386年ねんの夏なつ、ミラノMediolanum。32歳さいの修辞学しゅうじがく教師きょうしが、借家しゃくやの庭にわで泣ないている。無花果いちじくの木きの下した。涙なみだと鼻水はなみずにまみれた顔かおで地面じめんに伏ふしている。彼かれは知しっている。自分じぶんが変かわらなければならないことを。だが変かわれない。変かわりたいのに変かわりたくない。意志いしが意志いしに逆さからっている。隣家りんかから子こどもの歌声うたごえが聞きこえてくる。「取とって読よめ、取とって読よめ」(tolle lege, tolle legeトッレ・レゲ、トッレ・レゲ)。彼かれは立たち上あがり、傍かたわらに置おかれた使徒しとパウロPaulusの書簡しょかんを開ひらく。目めに飛とび込こんだのは『ローマRomaの信徒しんとへの手紙てがみ』13章しょう13〜14節せつ。「酒宴しゅえんと酩酊めいてい、淫乱いんらんと好色こうしょく、争あらそいと嫉妬しっとを捨すてよ。主しゅイエス・キリストChristusを着きよ」。それ以上いじょう読よむ必要ひつようはなかった、とアウグスティヌスAugustinusは書かく(8.12.29)。一節いっせつで人生じんせいが裂さけた。

アウレリウスAurelius・アウグスティヌスAugustinus。西洋せいよう思想史しそうしで最もっとも影響力えいきょうりょくのある神学者しんがくしゃのひとり。だが神学しんがくの枠わくに収おさめてしまうと、この男おとこの凄すごみは見みえなくなる。彼かれが切きり開ひらいたのは、人間にんげんの内面ないめんという大陸たいりくだ。意志いしが自みずからに分裂ぶんれつする恐怖きょうふ。時間じかんが意識いしきのなかにしか存在そんざいしないという直観ちょっかん。悪あくが実体じったいではなく欠如けつじょであるという発見はっけん。デカルトDescartesが自己じこの確実性かくじつせいに到達とうたつする1200年ねんも前まえに、アウグスティヌスAugustinusはすでに内面ないめんへの転回てんかいを遂とげていた。しかもデカルトDescartesよりはるかに生々なまなましいやり方かたで。

この男おとこが問とうたのは、「世界せかいはどうなっているか」ではない。「私わたしはなぜ私わたしを制御せいぎょできないのか」だ。哲学てつがくが宇宙うちゅうから魂たましいの奥おくへ向むきを変かえた瞬間しゅんかんがある。アウグスティヌスAugustinusはその蝶番ちょうつがいに立たっている。

この記事きじの要点ようてん

  • 意志いしの分裂ぶんれつ(voluntas divisaウォルンタス・ディウィーサ):意志いしは自分じぶん自身じしんに命令めいれいし、自分じぶん自身じしんに背そむく。アウグスティヌスAugustinusは『告白こくはく』第だい8巻かんで、この自己じこ分裂ぶんれつを臨床的りんしょうてきな精密せいみつさで記述きじゅつした。フロイトFreudが無意識むいしきを「発見はっけん」する1500年ねん前まえの出来事できごとだ。依存症いぞんしょうから先延さきのばし癖ぐせまで、「わかっているのにやめられない」の構造こうぞうはここで初はじめて言語化げんごかされた。
  • 時間じかんは心こころの延伸えんしん(distentio animiディステンティオ・アニミー):過去かこはもう存在そんざいしない。未来みらいはまだ存在そんざいしない。現在げんざいは留とどまらない。ならば時間じかんはどこにあるのか。アウグスティヌスAugustinusの答こたえ:記憶きおく・注意ちゅうい・期待きたいという心こころの三みっつの働はたらきのなかにだけ時間じかんはある。『告白こくはく』第だい11巻かんのこの分析ぶんせきは、フッサールHusserlの時間じかん意識いしき論ろんからハイデガーHeideggerの『存在そんざいと時間じかん』にまで直結ちょっけつする。
  • 悪あくは善ぜんの欠如けつじょ(privatio boniプリウァーティオー・ボニー):悪あくは実体じったいではなく、善ぜんが欠かけた状態じょうたいにすぎない。暗闇くらやみが光ひかりの不在ふざいであるように。マニMani教きょうの善悪ぜんあく二元論にげんろんを自みずからの肉体にくたいで通過つうかした男おとこが到達とうたつした解答かいとうであり、西洋せいよう神学しんがくの悪あくの問題もんだい(theodicyセオディシー)の出発点しゅっぱつてんとなった。

生涯しょうがいと時代じだい背景はいけい

354年ねん11月がつ13日にち、ヌミディアNumidia属州ぞくしゅうの小ちいさな町まちタガステThagaste(現げんアルジェリアAlgeria・スーク・アフラースSouk Ahras)で男おとこの子こが生うまれた。父ちちパトリキウスPatriciusは異教徒いきょうとの小しょう地主じぬし、母ははモニカMonicaは敬虔けいけんなキリストChristus教徒きょうと。ローマRoma帝国ていこくはとうに最盛期さいせいきを過すぎている。辺境へんきょうでは異民族いみんぞくの侵入しんにゅう、帝国ていこく内部ないぶでは宗教しゅうきょう対立たいりつが激化げきかしていた。地中海ちちゅうかい世界せかいが古代こだいから中世ちゅうせいへと崩くずれ落おちていく、その亀裂きれつの真まん中なかにこの男おとこは生うまれた。

少年しょうねん時代じだいのアウグスティヌスAugustinusは優秀ゆうしゅうだったが、素行そこうがよかったとは言いいがたい。学校がっこうをさぼり、隣家りんかの梨なしを盗ぬすみ、友人ゆうじんたちと遊あそび回まわった。梨なしの窃盗せっとうは『告白こくはく』第だい2巻かんで執拗しつように分析ぶんせきされる。空腹くうふくだったわけでも、梨なしが欲ほしかったわけでもない。盗ぬすむこと自体じたいが快楽かいらくだった。悪あくのための悪あく。16歳さいの少年しょうねんが犯おかした些細ささいな非行ひこうの記憶きおくを、40代だいの司教しきょうが血ちを吐はくような筆致ひっちで解剖かいぼうする。この執着しゅうちゃくがアウグスティヌスAugustinusだ。

370年ねん、修辞学しゅうじがくを学まなぶためカルタゴCarthagoに出でる。当時とうじの修辞学しゅうじがくは今いまでいう法学ほうがくと広告こうこくと政治せいじコンサルタントを合あわせたようなもので、立身りっしん出世しゅっせの切符きっぷだった。カルタゴCarthagoで愛人あいじんをもち、息子むすこアデオダトゥスAdeodatusをもうけた。肉欲にくよくと野心やしんに溺おぼれていた、と後のちに自分じぶんを裁さばく。ただし知的ちてき飢うえも烈はげしかった。19歳さいでキケロCiceroの対話たいわ篇へん『ホルテンシウスHortensius』を読よみ、哲学てつがくへの情熱じょうねつに火ひがついた。この書物しょもつは現存げんそんしないが、一冊いっさつの本ほんが人間にんげんを変かえる瞬間しゅんかんがある、ということの証言しょうげんとして残のこっている。

真理しんりに飢うえた青年せいねんがまず向むかったのはマニMani教きょうだった。光ひかりと闇やみの二元論にげんろん。世界せかいには善ぜんの原理げんりと悪あくの原理げんりがある。肉体にくたいの欲望よくぼうに苦くるしむ青年せいねんにとって、「悪あくは自分じぶんのせいではなく闇やみの原理げんりのせいだ」という教おしえは甘美かんびな免罪符めんざいふだったに違ちがいない。9年間ねんかん、アウグスティヌスAugustinusはマニMani教きょうの聴聞者ちょうもんしゃだった。だがやがて知的ちてきな不満ふまんが募つのる。383年ねん、マニMani教きょうの高僧こうそうファウストゥスFaustusに会あってみたが、期待きたいはずれだった。弁べんは立たつが中身なかみがない。ここにいても真理しんりには届とどかない。

ローマRomaを経へてミラノMediolanumへ。転機てんきが二ふたつ重かさなる。ひとつはアンブロシウスAmbrosius司教しきょうとの出会であい。キリストChristus教きょうの聖書せいしょを寓意的ぐういてきに読よむ方法ほうほうを知しり、旧約きゅうやく聖書せいしょの粗野そやさに感かんじていた知的ちてき抵抗ていこうが崩くずれた。もうひとつは新しんプラトンPlatōn主義しゅぎの書物しょもつ、おそらくプロティノスPlōtinosの『エンネアデスEnneades』との遭遇そうぐうだ。非物質的ひぶっしつてきな実在じつざいがある。精神せいしんは物体ぶったいではない。この洞察どうさつがマニMani教きょうの唯物的ゆいぶつてき二元論にげんろんを打うち砕くだいた。

386年ねんの回心かいしん。387年ねん、アンブロシウスAmbrosiusから洗礼せんれいを受うける。母ははモニカMonicaは息子むすこの回心かいしんを見届みとどけたのち、同年どうねんオスティアOstiaで世よを去さった。北きたアフリカに戻もどり、391年ねんにヒッポHippo・レギウスRegius(現げんアルジェリアAlgeria・アンナバAnnaba)で司祭しさいに叙階じょかい。395年ねん、同地どうちの司教しきょうに就任しゅうにん。以後いご35年間ねんかん、死しぬまでこの町まちを離はなれなかった。説教せっきょうし、裁判さいばんをさばき、異端いたんと論争ろんそうし、途方とほうもない量りょうの著作ちょさくを書かいた。430年ねん8月がつ28日にち、ヴァンダルVandal族ぞくがヒッポHippoを包囲ほういするさなか、75歳さいで没ぼつした。帝国ていこくの崩壊ほうかいとともに逝いった。

ミニ年表ねんぴょう

  • 354年ねん:ヌミディアNumidia属州ぞくしゅうタガステThagasteに生うまれる
  • 370年ねん:カルタゴCarthagoで修辞学しゅうじがくを学まなぶ。愛人あいじんと同棲どうせい
  • 373年ねん:キケロCicero『ホルテンシウスHortensius』を読よみ哲学てつがくに目覚めざめる。マニMani教きょうに入はいる
  • 383年ねん:ローマRomaに渡わたる。マニMani教きょうに失望しつぼう
  • 384年ねん:ミラノMediolanumの修辞学しゅうじがく教師きょうしに就任しゅうにん。アンブロシウスAmbrosius司教しきょうと出会であう
  • 386年ねん:ミラノMediolanumの庭にわで回心かいしん(「取とって読よめ」の場面ばめん)
  • 387年ねん:アンブロシウスAmbrosiusより受洗じゅせん。母ははモニカMonica死去しきょ
  • 391年ねん:ヒッポHippo・レギウスRegiusで司祭しさいに叙階じょかい
  • 395年ねん:ヒッポHippo司教しきょうに就任しゅうにん
  • 397〜401年ねん:『告白こくはく』(Confessionesコンフェッシオーネース)執筆しっぴつ
  • 412〜426年ねん:『神かみの国くに』(De Civitate Deiデー・キーウィターテ・デイー)執筆しっぴつ
  • 430年ねん:ヴァンダルVandal族ぞくの包囲ほうい下か、ヒッポHippoにて没ぼつ

この哲学者てつがくしゃは何なにを問とうたのか

古代こだいギリシャGreeceの哲学者てつがくしゃたちは外そとを見みていた。宇宙うちゅうの根源こんげんは何なにか。存在そんざいとは何なにか。善ぜんき生せいとは何なにか。問といの矢やはつねに自分じぶんの外側そとがわに向むいていた。プラトンPlatōnのイデアideaもアリストテレスAristotelēsの四原因しげんいんも、世界せかいの側がわにある構造こうぞうを記述きじゅつしようとする営いとなみだ。

アウグスティヌスAugustinusは矢やを反転はんてんさせた。「外そとに出でるな。自分じぶん自身じしんのなかに帰かえれ。内うちなる人間にんげんのなかに真理しんりは住すむ」(Noli foras ire, in te ipsum redi; in interiore homine habitat veritasノーリー・フォラース・イーレ、イン・テー・イプスム・レディー;イン・インテリオーレ・ホミネ・ハビタト・ウェーリタース、『真しんの宗教しゅうきょう』39.72)。この一文いちぶんが西洋せいよう哲学てつがくの方向ほうこうを変かえた。真理しんりは天上てんじょうのイデアidea界かいにあるのでも、感覚かんかくの向むこう側がわにあるのでもない。私わたしの内部ないぶにある。

だがこの「内部ないぶ」は、安全あんぜんな場所ばしょではなかった。覗のぞき込こんでみたら底そこなしの穴あなだった。意志いしは壊こわれている。記憶きおくは広大こうだいすぎて自分じぶんでも把握はあくできない。時間じかんは指ゆびのあいだをすり抜ぬける。

『告白こくはく』第だい10巻かんでアウグスティヌスAugustinusは記憶きおく(memoriaメモリア)の内部ないぶに潜もぐっていく。「記憶きおくの広大こうだいな広間ひろま」(campos et lata praetoria memoriaeカンポース・エト・ラータ・プラエトーリア・メモリアエ、10.8.12)。そこには過去かこの映像えいぞう、学まなんだ知識ちしき、感情かんじょうの痕跡こんせき、忘わすれたはずの記憶きおくまでが収蔵しゅうぞうされている。悲かなしみの記憶きおくを思おもい出だしても、今いまの私わたしは悲かなしくないことがある。記憶きおくは経験けいけんのコピーではない。何なにかが変形へんけいされて保存ほぞんされている。では記憶きおくのなかの「私わたし」は本当ほんとうの「私わたし」なのか。忘却ぼうきゃくのなかに沈しずんだ部分ぶぶんは、もう「私わたし」ではないのか。記憶きおくをたどるほどに、自己じこの輪郭りんかくが曖昧あいまいになっていく。

アウグスティヌスAugustinusが発見はっけんしたのは、自己じこは透明とうめいではないということだ。自分じぶんが自分じぶんにとって不可解ふかかいであるという事実じじつ。「わたしはわたし自身じしんにとって大おおきな問といとなった」(quaestio mihi factus sumクアエスティオー・ミヒ・ファクトゥス・スム、『告白こくはく』10.33.50)。

この問といは、それまでの哲学てつがくには存在そんざいしなかった。ソクラテスSōkratēsは「汝なんじ自身じしんを知しれ」と言いったが、彼かれにとっての自己じこ認識にんしきは理性りせいによって達成たっせいできるものだった。アウグスティヌスAugustinusは違ちがう。自分じぶんを知しろうとすればするほど、知しりえない深ふかみが現あらわれる。自己じこは問題もんだいの解決かいけつ者しゃではなく、問題もんだいそのものだ。

核心かくしん理論りろん

1. 意志いしの分裂ぶんれつ:「命めいじるのは私わたし、従したがわないのも私わたし」

『告白こくはく』第だい8巻かんは西洋せいよう思想史しそうしで最もっとも異様いようなテクストのひとつだ。回心かいしんにいたるまでの内的ないてき葛藤かっとうを、アウグスティヌスAugustinusはほとんど肉体的にくたいてきな苦痛くつうとして描写びょうしゃする。

「心こころは身体しんたいに命めいじる。すると身体しんたいはただちに従したがう。心こころは心こころ自身じしんに命めいじる。すると抵抗ていこうにあう」(『告白こくはく』8.9.21)。この一節いっせつの凄すごみがわかるだろうか。手てを上あげろと命めいじれば手ては上あがる。だが「欲望よくぼうを捨すてろ」と命めいじても心こころは動うごかない。命令めいれいする主体しゅたいと抵抗ていこうする主体しゅたいが同おなじ一人ひとりの人間にんげんのなかにいる。

『告白こくはく』第だい8巻かん5章しょうには、依存いぞんの構造こうぞうを正確せいかくに描えがいた一節いっせつがある。意志いしのゆがみが欲望よくぼう(libidoリビードー)を生うみ、欲望よくぼうに仕つかえるうちに習慣しゅうかん(consuetudoコンスエートゥードー)が生うまれ、習慣しゅうかんに逆さからわなければ必然ひつぜん(necessitasネケッシタース)になる。「こうした環わが鎖くさりのように絡からみ合あって、わたしを苛酷かこくな隷属れいぞくに縛しばりつけていた」(8.5.10)。意志いし→欲望よくぼう→習慣しゅうかん→必然ひつぜん。このエスカレーションの図式ずしきは、現代げんだいの依存症いぞんしょう研究けんきゅうがたどりついた知見ちけんと驚おどろくほど重かさなる。

アウグスティヌスAugustinusはこれを二ふたつの意志いしの闘争とうそうとして描えがく。古ふるい意志いし(voluntas vetusウォルンタス・ウェトゥス)と新あたらしい意志いし(voluntas novaウォルンタス・ノウァ)。肉にくに縛しばられた習慣しゅうかんの力ちからと、神かみに向むかおうとする新あたらしい衝動しょうどう。どちらも自分じぶんだ。どちらも本気ほんきだ。人は二ふたつの魂たましいをもっているのか。マニMani教きょうならそう答こたえただろう。善ぜんの魂たましいと悪あくの魂たましいが戦たたかっている、と。アウグスティヌスAugustinusはこの安やすい解答かいとうを退しりぞける。魂たましいは一ひとつだ。その一ひとつの魂たましいが、自分じぶん自身じしんに引ひき裂さかれている。

具体的ぐたいてきな話はなしをしよう。深夜しんや2時じ。明日あしたは早はやい。寝ねなければならないと知しっている。手てにはスマートフォン。「あと5分ふんだけ」。1時間じかんが過すぎる。意志いしは命めいじている。意志いしは従したがわない。アウグスティヌスAugustinusが1600年前ねんまえに記述きじゅつした現象げんしょうは、今夜こんやもあなたの寝室しんしつで再現さいげんされている。

「意志いしが十分じゅうぶんに意志いししないとき、意志いしは命めいじない。十分じゅうぶんに意志いしするならば、命めいじる必要ひつようすらない」(8.9.21)。完全かんぜんに望のぞむなら、望のぞんだ瞬間しゅんかんにすでに実現じつげんしている。望のぞんでいるのに実現じつげんしないということは、望のぞみ方かたが不完全ふかんぜんだということ。意志いしはつねに半端はんぱにしか自分じぶんを意志いししない。この構造こうぞうは原罪げんざいの結果けっかだとアウグスティヌスAugustinusは言いう。堕落だらくした人間にんげんの意志いしは、自力じりきでは統一とういつできない。恩寵おんちょう(gratiaグラーティア)だけが、裂さけた意志いしを一ひとつにする。

2. 時間じかんの謎なぞ:「誰だれも問とわなければ知しっている、問とわれれば知しらない」

『告白こくはく』第だい11巻かんは時間じかん論ろんの最高傑作さいこうけっさくのひとつだ。表向おもてむきは『創世記そうせいき』の「はじめに神かみは天てんと地ちを創造そうぞうした」の注解ちゅうかい。だが中身なかみは純粋じゅんすいな哲学てつがくだ。

「時間じかんとは何なにか。誰だれも問とわなければ、わたしは知しっている。問とう者ものに説明せつめいしようとすると、知しらない」(11.14.17)。この一文いちぶんほど哲学てつがくの本質ほんしつを衝ついた言葉ことばは少すくない。時間じかんは最もっとも身近みぢかな経験けいけんでありながら、考かんがえ始はじめた途端とたんに手てからすり落おちる。

アウグスティヌスAugustinusの分析ぶんせきはこうだ。過去かこは存在そんざいしない(もう去さった)。未来みらいは存在そんざいしない(まだ来こていない)。現在げんざいは? 現在げんざいを掴つかもうとした瞬間しゅんかん、それは過去かこになっている。ならば時間じかんはどこにある?

答こたえ:心こころのなかにある。過去かこは記憶きおく(memoriaメモリア)として心こころのなかに現在げんざいする。未来みらいは期待きたい(expectatioエクスペクターティオー)として心こころのなかに現在げんざいする。現在げんざいは注意ちゅうい(attentioアッテンティオー)として心こころのなかに現在げんざいする。時間じかんとは心こころの延伸えんしん(distentio animiディステンティオー・アニミー)にほかならない。

アウグスティヌスAugustinusは詩篇しへんの朗読ろうどくを例れいに挙あげる(11.28.38)。一篇いっぺんの詩しを暗唱あんしょうするとき、歌うたい始はじめる前まえの私わたしの期待きたいは詩し全体ぜんたいに及およんでいる。歌うたい始はじめると、歌うたい終おえた部分ぶぶんは記憶きおくに移うつり、まだ歌うたっていない部分ぶぶんが期待きたいに残のこる。注意ちゅういは今いままさに口くちから出でていく一音いちおんに張はりついている。期待きたいは縮ちぢみ、記憶きおくは膨ふくらむ。詩しの終おわりに到達とうたつしたとき、期待きたいはゼロになり、全体ぜんたいが記憶きおくに移行いこうしている。この運動うんどうこそが時間じかんの正体しょうたいだ、と。時計とけいが刻きざむのは物理的ぶつりてきな運動うんどうにすぎない。時間じかんは心こころが引ひき伸のばされる経験けいけんのなかにだけある。

ここで起おきていることの射程しゃていを見逃みのがしてはならない。アウグスティヌスAugustinusは、時間じかんを外的がいてきな実在じつざいではなく意識いしきの構造こうぞうとして記述きじゅつしている。時計とけいの針はりが動うごくのは時間じかんのなかではない。時間じかんとは心こころが記憶きおくと期待きたいのあいだに引ひき伸のばされる経験けいけんそのものだ。20世紀せいきの現象学げんしょうがくが格闘かくとうした問題もんだいを、5世紀せいきの司教しきょうがすでに剔抉てっけつしている。フッサールHusserlは『内的ないてき時間じかん意識いしきの現象学げんしょうがく』(1928)でアウグスティヌスAugustinusに繰くり返かえし言及げんきゅうしている。偶然ぐうぜんではない。

3. 悪あくの問題もんだい:善ぜんの欠如けつじょとしての悪あく

もし全能ぜんのうで善ぜんなる神かみがいるなら、なぜ世界せかいに悪あくがあるのか。この問といはアウグスティヌスAugustinusにとって学問がくもんではなく実存じつぞんだった。マニMani教きょうに9年間ねんかんいた理由りゆうがそこにある。悪あくが独立どくりつした実体じったい(闇やみの原理げんり)であるなら、自分じぶんの悪行あくぎょうは自分じぶんのせいではない。楽らくな解答かいとうだ。

新しんプラトンPlatōn主義しゅぎと出会であい、アウグスティヌスAugustinusは別べつの枠組わくぐみに到達とうたつする。悪あくは実体じったいではない。善ぜんの欠如けつじょ(privatio boniプリウァーティオー・ボニー)にすぎない。闇やみは何なにかの存在そんざいではなく、光ひかりの不在ふざい。病やまいは何なにかの存在そんざいではなく、健康けんこうの損そこなわれた状態じょうたい。悪あくもそうだ。存在そんざいするかぎりの一切いっさいは善ぜんであり、悪あくとはその善ぜんが腐敗ふはい(corruptioコッルプティオー)した状態じょうたいだ。

この解答かいとうは精巧せいこうだが、痛いたみを伴ともなう。悪あくが実体じったいでないなら、悪あくを選えらぶのは完全かんぜんに自分じぶんの責任せきにんだ。闇やみの力ちからのせいにはできない。梨なしを盗ぬすんだ16歳さいの自分じぶんは、闇やみに操あやつられたのではない。自みずからの意志いしで善ぜんから逸それた。マニMani教きょうは責任せきにんを外部がいぶに押おしつける装置そうちだった。アウグスティヌスAugustinusはそれを剥はぎ取とって、自分じぶんの前まえに突つきつけた。

ただし問題もんだいは消きえない。もし善ぜんなる神かみがすべてを創つくり、存在そんざいするものはすべて善ぜんなら、なぜ善ぜんは欠かけるのか。なぜ腐敗ふはいは起おきるのか。アウグスティヌスAugustinusの答こたえは自由じゆう意志いしに帰きする。人間にんげんは善ぜんから逸それる能力のうりょくをもって創つくられた。逸それたのは神かみのせいではなく、人間にんげんのせいだ。

この議論ぎろんは道徳悪どうとくあく(人間にんげんが意志いしで選えらぶ悪あく)には有効ゆうこうだ。だが自然悪しぜんあくはどうか。地震じしん、疫病えきびょう、子こどもの白血病はっけつびょう。誰だれの意志いしがこれを選えらんだのか。アウグスティヌスAugustinusは自然悪しぜんあくを被造物ひぞうぶつの有限性ゆうげんせいに帰きす。有限ゆうげんなものは完全かんぜんではありえない。壊こわれうることは有限ゆうげんの条件じょうけんだ、と。さらに原罪げんざいの結果けっかとして全被造界ぜんひぞうかいが秩序ちつじょを乱みだされたのだ、とも論ろんじる。論理ろんりとしては整合せいごう的だが、津波つなみに飲のまれた町まちを前まえにして、この答こたえで足たりるかどうか。答こたえは読者どくしゃに委ゆだねる。

4. 恩寵おんちょうと自由じゆう意志いし:救すくいは誰だれのものか

意志いしは分裂ぶんれつしている。自力じりきでは統一とういつできない。ならば人間にんげんは自分じぶんの力ちからで善ぜんく生いきることができるのか。アウグスティヌスAugustinusの答こたえ:できない。恩寵おんちょうがなければ。

この問題もんだいが炸裂さくれつしたのが、ブリタンニアBritannia出身の修道士しゅうどうしペラギウスPelagiusとの論争ろんそうだ(411年ねん頃ごろ〜)。ペラギウスPelagiusは言いった。「人間にんげんは自由じゆう意志いしによって罪つみを避さけ、善ぜんを行おこなうことができる。アダムAdamの罪つみが全人類ぜんじんるいに遺伝いでんするなどありえない。恩寵おんちょうは助たすけにはなるが、必須ひっすではない」。至極しごくまっとうな主張しゅちょうに聞きこえる。

アウグスティヌスAugustinusは激怒げきどした。自分じぶんの肉体にくたいで経験けいけんした意志いしの無力むりょくを、ペラギウスPelagiusは理解りかいしていない。やめたいのにやめられない。変かわりたいのに変かわれない。あのミラノMediolanumの庭にわでの苦悶くもんを。人間にんげんの意志いしは堕落だらく以来いらい、善ぜんに向むかう力ちからを根本こんぽんから損そこなわれている。神かみの恩寵おんちょうなしに善ぜんを行おこなえるという楽観らっかんは、自己じこ欺瞞ぎまんだ。

ここに巨大きょだいな難問なんもんが生うまれる。もし恩寵おんちょうがなければ救すくわれないなら、恩寵おんちょうを与あたえるかどうかは神かみが決きめる。救すくわれる者ものと救すくわれない者ものは、あらかじめ定さだめられている(予定説よていせつ、praedestinatioプラエデスティナーティオー)。自由じゆう意志いしはどこに行いったのか。アウグスティヌスAugustinusは自由じゆう意志いしを否定ひていはしない。罪つみを犯おかす自由じゆうはある。だが善ぜんを完遂かんすいする自由じゆうは、恩寵おんちょうなしにはない。この非対称性ひたいしょうせいがのちの西洋せいよう神学しんがくの断層線だんそうせんになる。ルターLutherとカルヴァンCalvinはこの線せんの上うえに立たった。

5. 二ふたつの国くに:歴史れきしは愛あいの方向ほうこうで分わかれる

410年ねん、西にしゴートGoth族ぞくのアラリックAlaricがローマRomaを略奪りゃくだつした。永遠えいえんの都みやこが陥落かんらくした衝撃しょうげきは帝国ていこく全土ぜんどを揺ゆるがした。「キリストChristus教きょうがローマを弱よわくしたのだ」という異教徒いきょうとの非難ひなんに答こたえるため、アウグスティヌスAugustinusは巨大きょだいな著作ちょさくに取とりかかった。『神かみの国くに』(De Civitate Deiデー・キーウィターテ・デイー)。全ぜん22巻かん、執筆しっぴつに14年ねんを費ついやした。

中心ちゅうしんテーゼは明快めいかいだ。人類じんるいの歴史れきしは二ふたつの「国くに」(civitasキーウィタース)の絡からみ合あいとして読よめる。「神かみの国くに」(civitas Deiキーウィタース・デイー)と「地ちの国くに」(civitas terrenaキーウィタース・テッレーナ)。二ふたつを分わけるのは国境こっきょうでも民族みんぞくでもない。愛あいの方向ほうこうだ。神かみへの愛あい(amor Deiアモル・デイー)に駆かり立たてられる者ものと、自己じこへの愛あい(amor suiアモル・スイー)に囚とらわれる者もの。この二ふたつの指向しこうが歴史れきしの底流ていりゅうを成なす。

有名ゆうめいな定式化ていしきかがある。「二ふたつの愛あいが二ふたつの国くにをつくった。自己じこへの愛あいが神かみへの侮蔑ぶべつにまで達たっして地ちの国くにをつくり、神かみへの愛あいが自己じこへの侮蔑ぶべつにまで達たっして神かみの国くにをつくった」(14.28)。地ちの国くには自みずからを誇ほこり、神かみの国くには神かみを誇ほこる。対ついになっているが対等たいとうではない。自己じこへの愛あいは肥大ひだいし、他者たしゃを道具どうぐにする。神かみへの愛あいは自己じこを縮ちぢめ、他者たしゃに向むかう。どちらの愛あいに生いきるかで、同おなじ街まちに住すむ二人ふたりが別べつの「国くに」の住人じゅうにんになる。

ローマRoma帝国ていこくの偉大いだいさは幻影げんえいだ。いかなる地上ちじょうの国家こっかも正義せいぎを完全かんぜんに実現じつげんすることはできない。権力けんりょくは支配しはい欲よく(libido dominandiリビードー・ドミナンディー)に汚染おせんされている。帝国ていこくの崩壊ほうかいはキリストChristus教きょうのせいではない。地上ちじょうの国くにはいずれ滅ほろびる。残のこるのは神かみの国くにだけだ。この枠組わくぐみは、政治せいじ権力けんりょくに対たいする根本的こんぽんてきな懐疑かいぎを内蔵ないぞうしている。地上ちじょうの権力けんりょくは仮かりのもの。絶対ぜったいではない。中世ちゅうせいヨーロッパEuropaで教会きょうかいと国家こっかが衝突しょうとつするたびに、この書物しょもつが引ひき合あいに出だされた。

主要しゅよう著作ちょさくガイド

  • 『告白こくはく』(Confessionesコンフェッシオーネース、397〜401年ねん):西洋せいよう最初さいしょの自伝じでんであり、哲学書てつがくしょであり、祈いのりの書しょ。全ぜん13巻かん。前半ぜんはん(1〜9巻かん)は回心かいしんまでの自伝じでん、後半こうはん(10〜13巻かん)は記憶きおく・時間じかん・創造そうぞうの哲学的てつがくてき考察こうさつ。服部はっとり英次郎えいじろう訳やく(岩波文庫いわなみぶんこ、上じょう・下げ)が手てに入はいりやすい。一冊いっさつだけ読よむならこれ。
  • 『神かみの国くに』(De Civitate Deiデー・キーウィターテ・デイー、412〜426年ねん):全ぜん22巻かんの大著たいちょ。歴史れきし神学しんがく・政治せいじ哲学てつがく・宗教しゅうきょう哲学てつがくを横断おうだんする。通読つうどくは覚悟かくごがいるが、第だい19巻かん(平和へいわと正義せいぎ論ろん)だけでも読よむ価値かちがある。服部はっとり英次郎えいじろうほか訳やく(岩波文庫いわなみぶんこ)。
  • 『三位一体論さんみいったいろん』(De Trinitateデー・トリーニターテ、399〜419年ねん):三位一体さんみいったいの教義きょうぎを哲学的てつがくてきに基礎きそづける試こころみ。後半こうはんでは人間にんげんの精神せいしんのなかに三位一体さんみいったいの類比るいひ(記憶きおく・知性ちせい・意志いし)を見出みいだす。難解なんかいだが、精神せいしんの自己じこ反省はんせいに関かんする考察こうさつは鋭するどい。
  • 『自由じゆう意志いし論ろん』(De Libero Arbitrioデー・リーベロー・アルビトリオー、387〜395年ねん):悪あくの起源きげんを自由じゆう意志いしに帰きする議論ぎろん。対話たいわ形式けいしきで読よみやすい。恩寵おんちょう重視じゅうしへ傾かたむく前まえの若わかいアウグスティヌスAugustinusの声こえが聞きこえる。

主要しゅような批判ひはんと論争ろんそう

アウグスティヌスAugustinusは勝かった。ペラギウスPelagius派はは異端いたんとされ、教会きょうかいの公式こうしき教義きょうぎは恩寵おんちょう論ろんの側がわに傾かたむいた。だが勝利しょうりには代償だいしょうがある。アウグスティヌスAugustinusの思想しそうが内蔵ないぞうする危あぶなさは、敵てきのほうがよく見みえていた。

まず急所きゅうしょを突ついたのは、原罪げんざいと予定説よていせつがもたらす帰結きけつだ。エクラヌムEclanumのユリアヌスJulianusはアウグスティヌスAugustinusの晩年ばんねんの論敵ろんてきで、原罪げんざい教義きょうぎを「マニMani教きょうの残滓ざんしだ」と攻撃こうげきした。生うまれたばかりの赤子あかごが罪つみを負おっているという教おしえは、神かみの正義せいぎを損そこなうのではないか。予定説よていせつが正ただしいなら、救すくわれない者ものの道徳的どうとくてき努力どりょくはすべて無駄むだではないか。この批判ひはんは正面しょうめんから刺ささる。アウグスティヌスAugustinusは回答かいとうを試こころみたが、すっきり解消かいしょうできたとは言いいがたい。

もうひとつ、近代きんだいから繰くり返かえし投なげつけられるのが、肉体にくたいと性せいへの蔑視べっしだ。アウグスティヌスAugustinusは性欲せいよくを堕罪だざいの最もっとも生々なまなましい刻印こくいんとみなした。性的せいてき欲望よくぼうは意志いしの制御せいぎょを超こえ、理性りせいを圧倒あっとうする。それが罪つみの証あかしだ、と。近代きんだいからすれば、この見方みかたは肉体にくたいへの敵意てきいであり、キリストChristus教きょう道徳どうとくが西洋せいように植うえつけた罪悪感ざいあくかんの根ねだ。ニーチェNietzscheなら吐はき捨すてるだろう。「肉体にくたいの軽蔑者けいべつしゃ」と。だがアウグスティヌスAugustinusが記述きじゅつした「欲望よくぼうの自律じりつ性せい」、つまり意志いしの統制とうせいから逸それて暴走ぼうそうする欲望よくぼうという現象げんしょうは、道徳的どうとくてき評価ひょうかを括弧かっこに入いれても心理学的しんりがくてき観察かんさつとして鋭するどい。

別べつの角度かくどから切きり込こんだのがハンナHannah・アーレントArendtだ。アーレントArendtは博士はかせ論文ろんぶん(『アウグスティヌスAugustinusの愛あいの概念がいねん』、1929年ねん)でアウグスティヌスAugustinusと格闘かくとうした。彼女かのじょの後年こうねんの批判ひはんは、アウグスティヌスAugustinusの内面ないめんへの転回てんかいが、人間にんげんが他者たしゃと言葉ことばを交かわし行為こういする政治的せいじてき空間くうかんを軽視けいしすることにつながる、という点てんに向むかう。魂たましいの救済きゅうさいに没頭ぼっとうするあまり、公共こうきょうの世界せかいが取とり残のこされる。内面ないめんの発見はっけんは外そとの喪失そうしつでもあった、と。

影響えいきょうと遺産いさん

この男おとこはどこにでもいる。西洋せいよう思想しそうの地下水脈ちかすいみゃくを掘ほれば、たいていアウグスティヌスAugustinusに突つき当あたる。

中世ちゅうせいスコラSchola哲学てつがくはアウグスティヌスAugustinusなしには成立せいりつしない。トマスThomas・アクィナスAquinasはアリストテレスAristotelēsを導入どうにゅうしつつも、恩寵おんちょう論ろんや悪あくの欠如けつじょ説せつではアウグスティヌスAugustinusの路線ろせんを踏襲とうしゅうした。宗教しゅうきょう改革かいかくではルターLutherとカルヴァンCalvinがこぞってアウグスティヌスAugustinusを引ひいた。恩寵おんちょうなしに人間にんげんは救すくわれない。信仰しんこうのみによる義認ぎにん。ルターLutherはアウグスティノ会かいの修道士しゅうどうしだった。

17世紀せいきのヤンセニスムJansenisme(ジャンセニスムJansénisme)もアウグスティヌスAugustinusの直系ちょっけいだ。コルネリウスCornelius・ヤンセンJansenは主著しゅちょ『アウグスティヌスAugustinus』(1640年ねん)で恩寵おんちょう論ろんを徹底化てっていかし、パリParis近郊きんこうのポールPort=ロワイヤルRoyal修道院しゅうどういんがその拠点きょてんとなった。パスカルPascalの『パンセPensées』は、この運動うんどうのなかから生うまれた。人間にんげんの悲惨ひさんと偉大いだいさの同居どうきょ、気晴きばらし(divertissementディヴェルティスマン)に逃にげる弱よわさ。パスカルPascalの筆ふでがどれほどアウグスティヌスAugustinusに負おっているかは、両者りょうしゃを並ならべて読よめばすぐにわかる。

哲学てつがくへの影響えいきょうは神学しんがくにとどまらない。デカルトDescartesのコギトcogito(「我われ思おもう、ゆえに我われあり」)は、アウグスティヌスAugustinusの「疑うたがう者ものは、自分じぶんが疑うたがっていることを知しっている。ゆえに少すくなくとも自分じぶんが知しっているということを知しっている」(si fallor, sumスィ・ファッロル・スム、「欺あざむかれるなら、私わたしは存在そんざいする」、『神かみの国くに』11.26)と構造こうぞうが同おなじだ。デカルトDescartesが先行者せんこうしゃを意識いしきしていたかどうかは議論ぎろんがあるが、西洋せいようにおける「内面ないめんへの転回てんかい」の系譜けいふはアウグスティヌスAugustinusに始はじまる。

現象学げんしょうがくの伝統でんとうもこの系譜けいふのなかにある。フッサールHusserlの時間じかん意識いしき論ろんはアウグスティヌスAugustinusのdistentio animiディステンティオー・アニミーを下敷したじきにしている。ハイデガーHeideggerは『存在そんざいと時間じかん』の脚注きゃくちゅうでアウグスティヌスAugustinusに言及げんきゅうし、初期しょきの講義こうぎではアウグスティヌスの『告白こくはく』第だい10巻かんを詳細しょうさいに読解どっかいした(「アウグスティヌスAugustinusと新しんプラトンPlatōn主義しゅぎ」、1921年ねん講義こうぎ)。

精神せいしん分析ぶんせきとの関連かんれんも無視むしできない。『告白こくはく』は自己じこの暗部あんぶをさらけ出だす行為こういであり、意志いしの背後はいごにある抑圧よくあつされた欲望よくぼうを言語化げんごかする試こころみだ。フロイトFreudが無意識むいしきを「発見はっけん」したとされる19世紀せいき末すえから1500年ねんも前まえに、アウグスティヌスAugustinusは自分じぶんが自分じぶんを把握はあくしきれないという経験けいけんを、あれほど赤裸々せきららに書かいた。

現代げんだいへの接続せつぞく

終電しゅうでんを逃のがした居酒屋いざかや。「もう一杯いっぱいだけ」と言いいながら三杯さんばい目めを頼たのむ手て。朝あさ4時じ、目めが痛いたいのにスマートフォンの画面がめんを閉とじられない指ゆび。給料日きゅうりょうび前まえに通販つうはんサイトの「購入こうにゅう」ボタンを押おす親指おやゆび。依存いぞんの構造こうぞうはアウグスティヌスAugustinusが記述きじゅつした意志いしの分裂ぶんれつそのものだ。認知にんち行動こうどう療法りょうほう(CBT)は習慣しゅうかんの力ちからと意志いしの衝突しょうとつを治療ちりょうする。だがアウグスティヌスAugustinusが見みていたのはもっと深ふかい層そうだ。習慣しゅうかんが問題もんだいなのではない。意志いしそのものが壊こわれている。テクニックtechniqueでは治なおらない領域りょういきがある。

SNSで理想りそうの自己じこ像ぞうを演出えんしゅつしながら、裏うらでは自分じぶんの虚偽きょぎに苦くるしんでいる人ひとがいる。告白こくはくという行為こうい、すなわち自分じぶんの醜みにくい部分ぶぶんをさらけ出だすことは、加工かこうされた自己じこイメージが氾濫はんらんする時代じだいに、逆説的ぎゃくせつてきな切実せつじつさを帯おびている。アウグスティヌスAugustinusは自分じぶんの罪つみを神かみの前まえで告白こくはくした。SNSの世界せかいには告白こくはくを受うけ止とめる相手あいてがいない。自己じこ欺瞞ぎまんだけが蓄積ちくせきする。

「正ただしい戦争せんそう」(bellum iustumベッルム・ユストゥム)の教義きょうぎもアウグスティヌスAugustinusに遡さかのぼる。地上ちじょうの平和へいわは不完全ふかんぜんだが、不正ふせいを放置ほうちするよりは武力ぶりょくで秩序ちつじょを回復かいふくするほうがましだ、と。この論理ろんりは国際こくさい法ほうの「正戦せいせん論ろん」に受うけ継つがれ、現在げんざいの軍事ぐんじ介入かいにゅうの正当化せいとうかにも使つかわれている。便利べんりな道具どうぐでもあり、危険きけんな武器ぶきでもある。

読者どくしゃへの問とい

  • 「やめたいのにやめられない」経験けいけんを思おもい出だしてほしい。そのとき「命めいじている自分じぶん」と「従したがわない自分じぶん」のどちらが「本当ほんとうの自分じぶん」だったか。
  • 過去かこの失敗しっぱいを思おもい出だすとき、胸むねが痛いたむ。過去かこはもう存在そんざいしないのに、なぜ痛いたみは現在げんざいにあるのか。時間じかんは本当ほんとうに「流ながれている」のか、それとも心こころのなかで「引ひき伸のばされている」のか。
  • あなたが今日きょう行おこなった善ぜんい行為こういは、あなた自身じしんの力ちからによるものか。それとも環境かんきょう、教育きょういく、運うん、遺伝いでんによるものか。「自分じぶんの手柄てがら」と呼よべるものは、どれだけ残のこるか。

名言めいげん(出典しゅってんつき)

「わたしはわたし自身じしんにとって大おおきな問といとなった」 出典しゅってん:アウグスティヌスAugustinus『告白こくはく』第だい10巻かん33章しょう50節せつ/原文げんぶん:"quaestio mihi factus sum"

自己じこ認識にんしきの不可能性ふかのうせいを、これほど短みじかく正確せいかくに突ついた言葉ことばはない。知しるべき対象たいしょうが知しる主体しゅたいと同一どういつであるとき、認識にんしきはつねに自分じぶんを追おい越こせない。

「時間じかんとは何なにか。誰だれもわたしに問とわなければ、わたしは知しっている。問とう者ものに説明せつめいしようとすると、わたしは知しらない」 出典しゅってん:アウグスティヌスAugustinus『告白こくはく』第だい11巻かん14章しょう17節せつ/原文げんぶん:"Quid est ergo tempus? si nemo ex me quaerat, scio; si quaerenti explicare velim, nescio."

哲学てつがくが何なにをするものなのかを一文いちぶんで示しめしている。日常にちじょうで当あたり前まえに使つかっている概念がいねんが、問とい詰つめられた途端とたんに崩くずれる。

「遅おそかった、わたしがあなたを愛あいしたのは。ああ、かくも古ふるく、かくも新あたらしい美うつくしさよ、わたしがあなたを愛あいしたのは遅おそかった」 出典しゅってん:アウグスティヌスAugustinus『告白こくはく』第だい10巻かん27章しょう38節せつ/原文げんぶん:"Sero te amavi, pulchritudo tam antiqua et tam nova, sero te amavi!"

後悔こうかいと歓喜かんきが同時どうじに押おし寄よせる。遅おそすぎた愛あいの告白こくはく。だが「遅おそい」からこそ、その言葉ことばには重おもみがある。若わかい頃ころに真理しんりを見みつけていたら、この文章ぶんしょうは書かかれなかっただろう。

参考さんこう文献ぶんけん

  • (原典げんてん):アウグスティヌスAugustinus『告白こくはく』山田やまだ晶あきら訳やく、『世界せかいの名著めいちょ14 アウグスティヌス』中央公論社ちゅうおうこうろんしゃ、1968年ねん(中公ちゅうこうバックス版ばん1978年ねん)。
  • (原典げんてん):アウグスティヌスAugustinus『告白こくはく』服部はっとり英次郎えいじろう訳やく、岩波文庫いわなみぶんこ(上じょう・下げ)、1976年ねん。
  • (原典げんてん):アウグスティヌスAugustinus『神かみの国くに』服部はっとり英次郎えいじろうほか訳やく、岩波文庫いわなみぶんこ(全ぜん5冊さつ)、1982〜1991年ねん。
  • (原典げんてん):Augustine, Confessions, trans. Henry Chadwick, Oxford University Press, 1991.
  • (研究書けんきゅうしょ):Peter Brown, Augustine of Hippo: A Biography, new ed., University of California Press, 2000.(邦訳ほうやく:出村でむら和彦かずひこ訳やく『アウグスティヌス伝』教文館きょうぶんかん、上下巻、2004-2012年ねん。)
  • (研究書けんきゅうしょ):金子かねこ晴勇はるお『アウグスティヌスの人間学』創文社そうぶんしゃ、1982年ねん。
  • (概説がいせつ):加藤かとう信朗のぶあき『初期しょきアウグスティヌスの思想しそう形成けいせい』東京大学とうきょうだいがく出版会しゅっぱんかい、2006年ねん。
  • (研究書けんきゅうしょ):Hannah Arendt, Love and Saint Augustine, ed. J. V. Scott and J. C. Stark, University of Chicago Press, 1996.
  • (研究書けんきゅうしょ):John M. Rist, Augustine: Ancient Thought Baptized, Cambridge University Press, 1994.
  • (補助ほじょウェブweb資料しりょう):"Saint Augustine", Stanford Encyclopedia of Philosophy.