウディウスClaudius治世ちせい初期しょき(41-49年ねん)とする説せつがある。カリグラCaligulaへの言及げんきゅうの頻度ひんどと辛辣しんらつさから、暗殺あんさつ後ごに書かかれた可能かのう性せいが高たかいとされる。

4. 中世ちゅうせいの反論はんろん:トマス・アクィナスThomas Aquinasと義憤ぎふんの復権ふっけん:トマス・アクィナスThomas Aquinasは『神学しんがく大全たいぜん』(Summa Theologiaeスンマ・テオロギアエ II-II, q.158)で怒いかりを再ふたたび二分にぶんした。罪深つみぶかい怒いかり(ira vitiosaイーラ・ウィティオーサ)と正当せいとうな怒いかり(ira per zelumイーラ・ペル・ゼールム)。不正ふせいを前まえにしても怒いからないのは無気力むきりょくであって徳とくではない、とアクィナスAquinasは断だんじた。アリストテレスAristotelēsの路線ろせんをキリストChrist教きょう神学しんがくのなかで復活ふっかつさせたこの議論ぎろんは、セネカSenecaの全面ぜんめん否定ひてい論ろんへの最もっとも体系たいけい的てきな反論はんろんとして西洋せいよう思想しそう史しに刻きざまれた。

この書物しょもつの影響史えいきょうし

古代こだい〜中世ちゅうせい:エピクテトスEpiktētosの『語録ごろく』とマルクス・アウレリウスMarcus Aureliusの『自省じせい録ろく』にも怒いかりの制御せいぎょは繰くり返かえし登場とうじょうするが、セネカSenecaほど体系たいけい的てきに論ろんじた者ものはいない。キリストChrist教きょう教父きょうふラクタンティウスLactantiusはセネカSenecaの怒いかり論ろんに反論はんろんする論文ろんぶん(『神かみの怒いかりについて』)を書かいた。神かみの怒いかりは正義せいぎの表現ひょうげんであり、否定ひていすべきではない、と。怒いかりをすべて否定ひていするのは、神かみの怒いかりを信しんじるキリストChrist教きょうにとって受うけ入いれがたかったのだ。

近代きんだい:モンテーニュMontaigneは『エセーEssais』で怒いかりの危険きけんを論ろんじる際さいにセネカSenecaを頻繁ひんぱんに引ひいた。デカルトDescartesの『情念じょうねん論ろん』(1649年ねん)も、情念じょうねんを身体しんたいのメカニズムmechanismから解とき明あかそうとする点てんで、セネカSenecaの発想はっそうを引ひき継ついでいる。

現代げんだい:認知にんち行動こうどう療法りょうほう(CBTシービーティー)の創始そうし者しゃアルバート・エリスAlbert Ellisは、自みずからの論理ろんり情動じょうどう行動こうどう療法りょうほう(REBTアールイービーティー)の先駆せんくとしてストアStoa哲学てつがくを名指なざしした。ロバートソンRobertsonの『ストアStoaの哲学てつがくと認知にんち行動こうどう療法りょうほう』(2010年ねん)は、セネカSenecaの三段階さんだんかいモデルmodelとCBTシービーティーのABCモデルエービーシーモデル(出来事できごと→信念しんねん→結果けっか)がどれほど似にているかを丹念たんねんに跡あとづけている。

現代げんだいストイシズムStoicism運動うんどう:2010年代ねんだいから広ひろがった「現代げんだいストアStoa主義しゅぎ」(Modern Stoicismモダン・ストイシズム)の潮流ちょうりゅうのなかで、ライアン・ホリデーRyan Holidayの著作ちょさく群ぐんやウィリアム・アーヴァインWilliam Irvineの『良よき人生じんせいについて』(A Guide to the Good Life良き人生への手引き, 2009年ねん)がセネカSenecaの実践じっせん技法ぎほうを現代げんだい語ごに翻訳ほんやくした。『怒いかりについて』の夜よるの省察せいさつは「ジャーナリングjournaling」として、遅延ちえんの技術ぎじゅつは「刺激しげきと反応はんのうの間あいだにスペースspaceを作つくる」技法ぎほうとして再さいパッケージpackageされている。古代こだいの知恵ちえが自己じこ啓発けいはつ市場しじょうに流入りゅうにゅうしたことで、精度せいどは落おちたが到達とうたつ範囲はんいは桁けた違ちがいに広ひろがった。

現代げんだいへの接続せつぞく

オンラインonlineの怒いかりから考かんがえてみよう。SNSエスエヌエスは怒いかりの第二だいに段階だんかい(判断はんだん)をほぼ瞬時しゅんじに第三だいさん段階だんかい(行動こうどう=投稿とうこう)に変換へんかんする装置そうちだ。不快ふかいな投稿とうこうを見みた瞬間しゅんかん、返信へんしん欄らんはすでに開ひらいている。「まず待まて」を実行じっこうする物理ぶつり的てきな距離きょりがない。セネカSenecaが求もとめた「遅延ちえん」は、現代げんだいにおいてはアプリappの設計せっけいそのものへの問といになる。投稿とうこう前まえに「本当ほんとうに送信そうしんしますか?」と表示ひょうじする機能きのうは、セネカSeneca的てきな介入かいにゅうのデジタルdigital版ばんだと言いえる。

怒いかりと社会しゃかい正義せいぎの問題もんだいもある。セネカSenecaの全面ぜんめん否定ひてい論ろんに対たいする最大さいだいの反論はんろんは、構造こうぞう的てき不正ふせいへの怒いかりを封ふうじることへの懸念けねんだ。公民こうみん権けん運動うんどうのリーダーleaderたちの怒いかりがなければ、法ほう制度せいどは変かわらなかったかもしれない。ただしセネカSenecaなら言いうだろう、「不正ふせいを正ただす行動こうどうは怒いかりなしでも可能かのうだ」と。冷静れいせいな理性りせいによる抵抗ていこうと、怒いかりによる抵抗ていこう。どちらが有効ゆうこうかという問といは、いまだ決着けっちゃくがつかない。

アンガーマネジメントanger managementとの関係かんけいも見逃みのがせない。現代げんだいの職場しょくばで広ひろまるアンガーマネジメントanger management研修けんしゅうの内容ないよう──「6秒びょうルールrule」(怒いかりを感かんじたら6秒びょう待まつ)、怒いかりの原因げんいんを「事実じじつ」と「解釈かいしゃく」に分離ぶんりする訓練くんれん、怒いかりの日記にっきをつける習慣しゅうかん──これらはすべてセネカSenecaの『怒いかりについて』に原型げんけいがある。「遅延ちえん」「認知にんちの吟味ぎんみ」「夜よるの省察せいさつ」の現代げんだい的てき翻訳ほんやくだ。

読者どくしゃへの問とい

  • 最後さいごに怒いかりで我われを忘わすれたのはいつだったか。そのとき自分じぶんはどんな「判断はんだん」を下くだしていたか。セネカSenecaの言いう第二だいに段階だんかい(同意どうい)を保留ほりゅうできる余地よちはあったか。
  • 「正当せいとうな怒いかり」は存在そんざいするか。不正ふせいを見みても怒いからない人間にんげんは道徳どうとく的てきに優すぐれているのか、それとも鈍感どんかんなのか。
  • 今夜こんや、寝ねる前まえに一日いちにちを振ふり返かえってみてほしい。「今日きょう、怒いかりを飲のみ込こんだ場面ばめんはあったか。飲のみ込こめなかった場面ばめんはどこだったか」──セネカSenecaの夜よるの省察せいさつを、一晩ひとばんだけ試ためしてみることはできるか。

重要じゅうよう引用いんよう(出典しゅってんつき)

"怒いかりほど多おおくの都市としを滅ほろぼし、多おおくの民族みんぞくを奴隷どれいに落おとし、多おおくの国家こっかを瓦解がかいさせた疫病えきびょうはない。" 出典しゅってん:セネカSeneca『怒いかりについて』I.2.1/原文げんぶん:"Nullam pestem generi humano pluris stetisse: videbis caedes ac venena et reorum mutuam sordem et urbium clades et totarum exitia gentium..."

怒いかりは個人こじんの感情かんじょうにとどまらない。戦争せんそうを起おこし、国くにを傾かたむける。セネカSenecaはこの一文いちぶんで、怒いかりを個人こじんの問題もんだいから政治せいじの問題もんだいへ引ひき上あげる。

"怒いかりの最大さいだいの治療ちりょう薬やくは時間じかんをおくことである。" 出典しゅってん:セネカSeneca『怒いかりについて』III.12.4/原文げんぶん:"Maximum remedium irae mora est."

たった六語ろくごのラテンLatin語ごに、『怒いかりについて』の実践じっせん的てき核心かくしんが凝縮ぎょうしゅくされている。何なにもしなくていい。ただ待まつだけだ。

"今日きょう、治なおした悪癖あくへきは何なにか。どの欲望よくぼうに抵抗ていこうしたか。どの点てんで良よくなったか。" 出典しゅってん:セネカSeneca『怒いかりについて』III.36.2/原文げんぶん:"Quid hodie malum tuum sanasti? Cui vitio obstitisti? Qua parte melior es?"

セネカSenecaが毎晩まいばん自分じぶんに問といかけた言葉ことば。自分じぶんを裁さばく法廷ほうていではなく、自分じぶんを手入ていれする整備せいび場じょうとしての省察せいさつ。

"ある賢者けんじゃたちは怒いかりを「一時的いちじてきな狂気きょうき」と呼よんだ。" 出典しゅってん:セネカSeneca『怒いかりについて』I.1.2/原文げんぶん:"Quidam itaque e sapientibus viris iram dixerunt brevem insaniam."

書しょの冒頭ぼうとう近ちかくに置おかれたこの一文いちぶんが、全三巻ぜんさんかんの基調きちょうを決きめる。怒いかりは感情かんじょうの一種いっしゅではなく精神せいしんの病やまいであり、治療ちりょうの対象たいしょうだ。

"我々われわれは悪わるい人間にんげんのあいだに住すんでいるのだ。泣なくにはもう遅おそい。笑わらうべきだ。" 出典しゅってん:セネカSeneca『怒いかりについて』III.28.1-2/原文げんぶん:"Inter malos nati sumus. (...) Humanius est deridere vitam quam deplorare."

デモクリトスDēmokritosとヘラクレイトスHērakleitosの対比たいひ。世界せかいを泣なくか笑わらうか。セネカSenecaは笑わらうことを選えらんだ。人間にんげんの愚おろかさを前まえにして怒いかるより、赦ゆるす方ほうが、自分じぶんの心こころに平和へいわをもたらす。

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん・邦訳ほうやく):セネカSeneca『怒いかりについて 他一篇いっぺん』兼利かねとし琢也たくや訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ。
  • (原典げんてん・英訳えいやく):Kaster, R.A.カスター & Nussbaum, M.C.ヌスバウム(eds.編), Seneca: Anger, Mercy, Revengeセネカ:怒り、慈悲、復讐. Chicagoシカゴ: University of Chicago Pressシカゴ大学出版局, 2010.──注釈ちゅうしゃくつきの標準ひょうじゅん英訳えいやく。
  • (原典げんてん・邦訳ほうやく):セネカSeneca『生せいの短みじかさについて 他二篇にへん』大西おおにし英文ひでふみ訳やく、岩波いわなみ文庫ぶんこ。──セネカSenecaの時間じかん論ろんとの接続せつぞくを理解りかいするために。
  • (研究けんきゅう書しょ):Nussbaum, Marthaヌスバウム、マーサ. The Therapy of Desire欲望の治療法. Princetonプリンストン: Princeton University Pressプリンストン大学出版局, 1994.──セネカSenecaの怒いかり論ろんの分析ぶんせきが秀逸しゅういつ。
  • (研究けんきゅう書しょ):Sorabji, Richardソラブジ、リチャード. Emotion and Peace of Mind: From Stoic Agitation to Christian Temptation感情と心の平静:ストア派の動揺からキリスト教の誘惑へ. Oxfordオックスフォード: Oxford University Pressオックスフォード大学出版局, 2000.──ストアStoa派はの感情かんじょう論ろんの包括ほうかつ的てき研究けんきゅう。
  • (現代げんだいストアStoa):Robertson, Donaldロバートソン、ドナルド. The Philosophy of Cognitive-Behavioural Therapy認知行動療法の哲学. Londonロンドン: Karnacカーナック, 2010.──ストアStoa哲学てつがくとCBTシービーティーの並行へいこう性せいを論ろんじた研究けんきゅう。
  • (研究けんきゅう書しょ):Cooper, John M.クーパー、ジョン・M Knowledge, Nature, and the Good: Essays on Ancient Philosophy知識、自然、善:古代哲学論集. Princetonプリンストン: Princeton University Pressプリンストン大学出版局, 2004.──ストアStoa派はの感情かんじょう理論りろんとセネカSenecaの位置いちづけを論ろんじた論文ろんぶんを収録しゅうろく。
  • (研究けんきゅう書しょ):Graver, Margaretグレイヴァー、マーガレット. Stoicism and Emotionストア主義と感情. Chicagoシカゴ: University of Chicago Pressシカゴ大学出版局, 2007.──ストアStoa派はにおける「第一だいいち運動うんどう」と感情かんじょうの関係かんけいを精査せいさした研究けんきゅう。
  • ウェブweb:Stanford Encyclopedia of Philosophyスタンフォード哲学百科事典, "Senecaセネカ" (first published初版 2007, substantive revision大幅改訂 2023). https://plato.stanford.edu/entries/seneca/